2016年12月01日
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  さいびうた はくいしゅくせい

          采 微の歌        伯夷・淑斉     (前、伯夷淑斉を詠ずの関連)


   か せいざん のぼ    び  と   ばく     ばく  か     ひ  し

  彼の西山に登りその蕨を采る 暴をもって暴に易えその非を知らず


 しんのう ぐ  か こつえん    ぼっ われいず    てきき

 神農・虞・夏 勿焉 として没す我 安くにか適帰せん


  あ あ ゆ   めい おとろ

 于嗟 徂かん命の 衰えたるかな

詩文説明

住むべき世界を失った我らは、地の果てなる首陽山に隠れて、蕨をとって露命を繋いでいる。今世を挙げて謳歌している周王朝は、実は殷の暴虐を倒した新しい暴力に過ぎないのではないだろうか。武王を中心とする周室の者達もその行動の本質が実は悪であるのも知らずに誇っているのだ。周の世、そこには神農氏・堯、舜、 禹の時のような、あの禅譲の薫り高い心は微塵も無いのではないか。その心こそ真の安らぎであるのに。もはや我らの住む世界ではない。ああ、死のう、天命も衰えたものよ。



武王の兵  神農  禹王.jpg

1、武王が殷討伐に出かける処に出会った二人は討伐を諫める。

2、平和な政治を行った神農像 ( 伝説の王、農業の神と称され人類に農業を教えた ) と 
3、禹王像(歴史の残る夏王朝初代の王)

   ● 堯・舜は五帝のうちの 1 人。神農、 堯、舜、 禹の聖世を万民は慕った。

   ★伯夷淑斉は暴虐に暴 ( 武力 ) で立ち向かうのはやはり暴であるといい人の道に背いたものあるとい

    う。 我々の住む世界ではないと人里離れた山奥で蕨をとって食し、露命を繋いだがやがて餓死した。


?里城遺跡 紂王宮殿跡 伯夷淑斉墓.jpg

1、殷墟の小屯村を示す石碑 (河南省安陽)      

2、西周王朝に功績のあった周公廟 ( 陝西省岐山県 )

3、黄河の北にある首陽山麓の伯夷淑斉墓 ( 山西省永済郊外 )  園内は左が伯夷像。右淑斉像。

(史記・十八史略・図説「史記」の世界)

 伯夷と淑斉

小国の王子達。領主の長子と末子として生まれ父は淑斉を跡取りに決めていた。父死亡後淑斉は兄を差し置いて相続者になるのは人倫に悖ると兄伯夷に薦めるが伯夷は父の命に背くことこそ人倫に悖ると頑として聞き入れず兄は国を出て行く、淑斉も後を追い、家督は中子に落ち着いた。 2 人はあまりにも高潔な性格の為どこへ行っても受け入れられず流浪を重ねた。人徳のある西伯 ( 武王の父 ) 風聞を耳にして訪ねるも西伯は既に死亡していた。そんな時武王が殷討伐に向かうのに出会う。あなたは父上 ( 西伯 ) が亡くなられて間もないのに戦いに向かうとは孝の道に反しますと諫めた 2 人は惨殺されそうになったが太公望が 2 人は立派な方々ですと援護して助かったが世を嘆き首陽山へ隠遁しわらびを食としてたが餓死した。
2 人にとっては周王朝による平和は天の道、人の道に背いて樹立された偽物で、周を宗主と仰ぐ世は我々の住む世界ではない)と。死の直前にこの歌を残した。















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最終更新日  2016年12月02日 00時01分11秒
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