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2009.04.26
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カテゴリ: カテゴリ未分類
トウキョウソナタ
黒沢清監督


(つづき)-その5-

制限字数で途切れてしまったけれど、母・岸恵子と暮らしていた娘・デルフィーヌは一人暮らしを始める理由として、「お母さんといると自分が自分でいられない。」と言った。良くも悪くも、親と一緒にいると、子供はどこかで、多かれ少なかれ、親の目に写る子供を演じてしまう。それは良い子を演じるという場合だけではなく、親に反抗的な場合も同じことだ。もちろんこれは親でないルームメイトや恋人との同居の場合も似ているが、本質は違う。この場合は自ら選んでの人間関係であり、解消も可能だが、親の場合は与えられた、解消不能の関係であり、それは無言の心理的圧力をともなっている。特に子供の側に。

家族のあり方、人間関係や社会のあり方で、どちらが正しいといったことは簡単には言えない。オーストラリア人である原脚本家が日本人のあり方に自分との違いを感じたのは当然だとしても、明確に意識しているかどうかは別として、この日本人あり方に違和感を感じている日本人が少なからずいることも確かだ。自分はそうだし、黒沢監督もそうだろう。

この物語は、各人の個性化(個性実現)の上に新しい家族関係を再構築するという物語なのだ。映画には竜平と同じように会社をリストラされ、やはり家族には言えずにフェイクの生活を続ける黒須という人物が登場する。しかしこの家族は、黒須も妻も娘も、家族内の役割を演じることにしがみつき、それぞれの個性実現による新しい家族関係の構築ができなかった。それは不幸な結末を迎えることになるのだけれど、役割主義の破綻ということだ。映画前半を見ていて、それは(写実的あるいは自然主義的という意味で)リアリティーがあるようで、黒沢的非現実感の濃い世界でもあるのだけれど、いったい黒沢監督がどうこの物語を後半からラストに向けて展開するのかが興味津々だった。そうしたらやはりやってくれました。ただでは済まない黒沢監督の「映画」でした。これまでのホラー・サスペンス系の黒沢作品を裏切らない「黒沢映画」の世界。役所広司の登場と同時に正に黒沢清独特の映画世界に突き進んでいく。

(つづく)








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Last updated  2009.04.26 17:44:51
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