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おぇー。寝不足と疲労で吐きそ。昼過ぎに高知まで往復して帰ってきました。ほぼ丸二日で走行距離約1900km。おまけに荷物を積んで運んで下ろしてという作業が挟まってる。しかも初めての2tトラックの運転。と言っても、荷積みは母に手伝ってもらい、下ろす時は農業研修先の渡辺さん夫婦とその友人らしき方の手も煩わせたので実質的には私は補助的な労働しかしてないような感じではありますが。ま、しんどいのは睡眠不足とちゃんと布団で寝てないからだな。なんて言っても今回は車泊用の布団すら準備してなかったし。更に千葉に戻ってきてからも昨年12月の事故で修理に出していたマイカーを取りに行ったりしていたのであんま休んでない。お陰でなんとなく時間的・空間的な感覚がおかしいような気がする。実感がないというか・・・・・・あ、まさか今度こそほんとにアチラの世界に行ったかね?明日、目覚めた時に自分の身体を天井付近から見下ろしていないよう祈るのみ。アーメン。マイNRCT(ニッポンレンタカーのトラック。って、疲れてるくせに俺ってなんてめんどくせーヤツ)「ねはんの里」
2010.01.31
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ご無沙汰してすません。いよいよ明日です、お引越し。ずっと家にいるのをいいことにブログ書くより引越しの準備だろ、と優先している内に今日になってしまいました。お陰で今回は準備、ほぼ完璧。普通はやりたいことを10くらい残して引越しを迎える訳です。ま、ボクにしてみりゃ珍しく黙々と荷造りに励んでいる間中オモロイ事ばかり考えて一人でニヤニヤしてたんだけど、全部忘れました。うん、残念。ブログに書こうと思ってたのに。ま、追々思い出すでしょ。で、今回は自分で引越しするということなので、レンタルしたトラックを返さねばなりません。あわよくば高知県まで行き荷物を下ろした後トラックに向かって、「後はよきにはからえよ」 とか言ったら、「ガッテンでさぁ、旦那。あらよっと」 なんてことにはきっとならないから自分で寝る暇もなくとんぼ返りで空っぽになったトラックに高知県山間部の新鮮な空気を詰めて900kmもの道のりを逝ったりキタリしながら帰って来ますよ。だから明日が引越しでサヨナラという感じじゃないんだよねぇ。でだ、引越しの準備してる時に荷物の仕分けをしていたら、なんとJCBのギフトカードが3万円分も発掘された。こりゃ今使うしかなくね?と思って欲しかったギターを、なんと、3本も買ってしまった。内訳は、クラシックギター1本、アコースティックギター1本、アコステミニ1本、という内容。ちょっとだけ足が出たな。安いものばかりだったんだけどね。さ、ともかくこれで引越しの準備完了。後は明日、載せて走り、また戻ってくるだけだ。新しい旅の相棒。アコステミニ(通常弦長65cm→58cmのミニ仕様)↑コイツ小ぶりの割りに音は結構大きいし、クラシックギターのような籠った感じのいい音がする。おまけ。↑引越し準備で出てきたネックウォーマーで遊んでいる赤いおっさん。(何してんだ、オレは)高知県の皆さん、あさって土曜日にヘンな奴がトラック乗って逝きますんで気をつけてくださいね。ボクのアホはうつるので・・・・・「ねはんの里」
2010.01.28
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昨日暖かかったので今日は寒く感じるなぁ。なんと!気が付けば来週末はもう引越しでねーべか(何弁だこれ?)、という感じで今週のボクはこれが人生最後の上り坂なんじゃなかろうか、てなくらいに忙しい。なんてったって毎日やることがあるのだ。これまでアホウのように何もして来なかった中年のおっさんにとっては充分に忙しいのだ。お陰で頬はこけ、ベルトの穴が3つも短くなり、そして目はうつろに・・・・なんてそんな訳はないんだよ、もちろん。予定では1月29日の昼にNRC(ニッポンレンタカーね。ま、そう略すのかどうかは不明だが)でトラックを借りて来てその日の夕方までに荷物を積み、そのままエンヤーコーラヤーと夜道をドリフのノリで高知県まで走り続け、翌30日の午前中にヨッコラセと荷物を下ろし、午後には再び千葉県へ向けてスットコドッコイってなモンだーとヤケクソになって来た道を迷走しながら帰ってくるという、エベレスト無酸素登頂並みのハードスケジュールだ。(絶対そんなことねぇ) そして人生初の完全自己完結型お引越しとなる。かー、たまらんぞ、これ。あ、全然関係ないんだけど、アイルランド人の歌手でエンヤって居るけど、ボクは本気でドリフのエンヤーコラヤーのことだと思っていたんだ。大学2年生まで。友人 「エンヤって、心が震えるよねぇ」ボク 「うそっ!?それって、いかりやの下唇が震える、の間違いじゃね?」 みたいな。ともかくだ。31日の19時までに千葉駅前のNRCへトラックを返さなくてはならない。走れメロスな勢い。(ラップ調で) ♪オマエ間に合うのか?メロメロス!♪ ♪オレはトラック運転、ヘロヘロっす ♪ とか、まぁそんなノリで。「よくわかんねーけど、楽しくなってきたぞー」 と、叫んでみた。(まるでツイッターな感じだな)そうそう、くだらねぇ前置きはどうでもいいんだよ。札幌冬物語で紹介しなかった写真が少しだけ残っているので今日はそれを紹介してお茶を濁してしまおうという魂胆ですよ。まだ楽しかったあの頃。2日目の夕方。コズエねー様のマンションで兄貴の子供、甥っ子達と遊んでいた。コズエねー様のお飼いになっていらっしゃるお犬様。その名もチビ。って随分ええ加減なお名前ですこと。オホホ私が高級ソファ(かどうかは知らないが)に掛けて優雅にテレビジョンを観賞していると、いつの間にか甥っ子達がボクの後ろに廻っていてそれをばーさんがパチリと。って、コラッ。アホの団子三兄弟の親玉みたいになっとるやないかい!コズエねーさんのお兄さんの子供(女子3名)と甥っ子達が仲良く遊んでいる。彼らの関係は・・・・・・ハトコ?この日の帰り道。北大校内にて。夜10時過ぎに北大を北→南へと徒歩で縦断した。なんと20分も掛かるのだ。夜の雪道を歩きながら弘前城公園の雪燈篭祭りを思い出していた。夜9時まではライトアップされているのだが、私が訪れるのは毎年部活やバイトを終えた9時を過ぎてからだった。雪明りの中、寒さでキリっと締まった雪を踏みしめる、キュッ、キュッ、という音だけが響いた。そして雪燈篭のロウソクは消えかけ。そのせいか、とても質素で地味な雪祭りだった印象が強い。ああ、雪には懐かしい思い出がたくさんあるなぁ・・・・・・と感慨にふけってツルツルの雪道を歩いていたら後ろから甥っ子達に雪玉をぶつけられた。こ、こいつら。折角のおじさんの感傷タイムを邪魔しおってからに。すっかり同類にされてボクは大喜び。滅多に逢えない甥っ子達と仲良くなれたのは大きな収穫だ。これから思春期になる君達へ辛いことがあったり、一人になりたい時は、いつでもおいで。君達を人間として尊重し、そして静かに、温かく、何も訊かずに迎えよう。辛いことがあれば、話してくれたら一緒に泣こう。悔しいことがあれば、話してくれたら一緒に悔しがろう。淋しい時があれば、君が一人じゃないということを思い出させてあげよう。それが仲間というもの。高知の深い山の中で ニヤニヤとネタでも考え 鶏さんや牛さんに笑われながら 待っているゼヨ。迷子のおじさんより「ねはんの里」
2010.01.22
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続きから。翌朝。1月11日。連休最終日。成人の日。朝8時頃母親から携帯に電話がある。親父の意識が戻り、今朝ごはんを食べ終えた。朝一で病院に連れて行きたいのですぐに迎えに来て欲しいとのこと。昨夜は兄貴の家族はみんな早めに寝たので今朝は8時に全員起きて来た。兄貴に電話があったことを伝え、すぐに2人で両親を迎えにコズエねーさんのマンションへ向かう。マンションに入ると廊下の壁に手をつきながらヨタヨタとオムツ姿で歩いている親父と目が合った。親父の顔は、体内の毒素と共に邪気も消えてしまったような純粋な表情で照れ笑いを見せた。こんな無邪気な顔の親父は見たことがなかった。この父親なら今までの家庭内での悪行の数々を信じる者は誰もいないかも知れない。特にここ十数年、我々子供達が実家を出てからの親父の行動はまるで悪人そのものだった、という報告を母から受けている。浮気をしてバレると母を殴り、蹴った。自分の給料を生活費のためには一切入れず好き勝手にばら撒くように趣味や愛人に散財。退職すれば自分の退職金は全く相談なく今経営する店の立ち上げにつぎ込み、それでも足りず母の退職金の殆どを勝手に使い切った。その結果立ち上げた店の仕事のほぼ全てを母にやらせ、自分はやりたい時に陶芸をして楽しみ、陶芸の道具や資材を欲しいだけ気ままに購入する。経営なんてクソ食らえだ。そして気に入らないことがあれば未だに、不自由になった足を引きずりながら自作の陶器を振り上げ母を殴る・・・・・こういう経緯があるのでこの夫婦には愛情なんて呼べるものはない。あるのは妻を母親代わりに甘えるマザコン的精神依存と、その暴力と恫喝による現実から生活の忙しさへと常に逃避する妻の姿。こう書くと母親は単に被害者と思われるだろうが、それは違う。彼女の罪は愛のない夫婦関係を続けたこと。これは子供達に対する明確な罪である。そして最大の罪は我々が幼い頃、親父に殴られたり脅されたりしている時に、それを見て見ぬ振りをして逃げたことだ。だから私から見れば母は立派な共犯者、加害者である。もし、私が母の立場なら自分がどんな目に遭わされようとも子供を守り、そして一緒に逃げたに違いない。そんな母は今回もやはり現実から逃げた。今回の親父の異変ににいち早く気付いていたのは母親だ。それも年末、私の兄弟達が帰省して来る前にだ。私も薄々親父の体調の変化に気付いていたので、前回救急車で運ばれた時の経験から母にその時はっきりこう言った。「早く病院に連れて行かないと大変なことになる。兄や妹にだけでなく孫までをも巻き込むことになるし、年末年始で病院も閉まっいたらどうするの?」それでも、父を病院に連れて行く努力を母はしなかった。この人は人と真っ向から向き合って議論したり説得したり、ということを避けて生きて来たのだ。ともかく難しい現実が突きつけられるとその場から逃げてしまう。タイプは違うものの、これでは人の話を無視したり、力や言葉の暴力で抑圧する親父と実質的に同じではないか。だから我々兄弟達はこの暴力と現実逃避に呪縛されたこの夫婦をお似合いのカップルだと言うのだ。続きに戻ろう。朝一で、祝日の当番医であるやや大きめの病院へと連れて行く。この日も点滴を打ってもらい、すっきりしたらしい。そして医者から怒られたそうだ。「こんなに肝機能が低下しているのに旅行だなんて、自殺行為だ。そもそも担当医の許可を得たのか?」この夫婦は自分らの体調管理不行き届きが周りにどれだけ迷惑がかかるか、なんて考えたこともないだろう。それを知る上でも今回の旅は親族、とりわけ従姉のコズエねーさんと兄貴には莫大な迷惑を掛けたけど、有意義だったと思う。母にとっては残念だろうが、この問題はこれまで積み重ねてきた夫婦の問題の集積だと私は分析している。だから我々は客観的に遠くから見守ることにしよう。私は運命論者なのでこう思う。この夫婦の場合、今世で生まれて巡り合ったのはきっと依存と逃避の関係の解消という試練を乗り越えるためではないだろうか。つまり、母の場合は若い頃に現実に向き合えば親父に精神的依存を断ち切るチャンスを与えることができて、お互いに精神的に進化したかも知れないのだ。だがその機会を逃した。そして最後は夫婦2人きり。逃げることはできない。更に自分を暴力で抑圧した人への介護の問題も出てくる。母よ。「しっかり生きろよ」札幌冬物語、完。「ねはんの里」
2010.01.21
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続きから。これ以後は楽しいことじゃあないんだよ。あるのは、病気と、醜態と、嫌悪と、憂鬱と、それだけです。家族の実態が少しでも描ければいいな、と思います。言うまでもなく特殊な家族です。では。前にも簡単に触れたのだが親父はB型肝炎が慢性化して肝硬変となり、近年では肝性脳症という症状を引き起こすようになっていた。肝性脳症というのは肝臓の機能低下による意識障害である。肝硬変が進行した場合や劇症肝炎などの重篤な肝障害によって引き起こされる。血中の毒素が高まり脳の意識障害を起こすのが特徴である。自分のために症状をまとめておこう。昏睡度によって通常以下の5段階に分けられるそうだ。I:睡眠リズムの逆転、多幸感又は抑うつ状態、だらながない、或いは周囲に対する無関心など。 II:指南力の障害(時・場所を間違える)。物を取り違える。異常行動を起こす(例:お金をまく、化粧品をゴミ箱に捨てるなど)。 傾眠状態(呼びかけにより開眼し会話できる)。無礼な行動があったりするがまだ医師の指示に従う態度を見せる。III:嗜眠状態(ほとんど眠っている)になる。興奮状態又はせん妄状態(意識が混濁して錯覚したり興奮や錯乱してまとまりのない行動をする)を伴い反抗的な態度を見せたり暴れたりする。外的刺激に対しては反応して目を覚ます。医師の指示に従わない。 IV:完全に意識を消失する(昏睡状態)が、痛みに対しては反応する。 V:すべての刺激に対して反応しなくなる(深昏睡状態)。これらを踏まえておく。実は前回著しい肝性脳症を発症したのが昨年5月のことだった。この時は全裸になり外に出たり冷たい風呂に入ろうとしたり、という症状があったことから考えるとレベル3まで進行したと思われ、手に負えず救急車を呼んだ。それでは、続きを。明けて9日。札幌二日目。この日私は午前中、兄貴の入会している市民のバドミントンサークルの練習に参加させてもらうことになっていた。私は中学3年間をバドミントン部に所属していたのだ。母親も参加したいとのことで両親を迎えに行き、兄貴の一家4人と千葉から行った3人を加えて総勢7人で区民センターとやらに行く。兄貴の子供2人と親父は図書館で時間を潰している。この時はまだ親父は若干おかしな言動であるものの、指示には従うし行動も共にすることができた。だが、誰が見ても元気がないことは明らかだった。それでもまだ危篤状態には見えなかったので自分達の行動を優先させていた。恐らく上記のレベル1状態からレベル2へと移りかけていたようだ。2時間半の練習が終わり、みんなで昼食を食べに行くことにした。この時もショッピングモールの中をゆっくりではあるが自力で歩き、そして一緒に、かなりゆっくりとラーメンを完食した。後で聞いたところ、この時のことは記憶にないらしい。この日の夕食は両親が宿泊しているコズエねーさんのマンションでコズエねーさんの兄一家も呼び皆で楽しい晩餐会を予定していた。私は兄の家族と共に17時頃、コズエねーさんのマンションを訪れた。親父の状態は、この時既に放っておくと椅子に座ったまま眠りこける状態だった。だが、肝性脳症の危険性をこの時はまだ誰も気付いていなかった。元気な時の親父は未だにうざったくからんできたりするので、みんな静かで良いくらいにしか思わなかったのだと思う。私もコズエねーさんの飼っていらっしゃるお犬様と遊んだり兄貴の子供2人と無邪気にも遊んでいた。そしてついに夕食の時間となり、親父はその場の注意を集めることとなった。親父は肝炎の他に糖尿やら高血圧やらを患っており食事前に幾つか薬を飲んでいる。この旅にも当然薬を持ってきていた。だが、その薬がどれも違うと言ってテーブルに並べては端に置き直し、ということを繰り返して一向に飲もうとしない。更に硬い割り箸を細かく折ったり、箸袋の紙を食べたりし始めた。この状態がおよそ2時間以上も続いた。さすがにその場の空気が凍り始めこのままではまずいということから、親父の姉さんに飲ませているという睡眠導入剤をどうにか飲ませ、半分強制的に寝室に連れて行き寝かせた。今の私ならこの状態がレベル3であることが分かるのだが、この時はまだ本当に全然知識がなかった。従ってこの状態なら絶対に救急車を呼ぶべきだったと思うが、寝かせたことで安堵して兄の家族と一緒に北大の校内を縦断して徒歩約20分の兄のマンションへと皆で楽しく歩いて戻った。明日様子を見て病院に連れて行こうということになっていた・・・・・こうして一晩過ぎて親父の症状はレベル4へと移行していた。明けて10日。母から朝8時頃電話があり、昨晩親父が失禁したと報告を受けた。そしてずっと眠ったまま意識が戻らず呼びかけても起きないという。昏睡状態。それでもまだその内起きて意識を取り戻すと期待していた。親父の姉の掛かりつけの医者に連絡は取ってくれていて、病院に連れて行くタイミングを見計らっていた。昨夜兄のマンションに戻ってから深夜2時過ぎまで酒を飲みながら親父のこと、母のこと、我々の育った環境のこと、また、今後について、兄と奥さんと私の3人で真面目に語り合っていたのだ。よって皆が起きて来たのは9時半頃。昨夜のように兄弟で真面目な話し合いができたのは親父の病気のお陰と言えば都合が良過ぎるのだが、有意義であったことは間違いない。しかしもう一度現実と向き合わねばならない時が迫っていた。10時半過ぎ。ようやく朝食を済ませ全員でコズエねーさんのマンションへ。親父はまだ昏睡状態だと言う。医者と連絡を取って午後に病院へ連れて行くことにした。何度も失禁して布団を汚した。そんな親父がオムツをつけられる様を見下ろしながら思っていた・・・・このだらしない人が我々子供達をシツケの名の下に恫喝したり暴力を振るったり虐待した人なのだ。今は昏睡状態のただ憐れな老人であるが故に、それを目の当りにすると過去に受けた仕打ちの記憶が溢れ出て来て、なんとも許し難いという気持ちと良心や道徳心との静かな葛藤の時間が続く。勿論これは私だけの経験ではなく、我々家族は全員自分でも驚くような自らの心の汚れと向き合っていたのではないだろうか。こうして静かで気だるい時間が過ぎ、遅めの昼食を摂り終えると14時になっていた。早いところ病院に連れて行き事態を打開したかった。なんとか車椅子に乗せて小さな個人病院へ着くと救急扱いですぐに病室に運ばれベッドに横たえられた。どれくらいの時間が流れたのか。小さな待合室では誰も話すことなく、我々も押し黙って、ただ時間が過ぎて状況が変化するのを待っていた。日曜日の午後、この小さな個人病院には風邪と思われる症状で来院する人達が入って来ては沈鬱な表情でベンチに座って待ち、診察を終え薬を貰うと少し明るい顔で帰って行く。そんなことが何度も繰り返され、いつの間にか弱い日射しの太陽が傾いていた。ようやくベッドに付き添っていた母親が出てきてこれから点滴を打つから終わるのは17時過ぎになると告げる。時計は16時過ぎ。私と兄は一旦戻り出直すことにした。1時間後、母からメールがあり終わったから迎えに来てくれと書いてあった。兄と再びすぐに向かう。意識はまだ戻らないが点滴を2000ccも打って最善の処置はしたので今日はこのまま寝かせて明日、大きい病院の救急に連れて行くようにと看護師さんに言われた。心なしか昏睡状態の親父の顔から険しさが消えたようだ。それを見て私は心の中でただ一言呟いた。「しっかり生きろよ」ホンの少し、子供を励ます親のような気持ちになれた気がした。続く。「ねはんの里」
2010.01.18
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札幌での宿泊先は市内に住む私の兄とコズエねーさんの両家のマンションに我々3人が分かれて泊めてもらうことになっていた。というのも客用の布団がそれぞれ二組ずつしかないという理由からだ。とりあえず私が初めの二日間を兄のマンションに泊めてもらうため途中で下ろされた。両親はそのままコズエねーさんのマンションへ。そこで親父とその姉が対面することになっていた。それが今回の旅の目的の全てであったのだ。しかし。。。一方私は昨年3月にも泊めてもらった兄のマンションへ。とは言え彼らは1月3日まで千葉の実家に居たので再会の感動は残念ながらない。子供達とももう結構打ち解けている。とりあえず荷物を置いて相棒の黒いガマガエルジャケットを脱ぐ。兄と奥様の理佐子さんは2人で夕食の仕度をしてくれている。この家にはピアノがあり、子供2人は今習っている最中ということで、夕食の準備ができるまで代わる代わる弾いて見せてくれた。まず、ミズキちゃんから。そして、タカキくんも。ちょっと渋いな、その薄暗さ。ま、何にしても楽器が弾けたり歌が歌えたりするのは人生を楽しむ大きなツールとなることに間違いない。因みにボクはギターと歌唱を同時に楽しむ欲張り屋さんの弾き語り派だ。(人前ではあんまやんないけど)ああ~ 日本のどこかに~ 私を待ってる人がいる~♪ (byいい日旅立ち)ときたもんだ。(いねーよ)ま、いいや。ん?食卓の片隅にヘンな物があるな。壊れかけのRadioじゃなくて、壊れかけのお菓子の家だ。クリスマスに作ったんだと。なんでもこういうキットが売ってるらしい。ほぉ。左側に誰か倒れているな。更に写真では見えていないが、反対側の家の窓からはちっちゃいオッサンがこそっと覗き見しているという何気に土曜ワイド劇場チックなドラマ性をはらんだ優れものだ。(多分おっさんじゃないと思うが)そしてふと傍らの棚の上を見ると最近話題沸騰(?)のロシア名物の木製人形、その名も、マトリョーシカ を発見。テーブルに並べてみる。そういやこの前朝の連ドラ「ウェルかめ」で亀の形した巨大なこの人形が登場してたな。この人形は木でできていて、真ん中辺りでパックリと半分に分かれて人形の中に人形が入っていて、その中にまた人形が・・・・・というように幾重にも人形が重なっているのだ。あ、そんなこたぁ知ってますか。でもそのマトリョーシカの名前の由来は知らんやろ。その昔、中世のロシアではハンティングが貴族の間で流行っていた。いわゆる狩猟ゲームという奴だ。そんなある日、海辺でハンティングをして遊ぼうという貴族の一行が居た。貴族達は、俺はアザラシ、私はカモメ、ボクはカマイタチ・・・・などとそれぞれにハンティングの「的」を決めて行った。そんな中、人を人とも思わぬある横暴な一人の貴族が近くで魚を釣っている「漁師」を指さした。みんなはどよめく。誰か彼の正気を確かめてくれ、という空気を察してある者が訊ねた。「正気なのか?お前の的、漁師か?」 それ残酷じゃね?ということでせめて木製の人形の中に入れてやり漁師の命を助けたことからその名がこのタイプの人形に付けられたのだ。「マト、リョーシカ?」 みたいな。・・・・・・・うん、自分で創っておいて言うのもなんだが、余りにもくだらねーな。ともかくだ。夕食にはその助けられた漁師が釣ったという(んなバカな)、北海道産の脂ののったジュースィーなホッケの塩焼き、そしてご当地で有名な何処ぞの餃子を焼いてくれた。どちらもとっても美味しかった。ごちそうさま。お食事の後は持って行った、羽田空港で購入したお菓子などを広げておやつタイム。ミズキちゃんとは正月の時よりも仲良くなれたようだ。良かった良かった。親子の協演会などをしている内に夜は更けて行く。相棒が背中で語っている。「せめて今日だけ楽しんだらエエがな」 (なんで妙な関西弁やねんて)思えばこの時既に親父の意識は半分消えていたらしい。続く。「ねはんの里」
2010.01.17
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その予兆は年末、兄弟達が千葉に帰省する前から見えていた。私の親父はおよそ18年前の秋、私が浪人をした年にB型肝炎を発症した。この肝炎はほぼ一過性のもので、感染者の内70-80%が肝炎を発症せず自然治癒する。残りの20-30%が急性肝炎を発症するものの殆どの人は治癒する。しかしその中で更に1-2%の人が劇症肝炎を発症し慢性化する。つまり慢性化するのは極めてレアケースなのだが、その稀有な人が私の親父という訳で18年経った今も数ヶ月に一度肝炎を発症しては肝機能が低下し、肝性脳症と言われる意識障害を引き起こしているのだ。B型肝炎はHBVというウイルスが感染することにより発症する病気で、感染経路は大きく分けて3つある。最もメジャーな感染経路が母子感染。出産時に産道の血液を媒介して感染してしまう。この母子感染患者の場合、その後発症はせずにウイルスは潜伏を続け、発症するのは免疫機能が発達する思春期-30歳頃のことだ。この感染は母子二代に渡り感染することから垂直感染と言われる。それ以外の二経路が垂直に対し水平感染と言われ、世代をまたがない感染である。この原因の一つ目は輸血・臓器移植・注射器による、いわゆる医療事故によるものと、刺青やピアスの穴あけによるものだ。日本では昭和20年頃から幼児期の集団予防接種における注射針の使い回しにより感染が蔓延したとされるが、昭和63年頃以降は予防接種による感染は起きていない。最近、民主党の福田衣里子議員により有名になった薬害肝炎と混同しそうになるが、あれは血液凝固因子製剤、フィブリノゲン製剤によるC型肝炎(HCV)であってほぼ感染経路は明確である。そしてB型肝炎の最後の感染経路は性交渉によるもの。つまりSTD(性感染症)と言われる感染である。近年の日本で最も多いのがこの感染経路と言われている。私が高校生の頃、友人の親父がマレーシア旅行の2、3ヵ月後にB型肝炎を発症して笑い話となっていた記憶がある。そう、B型肝炎と言えば風俗遊びの代償としての性病としての知名度が高いのだ。親父の場合、自分では薬害訴訟を起こすなどいきがっているがこれはC型肝炎なのでお門違い。発症年齢が47歳なので母子感染はほぼあり得ない。予防接種などによる医療事故による感染は昭和63年頃までだから発症したのが平成3年では潜伏期間1-6ヶ月と言われるHBVの特徴からあり得ない。勿論輸血や臓器移植なども行っていないし、ピアスや刺青もない。・・・・・と、いうことは??羽田空港を15時丁度に出発し、新千歳空港に到着したのは予定通り16時半だった。空港には親父の3人兄弟の一番上の姉の娘、3月の北海道遠征でも会ったコズエねーさんがわざわざ車で迎えに来てくれていた。今回札幌を訪れた理由がコズエねーさんの母、つまり親父の姉に会うためだった。彼女は難病アルツハイマーを患い近年はコズエねーさんのマンションの一室のベッドの上で完全介護の生活を送っている。親父も最早その肝機の能低下によって旅行をするのはこれが最後になるとの予想の下、最後の親孝行としてお供したという経緯である。ともかく新千歳空港に着いた。まだ17時をまわったばかりというのにこの暗さ。外に出ると久しぶりに気持ちが一瞬で引き締まるような凛とした寒さが顔をさす。それにしても噂通り雪少ないな。でも久しぶりの雪。私は学生時代、弘前に住んでいたので雪には懐かしい思い出がたくさんある。そんな思い出を楽しんでいる間にも刻一刻と病魔が親父の意識を蝕んでいたのだ。「ねはんの里」
2010.01.15
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さて、どこから書いて行きますか。昨日は一日何もやる気が起こらず少し雑用をこなしただけでゆっくりと休みました。それだけ疲れたということですかね。今日は12月の事故の現場検証ということで2時間ほどおまわりさんと、事故相手と、で事故の現場で検証を行いました。相手の過失が大きいので、まず相手が呼ばれて事故の状況を説明します。その内おまわりさんが相手に「あなたが言っていることは矛盾だらけだ」と声を上げて説教するのが聞こえてきました。私も呼ばれて話を聞くと、相手の方の言い分では、彼は注意義務を怠らなかったので事故などどうして起こったのがまか不思議。横からぶつかっておきながら自己責任を回避しようとの意向だ。なんと、気付いたら一瞬の内に私の車が目の前を横切ったのでぶつかったのだ、と言っている。まさに支離滅裂。そんな彼はもう35歳のええ歳こいたおっさんだ。うん、駄目だこりゃ。これは長引くねぇ。ま、そんな話は置いておこう。ともかく連休の北海道への旅のことを書かなくちゃ。1月8日朝8時過ぎ。天気は晴れ。気温はやや低め。東金発羽田空港直行のバスに合わせて両親を車に乗せて東金駅へ向う。8時55分予定通り東金駅からバスが出発。このバス、アクアラインを通って高速で羽田空港へと向うのだが料金は1800円と格安。そのためか乗客は我々3人と他5名ほど。思ったより多い。途中内房線の五井駅に寄り乗客は更に15名ほど増えた。その後も順調で予定通り10時半に第二ターミナルへと到着。今回はANAの便なのでまだ真新しい雰囲気の残る第2旅客ターミナルビルへ。と言っても出発の便は15時発の新千歳行き。なんと4時間半も待たねばならないのだ。それもこれも足が不自由な親父のために本数の少ない東金⇔羽田の直行バスを利用することになったからに他ならない。ともかくまずは喫茶店で時間を潰す。滅多に喫茶店など行かない母親は間違ってエスプレッソを注文し、苦い苦いと言って水で薄めて飲んでいる。それじゃぬるいアメリカンだぞ。11時過ぎ。やることもなく時間を持て余した親父の意見によりお腹も空いてないのに隣のとんかつ屋へ移動し昼食。12時過ぎ。レストランを出る。我々には食事をゆっくり摂る習慣がないのだ。仕方ないので早々に搭乗手続きを済ませ搭乗口付近のベンチで休むことに。手荷物検査で母親の荷物がチェックに引っかかりアタフタしている。格闘の末、ヘアスプレーが2本荷物の奥深くから発掘された。 搭乗口へ。第2ターミナルのベンチからは飛行機が綺麗に見える。早速特等席の最前列へ移動。暇なので目の前の飛行機をパチパチ撮ってみた。羽田空港の眺め。鮮やかな飛行機。ああ、東京湾が青く輝いて見えるよ。羽田沖の東京湾って言ったら釣り船から見ている印象が強い。でも、その釣りももう1年以上も行ってないなぁ。東京湾で釣りをすることなんてこの先再びあるのだろうか・・・・・じーさんとばーさんも久しぶりに目前の巨大な飛行機を見て楽しそうだ。この時はまだ正常だったんだ、このじーさん。僕の相棒、ごっついライダースジャケットは空港の室温の高さにヘタリ気味。アホな黒いガマ蛙が潰れたみたいになっとるな。(アホは余計だ)出発前、黄色いピカチューが目の前を横切った。それはまさに翌日から起こる異変を警告するかのように・・・・・・続く。「ねはんの里」
2010.01.14
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3時間前に札幌から飛行機で戻りました。今回の旅は半分予期していた事件が順調に起こり、そして私たち親類、特に家族が色々考えさせられる経験を味わったと思います。旅としては決して楽しいものではなく、私の旅行記としては珍しく珍道中にできるかどうか分かりません。ま、書きたいこともよくまとまっていないのですが明日以降、感じたことを素直に書いて行ければと思います。今日は疲れているのでもう休みます。とりあえず今回関わってくれた全ての方へ、御礼と感謝を申し上げます。「ねはんの里」
2010.01.12
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ああ、いよいよ明日だよ、札幌逝き。そういや昨年の3月にも某大富豪農場の就職面接で訪れているんだよ。時が流れるのは早いものだ。なーんにもしていないのにもうあれから10ヶ月が経とうとしている。そう言えば同じ時期に島根の隠岐諸島の海士町という所にも行ったんだった。あの直後のテレビで女優の田中美佐子が海士町出身だったと知って驚いたものだ。海士町美人多いんだ・・・・と。美人と言えば同じく面接で来ていた女の子も美人さんだったなぁ。あ、でも小豆島出身とか言ってか。小豆島美人さんやぁ。ってなんか彦麻呂っぽいな。おしるこ喰って、「あずき美人さんやぁ」みたいな。ん?全然関係ないか。ともかく美人さんの話なんてしても縁のない話で、しっかりと現実を見据えなさいよと。そうそう、あの時は春先だったが、今は厳冬期なのだぞ、北海道。この温暖な土地、千葉のいなかっぺ大将そのまんまな格好で、いなかっぺ大将↓・・・・・そんな格好でロシアやアラスカよりも寒いと評判の北海道に行ったらまず即死はまぬがれまい。ならばいずれ死ぬにせよ、せめて自分の持っている一番温かそうな服装で逝こうではないか。ということで選んだのがライダースジャケット。こう見えてもちょっと前まで1000ccオーバーの大型バイクにまたがるおっさんライダーだったのだ。(現在引退)その中でも特にゴッツイモデルを出す(と思っている)kiss racing の更に厳冬期モデルのジャケットを持っていたのだ。写真はお預け。妄想でお楽しみください。肩パット入りまくりで、吉川晃司か全盛期の高樹沙耶か、はたまた浜田麻里か、というくらいのいかり肩になれます。え、浜田麻里は生まれつき?生まれつきの「いかりや長介」だって言うのか? だみだこりゃあ~(って絶対怒られるぞ)ともかく更に両親の荷物も持つ場面も出てくるに違いないと思って私の荷物は歩き遍路に使ったグラナイトパック30という登山用の大きいザックに詰めた。この組み合わせは・・・・・うん、このいかり肩と物々しい感じはまさにコイツのような感じだ。「ガンダム」「アフロで逝きます!」 (いや行かねぇて)ともかく真冬の札幌で、逝って Q「ねはんの里」
2010.01.07
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4日の昼に妹が沖縄に帰り我が家にはまた老人2人と私のみが残された。その私もひと月後には引っ越す。その時残されるのは老人2人のみ。現代日本にありがちな老人のみの世帯に戻る。何故日本はこうなってしまったのか?答えは「ありのままの自分」という記事でも触れたが、簡単なことだ。日本の高度経済成長期は1955年から1973年までの18年間である。この頃生まれたのは今の年代で55-36歳の人達で、その親の世代はまさに今の65歳以上の高齢者達だ。この、私の親位までの人達の特徴は毎年給料が増えるのが当たり前だと思い込んでいる。そして経済成長こそが人間の幸福に直結すると信じてきた。更にその経済成長を支えるのが学歴で、会社に入れば学歴さえ高ければ出世は確約され、経済的にも一生保障されるのだと盲目的な学歴崇拝に陥っていた。当然ながら彼らの子育ては学力重視、子供時代の幸せなんてクソ食らえで勉強さえさせていれば子供は将来社会の成功者となり、親は感謝されるものだとばかり思っていた。ところが、だ。人を人とも思わない教育、パソコンに新しいソフトをインストールするような教育では愛は伝わらなかった。そればかりか人間性を無視した教育を強いる親に反抗期になると敵意すら感じたのだ。親は子供の幸せを願ったのだと言う。だがそれは違う。子供の将来の幸せを願ったのなら、何故学歴だけで一生安泰に暮らせる社会を同時に実現させようと努力しなかったのか?現状は?自覚のある親はほぼ皆無だと思うけど、彼らは自分のコンプレックスを子供で晴らそうとしたに過ぎない。自分が大卒でないから子供を大学へ、自分が旧帝大卒でないから子供はあわよくば東大へ・・・・・と。勉強だけではない。文学に憧れ、言い換えると深い意味ではコンプレックスを持つ親は文学を、楽器演奏にコンプレックスを持つ親はピアノを、それぞれ精神的に親に依存していてNOとは言えない幼い子供に強制したのだ。だから、自我の確立する年齢と共に子供達は親元を離れた。そして人間性を大切にしてくれなかった親と一緒に住もうと思えず、もちろん動けなくなった親を一緒に住んで介護しようとする愛情までは持ち合わせていない。こうして現代に介護の問題が生まれた。だがこれは子供達が悪いんじゃない、子供を人間として愛さなかった親が悪い。子供は自分の分身でもアバターでもないのだ。自業自得である。かく言う私の両親が全くこの通り。極度に学問コンプレックスを持っており、私は小学校に上がる前から習字を、上がってからは勉強を、塾で習わされた。友達と遊ぶ時間を減らされてただ憂鬱だったのを覚えている。小学校1年生の時から成績が下がると通知表を前に深夜まで正座させられ親の気が済むまで怒られ続け、時に感情のままに殴られた。通知表を受け取る日の気分は殺人犯が裁判を受けるようなものだった。このような親はさすがに極端だと思うが、多かれ少なかれ親は自分のコンプレックスを子供への教育という形で解消しようとする。その子供が親になると、やはり・・・・・気づけよ!第二世代。今の私なら勉強しろって言うなら親がまず勉強の楽しさを教えてやれよ、と言うだろう。自分でも面白くない勉強を見えない将来のために我慢してやれなんて拷問を受けろというのに等しいだろう。そんなこと言う親には残念ながら感謝の気持ちなど生まれにくいというのは自然だろう。だから、日本の社会には今介護問題があるのだ。本来は仕事になってしまうのがおかしいのだ。実の子供がパスしたから他人がお金をもらってやっている。介護の仕事なんてなくなるような社会を目指すのが本来だろう。ともかく、子供時代に親にいじめ抜かれたので私の実家も老人2人の世帯になってしまう。でも四国遍路から実家に戻ったこの1年数ヶ月の間、私はどうにかして親が過去に自分らにした仕打ちを許そうと努力してきた。私にとっては綺麗事じゃなく、この親を許せてこそ本来の自分を取り戻せるような気がするのだ。言ってみれば自分のためである。彼らは今だに私を親の従属物として意のままに操ろうとする。だけど、少なくとも産んで、食わせてもらった、この二点のみだけでも感謝しようと今は思う。そして精神的には初期・中期自我(感情をストレートに表現する・精神的に誰か、何かに依存する状態)に居るこの人達を魂の子供達として人間性は尊重し見守って行こう。ま、そんな訳でちょっと重い話になりましたが、最後の親孝行として8-12日の予定で親を札幌に連れて行きます。目的は親父の姉御のお見舞い。彼らも恐らく今生最後の別れとなるでしょう。「ねはんの里」
2010.01.06
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楽しい時はあっという間に過ぎ、本日つい先ほど兄貴の家族が帰ってしまいました。これから茨城の大洗からフェリーに乗り丸一日かけて北海道へ戻るとのこと。帰り際に甥っ子は別れを惜しんで本気で涙。ああ、若い頃は俺も純情だったよなぁ、と思い出しました。ま、正月と言えども遊んで暮らしている人ばかりではなく、ちゃあんと働いていらっしゃる方も多いのです。かく言う私も前職では盆も正月も祝日も、また週休二日ですら危ういような仕事でした。ともかく正月から働いている人は多いのですが、そんな中でも会社のトップともなると正月からマスコミなどへの出演に忙しそうです。我らが千葉県知事の森田健作氏も千葉日報社が主催する新春放談とやらに出演して、相変わらず東国原宮崎県知事受け売りの千葉の営業マンとしてのアピールをしていました。なんともこの人は、ちょっと失礼なので小声で言わせてもらうと、「アフォ」 ですね。ん?小声になってない?ああ、そうね。そうそう、アホと言えば千葉県に有望なスゴイお方がまた一人誕生していました。それはなんとあの市橋容疑者が捕まった市川市長選挙の立候補者です。まずは立候補者全員分の選挙公示から見て頂こう。なんか気になるお方がいますね。ではそのお方にズームします。パッと見、写真もヒドいが、誤字もヒドい。医療費の療を間違えているばかりか、費も一旦間違えて「グチュグチュ」って消しちゃってます。お前は小学生か。究極のツボは中ほどの所、「低所特の人に住宅を低学で供給したい」 と来たもんだ。これ神様が彼の手を借りて自分のことを書かせたとしか思えんな。因みに選挙は2009年11月29日に投票が行われ、一条強(36)氏は1579票で圧倒的な最下位で落選。って言うか誰だよ遊びで1579票も入れた奴は。千葉県大丈夫なのか、この先。「ねはんの里」
2010.01.03
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明けましておめでとうございます。まず新年早々にお詫びを申し上げねばなりません。私は年賀状でのご挨拶をやらない主義に徹しているのです。なので友人でも知人でも、勿論兄弟でも年賀状を頂いた方へお返しはしておりません。理由は、単純です。資源の無駄使いだと信じているからです。ま、メンドクサイからということもあるんですが、ともかくお返事はしないポリシーですので既にお送り頂いた方々、恐縮ですがご理解頂ければ幸いです。で、年賀状の代わりに今年からメールアドレスを知っている方へはグリーティングメールで年賀のご挨拶をすることにしております。メールアドレスが分からない方に関しては申し訳ないですがこちらのブログでご挨拶に代えさせて頂ければと思います。もちろん私への年始の挨拶も気軽にメールやブログへのコメントで頂ければとても嬉しいです。じゃ、話は変わって今日は兄貴の子供達を両親の陶芸教室に連れて行きました。ま、内容は正月なので極めて手抜きです。早速親子で滅多に経験できない陶芸体験の始まり~この寒いのに冷たい泥こねてもこの生き生きとした表情。子供ってすげーな。自分の孫と陶芸できてばーさんも嬉しそう。ま、私は3分で写真だけ撮って後は暖かい車の中で昼寝。いつの間にか日が暮れて帰りに近くの有名な神社へと初詣に立ち寄る。お正月らしい笙(しょう)の音楽が鳴り中々いい雰囲気。笙ね↓なんだかわからないが全員でおみくじを引くことに。全然興味ないんですけど・・・・結果は大吉の割合をいつもより増やしているお陰で私も大吉さんでした。こういう時に大吉じゃなくて、レアな印刷ミスで「犬吉」とかを引けなくちゃいけないんだよ、オレは。ああ、今年もお笑いの神様は私に降りて来なかった、残念。天も半笑いですか・・・・・では、今年もどうぞ宜しく。「ねはんの里」
2010.01.01
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