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20年前の出来事私が不登校になったのは、高校2年生。始業式後すぐのことだった。その後2年間引きこもった末に、ピアノの先生を紹介してもらい一から猛練習し、ほんの少しだけ予備校に通って数学やら必要最低限の勉強だけをした。そして、当時の高校卒業資格なるものを取って、大学に入学した。高校は大学が決まるまで籍だけ残していたが、当たり前だが留年扱いになるので、3年間ほど幽霊の高校2年生だった。大学の周りの友達には、私が一つ歳上の理由をとやかく聞かれる前に「一浪した」と言っておいた。ほとんどみんなストレートで入学していたから、これがまた、私がグループに群れずに我が道を淡々と貫き通す良い意味での理由となってくれたと思う。きっと、私は異質な存在だったに違いない。それは、大抵不登校と言えば小学生や中学生を指すと思われるからだ。高校は義務教育ではないので、辞めたければ勝手に辞めてしまえばいい。もちろん、高校側の対応もマニュアルがないのか、しかも今でこそこんなに騒がれているが、当時は1997年、さほど社会問題ではなかった時代だったので、見事に「ほったらかし」だった。私などに割く時間はないと言わんばかりの対応だった。特に、1回目の高校2年生の時の担任はもう最悪だった。定年間近の家庭科の女性教師だったが、1年間の間にかかってきた電話は数回、1度だけ家庭訪問に訪れただけ。その1度の家庭訪問も、母が出したお菓子を口いっぱいに詰め込んで、ボロボロとこぼし、唾を飛ばしながら、ただ自分の考えをねちねちと言い含めるだけで帰って行った。2回目の2年生の担任は、今でも新年のご挨拶が続いている。保健体育のまだ若い男性教師で、家庭訪問こそなかったものの、何度も電話をかけてきてくれて、私が出たくないと拒否しても、母とはそれなりに会話をしていたようだった。保健室の先生と連携してくれたのも、この先生だった。予備校に通い始めた3回目の2年生の時も続けて担任をしてくれた。その間、私は数回保健室登校をした。私が通用門ではない門からこっそりと入り保健室へ忍び込むと、保健の先生が迎え入れてくれて、そこへ担任の先生がやって来て、3人で他愛のないおしゃべりをした。不登校になった者にとって、学校へ向かうことも、校舎を見ることも、ましてや校内に足を踏み入れるなんて、ものすごく勇気のいることだった。実際、今でも高校の前を通る時があればまだ少し構えてしまう。心臓はドキドキするし、汗は出てくるし、何度もこのまま引き返そうかと考える始末だった。だから敢えて授業中のしんと静まり返った時間を約束の時間に指定してくれたり、帰る時も誰にも会わずにさっと帰れるように計らってくれたり、梅雨の時期なら傘で顔を隠して歩いてこられるからと季節まで考慮してくれたり(猛烈にアトピーがひどかった時期でした)、この2人の先生には感謝している。私が大学に合格した時には、3人でお祝いをしようと言って、ご飯を食べに連れて行ってくれた。担任の先生は、「ちゃんと足の指の間も洗ってるかー?」などと言う人だった。おそらく、担任の先生が奇異な目で私を見ることもなく、何が何でも学校に来いと言うこともなく、(一応進学校だったから)勉強の遅れを指摘するでもなく、変に気遣うこともなく、至って自然な振る舞い方をしてくれたから、私はこの苦しかった高校時代を乗り越えることができたのだと思う。かけてきてくれる電話の回数も、多くもなく少なくもなく、というのは、多すぎるともうほっといて!と言いたくなるし、かと言って1年目のように極端に少なすぎると私はクラスの一員ではないと思ってしまう。ちょうど私には良い加減だったのだ。あれからもうすぐ20年…。今振り返ると懐かしい。保健の先生は元気にされているでしょうか。(うろ覚えだけど、当時中学生の2人の息子を持つお母さんだったが、確か学生時代は病気で車椅子だったと言っていたと記憶している。)担任の先生は、もともとラグビーの選手だったらしく、昨今のラグビーブームが誇らしいようですよ。
2016/09/09
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マリリンとモンローズル休みや早退をしながらも、辛うじて通っていた高校1年生。勉強なんてしなかったから、赤点を取って追試を受けていた。いつも顔の皮膚が垂れ下がっている気だるい生徒だった。特にすることもなく暇だったから、部活に入ってみた。その部活には私と同じ名字の同級生がいた。1学年400人の大きな学校だったから、珍しい名字でもない限り、同じ名字の人間が一人や二人いてもおかしくはないだろう。さて、名字で呼ぶとどちらかわからないからあだ名を付けよう、ということになった。ところで、この部には一風変わった先輩がいた。纏う雰囲気や髪型や服装もみんなから外れ、一回り年上のような風貌だった。この先輩が、変なことを言い出した。マリリンとモンローは?いやいや、いくらなんでもそれはないだろう。こっそりそう呟くも、先輩のやけに高音の地声にかき消され、同級生がマリリン、私がモンローと呼ばれることに決定した。あり得ないあだ名をいただき、そう呼ばれて返事をする度に口は歪む。意を決してマリリンに相談しようかと思ったが、目がぱちくりして可愛らしいマリリンにはむしろ似合っているようにさえ感じられた。会いたくない人に限ってよく会う。廊下で先輩と出くわし、モンローと呼ばれる度にイライラし、部活を半年で辞めた。我が人生の中で最短期間呼ばれたあだ名であり、特別奇異なあだ名であった。
2015/09/07
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雨情母がC型肝炎で入院していた時、私は不登校だったので、ずっと家にいました。父と妹は朝早くから夜遅くまで帰ってきません。私はずっとずっと一人でした。何もすることもなく、ただ、じっと、一人でした。言わずもがな、家事をする人は私しかいません。ところが、恥ずかしいことに、家事という家事はすべて母がしてくれていたので、何もできなかったのです。料理なんて以ての外、掃除だって洗濯だってままならない状態でした。かろうじて、お米を研ぐことができるぐらい。毎日、夜に、入院する母から電話がかかってきました。ごはんは、冷蔵庫に何があって、魚も冷凍してるから、こうやってこうやって調理して、洗濯機はここのボタンを押して、掃除機はかけられるでしょ、ま、掃除なんかしなくても死にはしないわ、そうやって翌日一日分の話を聞きます。私は、「うん」ぐらいの会話しかしていなかったから、母の話をせっせとメモを取り、イヤイヤながら、無理矢理に家事もどきをこなします。当時は、そうやってなんとか「その日暮らし」の日々の生活が成り立っていました。今思えば、あの頃から母と私は二人三脚で生きてきたのです。今も、こうして生きているのです。
2014/07/03
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想ひ出今日は、○くんの命日です。高校2年の今日、交通事故で突然亡くなりました。私は当時、2年生が始まって3日ほどで既に不登校になっていて、精神的にも少ししんどくなりつつあった頃でした。そこへ、事故の知らせ。そこから、ありとあらゆることの歯車が狂い始めました。まず、アトピーの急激な悪化。当時の写真はほぼありませんが、それでも数枚は残っていて、とんでもない、見られたものではありません。そして、母がC型肝炎で入院し、副作用の為、髪の毛は半分ほど抜け落ち、ぐったりと横たわっている日々が続きました。父は仕事、妹は中学校とクラブと塾で朝早くから夜遅くまで帰ってきません。ただ、○くんを想い、私は毎日何もすることもありません。自殺願望は日に日に増し、母と二人の生活は、それはそれは苦しかったです。でも、そんな生活の中でも、なぜかぽろろんとピアノを弾いていることに気づき、私はピアノの道に進むことにしたのです。そうして、今まで習っていたピアノの先生を紹介してもらい、レッスンの時だけ外出します。高校へ再び行くことは考えていなかったので、高校は退学し、今で言う高校卒業資格を取るために予備校に通うことになり、ようやく長かった引きこもりから脱出したのでした。そこからはピアノに明け暮れる日々の始まりです。泣きながら厳しいレッスンに耐え、ほぼ一日中ピアノと過ごしました。予備校では大検コースに入りましたが、半分ほどは休みながら通いました。ところで、この大検コース。なかなか興味深いコースでした。要するに高校を何らかの事情で卒業しなかった、もしくはできなかった人たちが集まるところだったので、ま、「変わり者」の集まりだったのです。明らかに何かをやらかして退学させられたと想像する不良のような人や、そこにいるのかいないのかもわからないようなとても暗い人、大学で学びたいと熱い夢を抱く熱心なおじさん、どこからどう見ても高校生活を謳歌していそうで、なぜここにいるのかさっぱり想像できないかわいらしい女の子までいて、本当に多種多様。とてもとても不思議な空間でしたが、ある意味、私は居やすかったのです。少々休もうが、遅刻しようが、この自由な大検コースに一応所属しているということで、引きこもりから一歩ずつ社会復帰を果たせたように思います。一方、自由な私たち変わり者の集う小教室の隣では、某有名大学コースの本物の浪人生たちが、大教室でみな一様に目をギラギラさせて先生の熱血指導に聞き入っている訳です。顔の知っている私の高校の同級生もちらほらいて、冷ややかな視線を浴びせられたものですが、某有名大学コースには誰にでも入ることはできても、大検コースには誰にでもそう簡単に入れるものではありません。私は俯きつつも、「逆に今になってこんなところで再会するとは何とも滑稽だ」、と思ったものでした。そして、ギリギリで大検を合格。実は社会科が2点足らなければ不合格だったという事実を知った時は、さーっと血の気が引いてしまいましたが、合格は合格です。晴れて、周囲の人には「一浪した」と嘘を言って大学に入学しました。もちろん、大学の友達はな〜んにも知りませんよ。一浪して入学したのは、私ぐらいのものでしたしね。今思えば、あの精神状態からよく社会復帰ができたなとつくづく思いますが、結局、私にはこの3年間は必要だったようです。今でも○くんが生きていれば、と考えることはありますが、ずっと私の心に息づいていてくれているので、それで十分です。母はお陰さまで完治。私のアトピーも、当時処方してもらっていた漢方薬のおかげでかなり回復しました。私の人生で二度あった絶望生活の内の一つ。なかなか良い体験をしたではありませんか(笑)
2014/06/29
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壁の 向こうには私は、自分で自分の考えははっきりしていると思っている。周りに流される方ではないと思っているし、むしろたまに固執し過ぎる傾向にある。高校2年生の時から私は不登校になったが、1年の時はこれでも何とか通っていた。受験の時はただ勉強することだけをがんばり、当時通っていた塾の先生に勧められて合格した高校。なんでこの高校を選んだかと言われれば、何とも答えようがない。そんな高校生活のスタートだったので、高校に合格してしまえば目標は達成され、私は抜け殻のようになった。周りの生徒たちは、すでに入学当時から大学受験のことを頭に置いて勉強を始めていて、私はすぐに置いてきぼりになった。「ただ何も考えずに勉強すればいいんだよ。」と言われたこともあったが、何も目指すものがないのにどうがんばって勉強するのか。嫌々ながらも、早退や欠席をしながらも、赤点追試を受けながらも、何とか2年に進級したものの、いろいろなことが重なり、結局高校には行けなくなった。私は、同じ中学から同じ高校へ進学した友達とずっと登下校を共にしていた。その友達yちゃんは、私とは違いとても勉強熱心で、成績もとても良かった。yちゃんの目標は薬剤師になること。つまり、薬学部へ入学すること。その目標に向かって日々努力していたのを、私はよく知っている。そして現在、薬剤師として使命感を持って働いている。だが、その目標は親から与えられた目標だった。実は、yちゃんとは家が近かった為幼い頃から知っていたのだが、yちゃんは厳格な家の地主さんだったのだ。一生使える資格、年齢に関係なく働けて必ず需要のある仕事、そんな言葉を使うyちゃんのお母さんを何度となく見たことがあった。幼いながらに、なんで親が勧める道に進まないといけないんだろう、yちゃんもyちゃんでなんでそれに従うんだろう、と私は不思議で仕方がなかった。だが、不登校になり、何もなかった当時の私には、それが羨ましくてならなかったのだ。yちゃんにはどんな時もちゃんと進む道が用意されている。かたや私には何もない…。私の親は、さすがに不登校になったばかりの頃は戸惑いを隠しきれない様子だったが、しばらくした後は「自分の好きなようにしなさい。」と何も言わない親だった。結局自分でピアノの道に進むことに決め、もちろん今となっては自分で進む道を決めさせてくれた親に感謝している。私は誰かに指図されるような人生は送りたくない。だから、ピアノからも少し離れる決意をした。自分の、たった一度きりの人生。舵を取るのは、他の誰でもない、この私だ。だが、思う。何もない抜け殻のような時期がもしあったとしたならば、ある程度の方向を指し示してくれる人も、時には必要なのではないか、と。
2012/10/10
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無言の 月「レールが敷かれているのに、なぜ踏み外すの?」不登校になったばかりの頃、言われた。せっかく敷かれているレールから落ちつつある自分を隠しきれず、頭のどこかでそれが現実になることを恐れていた。そして、私は落ちた。自分を情けなく思うと同時に、やっぱり私は落ちる運命だったんだと思ったことを覚えている。なぜかいずれそうなることを予期していた私。不思議なほどそれは当たった。当時は本当に辛かった。この踏み外した道しかないと思っていた私は絶望だった。頭がカチカチになり、道は無数にあることに気付けなかった。だが、ずっとずっと後になって、私にはそれでよかったんだとわかった。それが私。そういう道を選び、自分自身を模索し、自分でレールを敷き直したのが私。決してレールは一本ではない。レールとは、自分で考え、揉まれ、挫折し、また考え、そうやって短いレールを次々と継ぎ足してゆくものなのだ。
2012/08/12
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疲れ果て、ふと見上げたら、 あなたが いた。私は高2になってすぐに不登校になった。当時の担任は、定年を間近に控えた女の先生だった。私はこの先生に対してあまり良い印象がなく、私の家に様子を見に来てくれた時、母の出した煎餅をバリバリとこぼしながら食べて帰っていったことしか記憶に残っていない。何という名前だっただろうか。そして、私は留年し、つまり二度目の高2の担任は、働き盛りの男の先生だった。O先生は定期的に電話をかけてきてくれ、私が話したくないと拒否しても、必ず母とは会話をした。たまには手紙も書いて送ってきてくれ(同封された必要書類に記入してほしい為だったが)、私が何の返事をしなくても、いつでもクラスの一人の生徒として気遣ってくれることを忘れなかった。保健室の先生とも相談してくれ、数回保健室登校をしたように思う。ピアノの道に進みたいと決めた時は、真っ先にO先生に連絡し、退学手続きやその他もろもろの準備を整えてくれたのもO先生だった。私の高校時代の思い出はこのO先生のことしかない。今でも年賀状での近況報告は欠かさない。ドクダミがこんなにも綺麗な花を咲かせるって知った時、すごくびっくりした。
2012/07/18
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夕暮れ色うつ病になり心療内科で診察を受けるということは、それほど病状が深刻ではないという証。本当に極限のうつ病患者は、まず医者に何とかしてもらおうなどとは思わない。と言うより、思考回路がフリーズして、思えない。と、その前に話しすらできない。いや、そもそも家から出られない。
2011/09/11
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小花 不登校で引きこもっていた時、母がC型肝炎で入院した。父は朝から晩まで仕事。中学生だった妹は学校とクラブと塾とで土日もいない。と、家事をするのは当然の如く私だった。私は家から出ることができなかったので、母が毎晩電話をしてきた。「こうやって料理して、洗濯はこうやって・・・」その他いろいろと教えてくれた。恥ずかしながらそれまで家事などしたことがなかった。父が休みの時には父が運転する車で病院へ向かった。なぜか父は私に病室へ行けと言った。私は、ここまで来たのも無理矢理なのに病室になんて行けないと言ったが、父は車から降りようともせず、結局私が母の元を訪ねた。それも、洗濯物をもらって新しいものと交換する一瞬だけ。ふと、そんな昔の事を思い出した。
2011/07/09
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珈琲の いい香り私が1年間だけ通っていた高校は、私服高だった。みんな似通った服を着て、物を持って、言葉を遣って、文字を書いて、行きたい場所も好きな先生も嫌いな先生も見るテレビも進学したい大学も、みーんな同じ。私は入学当初から学校そのものに違和感を感じ、仲のいい友達もできなかった。それでもみんなと同じようにしなくてはと、自分なりにがんばっていた。人と同じが良いと思っていた。そうするべきだとも思っていた。と言うより、そうしないと会話に入れてもらえなかった。それなのに、結局私は人と同じようにすることがどれだけ難しいかを思い知り、あっという間に脱落した。みんなと同じようにできない自分。ただ合わすだけじゃないか。なんでこんな簡単なことができないのだろう。私はそんな自分が大嫌いだった。みんなは大勢のグループで楽しそうに行動できているのに。私は輪に入れない。今は、普通の人と少し違う道を歩んでいることを誇りに思う。それこそ、今やたらと謳われている個性だ。人に流されていては、生きていけない。そんな自分を今は好きだと思う。
2011/07/05
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昨日が、今日。 今日が、未来。このブログのような日記を書くようになって、もう2年以上経ちます。もちろん、書き始めたきっかけは多発性硬化症(MS)になったことですが、こうやってずっと日記を書いていると、自分のことがよ~くよ~くわかるようになりました。そして、最近わかったことは、うつを経験した高校生の頃のことは、いつまで経っても私の触れられたくない部分として存在し続けているということ・・・。私は、高校2年になってすぐに学校を休み始め、2年引きこもり、3年目に高校を退学して予備校に通って当時の大検(大学入学資格検定)を受けて大学に進学しました。なので、高校入学から大学入学までの4年間のことは、ほとんど誰も知りません。当時のことを知ってる友達も、私から話し出さない限り、誰もこのことについては触れません。思った以上に、私にとっては闇の4年間なんだよね。このブログはMSあっての私だから、MS後のことに関してはオープンなんだけど、うつ時代の自分はトラウマとして残り続けてるみたい。まぁ、いろんなことが重なって自分にのしかかったから仕方ないとは思うんだけど・・・。でも、今日この日記が書けたということは、私にしてはすごく進歩で、少しずつ殻を破れてきてるってことだと思うことにしよう。だけど、なかなかその頃の心境までを書くのには、時間が必要だし、勇気のいることなんだ。いつもありがとうございます^ ^
2010/01/20
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時間が 解決してくれるよ誰しも、トラウマってあると思います。私のトラウマは、不登校になりうつだった高校時代の話。どうも、拒否反応を示してしまい、無口になってしまいます。高校時代の話は、そもそもそれ自体を知っている友達が少ないし、記憶から失われつつあるので、話題になることはまずありません。でも、この話が何のわだかまりもなく自分から話せるようになれば、また少し自分が変われるような気がするんですよね。一枚殻を破れるような気がするというか・・・。もう少し時が経って、その時の自分のことを素直に見つめ直せるようになったら、またここにも書きたいなと思っています↑いつもありがとうございます。もしよろしければ1日に1クリックお願いします。
2008/12/15
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探し物、 すぐそこに あるんじゃなぁい?昨日のつづき・・・そんな生活がひたすら続いたある日、ふと、ピアノのふたを毎日開け、音を奏でている自分に気付きます。私は幼稚園の頃からピアノを習い始め、将来の夢はピアノの先生なんてことを思っていましたが、高校受験を口実にピアノを辞めてからはピアノとは無縁の生活をしていました。でも、いつしかピアノを弾いている私が・・・。本当に何もないのに、毎日ピアノだけは弾いてる・・・。おそらく、誰にもぶつけることのできない感情をピアノに込めていたのでしょう。(私、もしかして、ピアノが弾きたいのかもしれない。)家でも誰とも話しもしない生活をしていましたが、勇気を出して、両親にピアノがしたいと言いました。その後は待ってましたかのように、やっと自分でやりたいことを見つけだした私を、家族は後押ししてくれました。そして、1週間に1度のピアノのレッスンにだけは自分の足で通うようになります。でも、大学に行くには高校を卒業していないといけない・・・。そこで、高校は退学し、みんなが学校で勉強するだけ私は家でピアノを弾き、週に2,3日予備校に通って大学入学資格検定の勉強に励みました。その後、なんとか無事に大検に合格し、大学にも入学することができました。やっと、私は闇の世界から光の当たる世界に這い上がることができたのです。これが、私の長くさまよい続けた2年間の記録です。今考えても、真っ暗なひとりぼっちの世界でした。本当によく耐えたと思う。でも・・・、この2年間は・・・、私の土台です。この2年間を乗り越えたからこそ、今の自分があるんだよ、きっと↑いつもありがとうございます。もしよろしければ1日に1クリックお願いします。
2008/10/26
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私の 遠い 記憶昨日の続きで、不登校とうつのお話です。高2になってすぐ、たぶん始業式が終わった5日後ぐらいだったと思いますが、ついに学校に行くことができなくなってしまいました。というのも、もともと高校に入学した当時からいまいち学校になじめず、たまに仮病を使って休んでみたり、早退してみたり・・・、という傾向にあったからなのです。勉強もまったくしなくなり、成績もがた落ち。何度か追試を受けてなんとか上がれた2年生でした。でも、もう学校そのものを受け付けなくなってしまい、結局そこから長い長い引きこもりになります。そして、雪崩が襲って来たかのように、休み初めて1,2ヶ月で、ありとあらゆる環境が変化しました。まず、母親がC型肝炎で入院します。ということは、それまでやったことなどなかった家事全般を私がしなければならず、病院へも洗濯物を運ぶ日々。退院後も母は毎日注射を打ち、しんどくて起きあがることもできない様子でした。そんなことをしている内に今度は私の体調が急に悪くなり、もともと持っていたアトピーが見る見る間にひどくなっていきます。何人の人に“かわいそうに・・・”と言われたことでしょう。その内に食べ物が喉を通らなくなり、おそらく一気に7,8kgは痩せました。その後は、悪循環。私はついに家の中だけで生活するようになります。学校へは行きたくない、家事をしないといけない、アトピーのひどい顔を見られたくない・・・。そんな生活をしている内にうつになり、ついに外に出られなくなりました。そこからは、今思っても、それはそれはしんどい日々でした。2年間も毎日どのようにして過ごしていたのか、思い出せません。(私は一体どこに向かってるの?)つづく・・・↑いつもありがとうございます。もしよろしければ1日に1クリックお願いします。
2008/10/25
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また 一本 赤い糸が つながりました9/24の日記参照・・・1度目の高2の時の担任の先生とはあまり上手くいかず、そのまま音信不通。でも、2度目のO先生とは何か縁があったようで、ずっと年賀状のやりとりが続いていました。当時の私はうつで引きこもり。今は、この時に多発性硬化症MSになったのだと確信していますが、その時はひどい人間不信に陥り、誰との交流を持つことも拒んでいました。O先生が電話を下さっても出なかったし、書類を返信してほしいと言われても書類さえ書けない状態・・・。でも、O先生はいつでもどんな時でも優しかった「高校を退学して、予備校に通いながら大学入学資格を取って、ピアノの道に進みたい」と言った時も、とても応援して下さいました。大学を卒業する際のピアノの演奏会も、O先生にはどうしても見てもらいたかったので、招待状を送ったところ、快く来て下さいました。「よくがんばったなぁ」本当にO先生にはありがとうを何度伝えても伝えきれないぐらいですそんなO先生の顔がふと思い浮かんだので、お手紙を書いてみました。もちろん、多発性硬化症MSになって以来・・・。すると、早速O先生から“手紙を読んだ”とメールが届きましたまた少しずつメールのやりとりができればいいねとのこと。(わぁ~、めっちゃ嬉しい)(思い切って手紙書いてよかった~)↑いつもありがとうございます。もしよろしければ1日に1クリックお願いします。
2008/10/24
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なんでこんなに 息ができないの?私は高校生の時、不登校・うつになり、2年間引きこもっていた経験があります。あの時は、自分だけ他の人と時間の流れが全く違うような気がしていました。本当に時間が止まっているかのようにゆっくりで、どうやって日々を過ごしていたのか思い出せません不登校になってすぐの頃・・・。(明日は行くねん~。今日は休む~。)(すぐ行けるようになるから大丈夫~。)なんてことを考えていました。ところが、朝になると、やっぱり今日も、そして今日も、また今日も・・・、今日も・・・、今日も・・・。・・・。それがズルズルと1ヶ月になり、半年になり・・・。だんだん、学校のことを考えることもなくなっていきました。毎日のように電話を下さっていた先生からも音沙汰なし。その内、大事な書類が送られてくるだけになりました今の私にはこのブログという支えがありますが、あの頃の私は本当に孤独でした。何もなかったのです。今は週3日だけアルバイトをしているのですが、7月末からお休みをいただいています。やっぱり・・・、家にいるのはしんどいですね。(いつ復帰できるやろ・・・?)・・・あの頃には2度と戻りたくはないと思ってしまうのでした・・・。↑もしよろしければポチッとお願いします!
2008/08/25
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本当はね 認められたいだけなんだ私は高校生の時、引きこもり・うつでした。志望していた高校に入学したものの、この先どういう道に進みたいのかわからない。いまいち仲の良い友達ができない。勉強に身が入らない。もともと持っていたアトピーが急激に悪化。母がC型肝炎で入院。それと・・・。とにかく、いろんなことが重なってしまい、しんどくなってしまったのです。脳のMRIを撮った時に、おそらく中学生か高校生の時にできた炎症がある、と、主治医に言われました。たぶん、私が思うにこの頃のものでしょう。結局、2年間引きこもりました。うつになり、どうやって2年間も家で過ごしたのか思い出すことができません。でも、引きこもり経験者である私が言えることは、『ただ、認められたかった』それだけのように思います。時に、人間は、生きることに疲れます。でも、そんな時こそ、決して否定されるのではなく、丸ごとすべてを受け止めてほしいものなんですよね。「がんばれ!!」や「外に出てみない?」などという言葉は、前向きでいい言葉のように思われますが、引きこもりやうつの患者にはとても負担になります。“これでもがんばってるのに・・・”“なんでこのがんばりをわかってくれないの?”“今の状態が精一杯なんだよ・・・”なりたくて引きこもりになったわけではありません。自然とそうなってしまったのです。その時の私は、“ちょっとその場に立ち止まって、自分を見つめ直す時”だったのです。だから、もしご家族に引きこもりや不登校の方がいらっしゃるなら、「そのままのあなたでいいんだよ。」と、すべてを受け止めて認めてあげて下さいね。
2008/07/06
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