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このブログでも何回か書いたことがあるが、伯母の一人に、未婚で最後は特養に入居して、そして亡くなった伯母いた。彼女が飼っていた猫は私が預かり、その後20歳まで生きた。 この伯母は、ある意味私の反面教師となった人だ。一人で生きることの虚しさや孤独をこの伯母から学んだ。もちろん、一人で生きている女性の中には、充実して幸せに暮らしている人もいると思うが、伯母はそうではなかった。 最後は痴呆の症状がひどくなり、私のことはもちろん、自分の妹である私の母にこともよくわからなくなった。 その伯母が特養に入居する前、痴呆の症状がひどくなり始めた時に私に、「私がどんどん壊れていくの」と、抑えきれない不安を訴えたことがあった。ずっと忘れられない、たぶん今後も忘れることのできない言葉だと思う。 人は、正常から異常へ、一足飛びに変化するのではない。徐々に自分の体が蝕まれていくその過程を、痴呆症状を患う人々も他の病気の人たちと同じように経験するのだ。その不安は想像を絶するものがある。 人はいつまでも若く健康ではなく、誰にでも老いは訪れる。こんな当たり前のことも伯母は私に教えてくれた。
2021.06.10
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2018年4月頃から、母を病院に連れて行くべく、ケアマネさんと一緒に父を説得し続けた。するとケアマネさんが、父が行きつけの町医者ならば母を連れて行っていいと父の承諾を取り付けてくれた。とにかく何をするにも認知症という診断がなければ始まらない。町医者は専門医ではないけれど、小さな一歩でも前進は前進に違いない。 そんなわずかな光明の見えた矢先2018年の5月初旬に、荒れ果てた実家の掃除を友人のYさんが手伝ってくれることになり、掃除道具を持参して二人で実家を訪れた。 しかしこの日、父の様子が変だった。顔色が悪く呂律も回っていない。そんな状態なのに今から床屋に行くという。父は脳梗塞と脳出血を起こしたことがあるので、私はものすごく不安になり、状況の推移を理解できない父をさっさと車に乗せて、そのまま病院へ。病院に着くと床屋に行くつもりだった父は受付で怒り出したが、その場で急に気分が悪くなって座りこんでしまった。そして病院のスタッフに車椅子に乗せてもらい救急室へ。 検査の結果は、胃潰瘍による出血と肺炎だった。こうして父はそのまま入院となった。 今思えば、この日は運命の分かれ道だったと思う。私が実家に行かなかったら父は街中で倒れていた可能性が高いし、さらに友人と車できていなければ、頑固な父を病院に連れて行くことは難しかっただろう。 母を病院に連れて行く行かないで、父と長くバトルを繰り広げていたが、その闘いは、父の予期せぬ入院で呆気なく終了となったのだ。そして実は、この日を最後に父が自宅に帰ることは永遠になくなった。 自分自身が脳出血の後遺症で生活がままならなくなっていた父にとって、母の病気は日常生活の破綻を意味する。だから父はあれほど頑なに母の異変を認めたがらなかったし、病院に連れて行くことも拒絶し続けた。しかしケアマネさんという第三者が現れたことで、外堀が少しずつ埋められ、病院に連れて行くことを了承せざるを得なくなってしまった。逃げ場を失った父は、体調を崩してしまったのだ。当時は私も必死で父を責め立てていたが、今なら追い詰められていたであろう父の思いを少しは理解できる。 父も辛かったのだ。
2021.06.10
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両親の住むマンションの管理人さんから連絡があり、同じマンションに住む方々が、両親について相談する機会を持ちたいとのこと。娘さんにも同席して欲しいと言われた。 その席で、それまで両親が皆さんにかなり迷惑をかけていた経緯が明かされた。 話をうかがい、正直、本当にびっくりしてしまった。 父は、母がいなくなったと住人に訴え、皆さんで母を探しに近隣のスーパーに探しに行ってくれたことは複数回。車道の真ん中を歩く母を見かけて、車で母を保護してくださった人もいたとのこと。ケアマネさんも、今時こんなに親切な方々が住むマンションは珍しいと驚かれていた。両親には私という娘や弟もいるのに、本当に申し訳ないことばかりだ。 住人の中にはご両親の認知症で対応された方もいて、落ち込む私に、皆が通る道だと慰めてくださった。涙が溢れてきた。 この時期から、母はどこかに出かける度に、迷って長時間帰ってこられないことが増えて行った。その度に父が私に連絡をしてきて、実家に行く。その繰り返しだ。 保育専門学校を卒業している母は、同窓生たちと年に何回か会っていた。その日も東京まで同窓生に会いに行ったのだが、待ち合わせ場所に母が来ないと実家に連絡があったという。出社していた私は、早退して実家に向かった。11時ごろ出かけて行ったのに、私が到着した時も母は帰宅しておらず、電話もないと父。夜になり、会うはずだった友人から電話があった。その日、母の友人と初めて話した。そのかたもとても心配してくれていた。友人曰く、2017年年末にも母と会う約束をしたが、かなり遅れて母は約束の店に現れたとのこと。しかし謝るでもなく、席に着いた途端、ずっと話し続け、食事に箸もあまりつけなかったという。背中とかなり丸くなり、身につけていた洋服もチグハグで、様子が今までと違ったと心配されていた。 母はおかしい。この時思い知った。 一旦電話を切ったところで、父が、警察に電話?何で?とおかしな質問をする。お母さんがいなくなったからでしょう?言うと、何言ってるんだ、お母さんはいるだろうと父。おかしな状況が10分程度続いたが、すぐに正気を取り戻し、記憶が混濁していたことも覚えていない様子だった。 思えば、これが父がおかしな言動を始めたいちばん最初だった。 その後警察から電話があり、母の写真を持って警察署に来て欲しい言われた。 急いで実家を飛び出したところ、母が帰ってきた。何やってたの?!と思わず怒鳴ってしまったのだが、母はまた飄々として、ワケのわからない言い訳をする。 この事件を経て、ケアマネさんとも連携し、母を病院に連れて行く必要があることを父に猛烈にアピール。父の声はどんどん小さくなっていった。 ここまで読んでくださった方は、こんな父など無視してお母さんを病院に連れて行けばいいと思われるかもしれないが、私の実家は強くて賢い父が支配する絶対君主制国家のようなところなのだ。跳ね返りな私は、そんな父に反抗して育ってきた問題児だった。とはいえ、それでも父が絶対というその法律を無視するということはできなかった。それは習い性になっていたのだと思う。
2021.06.10
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