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2013年07月27日
そもそも、アンチエイジングの概念は主としてスポーツ医学の部門から生まれ出た物だと考える。別途美容整形の部門からも派生しているが、今回はチョット話しから外しておくこととする。「現在の身体のレスポンスを長期的に維持したい」とする、少数の成功したプロスポーツ選手のニーズに応じて生まれたのが、所謂一連のアンチエイジングトレーニングである。それは当初運動、栄養、休養の3っつの品質を高めることによって、より長い選手生命を送る可能性を高めると言った物だった。近年、コレが一般人に広く知れ渡ることとなり、例えばボクなども10年以上前からこのアンチエイジング理論なる物に強く興味を示し又、実践もしてきた。しかし最近この世界がにわかに変貌を遂げ始めているのである。そう、アンチエイジング科学なる物が出現してきたのだ。元来、我々の追及してきたアンチエイジングと言う物は、「不老」や「長寿」を目的とする物ではなく、言ってみれば「死へのソフトランディング」を志向する種類の物だった。現在の処、人間の死亡率は100%だと言って良いと思う。つまり、「人はいつか必ず死ぬ」と言うことだ。これは全くしょうがない事実である。しかし、死に方にも色々あってどうせなら、それは楽で穏やかで精神的にも比較的OKな物が好ましいに決まっている。当初のアンチエイジングは如何にこのような理想的な心身の全体的かつ同時的なソフトランディングとしての終焉を迎えるかを最終目標とする物であり、また、その間は出来るだけ長く「良好な健康状態を維持し続けよう」とする物であった。だによって、生活習慣やサイクル、食事内容やその量、トレーニング内容やその強度と量などの相互のバランスがその中心になった一種の科学的健康生活法みたいな物だったのである。しかし、近年、事情が変わってきたようである。生活習慣とかトレーニングとか栄養バランスなどは2の次3の次にして、薬物の投与や、ある種の装置や遅溶性薬のインプラント等、サイエンステクノロジーを利用して寿命を延ばす研究が盛んに行われているようである。従来のアンチエイジングは老化により心身のポテンシャルの低下を抑止するためのもので、寿命を長くすることはあまり考えられていなかった(むしろいかに元気に死んでゆくかが問題だった)現在の科学的アンチエイジングはそうではない、様々な科学技術を用い、ここ2~30年の間に150才まで生きることが出来るようにする計画をマジに立てており、超大国のお金持ちなどがこぞってコレに多額の投資を行っているようなのである。そう言った努力がOKでないなどと言うことは、言わない、頭の良くないボクにはその様なことを言う権利がないからである。しかしですね、「不老不死」の研究は何千年も前から洋の東西を問わず実施されている。錬金術や錬丹術などは東西の代表とも呼べる古典科学の中心の一つである。その結果を信頼し、使用したため若くしてその命を終えた例を我々は博物館の特殊ミイラとも呼べるべき物やあるいは文献によって、よぉぉぉく知ることが出来る。そんな数百年とか、ともすれば千年単位もの過去の話を引き合いに出してどうするのか?現在は21世紀ナノであるぞ!!そんな声が聞こえてきそうである。しかし、諸君、よく考えて欲しい、その21世紀に置いてすら欠損した足の小指一本、舌一枚、まともに戻すことは出来ないのである。ましてや人工臓器など夢の又夢である!確かに人工臓器は一部製作され、使用されている。しかし、使用者にとってのソレは必ずしも使っていて快適な物ではない。人工臓器を含めたいわゆる人工器官に求められる物は何か?それは機能は言うに及ばず、1にも2にも「代謝に適応する」と言うことである。親父にぶち切られた腕を義手にしたルーク・スカイウォーカーは、機能的には問題なくても、生活する上に置いて非常に不快な思いをしたに違いないと思う。あのような代謝に適応していない機械的な装置では、装着感、異物感が消えて無くなることは決してないはずであろうから、又、代謝しない異常能動的なメンテナンス努力は何らかの形で必要であったはずである。今後2~30年の間に心身共に健康な形で150才の誕生日を祝えるような人(お金持ち)が出てくることが無いと言っているのではない。ただ、その時には臓器を含めた代謝に適応した諸器官が何らかの科学的手法で現実の物となっているはずであるし、そうでなければ、科学者は昔の錬丹術や錬金術を笑えないハズである。我々個としての人は種としてのヒトに取って「代謝するべき存在」なのかも知れない。ソレを拒否したとき、その個人、もしくは団体は、体内に派生するある種のネガティブな細胞と立場を同じゅうすることになるかも知れない。その細胞が何であるかと言うことまでにはあえて言及しないけれども、何だか科学の行く末が少し心配になってきている今日この頃である。
2013年07月27日
ビックリしてしまった。正に文字通りのカウンターアタックなのである。大先生にボコボコにされてひたすら頭を下げ続けていたように見えていたのは、ボクが素人目であったからなのですね、頭を下げて相手のコンビネーションブローをかいくぐり目の覚めるようなブーメランフック一閃!まるでレイ・セフォーみたいである。しかも出るところにまで出てしまった「証拠を出せい!」と突き詰めた。いや、いつか誰かがやるだろうとは思っていたが、まさかかのクリエイターさんが直でやるとは思ってなかった。しかし、やっぱりどう考えても「造語にまで著作権」って言うのには、はなっから無理があったように思う。特に音楽業界にとっては、そんなこと言われたらチョットした死活問題である。たとえばカラオケを考えてみて貰いたい、最近のソレはワイヤレス端末を操作して歌いたい曲を選択するのであるが、マァ同じ題名の歌が多いこと多いこと、しかも(全部とまでは言わないが)タイトル以外、歌ってる歌手も作詞家も作曲家も全然違う人だったりするのである。造語にまで「著作権」を適応させてしまった場合音楽業界だけでもこの所謂「偶然の一致」みたいな物を避けるために多額の投資が必要になるかも知れない。ましてやこれをマンガ、映画、ドラマ、舞台脚本、コメディアンのギャグに至るまでを「創作物全般」と言うことで対象として広げると、全くこれはもう絶望的なこととなってしまうのでは無かろうか?「まねされた!まねされた!」と騒いでいる大先生だって、例えば「ワープ」なんてのは「宇宙大作戦」(後のスタートレック)のカーク船長(ウィリアム・シャトナーが若い!)がしょっちゅう口にしている言葉である。吹き替え版では、ハッキリと「ワープ航法」とも言っている。言っとくけど「宇宙大作戦」は製作者の死後50年たっていない、と、いうか、たちようがない(1960年代製作開始、現在も尚、断続的に継続中)それからあのロボットのキャタピラ足なんですけど「宇宙家族ロビンソン」に出てくるフライデーに「影響」されすぎてません?「ロボット」と言う言葉自体、作った人が死んでから69年しかたっていません「70年にせよ!」と言うのなら、この言葉、来年まで著作権有効のハズ(造語に著作権を認めた場合)元々この国は外国の国の言葉を輸入して使うのが大好きな傾向にあります。もし、著作権を70年にして造語までその対照にしてしまった場合、外国からの著作権使用料の請求は大変な額に及ぶのではないでしょうか?「知的産業立国構想」など瞬時に崩壊、後にはぺんぺん草もはえない惨憺たる状況が残るばかりと言うことにはならないのでしょうか?オマケに後進のクリエイターさん達が言論、表現の自由が保障されているにもかかわらず、その権利故に言葉を自由に使えない様な状況に陥る可能性は無いのでしょうか?そうなった場合、将来的に業界関係者の態度は激変するような気がするのですが!?この国は資本主義社会です、だから基本的には大抵の業界は「今後利を生む側」につきます。人の手と言う物は本来かえりやすく出来ているのです。そんなことは医学や人間工学など学ばなくても自分の手で確かめれば幼稚園児でもわかる事実です。人の心もそうなのです(小学生にもなれば分かる事実です)社会の価値観だって同じです(これはもうチョットたったら分かります)ですから大先生におかれましてはソロソロここら辺りが刀を鞘に収める頃合いではないかと思うのですが?
2013年07月27日
今日、家に帰ってみると郵便受けになにやらデカイ封筒が刺さっていた。「うぉぉぉ!これがディオの肉芽かぁぁぁ!!」なんて思ったりしない。だって肉芽はもっともっと小さいのであるし刺さるのはオデコである。で、だれが送ってきたのかというと、その名も「国立国語研究所」・・・なんか、凄い名前である。中を開けるとパンフレットやらなにやら色々入っている。で、一体何の用事かというと驚くべき事に「著作物の使用許諾」って、へ?なんでも、コーパスとか言う物を作るのにいるのだそうである。だけど・・・、ボクの著作物たって・・・確かに、とうひで とは別に筆名を持ってるし、それでチョコチョコ書いたりしてるけど凄くチョットだし、激レア誌だし、ホントたまにだし・・・、それに学校に行ってた頃、「国語」とか「現代国語」とか言う奴で所謂良い成績と言う奴を取ったことがない。そんなボクの文章が一体何の役に立つであろうか?あっもしかして「OKじゃない日本語の使用例」とかですか?マァ、それならそれで良いのですけど(だってその通りだし)例え反面教師としてでもお役に立てて光栄です。だから、使いたいというのであるならば使って貰って一向かまわないのだけれど、許諾書とか言う奴にいちいち著名捺印して、その上アンケートに答えて送り返さなくてはならない。
2013年07月27日
超大国がどうもおかしい、例の「治安維持活動」にもの凄いお金を使っちゃっているのである。もう使って使って、どれくらい使ったかというと受傷や発症をしてしまい、帰国した「治安維持担当員」(ちなみに治安維持は軍が担当しています)に十全なケアが行えないほどにである。これは少なくとも民主主義国家にとっては大変憂慮すべき問題ではないか?「湾岸戦争以降」の軍の活動に対し、超大国の国民が60年代的拒否反応を示さなかったのには訳がある。それは派遣対象となった人々が全て「徴用」された者ではなく「志願」に寄る者であるからである。しかし、彼ら「志願者達」の多くは実を言うとイデオロギー的に志願した者では無い可能性が高いのである。むしろイデオロギー的志願者は少数派で在るかも知れない。その多くは資本主義的志願者とでも呼ぶべき人々で・・・、つまり、その国は非常に狡猾な人員収拾システムのような物をその社会において構築しており、今回の件に関してはそのシステムを最大限に利用したきらいがある。しかし現状から言ってその「治安維持の試み」はお世辞にも良好で在るとは言い難い。その結果傷病者のケアシステムが破綻しつつあるらしい。その一方でその国の中に所謂「壁の街」が出現し、日を追うに従って増殖しているらしいのである。「壁の街」がどういう類の物であるかは書き控えるが、仮にも「ボーダレス」を提唱する国が自国内に複数以上のソレを内在させるというのは一体どういう事なのか?これでよく国がバラバラになってしまわない物だと驚きの念をかくせない。超大国とはとても丈夫に出来ている物なのだとつくづくそう思う。聞けば人工も3億を超えたと言う、そういう人工の増え方は果たしてOKなのかどうなのか?本当に果たして一体いつまで「合衆」していられる物なのか?「資本主義なんてくそ喰らえだ!だが、他の全てに比べればまだましだ」って誰の名言だったか忘れたけど、その急先鋒が離散するような事にでもなれば世界全部が大騒ぎくらいでは済まない、資本主義的徴兵システムの露呈(格差社会)、街ぐるみでの壁の中への引きこもり(自由の放棄)、傷病兵へのケアシステムの破綻(博愛不可の現状)、3っつのキャッチフレーズのことごとくが実効性を失いつつある事に国民の多くが気づかざるを得なくなってきているのではないか?実はこれらのキャッチフレーズは元々実効性など持っていなかったのかも知れない、しかし、少なくともその超大国の人々やこの国の文化人や知識人は「そうだと思いこむこと」くらいは出来ていた。21世紀に入ってしばらく、ソレが(この国の偉い人においてすら)どうやら困難になってきたように思えてならない。しかし今、現在、資本主義までひっくり返ってしまったら、果たしてこの人間社会と言う物を具体的にどのようにシフトして維持し続けていけばよいのかと言うことを知っている(もしくは理解している)天才的人材が一体どれほど居るのかと言うこと、そして必要に迫られて生まれるであろうその新しい「主義」が、果たしてボクのような余り頭の良くない庶民にも理解しうる物であるのかどうかと言うことを考えると暗澹たる気分になる。(ベーシック言語くらい身につけておかないと都市部では生活できないような「主義」だともう絶望的である)なので、その超大国においては収拾がつかなくなる前に、なんとか上手く事を収めて欲しい物だと切に願う次第である。
2013年07月27日
いつか来るとは思っていた、原理的に来ないはずのない物だし、けれども先延ばしにしたいのもまた事実、だからこそ自分なりにいろいろと努力したつもりだった。思えば、我流で始めたトレーニングも最早30年を越えてしまった。実はここ数年、兆候のような物は時折感じていた。しかし、気づかないふりをしてごまかしていたというのが本当のところである。フレッド・アステアは50代になって尚自らの肉体の衰えを自覚しなかったという。けれども、それはあくまで「自覚しなかった」だけで、客観的事実として見た場合、そのレスポンスの低下は映画の端々に見受けられる。最早ナチュラル系での超回復トレーニングは断念せざるを得ないと思い、トレーニング方法を変えたところ、それまで無理してまとってきた筋肉がアッという間に落ちてしまった。正に正に「あっけない」を絵に描いたような有様にさすがに愕然、元々太る体質ではないので脂肪まで落ち、結果身が軽くなったにもかかわらず、垂直跳びの値に変化なし、けれどスピードと切れは元に戻った感じがする。もともと筋肉が付きやすい体質ではないので、どちらを取るかといわれればパワーよりスピードをとるつもりだった。ダンスの場合、コッチの方が重要だしね、(でも、パワーだって在るに越したことはない。)これ以上、アンチエイジングにすがろうとするならホルモン系のソレに手を染めなくてはならない。けれども、個人的にはそれはチョットリスクが高すぎるような気がする。何よりリコイルが怖い、人間のホルモンバランスというのは複雑かつ微妙なのである、そして一人一人に個人差と言う物がある。いくらお金をかけ、専門家の指導を仰いだところである種の危険性みたいな物はつねにつきまとう。だから、ボク個人としては知ってはいるがあえて手を出さないことにしてきたし、これからもそうである。しかし、事ここにいたり「ソフトランディング」などと言うこともチラリと位はふまえながら生きてゆかなければならない。そんな年齢に、ついになってしまったのだなと、しみじみ思う。
2013年07月27日
もの凄い風であった。どれぐらい凄いかというと、その風音のあまりに眠ることが出来ぬ程である。いつもフレッド・アステアのCDを聞きながら寝るのだけれど、この風音に負けないほどのボリュームにすると余計に眠れなくなってしまう。しょうがないのでその日はフレッド・アステアは諦めて耳栓をして寝ることにした。ボクは普通の人なので、耳栓は一般的なイヤーウィスパーを使用している。しかし、この日の風は「ただ者ではない!」(シャア・アズナブルの名言)やむをえず一クラス上の耳栓を使うことにする。これは材質も色も違う(イヤーウィスパーは黄色かピンクだけどこれは緑)そして膨張力も違う。しかし、この緑色耳栓を以てしても風音を眠るに適した音量に軽減することは出来なかった。やむをえぬ、使いたくはなかったのだが最後の手段であるところのイヤーマフを重ねて使用することにする。このイヤーマフと言うのは通信販売で買ったヘッドホン型耳栓なのである。その遮音性は強力で緑色耳栓と併用すると大抵の音は不快でない程度にまで抑えることが出来る優れものなのである。けれど、だからといって全くOKかと言えばそうではない。難点としてあげられる最も大きな物はこのイヤマフ、かなりフリッツ・フォン・エリックライクな商品、わかりやすく言えばイヤーパッドが強烈に頭を挟み込む類の商品なのである。短時間の使用で在ればそんなに問題はないのだが睡眠は結構長時間なので・・・次第に・・・段々・・・「痛てええ~~よぉ~~っ」「とってええもォ痛てえよォおおおおおおハハハハハーーーッウハハウハハハハ!!」(呪いのディーボの名言)てな感じに目が覚めてしまう。けれどもやはりソコは「人間だもの」(相田みつおの名言)やっぱり眠い物は眠いのである。で、無理に眠ると今度は悪夢を見てしまう。内容はよく覚えていないがエイリアンにアイアンクローされた上に両耳の穴から腹中虫(本当はこの虫の字じゃないけどマァいいや)ニョキニョキとはい出してくるような夢である。そこまで努力して眠ったにもかかわらず翌朝はやっぱり寝不足な感じ、なんだかもう最悪である。それで思ったのだけれど、カプセルベッドみたいなのがあったら欲しいなぁと・・・、例えば真空2重構造とかでもの凄い遮音性を誇り(傍で155ミリりゅう弾砲を撃たれても全く気がつかないくらい)加えてエアコンシステムの布団レス睡眠方式、オーディオ内蔵、購入得点として本体側面にDIOと掘られた金属プレートなんか付けてくれちゃったりして、これなら海底で100年くらい眠れそうな感じなのですけど、どうでしょう?
2013年07月27日
ガソリン代のことである。チョット前まで我がF-104的スクーターにおいては満タンにするとオーバー500円状態だったのだが、それが最近又、お釣りが来るようになったのである。マァ、それはそれでとても嬉しい話なのであるが、以前、絶賛したこの21世紀的フルセルフスタンド(こう書くとなんだか幽波紋みたいである)このごろ段々メンドウになってきた。使い始めこそ、新しい操作感に喜びはしゃいでおれたのだが、給油回数を重ねるに従い「うっとおしいぜ!」(空条承太郎の名言)な気分になってきた。まず、操作レスポンスが悪い、と言うか遅い。案内の言葉を途中カット出来ないのである。だによって液晶操作盤を操作しても機械がセリフを全部言い終えるまで次の画面に切り替わらない。それから静電気防御シートに「手を触れるよう」依頼されるのだがこの機械触れたぐらいでは納得などせぬのである。サッと触れてから給油しようとすると「静電気防除シートに触れてから給油してください!」と決まったセリフを連呼する(それも結構大音量)実際には触れると言うより「力を込めて押しつける」位しないとダメなのである。しかし、何より一番メンドウなのはお釣りを貰う時である。給油を終え、ガングリップを所定位置に戻したら自動でお釣りが出れば話が早いし快適である。なのに、なぜかこの機械から出てくるのはレシートのみ!「謀ったなシャア!!」(ガルマ・ザビの名言)で、このレシートを以て精算機まで行き、レシートのバーコードを精算機のセンサーに読ませて初めてお釣りがもらえるシステムなのである。ところがこのスタンド、給油装置は沢山在るのだが、精算機は3台(4台かも知れない)しかない。だによって時と場合によってはお釣りをもらうために結構並ぶことになってしまう。だが、しかぁし!実はボク、並ぶの大嫌い!!この辺り、凄く不便なのですけど・・・どうしてこんなシステムかと考えるに、きっとセキュリティ上の必要性からなのだろうな、と推測されてしまう。と、言うのもこの精算機、「読み取りセンサー付き防盗金庫」とでも呼べるほどに堅牢な造りをしているからである。(ちょっとジェイムスン教授に似ているかも知れない)かたや給油装置の方は街の屋外自動販売機並みの強度しかなさそうである。だからこのスタンドでは多分現金の殆どは精算機の中に配置させ、以て犯罪の発生を未然に抑止しているのであろう。現行システムに改変するに辺り、恐らくはかなりの設備投資を実施したに違いない。非常に薄利なこの業界においてはかなりキツイ事であったろう、そんな事を考えていると、古い考えかも知れないが世の中「水と安全はタダ」と思えた時代が在ったとするならそれはたとえ考え方として「旧式」であったとしても、とてもOKな事ではなかったのだろうか?21世紀に入り、「水も安全も有料」になってきたようだけれど、そんな予言が当たったからと言って一体何の自慢になると言うのか?このままでいくと「水と安全は高価」となり、最終的には「水も安全も買えない」状況になるかも知れない。恐らくそこまで行くまでに何らかの「抗力」が働いて状況は改善に転じるだろうとは思うけれど・・・、何だか時々偉い人の名言や予言にはウンザリさせられる時がある。
2013年07月27日
えー、いつまでもグダグダ文句を言ってるってのも面白くないので、この辺で話を変えよう、って訳で現在只今のボクのマイブーム、それは首立て伏せであります。首立て伏せって言うのは、いわゆるレスラーブリッジを誰もが楽しめるように容易かつ一般的にしたもので、昔、仕事の必要上習った物です。で、ボクは首が細いのが長いことコンプレックスだったので、この運動も長いことやっていたのですが、ある日突然ソレがコンプレックスで無くなってしまい、時を同じくして首立て伏せ中に首が「ブキィッ!」とか言って凄く痛くなったりしたので、頸椎を痛めたりするのはかなわないと思い、その後首へのアプローチは主としてアイソメトリックス系のソレに変更していたのです。しかも、かのダンスの神様(そう書いてあるパッケージがある)フレッド・アステアも首が細いので(ジーン・ケリーは太いですが)ますます首に対する関心が低まってしまったわけです。ところが、そんな風に過ごしていると、次第に首が凝るようになってきました。整体とかで「バキッ!」とか「ボキッ!」とかしてもらってもしばらくはOKなのですが、やがてすぐに凝ってきたりするわけです。(まいったなぁ、歳かなぁ)とか思っていたのですが、ある日ひょんな事から「アマチュアレスラーのトレーニング」なる物を見てしまい、その中の「首の強化トレーニング」ってヤツが見ていて凄く気持ちよさそう&幸せそう、しかも、どういう縁か、首立て伏せに凄く似ている。なので、数年前を思い出し、やってみました首立て伏せ!前!後ろ!左右!全方向!「バキャッ!ボキャッ!ゴキャッ!グキャッ!」オオ!痛いぜ!痛気持ちいいぜぇ!!ウリリィィィ!!(ディオの名言)と、言うわけで翌日首激痛、超寝違い状態、最早動かすこともママならぬ、けれど忘れられないアノ快感、ちょっと位痛くてもオイラやっちゃうぜ!って実際やったらもの凄痛い(けれどやっぱり気持ちも良い)うぉぉぉ!「ジョジョォォ!俺は人間を辞めるぞぉぉぉ!!」(あくまでディオの名言です、ボクは大丈夫です)今は痛みもとれて、日々快適にやってます。唯一の問題は適正回数を忘れてしまっていること、なので、今はMAX1セットって事にしています。でも、相変わらず首は太くなりません。マァそれはもうしょうがないかと思っています。フレッド・アステアだって細いんだし、ソレはソレでOKなのではないかと・・・、
2013年07月27日
なんだそうである。刀をペンに持ち替えてるだけなんだそうである。「クリエイター」なる者はすべからくそうであるらしい。だから退職金もでないし年金も出ないだそうって、チョットまって、国民年金は出るでしょうよ、もしでないとするならそれはかけてなかったからで、でもアレってかけるの義務だったんじゃぁ?確かに昔は「事実上選択可」だったみたいだけど、ソレにしたって結果もらえないのは自己責任なのでは?「プロとして認めてもらう間での道のりが如何に過酷か!」とか「一歩間違えば奈落の底」って言うけど、あの、それじゃぁプロサーファーだって刀をボードに持ち替えた永遠の素浪人だし、プロとして認めてもらうまでの道のりの過酷さと来たら・・・一歩間違えばそんなメタフォリカルな奈落じゃなくて、重症、最悪死んでしまうケースだってありますよ。プロボクサーだって刀をグローブに持ち替えた素浪人じゃないですか?一歩どころかチョット(ガードを)下げただけでエライ事になっちゃうんですよ、しかも日本チャンピオン位だと(その階級で日本一ですよ)バイトしないと生活できない、世界一になってようやく専業、でも、37才でライセンスなくなるんですよ!プロライセンス取るの過酷ですよ、日本チャンピオンになるのもっと過酷ですよ、世界チャンピオンなんて想像できないくらい過酷ですよ!!なのに生後37年でライセンス返却ですよ、死後50年じゃなくて!競輪選手は刀をハンドルに持ち替えた素浪人?確かに彼らの年収は結構なものです、でも、その代わり定期的に下位の者からリストラですよ!一瞬の判断ミスで落車、選手生命終了なんて事もあるんですよ!!競輪学校、入るだけでも過酷ですよ!個人タクシーの運転手だって過酷ですよ!大型トラックの運転手だって過酷ですよ!一瞬の判断ミスでリアル奈落に落ちてしまいますよ。プロサーファーにだって、プロボクサーだって、タクシードライバーだって家族や子供はいます。「もしも自分が死んだら?」と考えると切なくなることに変わりはないはずです。でも、彼らには死後1年だって何の保証もありません、って言うか死後半世紀も保証してもらえるような権利って一体どれほど在るって言うんでしょう?(墓地だってどうなる事やら分からない様な年月ですよ)なのにもう20年伸ばせと言う、そうでないとグローバルじゃないからだと言う。じゃあ、仮にその超大国が何らかの事情で著作権有効期間を短縮し始めたら積極的にそれに追随するのでしょうか?(かの国にはゲイツとかジョブスとかいわゆる強者がゴロゴロいる、状況は予断を許さないと思う)まるで「世界中で苦労しているのは我々だけ!」とでも言わんばかりの勢いである。ボクが懸念するのはそう言う主張がボクのような一般的な消費者から出会いの機会を奪いかねないという事なのです。例えばボクは今、フレッド・アステアのDVDを19枚、CDを2枚持っています(チョットしたファンなもので)でも、もしかの名画「トップハット」が孫さんトコで無料配信されていなかったら、つまり有料であったならボクはそのコンテンツを絶対に見なかったであろうと言う事実、タダで一本見せて貰っただけで19枚ものDVDを購入したという事実、本当はロバータも空中レビュー時代もジークフェルドフォーリーズも晴れて今宵はも踊る結婚式も踊る騎士も購入したいのだが怖くて手が出せないという事実!!つまりですねぇ、作品が素晴らしければ消費者という者はチョット位無理してでも買いあさりたくなるんですよ!でも、例えソレがどんなに素晴らしい作品でも、出会えなければどうしようもないじゃないですか!!逆につまらない作品なら、誰も有料で利用しようとは思わないので権利を持っていても一銭も入ってこないでしょう(文化や歴史を研究する人達がとまどうくらいのことはあるかも知れませんが)聞けば何でも「造語」なる物にも著作権があって、なんかそれでゴタゴタがあったようで、無力な一般人としてはこれが新手の言葉狩りに進化しないことをただただ願うばかりです。
2013年07月27日
バクテリアの話など出来るようになった。さて、細菌やバクテリアともなればもう意識などと言うことは論外だと言うことになる。それらの多くは最早まともな神経回路すら持ち合わせていないではないか?それでどうして意識的であるなどと言うことができようか?そう、その通りカモ知れない。けれども、耐性菌の事を考えるとどうにも合点がいかない。ソレは人に対しても菌にたいしてもである。抗生物質の発明のきっかけは、ある実験室での培養ミスである。コノ状況下において担当者で有るところの科学者が青カビがある種の抗生物質を分泌してると解釈される現象を「発見」したのである。この分泌物を医学的に応用し、「発明」された物がいわゆるペニシリンなる物であったように記憶している。さてこの偉大なる妙薬の発見者であり、発明者で有るところの科学者は不思議なことに自らの偉大なる発明に対してこう言い残しているのである。「医学がコレを乱用することがあってはならない、その使用は他に有効な治療法が見いだせない場合に限るべきである。」何故その様な事を言ったのか?発明者なら他にもっと大事な主張すべきことがあるのではないか?例えば「その特許権を発明者の死後100年にまで伸ばしてくれ、そうしないとボクやる気なくなっちゃう!」などと言うべきではなかったか?けれども彼はそんなことは言わなかったし、やる気だって無くさなかった。世の中にはつくづくいろんな「先生」がいるものである。しかし、彼の主張が医学において生かされることはついになかった。21世紀の現在に至って尚、抗生物質使われまくりのこの現実、彼は自らの主張における科学的根拠についても明言しているのである。その根幹をなす物がこの「耐性菌の脅威」なのである。細菌の世代交代は非常に短いスパンで行われる例えば一日とか、数時間とか、それより短い物さえ有る。なので、いわゆる「自然淘汰」の原理により投与された抗生物質に菌が耐性を持つようになるのである。しかし、驚くべき事に脅威はその原理に寄る物だけではない。実を言うと抗生物質にさらされた場合、耐性を持つ個体が持たない個体にその遺伝情報を分配することが前世紀においてすでに観測されているのである。だによって現代のいわゆる薬学は常に「新薬」を開発し、開発し、開発し続けなくてはならないハメに陥っているのである。ソレは医学的には確かにネガティブなスパイラルなのですが資本主義的にはどうでしょう?その辺のお話となると難しくて頭の良くないボクには全く分からないので、まぁ、置いておくとして、ボクはその映像を見たことがあるのだが、コレがいわゆる機械的反応で有るとはどうしても思えなかった。(頭が良くないせいかもしれない、しかし、頭が良ければコレが機械的反応に見えるとするなら、ボクはそう言う人達が偉いと言うことは認めるけれども羨ましいかと問われれば必ずしもそうではない)これにいわゆるアポトーシスを考え合わせてみるとどうであろうか?ここで質問「オタマジャクシからカエルへの変態はその個体が意識的に行っている物なのか?それとも細胞レベルでか?あるいは事前になされたプログラミングに対する機械的な反応に過ぎないのか?だとしたらそれほどに精緻な情報を書き込んだのは一体誰か?自然淘汰なる現象はそれほどまでに有能なのか?」カエルの変態とバクテリアの情報分配との共通項は「系の存続の必要性」である。ところで、この国における封建時代の特定階層が抱いていた「お家大事」の概念とその社会性及び実効性には、そう言った物となにかこう、不思議な線形性を感じないだろうか?(バカの考え休むに似たりと言われてしまえばソレまでですが)しかしですね、明らかに頭がよいいわゆるエリートの医学者からもこのような証言をする人がいたりするのです。「観察すればするほどに、私には血球や免疫システムの各々やらが意識的であるように思えてならない。」と、円の話に入ることが出来るようになった。つまり、今までのはいわゆる前振りだったのである。それはまだボクが教育とか言う物を義務として受けていた頃の話である。当時の「数学」(教科書の表紙にそう書いてあった)なる物は当然理想的であり、イデア論的であり、過激なまでにプラトニックで有るところのユークリッド幾何学や、初歩の線形代数などで有ることは今も昔も変わりはないと思う。ある日ボクは0,3ミリのシャープペンの芯を見ながらつくづくこう思った「0,3ミリと言うのは何と細い事か!でも、0,5ミリの芯と何がどう違うのだろう?」要するに少なくとも個人的には使用するシャープペンが0,3ミリでも0,5ミリでも都合上問題なかったのである。続いてこうも思った。「0,2の違いに問題がないのなら0,14ならばなおのことである。」と、言うわけでその日以来ボクは円周率は3と言うことにしてしまったのである。こうすると計算するときに(特に頭の良くないボクなどは)とても便利である。けれども当時の教職者からは強い指導を受けることになった。でも、ボクはその頃イデア論、つまり哲学者としてのプラントンに惚れ込んでいた時期でもあった。だから、「π等という物は欺瞞である、それは直線を以て円を表現するに等しい、そんなことは不可能だし形質的な近似は膨大な多角形となる、しかし円は角を持たないと教えたのは貴方ではないか?」等という理論展開をしてしまった。その結果、ボクの脳みそは文部科学的に「もの凄くOKでない」と言う風に結論づけられてしまったのだが、マァ、ソレはその通りであると思う(要するにボクの頭は良くないのだ)しかし、その時の議論で「直線も曲げれば弧になる」みたいなことを言われ「直線が直線である以上、ソレは曲げられない、弧と直線は絶対的に違う」と主張した。で、「では何が違うのか?」と聞かれて答えに行き詰まってしまった。以来何ヶ月かその事について考え、ある日ハタと「直線と弧では存在する次元が違う、弧は多分1次元ではなく1,5次元に存在する。」と思いついた。ちなみに当時フラクタル次元の存在は数学的に周知であった、ボクは無知なるが故に若い貴重な時を浪費してしまっていたのである(オマケに弧は1,5次元ではないと言う始末である)オマケにその頃になると「次元は0,1,2,3と言う風にとびとびに存在しないというか出来ないのではないか!?」と考え始め、ついには光のスペクトル図(例の紫外線から始まって赤外線に終わる鮮やかなアレ)を持ち出して「次元とはこんな感じに在るのではないか!?」などと思い始めイデア論から離れ、光学に走り波長を知ってガックリ落ち込むなどしている内に卒業してしまった。で、次の学校で所属したクラブの顧問の先生がそう言う議論OKの先生であり、加えて素粒子等という物を教えて貰ったりなどしたわけである。ソレは驚愕であった。ソレまで原子に構造がある事は知っていたが更に小さい粒子(ただしこの粒子、ボク等が普通に眼にする例えばコショウ粒のようないわゆる粉粒とはその存在性が随分と異なる)がそれも大量に存在するのである。その頃は随分いろんな議題が在った「何故サケは遡上するのか?」「進化は単方向か?」「高等生物は本当に高等なのか?」「人類は何故戦争をしながら平和を語るのか?(あるいは語れるのか?」等々・・・いずれも結論は出ずじまいである。それでもボクは諦められないのでこの歳になるまでそう言うことをずっと追いかけ続けている。しかし、ここ数年、ボクを悩ませている一つの疑念がある。それは、「人間の思考は、その対象に対して究極的には負の曲率に開いているのではないか?」と、言う物である。そうなると求める解が如何に簡単な物であっても、その真の解に大して微分的近似は可能であるが決してそれ自体を得ることは出来ず、ソレばかりか更に精度を増すに従いかえってドンドン離れていくことになってしまう。そう言う意味で加速器の進化に伴い今後も素粒子はドンドン発見され続けるだろう、けれどもそう、この考え方は結局の処不可知論である。そしてソレは例え如何に稚拙であるとしても思考し続けることを選択した者にとって余りOKで在るとは言えない物である。ソレを分かっていながら、ボクはここ数年という物思考上の罠とも言えるこの疑念の穴から抜け出せずにいる。相対的であり、非線系であるこの世界において一部の天才を除き線形思考型の脳しか持ち得ない人間がどうして狂気に陥らずに普通に暮らしていくことなど出来るのか?線形ではあるけれでも飛び飛びでもあるからか?(思考は常に睡眠などによって中断される)それがいわゆる量子学的整合性を生んでいるのであろうか?それとも人類はそもそも種として狂ってしまっているのであろうか?
2013年07月27日
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