カフェ・ヒラカワ店主軽薄

カフェ・ヒラカワ店主軽薄

2007.01.15
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カテゴリ: ヒラカワの日常
なんか殺伐としている。
妹殺し、夫殺し、バラバラ殺人。
おそらく、そこにいたるまでには、さまざまな逃げ道、選択肢が
あったはずなのに、悪魔に魅入られたように、
最悪のシナリオにそって行動してしまう。
彼らが特に異常な性格の持ち主だったということはないだろう。
複雑な家庭環境、青年期の挫折、子供のころの文集の文章。
その中に、犯罪に結びつく因子があるはずだ。
いまだに、(ていうか、あいもかわらず)そのような

そのようなコメンテーターは、自分がたまたま、修羅場に
遭遇していないか、修羅場に至る前の段階で自己保身本能で
引き返したという幸運を拾ったに過ぎないということを
忘れている。

だからといって、かれら、お気楽なコメンテータの自己保身術は、
称揚されても非難される筋合いのものではない。
臆病であること、外界の異変に敏であること、自分の日常性を踏み外さないことは
生物学的な生存戦略としては、合理的なことであるからだ。
しかし、それを他人にも適応できると考えることは間違っている。
もし、かれらが、このような事件を少しでも減らしたいと思うなら
(実際は、その逆のようにも思えるのだが)

自分の精神の中をもう一度見つめなおすべきだ。

本意ではない保証人になって、にっちもさっちもいかなくなり
自殺にまで追い込まれるといった例はいくらでもある。
かれらは、徳政令が発布することを望むか、
あるいは債権者に対して殺意を持つかもしれない。

法律侵犯や殺意といったものに囚われることもある。
それが、機縁というものだろう。

人間というものは時に、どうしても自らの戦略上のフィールドの
外へ踏み出さなければならないような事態に、
自らの意思とは無関係に遭遇してしまうことがあるということだ。
それは、人間は自分ひとりで生きているわけではなく、
他者、あるいは社会との関係に規定されるように生きているからである。
いや、自分自身の中にさえ、人間は他者を飼っていると思ったほうがよい。
なんで、あんなことをしでかしてしまったのだろうと思った経験は
だれにでもあるはずである。
法の一線を越えて犯罪者になるのか、あるいは呪詛を内に溜め込んで
精神を軋ませるだけで終わるのかということの間の溝は
人が思うほど深いものではない。
人間の欲望とは一個の他者である。
半ばは自分が醸成するが、半ばは他者がこれを作り出している。
この欲望を亢進しようとするのも、制御しようとするのも、また
もうひとつの別の欲望に過ぎないだろう。

機縁とは何か。
今風に言うなら、フレームワークといってもよいかもしれない。
人間はひとつのフレームワークの中にいるとき、そのフレームが作った言葉で思考し、そのフレームが作った価値観でものごとを判断している。そのとき、そのフレーム自体は見えてはいないのである。見えてはいないが、人は欲望の赴くところによって、自分でも知らないうちに
そのフレームワークの外へ出てしまうことがある。

平和な家庭、仲の良い夫婦というのは、世間が作り上げたひとつのフレームワークである。
ひとりになって、自らの内にある欲望と対話している場所は、このフレームが消失している場所であるだろう。
かれにとって、平和な家庭こそが敵であり、仲の良い夫婦に割って入ってこれを破壊し尽くしたいと
思うことの方が自然なのだ。
この、世間のフレームワークの外側にも、言葉があり、思考がある。
もし、この種の犯罪が、有意に増加しているとするのなら、
それは、このフレームワークの外側にある、言葉や思考がやせ細っているということだと思う。
それは、経済合理性や、テクノロジーでは鍛えることのできない部分であり、
俺たちの時代が、ないがしろにしてきたもの、文学や、哲学の言葉に他ならないと
俺は思っている。






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最終更新日  2007.01.15 23:24:09
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