ヘイフリックの限界part2

ヘイフリックの限界part2

2021.01.29
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読書をしているが時々嫌になる。本当は好きではないのではないかと思うこともある。面白い本ばかりならいいが苦しい本もあるし辛くなることもある。というのも自分勝手な事ばかり書いている気がする時がある。いい気になっているのではないだろうかとも。自分がうまくやったから、・・・とか、こうして成功したということが他人の参考になるのだろうか。真摯なハウツーもあるが、それは必要だろうが、どう生きるか、はその人によって違う。それよりもこの社会が豊かな社会に向かっているかを検証すべきではないだろうか。何が間違っているかを修正しないと「あとのまつり」になりかねないではないか。こうしている間に着々と戦争への準備が始まっているのではないだろうか。


 ・まだ民主主義が確立されたとは言い難いのではないだろうか。この国も、そして世界も歪な成長を遂げているではないか。それは、でき上ってからでは遅いのだ。大衆の手足が縛られていくのではないだろうか。それは国家や、他人が強制して縛るとは限らない。自分の目に見えない心が縛られていくこともある。自分で自分の手を縛り、何もしなくなることもあるのではないだろうか。気がつけば足はコンクリートで固められている。歩くことのできない人間は人間ではない。動物でもない。植物人間だろう。儚い夢ばかり追いかけている子供たちのように自分の手足を縛っているのではないだろうか。時々そんな気がしてならない。



 ・へ2・・・何かに縋ろうとする思いが人間にはあるかも知れない。それは、自分たちの思うようにできなかった太古からの遺伝子がそうさせているかも知れない。現代人ですら、ややもすると自分の手を自分で縛ってしまっている。もう他人のいうことを聴きたくないという。このままでいいという。恋人がどんな目に遭おうと、妻子が殺されようとそれは仕方がないという。「二度とこういう目に遭わないようにしてほしい」と子供を轢かれた親が交通事故に遭ったときいうだけではない。無残に子供を殺された親でさえ言っている。レイプされた娘の親が犯人を殴り殺したという話もとんと聴かない。世の中で何が起こっているのだろうか。分からないことが多過ぎる。自分のしたいことを諦めて、自分の両手を縛り上げているのではないだろうか。それをしているのは他人ではない。自分だということだ。まるで暗示をかけられているのではないだろうか。死んでからでは間に合わない。






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最終更新日  2021.01.29 03:50:31
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