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ひとり遊び更新中。あさってには東京に来た時の前の部屋の向かいの部屋にと戻るのだけど、あの安心感って何なのだろうと引き渡し後に採寸していて思った。しかしま、あ、こんなとこにもミニクロゼットがあるわと、契約時には気が付かなかった空間を発見。こんどの部屋の向かいの部屋から出て、家具を買って組み立てたけどほぼ廃棄。どうせすぐ捨てるだろと思ってたIKEAの家具。道具でしかない家具って不憫。ごめんなさい成仏してね。今回の3ヶ月で決めた引っ越し、色んな反応を見た。エルダーシスターのが最初。その土地があなたを離してくれないからよ。うにゃ、私も5年前、ここに住みたいと思って不思議にそうなったよ。今日、前の向かいの部屋をお返しする時の立ち会いの方が、新しい向かいの部屋を引き渡して下さる時もそう言われた。この土地があなたを呼ぶのですね。ふたつめは、また引っ越しするの~貧乏になるよと。これはきっと普通の人の反応だな。困るのは妬みのあるみっつめ。私がお馬鹿で行儀わるい生き方してるのが気になってしゃくにさわってしょうがないみたいだ。私がわざわざ高い部屋に帰るのがしゃくにさわるらしい。心配せんでもあなた様がたのほうが小金も貯めてるし、冒険しないぶん堅実そうで信用もされてるってば。中の上のシアワセとか人と比べちゃうのだろな。私はお馬鹿なので気になさらないでください。どうぞ、自分基準でおしあわせに。人生なんて明日何があるかわかんないもの。1年365日、どの日も平等。ハレではなくケをことほぐっていうほうが、私は大事なの。
May 21, 2012
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白い象に乗せられ湖を渡る。地平線に積まれた桃色と紫の雲がたなびく空。フリンジの付いた青と赤の小さな三角旗に囲まれた砂粒でざらつく白いテントをたたみ、二人の侏儒が旅の後を追いつこうと急いでいる。オレンジの香りを抱きながら、海の風が遠くから吹いている。それは、たぶん錯覚。そんな、音がするだけ。この王国を何度何周しただろう。変わるわけではない風景と知りながら、風吹く、音の聞こえる方向の微妙の違いを愉しみに、飽きずにパレードを続ける。憎悪を諦念に昇華させようと、見知らぬ場所へ行くことをその身に課す。それは何かをしてしまう、きっと、してしまうんじゃないかって思うことへの甘美な果実のような贖罪。まだ存在しない罪への罰。それは我が愚母の教え給いしことゆえかも。彼女の世界の99.9%は自己が独占する。汝、愛を乞うことなかれと、我が母は身を以て教えてくれた。同じ距離と同じ目で私は人を見る。そして憎悪に変わらないようにと、同じ場所にとどまらないことを自分に課する。そうだった。子供の頃に神さまにオーダーした鋼の体と心はもう上手に鋳造されたのだろうか。鍵をかけて自分の意思でそれを捨てる堅牢な鋼のケージ。自由になりたがる鳥、私のからだから抜けていかないで。私が私から自由であるために、お前だけは一緒にいて。
March 30, 2012
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タンゴエレクトロニコの中毒。音楽遍歴も行くところまで行き着いたような。ソープ・オペラのテーマ。陽気なのか寂しいのかわからないアコーディオンのアレンジ。ほとんど裸体を見せるための今時の衣装がキッチュで面白くて、年老いたタンゴには戻れない。ピアソラじたいは過激なのだけど、もっと普通でない泥々感がいい。洗練されているようでいないようで、マナーはあってもお行儀ははずして。汗の流れ落ちる肌が、それじたいが衣装。見て見て見て、見られても、平気、平気、平気。近寄って挑んで、笑ったほうが負け。まるで、装った表情でするにらめっこ。ぺたんこのバレエシューズじゃ、子供過ぎて入ることのできないフロア。ヒールの上に立ってバランスを揺らがせて、自分と相手のからだを行ったり来たり。正気とめまいの間に細いピアノ線が張られている。新しい靴が必要みたい。ひとりで落ちるのは平気でも、ふたりで落ちるのはかっこ悪いから。
August 16, 2011
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フライトはいつも夜を選ぶ。滑走路に宝石箱から撒かれた光のジュエル。スパークする離陸のジェット音が好きだ。その中で何げに本を読むのが好きだ。平日のフライトが好きだ。物静かで飛ぶことに慣れたビジネスマンばかり。そんなに洒落たものなのかどうかはあるけれど、金子国義のタキシードの男性ばかりの絵を思い出す。彼らは礼儀正しく女性にも親切。セキュリティチェックでもスムーズに通過していく。アラームにかかるものがどれか知っている。あれは金属の総量に反応するから、何かを間引かなければいけない。311の地震後の7日め。西へのフライトがあった朝、東の空港は最果ての西をめざす人々でごった返していた。ブランド品とおみやげで両手のふさがったご婦人、バックパッカーな高齢者のご夫婦。パパはどうして行かないの?と泣く少女。セキュリティチェックはすすまない、アラームは何度も警告音を鳴らす。飛行機の中でなぜか水漏れを起こしている人。悪夢を見ているようだったそれも、今となってはもう、少し笑い話になれることに全力を尽くしてくれた方々に神様に、感謝していたりする。だけど、これから。まだ、今はじまったばかり。どうも、栗がはじけそうな火中の近辺にいる第二章というのが顔をあらわしたようだ。さて、私の役柄はと思案中。
August 10, 2011
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長い旅のように言葉を眠らせていた。風の音だけがする砂漠の中、白い棺の中で眠り続けるうち、私の髪は伸び、胸は薄い脂肪を蓄えて脚のあいだにあったものは削げ落ちていた。あるいは、真逆が然りや否や。そう、言葉とはかくあるが如く文字の海で転がされ歓喜の歌をあげるべきもの。消耗され疲弊する言葉の此岸を離れて、伝えるという労働から解放される彼岸へと私は言葉たちを呼び戻そう。大切な私の言葉たち、私の大切な分身たち。月あかりの下、目を閉じた私の横を音も立てず駱駝に乗った隊商たちが連なり通り過ぎて行った。サソリ達が胸の上を這い寝床としていた。美しい蛇は首を棺にもたげ、赤い舌を揺らしいつまでも私を見ていた。片手には百合の花、もう片方にはデザート・ローズ。砂漠に咲く堅牢な塩の薔薇。紫陽花ではなく、そう、雨を乞い自らを変える花は、此処には似合わない。さあ、綴ることを再び始めよう。私の言葉をもう一度思い出せるだろうか。
August 5, 2011
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青い鳥、青い鳥、飛んで行っておやり。お前は何も信じてなどいないって、黙って教えてあげればいい。ナイチンゲール、おまえだって啼くのをやめて、金属の音すら止めてしまえばいい。そこにいればお前の価値は下がり、いなくなれが急に惜しまれてしまうようなものなのだから。何もかもが怠惰というものに支配されているのなら、これ以上、勤勉なお前が世界を知る必要があるのだろうか。お前はひとりで幸福をさがせばいい。全部おいてけぼりにして、飛んで行っておやり。でもいいかい?決してまた誰かのために啼いてみようなんて思うんじゃないわ。きっと、後悔するのを私は知っている。お前はまた、無駄に啼いて絶望を積み木のように重ねたいの?お前を満足させる飼い主も友達も、何もない。お前の主人はお前だけ。お前の友達はお前だけ。心を望んでではいけない。それは、お前のそのらしさにより必ず裏切られるのだから。氷の壁を立てて飛んで行ってしまおう。何も信じない。ひとつを捨てるのなら、すべて捨てて置いて行くのも同じこと。氷の世界に生きれば、心も氷のようになるのだから。いつか唾棄する憎しみにかわらないように、私を巡るものが変わってしまうまでに、早く行かなくては。
November 15, 2005
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マジシャンに尋ねた。すべてが色褪せない世界の見方について。それはさ、左手が動いてるときには右手をみないこと。宙にボールが浮いたら、浮いてるボールだけを見ること。飽き性のアナタだから、ボールもいっぱいいるみたいだな。そうだね、火をつけたバトンなんかだと、そっちに気を奪われて夢中で見ていられるから、いいんじゃないかな。じゃ、私が、ジャグラーなら?退屈しない方法を教えてあげるよ。絶対に落とさないでやるんだ。手の中からボールやバトンを落とさないことに集中するの。放り上げてやったものが正確な軌跡を描いて落ちてくるまでは、持っているものだけにすべてを注ぐのさ。危ないよ。落としたり、取り損ねたら。ナイフなんか洒落になんないよ。ケガで済むかな。だけどね、何度やっても色褪せしないよ。いっぱい手に持たなきゃならないなら、すごく困っちゃうね。さ、何本投げてみる?退屈はしない。そうね、退屈はしない。その扉を閉めて。
October 26, 2005
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それを口にしてはいけないと幼い私に言った人はいない。そもそも、それを見るということがあってはいけないことだから。私は言わなかった。今もそしてその本人にもそれを見てしまったことを言っていないし、言わない。夢なのかと思った。その光景はテレビでも見たことがないものだった。はっきりと脳裏に焼き付いたそれを敷石にして、それに呼ばれるように、私が知ってる限り堅牢なもので作った壁のスキマをぬって、残酷な血や失禁のあとやあっというまに切り落とされた手足や、めちゃくちゃになった柔らかなものが入ってきて、わからない人間のようなものの加害者と被害者の両方の足がそれを踏みつけ、私の心の奥でバベルの塔のドロ遊びをしはじめる。ぐちゃぐちゃといやな音をさせながらうず高く、地を貫き、絶えず這い上がろうと、光にふさわしくないそれらのものがあつかましく、私の中から這い出てやろうと、目を伏せた私をよそ目に、いやな笑いかたをする。こぼれたそれは、汚泥の雫。それはじぶんを守り疎んだ何かにはあまりに強い毒みたい。たまさかに見る息を止めるような夢。それは、こぼしたくない毒を浄化するために仕方のない、私が私を守るための行為なのかもしれない。
October 25, 2005
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本の森を歩いていた。木々の枝にはいろいろな本がつらさがっていて、収穫を待つというよりもクリスマスの飾りのようにきらめいていた。扉を開いて、また開いて。気がつけば、ものすごく遠くまで来ていて、ひとりはぐれてしまったみたいだ。風はもう冬の音。肉体は冷たく精神は細く、なのに肋骨の奥の方に見つけた蝋燭の火が、たしかに灯っている。ひとはじぶんのことだけ考えて生きてはいけない。それは不幸だから。考えなきゃ幸福になれないようにできているみたいだ。逆側から言うヒトが多いかな。ヒトにいいことしなきゃ幸福になれないよって。順番が逆なのに。そんな、脅かすようなコトバは、カギのついたノートに閉じこめて、木の根に食べさせてしまおう。森の中で教えてもらった。光のように輝いて見えるヒトにときおり出会う不思議を。それは誰しもがそうなるべくできているのだと。我は光なり。闇を照らす光なり。そうね、まるで森の木々に光るたくさんのクリスマスオーナメントみたいだ。森を抜けたら冬の砂漠。胸を開いてひたひたと白い月を載せよう。
October 24, 2005
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世界が私におやすみなさいを告げるの。私は、ちっとも眠くないのに。お友達はクレイジーにサイケデリックな、縞々きりん。かぷりすが大枚はたいてUFOキャッチャーから救出してくれたぬいぐるみ。だいだらぼっちになる前に早く寝なきゃあって思うのだけど。どうぞ、みなさま、よい夢を。小鬼が現実に出てきてつかまらないように。私は誰?そうね、コトバや外見ではご期待に添うことができてもからだの中はちがうかも。私の気持ちって何?あなたがうれしければ、それでいいような。フラクタルなまたたきはは、同じように見えてさっきのものとは異なってしまうような、そんな不確かさ。孤独というのがヒトがいるところほど頼りがいを見せにやってくる。そうね、孤独じゃないときなんて、あったのだろうか。いえ、あるのだろうか。いつもいつもひとりということを思い知らされる。好きというコトバさえ永劫の約束さえ成り立たないのなら、そんな刹那的なものをどうやって信じればいいのだろう。愛することは知っている。愛を受け止めるすべを私は知らない。それは私の知るカタチではないのだから。世の中は単純じゃなかった。いいえ、私がそうじゃないから?世界におやすみなさいを。いつか永遠に起きない日が来るまでは。
September 28, 2005
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キャラメルの匂いは、その犬からしていたのです。すべてがすべてそうなのでなく、香気成分というものがあれば、0.05%くらいがキャラメルで、スモークを軽くくぐらせた気体のその奥のほうで固まっているアンバーような結晶が少しずつほどけるかんじ。人ごみの中からだと、ジンのような匂い、白檀の匂いをさせてるオトコノヒトがたまにいます。そちらは、ヒヤッとしています。あの香りの持ち主を見てみたいときょろきょろとあたりを見回したりします。それは春の匂いや冬の匂いというものとはちがって、目的をもったような匂いです。赤ちゃんがミルクくささで守られたいと知らせているような、ヒトが香水などでじぶんのつがいにふさわしいと感じるものを呼ぶような。いくら仲がよくてもお互いの匂いがきらいなら、肌をふれあうことはできない。その二人がじぶんの好きな香水を選んだとしたら、やはりお互いのきらいな香りになるのだと思う。そして、匂いは変化するのです。その香りは役目をおえて、別のシグナルを放ち始める。時間とともに、トップノート、ミドルノート、ラストノートへ。臭覚というものほど生理的感情と深く結びついた感覚ほど、正直なものはないかもしれない。
August 30, 2005
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10年前に、プーケットの静かなリゾートホテルに数日滞在した。2才ずつ年齢の離れた男女ふたりずつ。がちゃがちゃ落ち着きのない性格ばかりが集まったので、笑ってばっかりだった。しかし、そのホテルは新婚さんやカップルが多かった。ホテルが海べりに出したタイレストランでは、少しドレスアップした男女が目を見つめ合い、手をにぎりあってた。だめだ。私たちはうるさすぎる。ごめんなさい。せっかくの思い出にだめだめな日本人として映ったかも。昼間のプールでも朝食でもそれらのカップルと会うことはなかった。最後の日に、アメリカ人の家族連れやグループがきてわいわいとした感じにはなったけど。あのリゾートホテルの正しい使い方。一、すべてホテルの中で過ごす。ニューハーフショーを見に、山の上まで行った私たち。二、カップ麺を持っていかない。レストランいくつもある。三、カップルで行く。その後、ひとりで行った人もいるけど。何よりも、ずっとふたりきりでくっついていたいヒトタチのため、あのホテルはあるのですね。なんか、この年になってわかりました。災害のあと建て直しされて少し変わったのだろうか。いつか行くことがあったらいけないから、ひんやりしたシーツがそのままだといいな。
August 29, 2005
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かくして、水のデザイナさんの恋は夏のおわり、大型台風とともに去ってしまった。8才という年齢差を越えるのは困難というご本人の判断みたいだ。ピタッとその話しはしなくなった。沈んでるのを見るのはつらい。顔色も悪ければ、目もどんよりして、再び仕事に精を出されている。そんなあかんもん?と社内のオーバー40男性に聞いてみたところ、30才を過ぎたら年上は2才までが限度だろうという話しであった。まあ、生殖面から見ても理にかなってますし。私が習ったことあるイギリスのオーバー50のヒラリー先生は、21才の男の子を普通に連れていた。フランス語のエリック先生は、70オトコが20ムスメを追うのをビザールと言っていた。8才。きわきわでんな。デザイナさんの努力しだいで可能性はあったはずなのに、プライドが邪魔したのかな。勝負日(会うだけ)に効く1回1300円のパック紹介しても、高価すぎると言ってしなかった。うーん。好きなヒトのために1000円ケチるの?努力した?なんとなく、年齢が問題ではなかったかもしれない。そうね、壊したくないから相手がさそってくれるの夢見て待つ淡い恋もあるのでしょね。だけど、じぶんの中で勝手に玉砕して壊れたから、まわりはいたかった。みんみんみん、ぽとり。私なんか。と私なら。のはざまでモノゴトは揺れる。
August 28, 2005
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赤い羽根や緑の羽根を洋服につけてもらった子供の頃、それが自慢げで落ち着かずそっと取ってしまってた。あるシーズンがおわればみんなはずしてた。それは100円でもらう飾り羽根以上の意味をあの頃の私たちに持ってきただろうか。ホワイトバンドプロジェクトなるもののリストバンドをしているヒトが増えた。大事なものは目に見えなかったはずなんでしょ?だから、忘れないようにずっと思っていようとするんでしょ?王子様はそう言ったんだと思ってた。大人になると忘れるの?人は弱い。だからカタチやしるしにする。どうかそれが、十字架ネックレスや免罪符のようになりませんように。祈ればすべてが変わるわけでも、じぶんがノーギルティでいられるわけじゃない。かといって、ツミビトでもない。何故、その白輪を腕にしなきゃいけないのか。必然がなくちゃ。じぶんでじぶんの中だけで何かを思わなきゃ。私は弱いから、偶像の満足をいぶかる。誓いもたてられない。知るという望むという、求めるという強さを忘れないように。それを腕にしていたことを恥じずにすむように。
August 27, 2005
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世の中には、努力してようがしていまいが、できているかどうかだけを問題にすることで成り立っているところがある。経済原則として、それは正しいのだけど、そこをはずれた部分で、つらくなるようなときがある。ねたみやさげすみは、いやな顔をつくるみたいだ。つくりの美しさとか醜さじゃなくて、それを思ってるときの顔ってわるい。でれで、それしてる筋肉が形状記憶みたいに貼り付いていく。苦労してはいけない。不幸な顔になるから。そう教えられたことは、ウソじゃないと思う。それらはカラダにだって出ているのだ。整っていそうに、恵まれていそうに見えて、なんか別のニュアンスを持っているカラダ。もちろん、欠落や余分があるわけじゃない。たとえば、ほふりましたって、書いてある。あるいは、プライドは捨てましたって。ねじれにはねじれにしかない世界観。私の不自由なアタマやカラダは、どう見えるのだろう。動かすほどにままならないのを知る。さて、『思考』錯誤しながら、試行錯誤。ままなるようにねじれの世界観をもって旅が続いております。このニュアンスを伝えるには、まだまだ修行中。
August 26, 2005
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パッヘルベルのカノンが途切れ途切れに聞こえる。今年は蝉がいっぱい落ちていた。熱で焼かれたみたいだと思っていたのだけど、肩越しにトンボが熱の残る虚空を切り地面を攻撃するかのようにかすめていくと、もうススキの上の曇りなく輝く月がかかるまで長くはない。中秋の名月、秋の祭り、峠を越えて来る人を指折る時間もなく胸のウラガワで待っている。舞台の上にはガラスの壁が立っていて、私とあなたは服を脱いで向き合ってる。合わせ鏡みたいに、手と手をあわせて、唇と唇を近づけて、ガラスが体温をイメージだけで伝えるの。私の唇がなぞったガラスの上をすかさずあなたが追いかけて、そちらとこちらには同じ軌跡がつく。ずっとずっと、続けていればガラスは溶けると思う?溶けなくても、ずっとずっと、続けてもかまわないの?笑わない、私の天使は笑わない。じっと私を見ている。私は天使がいつかどこかに行くんじゃないかと、ガラスの壁の向こうを思って、また半べそをかく。
August 25, 2005
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運動量が増えて、一気に漢方薬は種類も回数も増量された。昨年ほど汗が止められないということはなく、アキレス腱もまだ悲鳴まではあげていない。でも、足を押せば凹むし眠くて起きていられない。現実めいた夢を見るようなうたた寝がないことを思うと、いつもの小鬼のわるさではないみたい。増量してこれかと思うと考え込んでしまう。エルダーシスターは、笑うほど悪いと笑っていたなあ。私も笑うしかないかあ。休みたいなあと思った。お昼頃なんていわず、ずっとソファに寝ころんでぼんやりしたい。いろんな負荷に対応してるうち、何か麻痺したかんじだ。筋力も落ちてる。出てくるものを片づけていくしかなく、あとの時間は、カラダのメンテナンスにまわさなくちゃ。いそがしいのね。
August 24, 2005
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いいなあ。家賃や光熱費や食費の心配もしないでよくて、朝からサーフィンかあ。そのぶん、いろんなもの捨てたのだろうけど。いつもはお昼過ぎまで寝て、おうちでごはん食べて、ふらっと仕事場。あるときは徹夜もするのだろうけど。なんだろう。彼が見つけたのは、恋人だったのかな。妻だったのかな。はじめは、そうだったのかもしれない。だけど、そのアタマの歯車は別のところにつながって、いつしかお金を稼いでくるいいヒトになったのかな。ずっとずっと、上手につないでおけばずっとずっと、それは終わらないんだろうな。10年飼った犬を追い出すことはできない。番犬の役にもたたなくても。だって、それはヒト扱いされてないのだから。そして、飼い主という名の飼われ主は、せっせとごはんを口に入れてやる。ちがう見方が同時にできて、犬が飼い主の口に一芸でかせいだお金で買ったごはんを入れているイメージも沸き上がってくる。真っ白な部分のあるアタマの犬。もう、そうなると理解も何もとけていく。檻に入っているのはどっちなのだろう。両方が入っているのなら、ほんとうに手錠がかかってるみたい。はじめにカギをかけ忘れて覚えていない手錠。
August 23, 2005
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忘れていた。はじめから失うのがわかっているのなら、はじめから手を触れてはいけないという戒めをたてたこと。だから、失わないようにと私のなかに持ったバレエさえ、舞台裏から消えていきそうになっているというのに。このまま、ぱたんぱたん、全部閉じて、どこかに逃げてしまいたい。それをしないのは、きっと、これ以上のベストポジションがつくれそうにないから。臆病でこずるくて、そのくせヒトのそういう部分におびえて遠くにいる。そうだった、何も信じないという戒めさえ忘れていた。いっしょに逃げませんか?そういった、あのヒトはいまどうしてるのだろう。逃げおおせただろうか。ひとりになりたいのに、ひとりはさびしくて、ひとりで考えなきゃ、理解しなきゃいけないのに時間をかけてもわかってなくて。カラダの上にシールが貼られた。B品。それは生まれついてからずっとそうだった。いつまでたっても、だれかとくらべられ、正常という多数派にくらべられ。知らない間に私は誰かが品物をチェックするベルトコンベアの上に座っている。
August 2, 2005
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煽られたら、そのまま火がつく星の生まれ。誰かがつけてくれたキャッチフレーズが、猫年月座のムスメだった。だけど、愛する憧れは賢いスタンダード・プードル。今年の流行モチーフにカギのネックレスがあった。そういうムーブメントは局地的にか同時代的にか感染シンクロしてしまうようで、私のココロにもカギがささった。そして、つん抜かれたのは身体。開いちゃったかも。3月にナイチンゲールを想う頃、私は閉ざされた暗い春を楽しんでいた。だけど、いけないトーキョーDOGが私の本質というもののニオイをくんくん嗅ぎつけてしまった。それはひとつの才能かも。どっちも私でほんとうなんだけど、ものすごく両極端をいくつも持って私はバランス取ってるから。あなたは、ワルイコの私を先に知ったのね。コドモのくせにいちばんオトナで、つい本気だしていじめてやろうかと思わせる。つらいことはしない。そんなのきらい。もう食べられないというまで、チョコレートを食べさせたりアイスクリームを並べるの。でも、マテ。なぞなぞや試練のない遊びなんて楽しくないから。煉獄というタイトルの猫の話。死をまじかにした猫にたかった夥しい数のノミは、宿主の死を察知すると波が引くようにいなくなるらしい。そうして、劫火に浄化されたように、猫は逝く。どう?私の煉獄なの?これは。トーキョーDOG、あなたは生きてる玩具じゃないの。とっても危なくて、生モノで、取扱注意。ふわふわの羽根で首輪をつくってあげる。
August 1, 2005
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壊れかけたカラダを自分で修理工場に持っていった。柔らかい部分は熱を持って腫れ、カタイ部分はぎしぎしにひずんでいた。接合しなおしたところは高周波の電極をあてられ、私の中は余計に一回分わからないものになる。緑がかった銀色の頭のヒトが前を歩いていた。なんだか見覚えがあったので、紫色のTシャツに片腕を伸ばして引いてみた。顔をオモテがえしたら、ふわんと円い頬のつぶらな瞳がタヌキのようなカオだった。だけど、知らないヒトだったので、サヨウナラ。グハハハハ。後ろから空気の塊でできた腕が私を両横から掴んでぐらんぐらんに揺さぶる。その嘲笑とチカラはどんどん大きくなる。私も一緒につられて可笑しくなる。ランプをこすって出したら消えなくなった、私を嘲りたくて待つ魔人。離れようとして離れられない、守られてきたと思って守ってきたような。尊大でやさしいランプの精。そうね、そうね。何かを間違っても、キズつかないの。私というモノはカラっぽで、この入れモノに入っているのは、そういうものならいいなと思ってつくった私じゃない空想のココロ。壊れたら、私という入れモノといっしょ。セロファンテープでなおしてあげる。歩いてるときに振り向いちゃだめ。私がそのまま、ぽんとつまずいたときにそっと倒して上を歩くかもしれないから。私の足がキズつかないように、なおして入れたココロがまた壊れないように、見なかったふりして上を歩いていくから。機械仕掛けのよしみで、時計のねじすら早めたり、遅めたり。
July 31, 2005
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ほんの少し前からモノを買うのに躊躇するようになってしまった。これ、絶対にいる。そんなものにはぽーんと使うのだけど、遅刻しそうなときいいやー特急料金払って行こうかなあとか、似たようなモノ持ってるのにデザインがいいから買ってしまうのとか。なんか、できない。今あるもの大事に使おうと、買わなくて、いい、いい。そう思うようになった。普通にしてても、住宅やら食費だけじゃなく趣味してるぶんに使ってしまうわけで、鍼灸やらいろいろ使ってるのに、もう十分にゼイタクだなと思った。これ以上、ちまちまお金使うのやめよう。ホントに欲しいものやしたいことに使おうと、今更ながらに思ってしまった。なんか、知らないまにだめになってたなあ。節約とか慎ましくとかお金がないからとかじゃなくて、モノに対してぞんざいで真剣じゃなかった。ありがたみのない消費というか。ただ、基本的に使って遊ぶのも好きなせいか、ええ大人が出し惜しみするケチくさいのはきらいなのだ。上手にお金を使って遊べるかというところには、人生経験やそのヒトの人柄が出てしまう。ああ、そのためにもいらんもん買わないようにしなきゃ。大人はじぶんだけじゃなく、ぺーぺームスメたちを遊ばせてあげて、いくらの価値になれるかをじぶんで計るのだ。
July 30, 2005
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久しぶりにお肉を焼いて食べた。ステーキというやつ。ラム・ボーンの薄いのを3つ。もう、すぐにおなかの中があったかくなって、おなかの中にカイロが入ったようで重くて眠い。一週間に鶏手羽2本と卵数個というペースなのだけど、夏から秋にかけての運動量が増えるシーズンなのか、無性にお肉が食べたくなった。薬喰いぽく週末、日曜日だけお肉を食べようかと思っている。納豆やお豆腐ではおっつかないような感じなのかな。栄養成分だけじゃない、カラダの実体としての厚みや存在感が欲しいのかな。それは、実際の塊量というより熱量みたいなものかも。あったかいカラダ、きもちいいカラダというのがあるのを知った。それは日々、変化するものなのかもしれないけど、説明のつかないここちよさ。そのカラダがもつ安心感っていうのかな。そしてそのカラダを通して私が欲しいと思ったものは、プレゼントのようにおすそわけのようにもらってるのだと知った。それは、ほんとにあったかくってきもちいい。私が今、踊っていてなぜか微笑んでしまう瞬間、その空間に描く何かはそのプレゼントをねえ、見てってみんなにわけてあげているような感じなのかもしれない。私であってすでに私でない、プレゼントをくれたヒト、プレゼントを見せるヒト、いっしょになってしまうみたいな。そういうのも薬喰い?
July 29, 2005
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たしかに私はアインという可愛い犬を飼っていたのだけど、物音におびえたとき私に寄り添ってうなって守ってくれたのはアインで、ずっと待っててくれたのもアインだった。シャンプーやリンスだって私のものの4倍の値段で、お風呂は半日仕事だった。さわって、さわって、いっぱいさわって、アインは気持ちよさそうだった。たまに痛いことしちゃったけど。アレルギーを心配して新潟からクール便で羊肉や骨をお取り寄せしてた。鶏ガラからスープつくってロールキャベツしたり、お好み焼きしたり、ジンギスカン丼とか。といって、缶フードを食べないというものでもなかったけれど、私がそうしたかっただけで、食費は月に2万円を越えてた。会社の子たちが、うちの子になりたいと言っていた。顔を近づけて、アインの犬くさいような羊さんのような、シャンプーのようなにおいを吸い込むのが好きだった。アインはたしかに犬の姿をしていて、私にもそう見えてた。もし、アインになりたいといってた人間の子たちが、引き綱のかわりに手をつないで私といっしょにいたら、どう見えたものなのだろう。その子のアタマに犬のミミ、おしりにシッポ?いえいえ、やはりヒトガタでしょ。手をつないでいるのに、あ、犬連れてるのね。なんて言われたら、それはもう、よのなかが変わっちゃってる。そうそう、アインとだったら入れるのはドッグカフェだけ。でも、大型犬はご遠慮下さいというわけのわからないお店もずいぶんある。超大型犬、ピレネーやイングリッシュオールドシープドッグ、ボルゾイなんかもいつか飼ってみたい犬だ。
July 28, 2005
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今年は3曲目の個人ものをやめようと思った。うしろ髪をひかれたし、仲のいいアヒルさんの初挑戦を聞いて、少しうらやましいような気分になったけど、じぶんの決めたことだし。今年は去年お世話してもらったぶん、お世話してあげたい。3曲目は、ほんとに大変なことだから。昨日はすでにプレ準備段階に入っていて、バーからだめ出し2回、センターでもポワントでも数回。音楽的でない、踊りとしてカラダが使えてませんというのがいちばんのだめ出しだった。でもまだ、怒られているうちには入ってないので、逆に3曲目がないぶんプレッシャーが昨年ほどでなく、普通に。というのが昨日のじぶんの課題だった。なんだか途中でものすごくきもちよくなって、プレパレーションでふわーっと深呼吸といっしょに、微笑んでみた。チカラではなく、呼吸でカラダを動かして、呼吸がココロを気持ちよくする。骨盤の底が開いてるとヒトは心地よいのだと、本で読んだのを思い出した。骨盤を締めて、というのをいつも聞くのだけど、シアワセな気分で踊るというのは、締めたところの骨盤に呼吸を通すかんじだったり、締めることによって開いていたシアワセな状態を再認識するような、そんなのかもしれない。シアワセの呼吸。骨盤の内側で上下する、呼吸や筋肉や気持ち。内臓がマッサージされて、すべてが、上に上に昇っていくみたいな。際限のないようなきもちよさが海のように空気みたいに波打つ。たしかに昨日、踊り始めるしあわせを知った気がする。
July 27, 2005
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チョコレートの森にボーヤと手をつないで入っていった。わおわお。チョコレートでできた木の枝や鹿の角に宝石つけたチョコが引っかかってる。カステラにチョコソースをとろんとかけたり、ボンボンやトリュフがパレードみたいに勢揃い。あれは、ピスタチオの入ったビスコッティ。黒いチョコの泉と白いチョコの泉が甘い香りを沸き出すまわりには、苺やパイナップルやキーウィー。スターフルーツまである。あっ。大好きなカシスやブラックベリーのムース。タルトやケーキ。いちぢくのまである。ふわんふわんのプチシュー。カラメリゼされたブリュレ、カスタードのと抹茶のとチョコの。向こう側にはショコラバトンの入ったクロワッサンやクイニーアマン。小さなハムときゅうりのサンドイッチもうれしい。普段の私なら甘いポートワインを恋しがってのどを鳴らすところなのだけど、カフェオレ、コーヒー、紅茶、アップルフレーバーティ。ボーヤハントのチョコレート・ピクニックにお酒はいらない。温かい飲み物はお持ちしますよと、日焼けしたうさぎのような給仕さんが微笑んだ。3つめのチョコレートケースを口に頬張ったとき、ほわんと酔いがまわった。4つめのラムトリュフの半分くらいでちょっとくらくら。頬の上に汗がにじみそうになる、血糖値の上昇。こんなにチョコレートやケーキ食べたのって、どれくらいぶりだろう。食べなかった前にはもどれない。禁断症状が出ないように、チョコレートのオードトワレで我慢しなきゃ。
July 26, 2005
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一度、痛くて懲りたのか、たたかい方を忘れてる。いや、たたかれ方かもしれない。鋼鉄の心臓の毛はどこへ行ってしまったのだろうか。カラダのコンディションはお墨付きなのだけど、えらく疲れやすい。それキープするのに体力使ってる気がする。人間はしんどいもんらしいけれど、ここにアキレス腱の戯言がさらに加わり、あまりの出来の悪さにまたふたたび情緒不安を繰り返すんじゃないかという、確率性の高い予感と悪寒と。ああ、去年見た見えないかけひきのたたかいもいやだったなあ。さらに、当日までいってもまた立って寝るんじゃないかとかいろいろ。多分、したくないのだけど、しなかったというのはあとでもっと凹みそうなのでやる。を選んだのだと思う。とりあえず、アプローチや意識を変えないことにはまた自己嫌悪に陥ることはあきらかだ。甘えてはいけない。ほめられんでいい。認められんでいい。楽しくなくていい。一回、納得したい。じぶんのしたことに納得したい。じぶんにカラまわりするのはやめにしたい。打たれよわい。なら打たれ方を考えなきゃ。打たれ方をまちがえると、カラダは動かない。私はココロが弱いから。誰のためにって、じぶんのためにしかなくて、この1年、やれることはやった。昨年の倍は練習した。あかんかもしれんてわかっているけど、また、倒れるまでするの。
July 25, 2005
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そうそう、味に特定の色を感じたり、色に音を感じるお話は、ポンティの知覚の現象学に入っていたんだった。チョコレートファウンテンというものがあって、タワーの上から円錐状にチョコレートのソースが流れている。それにピックでさしたフルーツをつけて食べるのだ。なかなか音楽的な趣向。それがスイスショコラと聞いて、血糖値がコンッと上がったのと唇がゆるんでよだれが出そうになったのは同時だった気がする。チョコレートとデザートのバイキング。量が食べられないので、ほとんどバイキングに行ったことはないが、これにはおそるおそる足を踏み入れたいような。禁断のケーキとチョコレート。カラダの肉づきを気にする人間にとっては、悪魔の誘惑だけど、抗いがたい。1回でやめられるだろうか?それよりも、またチョコレートやココアが習慣になるのもこわい。なのに、あの、舌にまつわりつき口の中を我がものにされる感触。鼻孔を軽く突き刺すような芳香は耐え難く甘美だ。苦いエスプレッソとひと粒こっきりのチョコレートは、やがてふたつ、みっつに増えていく。困った。こんなときこそ、神様に助けを求めたいものである。
July 24, 2005
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かつて逃走論というのを書いたのは浅田彰さんでした。我が闘争はヒットラーで、私がふと思ったのは、逃げなきゃ?後ろのほうで捕虫網と鳥籠がみえる。監禁されるのも監視されるのももういや。キングコングの手を押しのけて、檻にカーテンをかけた。今は薄いレースなのだけど、いつか光に透けない厚いカーテンをもう一枚かけるつもり。上手に返事するわ。そうして、鸚鵡を呼ぶの。私の声にそっくりな。そうよ。ずっと私の真似してて。少しずつ遠出に慣れて、足を強くするから。そうして、私の姿は檻から消えるの。もう、どこにもいないと思うから。私の顔も姿は見えてるのに、そうね。へんね。いないでしょ。ひとりでうまくできるもの。だから、二度と裸の王様にはつかまらないの。だって、ひもじいもはもういや。着るものがないのもいや。歩き続けるのもいや。羽根があったから食べるものを取りに行ったら、あなたも食べたじゃない。あなたは、本当に王様だった?そうね、最後は檻をたたんであげる。そしたら、私が消えてもきっとわからなくて、私の手を押さえつけた前まで記憶だって戻るはずだもの。
July 23, 2005
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死んでしまうことを許す。そんなことができるのだろうか。そのいとまごいの意味は、私にその許しを得ていたのだろうか。私を疑わなかったのに死なせてしまったあなた。でも、私があなたを死なせてしまうことを知っていたあなた。いつかはと思っていたよりも5倍以上もはやく消え失せてしまって、それでも思い出した朝に私から小瓶ひとつぶんの涙を乞い、謝罪を聞いて安心するあなた。溺愛してはいけない。それは愛されたものの命を食べて大きくなるから。あなたが欲しいと思うものをそろえて、あなたが本当に欲しかった私を与えなかった。首輪もしない。足枷もしない。檻にも入れない。柵で隔てた部屋の中でずっと私を待っていたあなた。それは、鎖でつながれるよりも不安だったんじゃないかって。じぶんでイタズラしないこと、声を出さないことを教え込まれ、不自由ないい子をつくったんじゃないかって。後悔をわからないほど繰り返しても、かなしくてさびしい。距離を置かなければいけないとヒトは言う。それからは犬を飼っていない。同じことを繰り返してしまえばもう生きてはいけない気がするし、もっと溺愛してしまいそうだから。愛でもなく恋でもなく、溺愛しかできない私に、犬をいとおしがる資格はないのかもしれない。
July 22, 2005
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ボンノウの数に気付いたのはいつだっただろう。そしていつのまにか煩悩のコトバカズはボンノウの2倍を越えて、踵を返すには少し遠いとこまで来てしまったのかも。うかがいあってそれを目隠しで探り合い、明かりの下で見えないまま煩悩を煽りあって、私が犬なのかあなたが犬なのか、コトバはあまりにも自由で不自由で可笑しいから。じぶん自身であってじぶんでないコトバのカズカズ。目隠しを盗ってしまったら、追いかけっこは色褪せてしまうのかな。じゃあ、盗らないまま取らないまま遊ぶということも選べたのかも。とろんとろんとコンクリートを歩いてとけたのは脳みそ。とろとろととろけたのは、チュチュに撒かれたスパンコールの金平糖。もてあそんではいけないやりかたで、いろんなものやじぶんのものをコトバの玩具にする。つくっているカラダの見えない品評会。筋肉と神経がかしこくつながっているかどうかなんて、普通の目には見えない。だから、普通の目にも見えるように、アウターであらわしたり、インナーで動かしたりするのだろうか。コトバの確かさや触覚の確かさによって、ヒトはヒトの性能を探るのかもしれない。
July 21, 2005
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それで?と愛人問題についてプチギレした某国の大統領が記者に返した言葉として有名になった。エ・アロール。それでね、それからね、ええとね...などの意味もある。ニュアンスで変わってしまうのがおもしろい。最近、行間の意味がとれない。ヒトのおハナシが今ひとつわからないのに拍車がかかってる。以前なら、何だったのかとあれこれ思ったけど、近頃はそのままわからないまま置いておくことにした。もう、わからないんだわ。そうして、きっと私のハナシもわかんないものなのだろうし、コトバにつくる前にやめてしまっている。とりあえずの努力は3回が限度になった。絵はおもしろい。時間さえ限られなければ。青いペンだけで白い空間を私の方法で支配していく。コトバを生業にしているからか、コトバを濫用しすぎるからか、カラダを使うことや文字でない表現法でバランスを取ってるのかもしれない。それでも、できているかどうかはわからないけど、きれいなものが好きだ。それは、完成度かもしれない。見られていいもの。そんなものをめざしている気がする。え?あろーる。
July 20, 2005
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ソワサンヌフ、l'anne erotique!というのはゲーンズブールの歌で、2005年がそういうエロな年なのかどうかは知らない。エロいヒトや遊びはあっても、エロい都市やトシはないかも知れない。赤い手錠のことを思い出した。持っていたのはシャンパングラスをつなぐクリスマスイベントの玩具。赤い輪っかに長い金色の鎖。それをもとに想像が生んだ手首をつかむ手錠は、この世の肉体をではなく思椎をつなぐためにコトバとしてだけ使われ、短い生を終えた。想像よ、できることなら翼をたたまずにやわらかに汚れなく淫靡にコトバの玩具を創造して。夜がつくる半球のドームをひとりで渡る。心はいつもなぜ跳びたがるのでしょう。現実のなだらかさと夢という禍々しい甘やかさのはざまで、私の探しものはいつか、見つかるのだろうか。
July 19, 2005
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カタンとも鳴らないポストの中に、見覚えのある記号が入っていた。出しっぱなしのファンレターの返事が来たんだろうかと中をそうっとうかがう。ああ、やっぱりからだった。あの時、預けられなかった私のカケラの小瓶を後ろ手に聞いたのは、まったく知らない國のコトバだった。いろんな辞書を引いても、それはわからずじまいで、さようならなのか、また会いましょうなのか、もう聞くことはないのを知ってる。時がそこにあった橋を流していく。次に会うときは、対岸から手を振るか、知らないふりなのか。パッセンジャーに心のカケラを持っていかれないように、いつも次の場所へとサーカスは移る。おいてけぼりにならないように、ぼうっとして天幕のブランコや梯子から落ちてしまわないように。テントをたたみ、荷造りをするとき、私の左手はぶつかったふりしてわざと小瓶を地面に落とす。大切に持っておきたいという右手の懇願を心が止めて。割れたデュシャンの大ガラスの記憶とともに。雨乞いの別の意味をでたらめなアナグラムに見つけた私の小さな驚きとともに。いつまでも籠目の箱で私がこわした宝石のようなタカラものが輝いている。
July 18, 2005
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家に帰りたくない。それは、私の家なのに。いくつかの質問やナゾがあって、それらをひとつづつ切り分けして、人に預けていった。その重さに耐えられる人を選んで、秘密という悪事のような、他の人に言ってはだめという苦い蜜の小瓶をひとりずつ預けていく。もちろん、誰にでも渡しているわけでなく、それを渡して大丈夫なヒトにしか言ってはいない。だって、それは私の首を締めれるものだもの。それは、私の心のカケラを渡したしるし。だから、言いたくなればどこで誰に言ってもかまわない。私のすべてのヒミツは私の手の中にしかなく、細切れにその人の心がキズつかないように耐えられるだけしか渡してはいないのだから。それが何か精神的な満足を得るためのコインになるなら、使えばいいだけだし。それで私が笑いもので軽蔑されてもかまわない。どうせ、ずっとそういう生き方だもの。だれにもわかんない私の籠目の箱に入れたタカラモノの横のガジェット。おあいにくさまに、私だって他のヒトビトにさんざんなコトバや仕打ちをいただいていて、泣かないぶんだけの気持ちは返しているのだし、反省や懺悔なんて、墓場に入ってからしようと思っている。あやまらない。人生になど、あやまらない。
July 17, 2005
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それは、いつどうやって、私の心の中に入ってきたのだろう。誰かに甘えたいときがじぶんにさえあることに気づきいてしまって、困ってしまうことがある。へたりこんで座って、もう、置いていくなら置いていってほしくて、見ないでほしくて、でもまた、じぶんで立たなきゃいけないのだけど、誰か私なんか知らない人にひどくやさしくされたいときがあります。眠いのを我慢していると、アタマの芯からいたくなる。やさしくされないように、私を知っているという人からやさしくされないように、我慢していたら、体のあちこちの神経が疼きだす。そんなもの、誰にもわかって欲しくなくて、わからないままひどくやさしくされたいのです。息が詰まりそうなほど、じぶんの息からあふれたクエスチョンマークがいっぱい。それらが細胞分裂をはじめた頃、眠りが私をさらっていく。水の底へ、階段の下へ。光の闇の中へ。そして、小鬼の待つ暗闇へ。ここで、プツリと終わらないかと時折に思うけれど、それでも私はここに戻って来ていて、もうどこにも帰る場所などないのをもいちど思い出す。絶望の上に楼閣を建てて、それはいつまで立っていられるのでしょう。じぶんがつくったいくつもの砂の城。城壁さえもつくったそれをこわす手を、私は持たない。閉じた目の奥の空の青みのもとで永劫回帰を思い、明日の晴れやかさを祈るだけ。
July 16, 2005
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弱いアルコールはよくない。中途半端な酔い方はさびしさやせつないような不思議な感覚を引っ張ってくる。夏の灯り。高層から見る屋台の灯り、ビルに映るイルミネーションの影。水面をすべるぼんぼりを灯した船。すべてが、回り灯籠のように見える。そこは歩く場所じゃなくて、やはり眺めるだけの場所。道をいくゆかた姿のムスメや、肩をあらわにしたムスメの足は、きれいなペティギュアに彩られ、極彩色の金魚が泳ぐかのようだ。ふと、じぶんの足を見る。あまりの変形ぶりや爪のひびに、さみしい気持ちになった。アキレスを両方の足がかばいあい、次は甲側がかばう。もう、今年はあまりあわてていない。まだ、思いあぐねているけれど、何がしたいのかまだじぶんで明確になってない。いっそ、足をきれいにケアしてもらって角質などもきれいになくしてしまおうかな。それから、考えようかな。そしてまた、後悔したりするんだろうか。それとも、よかったと思うんだろうか。いろいろ、思う時期かもしれない。タイムリミットがいろいろと迫っている。一日の眠りのハードル、7月という閉まりかけた扉、私というもの。夏のイルミネーション。いつも駆け足していて見られなかったそれを、今年はどこかで見るのだろうか。
July 15, 2005
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眠くて眠くて、とろとろ落ちていく私のカラダ。目やくちびるがふわっと溶けて、皮膚や筋肉が骨をすべるみたいにするっと。いっときマシだったのに、また眠いかんじなのは、暑さでお昼寝したいカラダになっているせいかもしれません。ふるふるっとコンビニで売ってる豆乳花みたいにくずれそう。支えがほしいんだけど、ゆらんゆらんしてるのも気持ちよくて、ぽんと、やわらかい布団の上にカラダを投げだしたい。睡魔が耳元からざわっとやって来る。ああ、早くおうちに帰ろうか、それとも運動しに行こうか、それとも。私のお気に入りのぬいぐるみはどこだろう。ひとつ抱えると安心。ほう...また軽く浅く寝落ちてた。神経はちゃんと感覚を保ってるのだけど、チカラが入らない。だるいわけじゃないから気持ちいい。眠ってないのに寝汗がでかけてる。今日は静かで待合室にいるみたいだ。
July 14, 2005
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祈りというのにはいろいろあって、それが道具を使ってのウィッチクラフトや陰明法であったり、念動力や透視だったり予知だったりするのではないかと思う。すべては意識の発生にはじまり、ベクトルによる伝達で変化が起こる。話がややこしいのは、意識には顕在意識と無意識、筋肉にはインナーとアウター、呼吸には有酸素と無酸素、うん?あってるかな?二面性とそれぞれの関与があるからかも。念力を筋肉や視聴覚に至る意識の一部としてとらえたら、アウター←念力→インナーであったり、その前段階のステージとして、筋肉の感応←念力→視聴覚の感応あるいは筋肉の感応→念力←視聴覚の感応の存在を仮説として立てられる。意識で動かしやすいのって、それぞれどっちなんだろ。いや、この設問じたい間違ってたりするのかな。たしかにインナーマッスルは無意識に深く使役されているが、アウターマッスルの無意識的な瞬敏性には劣る気がする。意識の指示がアウターにダイレクトに向かって、インナーをアウトラインから誘導するような感覚を持つときがある。念力のなかでも鉄柱曲げてしまうような、触れずに動かすような念動力とか気功ぽいのは、インナーとアウターの延長線上に架空から実在として産出されているかんじ。(目から光線の出るアヒル?)おもしろいのは、インナー鍛錬派もアウター鍛錬派も、アウトラインにこだわるとこかなあ。こんな細いヒトがこんなパワーとか、鍛錬されたハガネのカラダとか。両方認めたり相容れないとこに、オールマイティでの限界はありそう。ただ、カラダはソフトもハードもじぶんでつくるんだし、好きずきカスタムメイド。手でしたほうが早いなら、念力じゃなく手でしたほうがいい。と言った超能力師さんは、とてもバランスがとれてる気がした。
July 13, 2005
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どこでどうコトバのボタンを片方のホールに合わせまちがえたのか、では、ここでさようならと言われ、急に現実感をなくして世界も見失って、じぶんが迷子になったみたいな感覚になった。もしかしたら、置き去られた感覚かもしれない。楽しい場所やにぎやかな場所にいくのを警戒するこどもだった。かといって、留守番に置いていかれるのもいやだと泣いていた。親たちは、私がもういらなくなって、その華やかさに私が有頂天になっているすきを見て、置き去りにしていくのだと思っていた。帰ってくると言って、もう帰ってこないのだと思った。そうして、親を信じた私は、信じたじぶんの愚かさを責めて泣く。大人になってもそんなことがあった。だから、この世を夢やツクリモノだと思っていきようと考えた。私がしたいように、人にかまって、たくさん遊んで、欲しいものなどなくして。今日もいろんな音でこの世界はごちゃごちゃにあふれている。そう、そのせいで眠いのかもしれない。うとうと眠ればもう、私のなかに続きはない。
July 12, 2005
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カラダの歪みを治さなきゃっていうのは、いつくらいから声高に言われるようになったのだろう。たしかにそうなんだけど、まっすぐなら切り刻もうがチカラづくでもいいかというとそんなもんでもないだろう。整体、鍼灸、マッサージ、外科的処置、どれでもいいのだけど、結局はそれを扱うヒトとかかるほうの身体コミュニケーションかなあって思う。もちろん治す作用を加えるほうはテクニックも意識レベルも問われるのだけど。たとえば、鍼灸なんてピンキリ。エルダーシスターは、治る気のある体とそうでない体があるって言うもの。これは治りたい体や心を持つほうの意識レベルのことだよねえ。治りたいという気持ちはもちろん、治ったらまずいんですと思ってる潜在的な部分との折り合いもあって、自分でコントロールできない部分も関係してくる。折り合いついてないと、いくら鍼を入れても治る方向へいかない。だって、それは治る=変わることを脳も神経も筋肉も、ココロが拒否してるのだもの。悲しみや恐怖や怒り、それらが病を通してその人に見える気がする。
July 11, 2005
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眠るのがこわい。わけもわからずそんな夜があって、戸締まりを見て、部屋やクロゼットをひとつずつびくびくしながら確認して、なぜかいつもの部屋では眠りたくない。なんとなく視界がよくなくて、耳もあまりよく聞こえなくて、家の中で振り返り振り返り、オルゴールのモーツァルトを聞きながら、フラワーレメディを飲む。確認してもいつまでもこわさは消えてくれない。モーツアルトの曲でくるったリズムは戻ってこれるかな。明け方に失態をしてから、カラダがおどろいたのか月のさわりまで超特急でやってきた。少しの血にも敏感な猛獣みたい。ひどく、つらい。眠いのはほんとに昼間からそうなのだけど、なんだかああ、そうかも。安心したいのかな。こわがらなくてもいい理由をさがすのだけど、どこにも見つからなくて、本当はずっとさがしてるのだけど、どうしてもそれじゃないような気がして。いや、見つかったアインは、すぐに失ってしまって、また、ひとつひとつの物音におびえる夜が戻ってきた。ずっと小さな頃からそうやって眠ってきたような気がする。
July 10, 2005
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あの脱線事故からしばらくたった。仕事での知り合いは、1両目にいてかすり傷だけで済んだけど、夜は思い出してこわくて眠れないと聞いた。電車に乗るのにも少し時間がかかった。ケガしてしまったヒトの回想をテレビで放映していた。息が詰まりそうだった。早く回復できることを祈ってますとか、そんなコトバは思い浮かばなかった。それは本人が一番思ってることなのだし、祈ることで済マークというのがそこでおわりのようできらいなのです。運転手を責めるコトバや電鉄会社を責めるコトバはなかった。生に関する、自分の生と見知らぬ人の生を問い直している姿しかなかった。イギリスで起きた同時多発テロを思った。バスや地下鉄で、死者や負傷者がでた。それもVTR編集によるものかもしれないけど、だれかを責めるより、ヒトを思うヒトの姿が映っていた。何かを憎まずに生きていこうとするその人々の姿に、尊厳と感謝を思った。それは、平和のつくり方ではいけませんか?
July 9, 2005
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ジムの更衣室で、 男のヒトかと思った女性。ええと、ボディビルダーさんだ。 運動の方向性でこんなに カラダは違ってくるのですね。昨日も会った。 私が板1枚上げるのにひーこら言ってるのに、マシンがあくのを待ってた その女性は、15枚は うあっーと声を出して上げてらした。 マッチョ仲間の男性が すすーっと近づいてきて、マシン横で補助に回った。金属の板を落として危なくならないように、バーをサポートしたり、相手の動作や間合い、息使いにあわせて初動の思いときだけ軽く上げるのを手伝う。うあっと声を息とともに出す女性の背中には、くっきり筋肉のラインが浮かび上がる。男性がゲイになる気持ちが 少しわかったような気がした。練習が真剣勝負だなあ。チカラを抜いてするタイプのダンスなどとは、少しばかり趣がちがう。インナーとアウターの筋肉使用時の差かも。オールorナッシングでどっちかしか動かしてないというわけではないのだろうけど、 目で追いかけて失礼だったかもしれないが、どうにも追いかけてしまう。 そういう美しさや強さの表現もあるんだ。あらぶるだけではない、知性というのがアウターマッスルに見えるヒトがたまにいる。その女性の背中はやはり女性のもので、 美しかったです。
July 8, 2005
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ちょっと弱気になって、化粧水と美容液とクリームを買ってみた。ハーブティとローズヒップオイルという4、5年来の定番も気に入ってるのだけど、プロが調合したのも試してみようかなと、OEMしてるところのを買った。そして、うわあ高いなと思いながら定番中の定番のようなとこの美容液。まだ、それは使ってない。化粧水とクリームでじゅうぶんぽい。これ以上したらコテコテになりそう。カラダの筋肉の流れはわりと知ってるつもりだったけど、顔の筋肉についてはよく知らない。きれいな美容部員さんに聞いて、へえーだった。そういえば、顔筋マッサージなるものの本が書店に並べられていた。肩凝るように、顔凝りもあるのかあ。たしかに、頬骨のあたりがいたかったりする。内蔵からの連鎖ですね。顔をた頭皮をきちんとマッサージしにいきたいような、お年頃になったのかも。といってるまに、クリームは吸収されてさらっとしてくるのですね。足の角質や爪は、どうにもじぶんでできない難易度の高いダメージになってしまってる。これこそプロにお願いするしかなさそう。いままでじぶんでしてたことを、ヒトさまにお願いしようと決心したとき、なんかぽーんと心の中の鎖が切れたみたい。また、好奇心のかたまりみたいになってしまってる。なんでも試してみたいおバカなお年頃ですな。
July 7, 2005
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こころの話が気になると、某日某所でおっしゃるかたがおられたので、関係あるのかないのかわかんないけど。そだ、私はココロとカラダはカタカナを好むのです。心というものは捨てました。体というものも。さあ、どこぞに置き忘れたときに誰ぞに踏みつけられて砕けてしまったような気も。なくしてしまったことに気付いてあとずさりして、カケラのようなものを小さなゴミやほこりといっしょに集めて、ガラス瓶に入れてしっかりフタをして。あら?どこへやってしまったのだろう。しょうがないので、ココロとカラダというのを鋼鉄線でうんうん作って、もう一回、心や体に、心や体に、心や体に、はしたくなくて、精巧にそれらしきものにして強靱にしなやかなハリボテを作ってきましたが、時間切れもそろそろ気になります。鋼鉄線がああ、ああ、ぎしぎしいってます。こころ/からだというのはやわらかで可塑性があってよいのですが、生身の分だけキズに弱く、すべてをまるごと受け入れることは不得手のように思われます。ここまでは欲しいけれど、ここからは許容範囲を超えてしまうという具合に。これは欲しいけれど、これはいらないという具合に。心とか真心というのは、どうにもナショナリズムに近いほどのナルシシズムを感じてしまいます。体、身体、これは同じような気になりながらアナグラムを紐解くようにつぶさに見ていけば、その迷宮がもつものに大きな隔たりがあります。あらま、もうこんな時間。A4の白紙の枠を肥えてしまいました。それに、少しくたびれたかもしれません。機会がありましたら、また、日をあらためまして。ああ、そうでした。落としモノは壊れモノになってないから拾われるのでしたね。
July 6, 2005
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最近は、観光バスの中でも物品販売をするらしく、ずっと提供されていたどこぞとの共同開発のコーヒー、バスのカタチのチョロQなどが紹介される。たしかに飛行機ではしていたことだけど。旅館でも、大浴場にシャンプーやら石鹸やら化粧水やらがいろいろ並び、みやげものコーナーで販売されている。ああ、お茶請け菓子も朝食のふりかけも。お試し実感販売ですね。愛・地球博の公式おみやげコーナーは戦場だった。レジへ向かって2ヶ所で3重の列ができていた。こらえ性のない私は。行きません。大丈夫、同じものが帰りのインターチェンジにありました。といって、それはそういうの欲しいヒト用で、ちがうのですね。じぶんが欲しいのしか、おみやげに買わないのです。しかしですね、これだけどこへ行ってもあれを買えこれを買え、雑誌を見てもあれを買えこれを買え。大量に入る新聞チラシ、セールのご案内チラシ。エステの割引チケット。逃げてしまいたいかんじ。みんな、シアワセを買うのだよ、愛を買うのだよ、そんなこと言うクリエイターさんもいたけど、悲鳴をあげそう。欲しいものはなんですか?それを買ったら、もう満足なのですか?それとも、それを買って何かすることで、満たされるのですか?欲しいもの。欲しいもの?
July 5, 2005
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そうなのです。外側と着るものでごまかして、女ノヒトとしての寿命のばしてます。でも、消費期限はタイムリミットきわきわ。恋する踊りは踊っても、恋愛するチカラはもうきれたような気がいたします。いえ、はじめからなかったような気もいたします。あとは、お茶らけおまけのアヒルの人生。っていうのは逃げなのかな。恋愛するチカラをなくさせるというのは自然の摂理として、母性と交換なのかな。アインのお世話をしてから、どうにも、年齢にかかわらずおかあさんポジションになってしまう。大丈夫です。げろってなられても犬で慣れてますから。甘えて後ろからどん、されてもへこたれません。いや、実際するのはよその犬くらいです。という部分はさておき、ちょっと、あかん。緊張感がなかったせいか、電車の窓に映ったじぶんがしょぼーんとなってる。たいそう美しいヒトが前のシートに座ってらして、着るモノや持ちモノのセンス、流行を追わないじぶんにあった化粧や手入れされた手足やら、見事だった。緊張感があるヒトだった。すぐマネしたくなるのです。あかん。こんなしょぼくれた顔では。漫然としててもオモシロない。反省しきり。show must go on.で生きて行かなくては。ということで、こぎれい計画を立てることにした。こぎれいにはお金か時間かのどっちかいる。ええと、半々で。なにわのおかん度も少し下げなくちゃ。ああ、さっそく髪の毛なんとかしよう。
July 4, 2005
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なんででしょ。愛・地球博に行く前々日にロンドン同時多発テロがあった。私はどこかに追悼の意を示すものがあるんじゃないかと思ってた。たしかにアラブの国も来ているけど、これは五輪オリンピックと同じじゃないのかな。たしかにエコロジーがテーマで、レジ袋燃やしちゃいけないってあんなに言われてて、ダイオキシンが出るからって忘れてるような私なんだけど、いや、じゃあ、はじめから作らないで、渡さないで、素材変えてとか思うような私なんだけど、イベント博覧会以上の観光誘致博覧会以上の企業アピール以上の、何かがたりんかったような気がした。もう一回くらい、行くつもりなんだけどね。誰かが、ロンドンにいなくてよかったとは思わないと書いてた。理由はわかんないけど。そですね、アラブの人々にしたことをそれした側の国の人々がされたって見方もできる。あなたは私で、私はあなた。隣人を愛しなさいと言って、同じヒトなのに悪魔と呼んで先に爆弾投げたのは、ミスター・プレッツェルとジョンとポチと、ええと。まだあるんだな。恐いモノ知らずのポチの国でも。ベトナムの少女をだまして連れてきて客をとらせて、あっ、じゃ、そのお客さんて、日本人だよねえ。どこの国のヒトだったかな。なんかで言ってた。お前の国が俺の国のムスメにしてること、俺がお前の国のムスメにして何がいけない?って。ロンドンで白人に言われた。ハウマッチ、チャイニーズ?すんませーん。日本人でーす。
July 3, 2005
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昔、サーカスの娘になりたかった。バレリーナになりたいと思うのは世の娘の常として、よくわからないままに夢を見ていた。本当に見に行けたのは去年。子供の頃、サーカスに連れて行ってあげると親戚のヒトが言ってくれてた。でも、熱が出て私はベッドで寝ていた。去年見たそれは少し洗練されていたけど、サーカス団がいなくなった空き地を見ていると、いつが昼でいつが夜か、リハーサルと本番を繰り返して練習に追われて日付も時間も失っていくような、そんなものに憧れたのかもしれない。ある意味、今がそうなのかも。場面が書き割りのように変わっていくけど、私はやっぱりじぶんのままそこにいて、どんなテーマがきても、できうるすべてを探そうとしてる。星の王子さまが誰も聞かなかった質問をした。上手なウソがつくれそうになかったので、じぶんの中で正直に思うところを話してしまった。すると、もう、ウソができなくなる。かつてないじぶんに対する素直さである。そういうカラダに変わったのかも。神様の手の中で生きていようと、プログラムによる夢でもなんでも、やっぱり、中にココロが入っているようで。トランジットでじぶんを見失うのも見つけるのもそのヒトしだい。入れ子の世界観は、百億の昼と千億の夜以来変わらないのだから。さ、次のとこへ。
July 2, 2005
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