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ファンの皆さんから沢山の要望をいただきましたので、会社のサイト内に中田浩二選手と松井大輔選手の仮オフィシャルサイトを開設しました。本人の日記、試合結果、メディア情報のみですが、ご覧ください。後は選手自身がしっかり日記を書いてくれれば完璧です。(笑)それから、日ごろかなり情報が少ないフランスリーグではありますが、今発売中のSOCCERZ(サッカーズ)2005年5月号で中田浩二選手と松井大輔選手の特集を組んでいただいています。松井選手はインタビューも掲載されていますので、是非、読んでみてください。
2005.03.26
今日から2005年Jリーグが開幕します。書込みを一生懸命していた時期、皆さんのご意見に出来るだけ答えてきた時期、皆さんのご意見を読むことに追われるようになった時期、そしていつしか自分のブログであるにも関わらず、開くことすらしなくなってから、ずいぶん時間が経過しました。私がこのブログを開設したのは、最初の頃にも書きましたが、多くの方にこの仕事を知ってもらうこと、そして皆さんと意見交換できることが目的でした。しかし、結果的にその可能性を自ら絶ってしまったことを、とても反省しています。ただ、匿名の文章を読むというのは非常にエネルギーが必要です。全ての匿名が悪いとは言いませんが、匿名でなければ書けないこととはどういうことだろうとも考えました。以前に、日本のインターネットにおける掲示板文化を見事に表現してくださった方がいらっしゃいましたが、そのときもわかったようなつもりでしたが、その方が話されていた意味が本当にわかったのは今日この頃かも知れません。私に説明責任があるということを書かれる方が非常に多いのですが、私に説明を求めるのであれば、まずは当事者であるクラブや選手自身が説明すれば良い事だと私は思っています。そしてもし、クラブや選手に説明する意思がなければ、それを差し置いて私が説明するのはどうかと思ってきました。昨年末から今日まで、川淵キャプテンや鈴木チェアマン、浦和レッズのフロントの方々、鹿島アントラーズのフロントの方々など、多くの関係者にお会いして一連の話をする機会を頂きましたが、「代理人の立場としては当然の作業」とほとんどの皆さんに言っていただき、逆に勇気付けられる日々でした。一方で「もう少し上手くやれなかったのか?」というご指摘をいただいたことも事実です。しかし私は選手のエージェントとである以上、これからも「プレーヤーズファースト」の精神を貫いていきたいと思います。今日からJリーグが始まります。一時はこのままこのブログを放置することも考えましたが、やはり開設時の原点に返るべきだと思ったこと、そして本日鈴木チェアマンとお会いしたときに「分からない人には出来るだけ丁寧に説明してあげなさい、出来るだけオープンに」と言っていただいたことから、一つのけじめとして皆さんにこれまでの経緯をご説明することにしました。最後に今後も更新頻度は低くなると思います。会社としての公式アナウンスは会社のホームページに掲載していこうと思っています。
2005.03.04
中田浩二選手は鹿島と3年契約をしており、その契約は今年が最終年でした。これまで3年間、海外移籍の可能性を探ってきましたが、オファーに至るまでの成果は得られませんでした。2003年の契約交渉時、鹿島アントラーズから2年契約の再提示を受けましたが、契約を更新をしませんでした。何故なら大きな怪我を抱えており、果たしてどこまで感知するのかという不安な気持ちが選手の心理にあったからです。2004年12月に入って、マルセイユのトルシエ監督から口頭でトライアウトの打診が有り、鹿島へ伝えましたがクラブとしては「正式な書面で無い限り対応できない」という当然の反応、特に本件に触れぬまま、12月に2回の契約交渉を行ったと記憶しています。一回目は選手自身も同席、主にコーチングスタッフの体制についての議論に終始しました。年末になってマルセイユからFAXが届きました。これには「1月に獲得することを前提に1月3日からトライアウトに来ませんか。費用はマルセイユが負担します。」というものでした。鹿島からはトライアウトへの参加のOKを頂き、渡航の準備に入りました。ところが年末にマルセイユが行った合宿でリザラズの去就問題が発生し、渡航を見合わせるように電話にて連絡があり、結局、中田浩二が渡仏したのは1月10日でした。渡仏してから数日後、マルセイユより鹿島に対し獲得交渉をしたいとのFAXが届きました。鹿島は即座に条件を提示。しかしマルセイユの出した返答、金銭提示は鹿島の希望額の10%を下回るものでした。もちろん、その後の交渉で、マルセイユから日本への移籍、他海外クラブへの移籍時の移籍金の分配など、付帯オプションの提示がありました。しかし金銭的な開きは埋まらず、鹿島からは「これでは受け入れられないのでフリートランスファーで行ってください。邪魔はしませんから」ということで、最終的にフリートランスファーが成立したわけです。ここでポイントとなったのは、マルセイユが移籍金を払うということが、「欧州ではどれだけ非常識なことか」、なかなか日本では理解が出来ないということです。欧州ではボスマンルール施行後、フリートランスファーが主流となっています。移籍全体の60%がフリートランスファーであるとも言われています。特に1月のトランスファーはフリーが主体だそうです。通常、欧州では契約の残存期間が1年になるということは、すなわちフリートランスファーが確定したのと同じ意味を持ちます。例えばリバプールに在籍していたマイケル・オーウェンは約7億円でレアル・マドリードへ移籍したと言われています。これはリバプールとの契約残存期間が1年になっていたからこその金額です。また、有名どころでは、フェイエノールトからACミランに移籍したトマソンもフリートランスファーだったと思います。日本も過去においては2例あります。、元市原の広山選手(フリートランスファー)と元磐田の高原選手です。高原選手は契約満了時でしたがHSVは磐田に移籍金(違約金)が支払われました。その金額は今回マルセイユが鹿島に提示した金額の約1/3程度でした。欧州ではこういったフリートランスファーを防ぐ為に、クラブは長期的なビジョンを持って、選手と契約していきます。チームの長期ビジョンに沿う選手に対しては、最大5年までの複数年契約を締結します。しかし、同時期に多くの選手の契約が満了しないようにするために、例えば24名の選手と契約する場合、毎年8名づつ複数年契約をしていくといったような手法を取っています。欧州の複数年契約は、その年数によって段階的に年俸が上がっていくようになっています。しかし日本での複数年契約提示の多くが一年目の年俸を定め、「二年目の年俸は一年目を下回らない。具体的な金額は一年目終了後に定める」という形です。しかし、若い選手にとって、この複数年契約は魅力的に映りません。逆に「とりあえずキープ」的な印象を受けてしまっている選手が多いのが事実です。ですから、日本人選手の契約が1月で切れることを見据えて獲得を検討する欧州のクラブはこれからも増えるでしょう。ましてや毎年12月に世界クラブ選手権が開催されるようになれば、そこで目に留まった日本人選手は確実なターゲットになります。日本が世界の頂点を目指せば目指すほど、このままの契約形態では、フリートランスファーの可能性はどんどん高くなっていくのです。こういった選手の海外流出は、南米、東欧、フランス、オランダなども起きています。クラブチームに自国選手が一人もいないなどという、奇妙な現象がボスマンルールの弊害として起きています。何人かの方が、過去の事例やニュースをこのブログに書き込んでいただいている通りです。ではどのようにこういった事態を予防すれば良いのでしょうか?それは他クラブのオファーを上回る、魅力的なオファーを出すという一点につきます。それ以外の方法は現行ルールにいては無いといえます。では海外移籍の場合はどうでしょう?海外移籍は選手の「夢」であり「目標」です。この目標が目の前に現れたら。日本のクラブがどんなに魅力的なオファーを出したとしても、その「夢」をお金で買取ることは非常に難しいといえます。もちろん、プロフェッショナルである以上、高いお金の提示を受けたクラブでプレーするということであれば、そちらを選択すれば良いわけで、それ自体は誰に文句を言われるものでないわけです。契約が満了すれば、どんなに長くそのクラブでプレーし貢献してきたとしても、契約延長されない選手がいます。毎年11月30日になると必ずと言ってよいほど、スポーツ新聞の紙面を飾ります。しかしこれはクラブに与えられた当然の権利です。ですから、その逆があっても決して不思議ではないと考えます。貴方が選手の代理人だったら、どのようにされたでしょうか。是非考えてみていただきたいと思います。
2005.03.03
山瀬選手とは札幌時代からお付き合いがありました。浦和移籍時にも多かれ少なかれ、電話で話したりしていました。移籍後、再度大きな怪我を負った後、彼から久しぶりに連絡があり、私は「相談」を求められました。彼の気持ちは、新聞などで色々な表現が使われていましたが、「孤独感」というのがもっとも適切な表現だったと思います。「移籍したい」というのは彼の気持ちの一つではありました。既に大きなものになっていましたが、あくまで選択肢の一つでした。私は選手と話す際に、選手自身に結論を導き出させるように常に努めています。私が誘導したり、決定することはありません。何故なら重要な決断を自分でしなかったことほど、後悔することはないこと、そしてどんな決断であっても、選んだ道を切り開くのは選手自身以外の何者でもないからです。山瀬選手の場合、怪我をしているということが最大のポイントでした。特に検証しなければならない事項として主に以下の3点を私は山瀬選手に提示しました。1)怪我をしている選手に移籍金を払ってまで獲得するクラブがあるのかどうか。2)移籍リストに掲載して、どのクラブも獲得の意思を示さなかった場合の対処。3)最大の疑問として、治療中にメディカル・リハビリスタッフが変わることのリスク。そして、これらの点を熟考した結果、最終的に移籍リストに掲載することを山瀬選手は決断したのです。もちろん、この決断までに山瀬選手が深く深く思い悩んだことは言うまでもありません。年明け、始業日の関係で浦和レッズの移籍リスト掲載手続きは1週遅れましたが、結局3つのクラブから問合せがあり、最終的にオファーを出したのは横浜マリノスでした。横浜は外国人でこのポジションの選手を探していたようです。「何故、田邊の取り扱う選手は問題になるんだ」というご指摘がありますが、正直、私も何故だかわかりません。チームにとって主力選手だということ以外、特に思い当たることはありません。そして、「選手が他のクラブへ行きたい」と思った時、そして「クラブが出したくない」という時、定める移籍金を支払えば無条件に移籍出来るルール以外、主力選手が移籍出来る方法は無いことも事実です。確かにクラブやファンの皆さんから見れば「勝手な話」だと思います。私もそう感じないわけではありません。しかし、Jリーガーの平均引退年齢が25歳などと言われ、選手寿命がせいぜい十数年という状況の中では「勝手な話」だけでは収められないのではないでしょうか?
2005.03.02
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