平成25年8月17日(土)
午前6時起床。晴れ。
昨夜は、午後8時過ぎ、床つきました。午前1時前に目が覚めました。冴えてしまい、起きました。喉が渇いてスイカをムシャムシャ。水も500ml飲みました。日記を書いたり本を読んだり。あれこれして、また眠くなりました。午後5時過ぎに横になりました。ということで、野菜の水やりに起きた妻に、後れをとりました。
朝のうちは新聞と本。楽しんでいたら、父からTELあり。客が来るからおまえたちも来て相手をするよういわれました。その人は旧制中学の時に机を並べた父の友人でした。
訪問時間前からそわそわしていました。道に迷ったのではないか、おまえを迎えにやるべきだった、家を判らないのかも知れない、とブツブツ。終いに、外に出て門に立っておけ、との命令が下りました。麦わら帽子をかぶって、梅の木の蔭で待ちました。15分遅れでやってきました。(右がその方です)
その人は、いやその方は私が魚市場に入社するにあたって、保証人になってくれました。父が、同級生のよしみということで、頼んでくれたのです。以下はその方のことです。
彼が学年一の秀才だったそうです。佐伯中学に在席したのは1年間でした。陸軍幼年学校を受験、成績優秀につき当然合格。(ちなみに父は不合格だったとのこと。私がまだ高校生だったとき、父に、受験の時に泊まった旅館の豆電球が眩しく、眠れずに思うような答案をかけなかった、と負け惜しみじみた話を聞きました。しかし、今日は、数学を白紙で出した、全く歯が立たなかった、とあっさり白状しました)佐伯を離れ、同校に入学。終戦は陸軍士官学校生でした。その後、某大学文学部に入学、在京のテレビ局を経て全国紙に入社。同社の発行する内容の堅いことで有名な雑誌の編集長をしました。新聞社を退職後、四国、続いて北陸の大学で教鞭をとりました。70歳を機に一線を退いたあとは、自適の生活をなさっている由。今回の帰省は、母の初盆と聞きました。父はアトリエにその方を案内しました。
おまえの肖像を描くんだと言って写真を撮りました。
前後しますが、私がセリ人見習いだった頃、何かと気にかけてくれました。銀座の「エスコフィエ」で白ワインにカシスを入れて飲むことを教えてくれました。お礼に東銀座にあった「次郎長」へ案内しました。そこで、つい先だって、ソルジュニーツィンが日本に来ていたことを打ち明けてくれました。お忍びだった、その後台湾へ向かったとも。そこのおあいそは私が支払うつもりでした。しかし、勘定は彼がしてくれました。新聞社にニュージーランド産の大きなマダイを届けたら、編集室に案内してくれました。雑多なフロアだったことを覚えています。他にも季節の魚を差し上げました。あるとき、長靴を履いて発泡スチロールを持っていったら、新聞社にポーランドの連帯、ワレサ議長が訪ねてきていて、遠目に彼の姿を見ました。ある日、中央線沿いにある自宅に招いてくれました。手製のローストビーフを馳走になりました。某女子大英文科の奥さんはクラシック音楽が好きとのことでした。話が合いました。彼女からは、前橋汀子のリサイタルに連れて行ってもらいました。娘さんが二人いて、紹介してくれました。どちらも知的で美しい方でした。
話を戻します。今日は、父とその方が久闊を叙す日でした。旧制中学の恩師や友人たちの消息、学徒動員による造船所の作業などを語りました。戦争の語り部をしている父の自慢話が始まると、話題は次第に先の戦禍へと向かいました。会話は次のような感じでした。
父:佐伯に海軍航空隊を誘致したのは痛恨の極みだった。当時は景気に湧いた。しかし戦争末期、軍港佐伯は爆撃を受け、50人近くが死んだ。寺に遺体を運んだ。悲惨さを身をもって知った。しかし、その航空隊が中国大陸への爆撃に関係したことを後になって知り、戦慄(わなな)いた。日本の重慶爆撃では6万人が死んだ。この仕掛けがこの地佐伯だったなんて・・・。
その方:この渡洋爆撃は、その後、英国がドイツに対しておこなった空爆の見本になったという点で戦争史に刻まれる。ドレスデンへの空爆は、日本の戦略を参考にしてのことだ。(私が、クリスタルナハトのことを持ち出すと、あれは爆撃とは関係ない、ユダヤ人に対するドイツ市民の打ち壊しだよ、と教えてくれました。スミマセン)それにしても佐伯にある平和記念館はよろしい。
父:某のカバンなども展示したらいい。某はヒトラーのベルリンオリンピック、水泳に出場した。その時持っていったカバンだ。某はその後、南洋に散った。持ち主の栄光とその後の不如意を語るそのカバン、今も駅前の菓子店にあるんだ・・・。
その方は、北陸の風土と生活、歴史と文化に対するものの見方、サッカーの役割、マスコミのあり方などについて、話してくれました。妻も母も興味津々でした。私には、仕事の仕方について。人に理解・協力を求める際は実際に会うことが大切なんだそうです。その人が東京にいたら、旅費はかかっても実際にそこまで行って面会するべしと。そして、求める人はその道の専門家でなくてはならないとも。は私の立場を思ってのアドバイスでした。最後に、絶対にしないといけないことは、他のことを捨ててでもやるべしとおっしゃいました。なんだか、腹の底を見透かされたような気持ちになりました。
楽しい時間はあっという間に過ぎます。妻が冷えたスイカを切りました。父が自分の作ったものだというと、君のこさえたものをいただいて、これでもう満足だ、とつぶやきました。何とはなしに目が潤んでいるようでした。午後2時前、見送っての後、「もう帰って来やしまい、最後だわな、手に注射針の跡があった、病気をしているのだろうか」つぶやく父も寂しそうでした。
閑話休題。夕方、運動公園へ。今日は陸上競技場の中を走りました。タータンのトラックはいい感触でした。5kmジョグして汗をかいた後、300mのインターバルを5本。1本67秒前後でした。その後に1,000mのタイム計測をするつもりでしたが、心が折れました。1人練習だと、こうなってしまいます。
元オリンピック選手成迫健児選手が練習をしていました。彼は、北京五輪の400mハードルに出場しました。5月末だったか、拙宅へ梅取りに来ました。私を覚えていてくれ、梅酒が漬かった、美味しい、と声をかけてくれました。練習を再開できるようになった、元の調子に戻りつつあるとも。怪我をしていたのかな。
今日の一句
照りつけて叙す久闊は七拾年
語るなと渡洋爆撃知らずして
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