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2009.04.26
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カテゴリ: カテゴリ未分類
トウキョウソナタ
黒沢清監督


(つづき)-4-

つまりここに描かれる竜平の失業や家で父親の権威をふるうことも、健二のピアノや貴の外人部隊志願も一つの契機であり、物語を進める素材であって、それを使って描かれるのは、家族内の役割に埋没した4人が、一人一人の個人を生き、その上で家族を構成するという、家族のあり方の変質なのだ。若い息子2人は自らそれを始めるが、竜平にとってはリストラ・失業というショック、恵には後半で描かれる事件が必要だった。「誰かここから引き上げて~!」と恵が悪夢に魘されるように、自分だけでは現状からなかなか脱出できない。

この映画の原脚本を書いたのは東京に居たことのあるマックス・マニックスというオーストラリア人。それを黒沢清監督と弟子の田中幸子が加筆・修正した。マニックスが日本の家族や夫婦・親子関係に見たもの。そしてそこに黒沢監督が興味を感じたもの。それは没個性を前提とした、役割主義ではないだろうか。健二は音楽あるいはピアノに類稀な才能を持ち、本人もその実現を欲した。しかしこの家族内で求められるのは、そんな自己実現ではなく、単に従順な子供という家族内での役なのだ。

健二はある経緯から学校で担任教師の実像を暴いてしまう。同級生たちは「革命だ!」と騒ぎたてるが、何が革命なのかと言えば、先生と生徒という役割主義の破壊なのではないだろうか。先生という役の担任と、生徒という役の健二が、先生と生徒という関係を演じるのではなく、生の人間としての担任の姿を剥き出しにしたのが健二の行為だった。そしてこの構造はメインの物語である佐々木家の物語と相似なのだ。

オーストラリア人が日本の社会に見て感じたこと。ボクとしてはもう連想するに事欠かない。それは例えばもう半世紀も前に丸山真男が『「である」ことと「する」こと』で指摘したことにもつながるのだけれど、ここではやや脱線気味だが岸恵子の書いていることをちょっと取り上げよう。岸恵子はフランス人映画監督イヴ・シャンピと離婚後、娘デルフィーヌと二人で暮らしていた。ある日デルフィーヌは一人暮らしを始めると言いだす。岸は一緒にいれば良いじゃないと言うが、娘は「お母さんといると自分が自分でいられない。」と言った。別に二人は親子として仲が悪かったのではない。

(つづく)








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Last updated  2009.04.26 17:41:25
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