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2012年04月10日
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昭和49年(1974年)12月 田中角栄内閣 が総辞職した( 2012年3月1日のブログ 参照)あと、 三木武夫内閣 が成立しました。 田中角栄 の金権体質に対して、 三木武夫 は “ クリーン三木 ”といわれて首相に選ばれました。
三木武夫 は、 徳島県板野郡土成町 出身。 昭和12年(1937年) 国民協同党 を組織し、保守合同によって 自民党 に入った人物です。


国民協同党時代の三木武夫
国民協同党時代の三木武夫(1951年)
                       (出典 Wikipedia)


国民協同党 は資本主義、社会主義に対する第三の道としての 協同組合主義 を綱領に掲げ、議会主義・人道主義をうたう、理想主義的な中道政党でした。

私は、 徳島県土成町 にある 三木武夫 の生家へ行ったことがあります。家にはだれも住んでいないようでした。彼は、自身の地元の、当時吉野川北岸にあった旧国鉄の赤字線を廃止しました。これをみても、地元の新潟県に道路をはりめぐらした 田中角栄 とは正反対でした。

このころ、最大野党の 日本社会党 自民党政権 が永久に続くような状況でした。ただ、 田中内閣 成立以後、 派閥間のせめぎあい は激しさを増していました。

こんな情勢のなかで、 三木武夫 は、 田中前首相 ロッキード事件 の徹底解明を表明したため、他の派閥からの総攻撃を受けました。いわゆる “ 三木おろし ” です。

三木武夫 は国会解散を考えましたが、閣僚の反対にあい、2年足らずで退陣を余儀なくされました。次の自民党総裁には 福田赳夫 が選出され、 福田赳夫内閣 が成立しました。


福田赳夫2
福田赳夫

福田赳夫内閣 は、 昭和51年(1976年)12月 から2年間続きました。 福田赳夫 は首相続投を目指しましたが、田中派・大平派 の反発を受けて、自民党総裁選挙 で 大平正芳 に敗れました。


大平正芳2
大平正芳

こうして、 昭和53年(1978年)12月 大平正芳内閣 が誕生しました。しかし、 自民党 内の 派閥抗争 は “ 怨念 (おんねん)” と言われるまでにひどくなり、これが国民にも知られるようになって、 自民党 への支持は低下しました。

その結果、 昭和54年(1979年)10月 の総選挙で 自民党 は敗北。 自民党非主流派 大平退陣 を要求し、国会の首班指名には、自民党 からは、 主流派 大平正芳 を、 非主流派 福田赳夫 を擁立するという、党分裂同様の有様になりました。

何とか 大平正芳 が首班に指名されて 第二次大平正芳内閣 が発足しましたが、政局は混迷しました。翌 昭和55年(1980年)5月16日 、社会党 が提出した 大平内閣不信任案 の審議に 自民党 非主流派 が欠席、そのため 内閣不信任案 が可決されてしまいました。

大平首相 は、直ちに 衆議院 を解散。 6月22日 に 衆議院 と 参議院 の 同日選挙 を実施して、政局を一新しようと考えました。

ところが 総選挙 公示の 5月30日 、街頭演説で第一声を挙げた 大平正芳 は過労と不整脈で倒れ入院。早速党内 非主流派 から 大平退陣 の声が上りましたが、 大平 は拒否しました。そして入院から12日後の 6月12日 大平正芳 は心不全により 死去 しました。享年70歳。

昭和7年(1932年) 五.一五事件 以来、48年ぶりの 現職首相の死 という事態に、状況は一変。 自民党 は、 主流派・反主流派 ともに粛然として 挙党体制 をとり、選挙戦を進めました。結果は、衆参両院 ともに 自民党 が大勝し、安定過半数を確保しました。

この選挙での 自民党 の勝利は、単に 大平正芳 の死に対する 同情票 だけではなく、当時の 社会党・公明党 などの 野党連合政権構想 に対して、繁栄を続けている経済の失速を心配した国民の 保守浮動層 が、結束を取り戻した 自民党 を支持した結果だ、といわれます。

大平正芳 死去後、大平派の 鈴木善幸 (すずきぜんこう) が2年余り首相をつとめ、次いで 中曽根康弘内閣 が、5年の長期政権を保ちました。


鈴木善幸と中曽根康弘
鈴木善幸           中曽根康弘

大平正芳の死 は、分裂寸前の 自民党 を再結束させて、 社公連合政権構想 を打ち破り、 “ ジャパン・アズ・ナンバーワン ” と呼ばれた日本の繁栄を、さらに長く続けさせました。

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大平正芳 香川県 出身。その顔だちは “ さぬき男 ” の典型といえるでしよう。農家に生まれ、篤志家などからの奨学金を得て、 高松高等商業学校 (現・香川大学経済学部) から 東京商科大学 (現・一橋大学) に進学。 高松高等商業 在学中に、キリスト教 に入信。

大学卒業後、同郷の 大蔵次官・ 津島寿一 に見込まれて 大蔵省 に入りました。大蔵省時代の上司・ 池田勇人 の側近となって、香川2区 から 衆議院議員 に立候補し当選。以後 連続当選11回。 池田勇人 の没後、そのあとを継ぎました。

大平正芳 は、国民生活の望ましい姿として “ 田園都市構想 ” を唱えていました。“ 田園都市構想 ”とは、 自然に恵まれた田園 都市の持つ合理性 を併せ持つ地域社会 での生活をいいます。彼の頭の中には、生まれ故郷の自然豊かな 香川 の山河があったのでしょう。

私は大都市から、 大平正芳 の出身地・ 香川県 に移り住み、田園の中で自然に恵まれた生活をしていますが、残念ながら、 香川県 田園社会 の中には、 都市の持つ合理性 は、まだまだ乏しい、と感じています。







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最終更新日  2012年04月10日 16時52分39秒
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(2012年04月12日 13時58分07秒)

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