ヘイフリックの限界part2

ヘイフリックの限界part2

2016.09.30
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フランス







500年前の中世のヨーロッパでは英才たちは教会の僧侶たちだったが、彼らが議論していたことは恐れらく現在から見れば陳腐なものであっただろう。では現代はどうか。500年も経過すれば現代も「中世」になるのだ。未来の人々から見れば、最先端科学者の議論も幼稚な取るに足りないくだらない研究であるかも知れないし、議論であることだろう。それはスタイルにすぎない。「万物は流転する」も古代のギリシャ哲学であって、キリストも、ブッダも、マホメットの教えも、その時代のスタイルで決められるに過ぎない。


 ・へ2・・・絶対はないのであってその時の解釈がどうかで相対的な理解がされていくのだ。中世の偏見も、いずれは、現代が未来から評価されることとあまり変わらないかもしれない。西洋と東洋も、南北問題も、スタイルの違いでしかない。いずれは古臭いコンセプトになるのだろう。ただ私たちは、現代という世界から逃れられないだけだ。ここで収支を合わせねばならないし、未来の祖先にならねばならないだけだ。


 ・ライフ・スタイルは、個人に与えられた権利であり義務でもあるのだ。どう生きるかが問われてもいる。それこそその真の憲法がない。それは自然であり、天の摂理によって知るしかないらしい。しかし、それはあってなきが如くではない。それこそ自らの人生の問題の所在であるべきだからだ。


 へ2・・・ブッダの悟りは、輪廻転生を断つことだ。常にリセットして生まれ変わることだ。蛇が脱皮するように。









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最終更新日  2016.09.30 08:53:37
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