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命日今日は父の命日。あの時は、大学2回生21歳だった。時が経つのは早いなぁ。
2019/03/29
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11/3 文化の日本日、38歳になった。年々、父の性格や思想をことごとく受け継いでいるなと痛感する日々だが、歳を重ねるに連れ、父をより理解できるようになってきた気がしている。父は、休日になると時間の許す限り読書をしていた。何を読んでいたかははっきり言って知らない。知る術もない。だって、私はその当時読書のドの字もしたことはなく、1mmの興味すらなかった。多発性硬化症(MS)になってまさかの想定外である読書にのめり込むようになってからは、小説から様々なことを教わり、その後の私の思想に大きく影響していったが、これが父に近付く道筋となった。父は、もしかしたら、生涯独身でいたかったのではないだろうか、と思う。母とは見合い結婚だが、母の事を愛していなかったとは言わない。私と妹という二人の娘も、愛する我が子だったと自負している。ただ、そもそも、結婚というものに対してはさほど突き動かされるものはなかったのではないかと想像する。自己犠牲を伴うもの、そしておぼろげで判然としないもの、どこか他人事であるかのような。家族という煩わしいものを持って、あくせく働いてそれへ人生を捧げるよりかは、一人で本を読んだりして自己を深めていく人生の方が性に合っていたのではないか、となんとなくそう思うようになっていった。父は毎日欠かさず日記を付けていた。実はまだ、それらを読むことができていない。そこにあることはわかっているのだが、まだ今ではない、そう感じながらもう17年以上という歳月が過ぎ去ってしまった。おそらくその日記には書かれていることだろう、私がそう思う所以を。父は53歳で死んだ。職場で倒れ、1週間後に亡くなったのだが、その間、家にいろいろな人から電話がかかっていた。私はまだ大学生だったし、父の仕事のことなど何も知らなかったのだから、誰からの電話だったか知る由もなかったが、ふと、ある電話のベルの音に、例の勘が働いた。プルルルル、プルルルル。「あ、たぶんお父さんが想いを寄せてる人からだ」果たしてその電話は女性からのものであった。母が出たので何もわからない。でも、私の勘は的中していたはずだと未だに思っている。特別に何かそういう既成事実があったとは言わない。父はそういう人間ではない。否、娘だからそう思いたいだけなのかもしれないが、それは実際間違っていないと思う。なぜってそれは父の思想に反することだから。それは清いことではないから。だが、かえって、娘としては、父が安らぎを感じていた人がいたのであれば、それはそれでよかったと思う。養子という肩身の狭い、抑圧された暮らしの中で、父は一体何を思っていたのか。日々何にすがって生きていたのか。誰にだって一つや二つ安らぎは生きる上で必要だ。実に、父を知ることは、私自身を紐解くような作業であるらしい。53歳。父の年齢になるまで後15年。遺伝や体質などから鑑みても、おそらく私は短命だろう。短命と言いながらもしぶとく生き長らえているかもしれないが、私にとってはずっと以前から53歳という年齢は一つの計り知れない大きな意味を持っていて、只ならぬ数字であることに変わりはない。今年は父の日記を読むことはできるだろうか。たとえ読めなくとも、娘としてまたもう一歩父へと近づくために努力を尽くそう。私は父を知りたい。追い付きたい。追い越したい。何一つ思い描くことのできない15年後、だがうとうととしている間に過ぎ去るであろう15年後、私は一体どこにいるだろう。
2018/11/03
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お父さん、お風呂沸いてるよ。ビールも冷えてるからね。引きこもり、父の死、発病、と、5年ごとに最大級の荒波が押し寄せた。まだ若いのに、きっかりと5年ごとに。発病の5年後は、正直恐怖だった。また何か起こるんじゃないかとヒヤヒヤした。が、静かに過ぎた。そのまた5年後も、やっぱり心がざわついた。が、波は穏やかだった。お盆で父が帰ってきているが、お盆でなくても父は間違いなくいつも私のすぐ側にいる。ふわふわ飛び回って、うろちょろしている。耳元でこっそりと囁いたり、肩をポンポンとたたいたりする。いつしか、「今が一番幸せだ」、とそう思いながら日々生きるようになった。お父さん、お風呂沸いてるよ。ビールも冷えてるからね。
2018/08/14
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16年今日は父の命日です。もう、何年になるのか、だんだんわからなくなってくる。えーっと、16年かな。お父さん、こっちでは今桜が満開だよ。
2018/03/29
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お父さんのお墓参り昨日は、妹の運転する車で父のお墓参りへ行って来た。自宅からは2時間半ほどかかる少し辺鄙な場所にあるので、いつもなら電車とタクシーを乗り継いでえっちらおっちら行くのだが、車があった方がそりゃあありがたい。なるべく涼しい午前中の内に終らせようと、早朝から出かける予定だった。が、事もあろうに、この日に限って、台風がやって来るとは。少し心配だったが、タイミングよく午前中は雨はまったく降らずに曇っていて、この時期としては比較的過ごしやすい気温で、暑さがしんどい私には本当にうれしい限りだった。さて、久しぶりだったけどなんにも変わらないのどかで静かで誰もいない幼い頃から見慣れたお寺。心なしか空気も澄んでいる。勝手知ったるという風に、姉妹一言も交わさずともバケツに水を汲んだりたわしでお墓を磨いたりお花の用意をしたり蝋燭と線香を付けたり、それぞれがテキパキと事を済ませ、あっという間にお墓はきれいになった。真っすぐ背を伸ばして手を合わせ、お父さん来たよ、とご挨拶。おじいちゃんおばあちゃん、尚だよ。先祖さまたちもみーんなここで眠っているのだなぁ。それでもじわりじわりと汗がにじんできたので、早めに切り上げて帰らせてもらったけど、私は心の中で何か納得したところがあって、今のこの「私の変化の時」に姉妹でここへ来られたことは、何か特別な意味があって必然であったように思った。お昼を食べて、さてそろそろ帰ろうかと車に乗り込んだ直後からどしゃぶりの大雨に見舞われた。久しぶりに姉妹揃って顔を見せに来たことに喜んだお父さんが、それまで台風さんに交渉して雨を降らすのを遅らせてくれていたのだと思う。空から笑顔でまた来てねと言ってくれているような気がした。うんお父さん、大好きだったビールをお供えしようと思っていたのに持って行くの忘れちゃったから、また行くよ。一緒にお墓参り行かない?と誘ってくれた妹に感謝します。昨日は行ってよかった。心が清々しい。
2017/07/05
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「心は清いのか?」父が他界して、今月でちょうど15年です。父は日記をつけることが日課でした。「◯◯よ(父の名前)、心は清いのか?」哲学的なことに興味があったのか、こういうことばかりが書かれています。15年も経ったのに、手元に遺っている数冊に及ぶ日記にまだきちんと目を通す心境にはなりませんが、おそらく父は、今の私と同じようなことを考えていたのではないでしょうか。
2017/03/22
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おうち誕生日が来る毎に、あゝまた一つ父の年齢に近づいたな、と思う。だって、遺影の父はいつまで経っても歳を取らないんだもの。なんでかしらね?阪神大震災でついに以前の家に住めなくなり、この家に引っ越して来た20年前、もし世帯主が亡くなった場合はその後のローンは支払わなくていい、とかいうものに契約したらしい。当時は誰がまさかそれが現実になると想像しただろうか。結局、皮肉にも私の家はちょうど半分のローンを支払わなくて済んだのであった。父の命と引き換えになったこの家。私は父の娘として、ずっと修繕しながら大切にこの家に住み続けたいと考えている。父の血と肉と涙だから。
2016/11/07
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父の日記父は読書が趣味でした。休日は一日中読書三昧。いつ父の部屋の前を通っても、片手に本を持って、椅子に座って足を組んでのけ反った静止画像のまま。額縁をつけて「それを横からみた絵」というのが、私の脳裏にある父の記憶の中で、もっとも大きい割合を占めているように思います。そして、毎日欠かさず日記も付けていました。ふふ、読書と日記、結局私は父と同じことをしているようですよね。来年で父が他界して15年になりますが、実はまだ父の日記を読めていません。いえ、何と言うか、大事に大事にしまわれて鍵のかかった宝箱を開けるような、私にとってはそんな勇気と心の踏んばりが必要なのです。その数冊の日記は他の雑多なものと一緒に本棚に並んでいるのに、軽い気持ちで手に触れてはいけないような、なんともそこだけ神聖なオーラを醸し出しているのですよね。そんなこんなで、あれよあれよという間にこんなにも時が経ってしまいました。そろそろ読んでみようか、と決心がつくのはいつになるでしょうか。うーん、まだもう少し先かなぁ。
2016/09/29
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つながってる。親と子は、繋がっているという。それは遺伝子レベルの話。私が多発性硬化症(MS)を発病したのは26歳の時だった。そのほぼ5年前に父が死んだ。今になってなんとなく感じていることがある。もしかしたら、父ではなく私が死んでいたかもしれないと。それを、父が我が身を犠牲にして娘の代わりに肩代わりしてくれたのではないか、と。だから、私は今こうしてこの世の生き永らえていられているのかもしれない、と。そう考えると、父のためにも父の分までも、私、しっかり生きなきゃ。
2016/08/21
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もし父が、今の暮らしの中でもし父がいたとしたら、どうだったろう。三人という小社会が築かれ、今とはまったく違う世界ができていたに違いない。母との一対一は正直厳しい。身動き一つできない。耐える、忍ぶ、それに尽きる。おそらく長年連れ添った夫婦もそうなのだろう。ついに限界が訪れるのが手に取るようにわかる。もし父がまだ生きていたとしたら、どんな話をしただろう。今になってなんとなく思うのだが、極論を言うと、娘はお父さんが、息子はお母さんが、結局は一番のタイプなのではなかろうか。
2016/06/13
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19時32分の鳥の糞父と母と妹と4人家族だった私たちは、小さないざこざはあったものの、それなりに平和で、どこにでもあるような至って平凡な家族だった。当たり前のように明日が来ると信じて疑わなかった。父が職場で倒れた。緊急手術もしたけれど、この病で倒れた人は8割近くの確率で死亡しているという資料を見せられ、最高に良い状態でも車いすだろうと医師から告げられた。それでも私はまたしても父が生き返ると信じて疑わなかった。「うちのお父さんに限ってそんなことはない。これまでのような日々に戻る」毎日3人で病院へ通い詰めていたが、父の半開きの目は生きた人間のものとは思えず、果たしてこれが本当にあの父なのか、大きな鉛を呑み込んだような息苦しい感情に押し潰された日々だった。父には一人だけ兄がいて、嫁と一緒に見舞いに来た。お兄さんは、たった一人の弟が目の前で植物状態にある現実によほどのショックを受け、こちらが見ていられないほどの落ち込みようであった。一方、兄嫁は忙しく動き回り、父の顔や足に触れた。概して、直接血の繋がっていない親戚や親しい知人が率先して病人に触れたがるものである。「いや、冷たいわ」一瞬病室の空気が凍りついたが、兄嫁はそんなことにはお構いなしに、おもむろに葬儀の話を始める始末だった。徐々に疲労が溜まっていく。夕食時には帰宅するようにしていたが、口に出しては言わないが、3人それぞれに、でも目線の先にはまったく以て同じ「ある一文字の漢字」を、うすうす認め始めたようだった。1週間。帰宅して、さほど食欲はないが少しでも食べておかないとと食卓につこうとしたその時、病院からの電話が鳴った。「すぐに来て下さい」たった今脱いだ服を再び着て3人で駅へ向かった。と、家から駅へ向かう途中の坂道のちょうど頂上にさしかかった時、私の肩に鳥の糞が落ちて来た。なぜこんな時に、と思わぬ出来事に唖然とする3人だったが、その時私は何気なく携帯電話を開いて時刻を確認した。19時32分だった。病院へ着くと、もう父は天国へ旅立った後だった。息を引き取ったのは19時32分だったと聞かされた。
2016/03/30
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お元気かしら。父は男ばかりの兄弟の末っ子です。ただ、その内何人かが赤ちゃんの頃に亡くなってしまったそうなので、私は正確には父が何人兄弟だったのかを知りません。長男と末っ子の父だけがすくすくと育ち、要するに父は少し歳の離れた2人兄弟でした。生前父はお兄さんのことを兄貴、兄貴と慕っていて、とても仲の良い兄弟でした。お兄さんは現在ももちろんご健在で、父が亡くなった時はあまりのショックに激やせされ、別人のようになってしまいました。そりゃそうだと思います。だって、たった2人の兄弟なのですから。父が亡くなってからは疎遠になりましたが、ふと、元気にされているといいな、と思いました。
2015/04/17
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あの日を想う昨日は父の13回目の命日でした。MS発病後に、なーんにもなくなってしまった私の前へ、無造作にポンっと置かれた本。本は、読書が趣味だった父からの贈り物だったと思っています。そして、もんじはお父さんの生まれ変わりなのかなぁ?
2015/03/30
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Re:父の形見のセイコーの腕時計。毎日つけていたから、脂や垢がこびりついている。ずっと大事に引き出しに仕舞っていたのだけど、ふと、使おうかな、と思い立った。ちょうど私の部屋には掛け時計がないので、壁に吊るして。ところで、この腕時計はまだ動くのだろうか。父が亡くなって今月でちょうど13年なのだが。はて、時計屋さんに寄ってみようかしら。
2015/03/12
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公開遺言状父は、養子だった。母は一人っ子、父は末っ子。だから、父は母と母の両親の家にやって来た。…と、まだここまでは許せる。私がずっと頭にひっかかっていて許せなかったことは、なぜか、父と母が結婚した時に『父姓』を名乗ったことだった。そんなことを露ほども知らない私と妹は、父姓でずっと暮らしてきた。母姓の祖父母と一緒に。そんな時、母の父が死んだ。それを機に、私たちは「決まっていたから」という理由で母姓に名字を変えられた。私は小学生3年生から4年生に進級する時だった。妹は小学校入学時だったから特に問題はない。当時3,4年生の2年間はクラス換えがなかったので、メンバーも先生も同じだった。3月まで「○○尚」だったのに、4年生になったら「△△尚」と名前が変わっている。みんなきょとんとした顔をした。先生までもが、いつまで経っても「○○さん~」と呼ぶ始末。「離婚?」と尋ねてきた友達もいたりしたが、離婚して名字が変わるということがよくわかっていなかった私には、理解不能だった。「私は何かいけないことでもしているのだろうか」家に対しての疑問は日に日に募っていった。まもなく母の母も他界。言わずもがな、4人家族となった。そして阪神淡路大震災を機に、同じ市内の今の家へ引っ越してきたのだった。父は母の両親に対してとても他人行儀で、ずっと敬語だった。なんでだろう?と幼いながらにも疑問だったが、誰にも問い質せず時は流れた。父は、母の父が死に、母の母が死に、拍車をかけたように一気に無口となっていった。こちらの家に引っ越してからは自室に籠りきるようになり、今の私と見事に同じ。まったく以て家族と口を利かなくなった。その後、心労がたたって53歳で他界。私の不登校のことなどかなりの迷惑もかけ、父の苦労に初めて気づいたのがこの時だった。なんという、なんという親不孝な娘なのか。数年後、父の遺品を整理している時、机の中から父姓の印鑑がたくさん出てきた。実印から訂正印まで数種類。処分できずにいた父を思うと、当時、今更ながら父は父姓のお墓に入りたかっただろうに、と涙が止まらなかった。私は長女。もし母が『養子』などという言葉を今後発したとしたならば、私は確実に激怒するだろう。尚家の代は、もう父と母の代でお終いなのだ。先祖代々のお墓に入るのも、母が最後なのだ。私は、ひっそりと、海へ、還ります。
2013/06/26
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さくら、満開今日は父の命日だ。私が元気に前向きに生きていること。それこそが父への最大の供養だと思っている。
2013/03/29
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こころ、洗われる父が他界してちょうど10年。私が多発性硬化症(MS)になり6月で5年。先日父のお墓参りに行ってきた。明らかに病気になってからは一度も行っていないので、おそらく7,8年ぶりだと思う。お寺に向かう途中に小さな野花をたくさん摘んだ。一番大きいのはたんぽぽ。お寺が見えてくる頃にはなんだかそわそわし、だけどいつ行っても変わらない風景に安心した。ご先祖様が並ぶ尚家のお墓。なぜだか急に涙が溢れ出て止まらなかった。胸が苦しくなった。こんな私を創った先祖に対して恨みを持っていたのに。なぜだ。「先祖不孝でごめんなさい。でも尚はこの世に産まれてこられて嬉しいです。 ありがとうございます。がんばって生きます。また来ます。」
2012/03/17
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よわさ と もろさ父が他界して、ちょうど10年。早かったなどとは全く感じず、もう私の中では父のいた日々の方が幻だ。この10年でいろいろなことが在りすぎたせいだろうか。父が急に倒れて亡くなるまで、たったの1週間だった。それまでは本当に平凡な一般家庭だった父と母、私と妹。母は専業主婦、私は大学生、妹は高3で大学が決まったばかりだった。当時は、3人ともあまりに突然の出来事にただただおろおろするばかり。父が亡くなるなどとは一欠片も考えた事はなく、途方に暮れた。(二十歳そこそこの私にそんな心づもりがあった方が少し可笑しいような気もするが。)今は、いろいろと考えるようになった。順番にいけば、私よりも母の方が先にあの世へ行くだろう。母の最期を看取るのは、私の最大の役目だと思っている。この世には、あり得ないと思っていることが、何の疑いもなく起こる。その、心づもりだけはしているつもりだ。
2012/02/06
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薄闇に 漏れる影父が亡くなって、3月でちょうど10年になる。父の部屋は物置と化し、10年間ほとんど触らずのままである。ふと、片付けてみようかと思いたった。父は、本と切手と文房具が好きだった。部屋にあるものはほぼそれのみ。切手だけは数年前に処分済みだ。100冊ほどあった本はリサイクルに持って行った。文房具はちょっとしたお店が開けそうなぐらいレアなデザイン性に富んだ物が数多くあり、私も文房具が好きなのでいくつか頂いた。そして、日記が大量に出てきた。なんとなく、父が机に向かい万年筆で毎日日記を綴っていた姿を思い出した。ちらと見た。結局のところ、父の書いていた内容は私がこのブログに書き続けていることと同じだと知り、少し驚いた。ゆっくり時間をかけて読んでみようと思う。10年間机の中に眠っていたものが息を吹き返し、それを父が喜んでくれたら嬉しい。
2011/10/11
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ゆらゆら 船旅窓から外の景色をただぼーっと眺め、身を任す。雲が刻一刻と形を変え、空を浮遊している。お父さんも、毎日空を気持ちよさそうにふわふわと泳いでいるのだろう。
2011/08/14
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満開の百合に 囲まれて・・・今日は父の命日です。
2011/03/29
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ひたひた多発性硬化症(MS)になってから、一度もお父さんのところに行ってない。今年は、桜の頃、行こうかな。
2011/02/21
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流れ星 いくつ?今日は、父の命日です。お父さん、尚は元気にがんばってるよ^ ^
2010/03/29
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ずっと、 見守っててね父が亡くなって、明日で丸7年です。長かったような短かったような・・・、なんか、そんな気持ち。父は職場で急に倒れ、1週間で息を引き取りました。今でも、ICUや病室の様子、窓から見える風景までが鮮明に思い出され、まるで昨日のことかのように記憶がよみがえります。それがもう7年。当時は母と妹と3人になり、今思ってもさすがに息の詰まる生活でした。父親の存在がどれほど大きかったのか・・・、亡くして初めて気付いた私たちです。でも・・・、それでも何とか今がある。ちゃんと幸せに暮らせています。お父さん、みんながんばってるよ。ハナは結婚だよ。これからも、ずっと・・・、空から見守っててね↑いつもありがとうございます。もしよろしければ1日に1クリックお願いします。
2009/03/28
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私の気持ち 受け取って 下さい私の父は、切手集めが趣味でした。もう父が他界して7年が過ぎ、部屋の整理はほとんど済ませましたが、やっぱりまだ残っているものってたくさんあります。切手もその中の一つ。切手専用のファイルに、ざっと50冊分ほどもありますほとんどが外国の古切手で、使用することもできません。以前からどうしようかと家族で話しをしていましたが、結局そのままの状態で月日が経ってしまっていました。先日も話しをしていた時のこと・・・、「・・・あのさぁ、寄付はどう」「・・・。」「・・・おぉっ」妹のふとした発言で、すべて寄付することに決定しました(そうやん、お父さんユニセフにずっと寄付してたし、その方が絶対喜ぶ)そこで、いろいろと古切手が寄付できるところを調べ、いくつかに分けて寄付しようと思っています。もちろん、『MSキャビン』さんにも寄付させていただきます。私たちにできることってこれぐらいやもん。ほんのちょっとでも役立ててもらえたら嬉しいな。世界の平和を願って・・・。↑今年もよろしくお願いします。もしよろしければ1日に1クリックお願いします。
2009/01/15
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今になって やっと わかったこと私は父を大学生の時に胸部の解離性大動脈瘤という病気で亡くしています。その時、とってもとっても良くして下さった父の上司の方から言われた言葉があります。「お父さんは、義理と人情を大事にする人やったよ。」その時もある程度は理解したつもりでしたが、今になってやっと、ちゃんとわかった気がする。私もお父さんを見習おう。今日はそんなことを考えていた私でした。↑いつもありがとうございます。もしよろしければ1日に1クリックお願いします。
2008/11/29
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お日様の光を 浴びて ぽかぽか ぽかぽか 日向ぼっこ夜、夢の中に父親が出てきました。もう亡くなって6年半が過ぎましたが、私の心の中では、倒れる前の元気なままの姿で生き続けています。本を読むことが好きだった父。休みの日は読書に明け暮れます自分の部屋の椅子にもたれ掛かって座り、足を組んで本を片手で持ち、本の高さは目線より少し上。いつ、父の部屋の前と通ってもその姿勢のまま静止状態です(笑)夢の中でも、父は本を読んでいる姿のまま、ただ、そこにいました。優しい横顔で・・・(ふふ、お父さんってば尚がちょっと落ち込んでる時に出てきちゃって)(もう、いつもタイミングいいねんから~)もう、父と逢うことはできませんが、いつも私のすぐ側で微笑んでいるような気がしていますそして、私が父のことを想ってる時、天国からこっちの世界に帰ってきてるんじゃないかな↑いつもありがとうございます。もしよろしければ1日に1クリックお願いします。
2008/10/30
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時間は あの時のまま・・・私は、21歳の時に父親を胸部の解離性大動脈瘤という病気で亡くしています。急に職場で倒れ、1週間で息を引き取りました。あれから6年半が経ちますが・・・、父の部屋は物置状態です(笑)読書が趣味だったので、本が積まれていたり、未だに仕事関係のものがあったり・・・。いい加減、片付けないといけませんね・・・この間、そんな物置部屋に特に何をするわけでもなく入りボーっとしていると、一段目の引き出しの奥に1枚のフロッピーを発見しました。(あれ?こんなとこに。・・・なんやろ~?)明らかに何かのデータが入っているような気配・・・さっそくパソコンに入れてみました。すると、父親が倒れるほんの数ヶ月前に保存されたデータが一つ・・・。無題です。(なになに??)そのデータを開くと“自分史”と書かれた表が現れました。(え?自分史・・・?)でも、表があるだけで何も書かれていません。(あ・・・、お父さんきっと自分史作ろうと思ってたんやで。)(しかも倒れるちょっと前に・・・。)そういや、パソコンや携帯などにはオンチだった父が、やたらとパソコンの本を買ったり、何か熱心に勉強していたのが思い出されました。(もしかして自分史作るためやったんかもなぁ~。)まるで自分が倒れて死ぬことを予測していたかのように・・・。父は自分のことは一切話さない人でした。物静かで、でも、外では社交的(笑)おそらく、形として自分の人生を残しておきたかったのでしょう。私は、その時の父の気持ちがわかったような気がして、何かとても嬉しい気持ちになりました父が死ぬ前にやりたかったこと。また一つ、父の知らなかった一面を知ることが出来ました↑もしよろしければポチッとお願いします!
2008/08/27
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温もり 触れあい 満面の笑み その どれもが 愛おしい・・・お盆、ですね・・・。私は21歳の時に父を心臓の解離性大動脈瘤で亡くしましたが、父は本を読むことが大好きでしたしかも、その冊数は年間100冊以上仕事がとても忙しく、朝早く出ていき夜遅く帰ってくることがほとんどでしたが、行き帰りの電車の中での読書と、休みの日の読書を明日への原動力にしていたようでした特に休みの日はひたすら読書に没頭し、ふら~っと出掛けたと思ったら、手に1冊だけ本を握りしめて帰宅(笑)(あ~~~、また本屋行ってたんや笑)(しかも、また1冊)私なんかは、何度も本屋に行くのはめんどくさいからまとめ買いをしておけばいいのにと思うのですが、行っては、1冊、また行っては1冊買うという、かわいらしい父でした父が他界してからもう6年半・・・日に日に父に似てくる自分。日に日に父に逢いたくなる私。「お父さん、お帰りー今日は家でゆっくりしていってよー」↑もしよろしければポチッとお願いします!
2008/08/14
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私の声 私の言葉で どうしても伝えなきゃならないこと ありました私は21歳の時に父を解離性大動脈瘤で亡くしていますが、実は、看取ってはいません。もう時間の問題だと医師からは聞かされていたので、朝から晩まで父に付きっきりでしたが、そうは言っても、“いつか”は誰にもわかりません。「1回家に帰って休んだらどうですか?」私たちが身体を壊したらどうしようもないので、母と妹と3人で、一端帰宅しました。すると、帰宅してまもなく、病院からtel。「すぐ来て下さい!」私たちは急いで病院へ戻りました。「・・・お父さんは、先ほど、永眠されました・・・。」父は私たち家族に悲しい想いをさせたくなかったのでしょう。静かに眠りについたそうです。(なんか、お父さんらしいな・・・。)「お父さん、尚の声、尚の言葉で言わないといけないこと、あるんだ。」 今まで育ててくれて、ありがとう↑もしよろしければポチッとお願いします!
2008/07/16
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目線を 合わせてみませんか?私は21歳の時に、父を解離性大動脈瘤で亡くしています。手術の麻酔で眠ったっきりで、手術終了後は3日間植物状態でした。母と妹と3人で、ICUで生死をさまよっている父をずっと見届けていた時のこと・・・。父の兄夫婦がいらっしゃいました。もう時間の問題だということは医師から聞かされていたので、私たち家族は覚悟はできていましたが、父のお兄さんはたった2人兄弟の弟がもうすぐこの世を旅立つと聞かされ、精神的にショックを受けてしまったようで、ずっと泣いてらっしゃいました。・・・それに比べて、義理のお姉さんは・・・。なんと、父の前でお葬式の話を始めたのです“どこの葬儀屋にする?”“私がいろいろ調べるわね。”“・・・。”母は返す言葉もない様子・・・まだ父は必死で病気と闘ってるのに、ちょっとひどすぎますよね。あまりに自分勝手な発言にお姉さんという人物を疑いました。こんな人間にだけはならないようにしようと思うばかりでした。
2008/07/10
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私は あなたのために 何が できましたか?私は現在、27歳です。父、母、3歳下の妹の4人家族でしたが、私が21歳の時に父は他界しました。心臓の解離性大動脈瘤という病気でした。石原裕次郎と同じ病気と言えばおわかりになる方もいらっしゃるかもしれません。父は高血圧でしたが、至って健康でした。いつものように、朝出勤。私は当初大学生で休み期間だったので、その日はたまたま家にいました。1人で・・・。“プルル・・・”夕方telが鳴りました。「はい。」「・・・・・・・。びっくりしないでね。お父さんが今、急に倒れました。土色みたいな顔色になってね。意識はありますが、救急車を呼んでます。また搬送先の病院がわかり次第連絡します。」「・・・。」(・・・へ?・・・貧血?疲れ?・・・救急車って、またそんなおおげさなぁ~!)ところがそのすぐ後、家族全員で病院に来るようにとのこと。母、妹と3人で急いで病院へ向かいました。小さな部屋に通され、担当医からの説明・・・。ペラッと1枚のデータを見せられました。“死亡率78%”(は?・・・。・・・。・・・・・・。え?えええええええ!?)「今から手術をします。」よくても車イス。職場復帰はまず無理。植物状態になるかもしれない・・・。結果、倒れた日から1週間で亡くなりました。手術の麻酔で眠ったっきりです。その時の父の最期の言葉。「尚、すまんのぉ。」涙が止まりませんでした。その後、周りの人に「親孝行なんて何一つできひんかった・・・。」ともらすと、「健康に生きてるだけで親孝行やねんで。」と言われたのを覚えています。・・・でも、今の私にはその健康な身体さえもありません。お父さん、尚はお父さんのために何ができた?
2008/06/18
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