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”大村純忠”(2022年6月 吉川弘文館刊 外山 幹夫著)を読みました。
領国支配に苦悩しつつ洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となり、天正遣欧使節を派遣した戦国大名の大村純忠の生涯を紹介しています。
日本初のキリシタン大名となり、長崎港を開港した人物として知られています。
1533年に、肥前国の戦国大名・有馬晴純の次男として生まれました。
母が大村純伊の娘であったため、1538年に叔父の大村純前の養嗣子となりました。
純前には庶子の又八郎がいましたが、このため武雄の後藤氏に養子に出され後藤貴明と改名しました。
この相続事情は、家臣団の分裂をきたす原因となりました。
そして貴明は、自らの悲運の根源は大村純忠にあるとして、執拗に純忠を攻撃するようになりました。
純忠は1550年に家督を継ぎ、17歳の若さで大村家を相続することになりました。
外山幹夫さんは1932年長崎市生まれで、長崎県立大村高等学校を卒業しました。
1961年に広島大学大学院博士課程国史専攻を単位修了しました。
1978年に、大名領国形成過程の研究大友氏の場合で文学博士とないました。
佐世保工業高専助教授、長崎大学教育学部教授を歴任しました。
1998年に定年退官して、名誉教授となりました。
その後、長崎県立女子短期大学教授、県立長崎シーボルト大学教授を歴任しました。
2002年に退職し、県文化財保護審議会長、長崎市史編纂委員会委員長などを務めました。
2012年に瑞宝中綬章を受章し、2013年に没しました。
本書の刊行に際して、長崎県長崎学アドバイザーの本馬貞夫さんのコメントが掲載されています。
本馬貞夫さんは1948年長崎県生まれ、山口大学文理学部国史専攻を卒業しました。
長崎県立高等学校教諭、長崎県立長崎図書館郷土課長・副館長を歴任しました。
現在、現在、長崎県長崎学アドバイザーを務めています。
1550年に初めてポルトガル船が来航してから、平戸は南蛮貿易とキリスト教布教の拠点でした。
しかし、イエススズ会の宣教師によって、神社や寺院の破壊が行われるようになりました。
すると平戸領主の松浦隆信は、キリスト教への不信感を高め、宣教師を領地から退去させました。
こうして、平戸とイエズス会の関係は悪化していきました。
1561年に、日本人商人とポルトガル人商人の間で争いが起きました。
宮ノ前事件では、ポルトガル人14名が殺傷されました。
ポルトガル人は新しい港を探し始め、純忠は1562年に自領にある横瀬浦の提供を申し出ました。
イエズス会宣教師は、ポルトガル商人に対して大きな影響力を持っていました。
純忠は、イエズス会士に住居の提供など便宜をはかりました。
これにより、1562年にイエスズ会は肥後国平戸を退去しました。
そして、イエスズ会と純忠は開港協定を結び、横瀬浦に拠点を移しました。
イエズス会は、当時からキリスト教の布教と貿易を一体化する方針を固めていました。
純忠は、貿易の免税、キリスト教布教の自由、教会の建設などの特権を含む開港協定に同意しました。
そして1563年に、純忠は家臣とともに宣教師のコスメ・デ・トーレスから洗礼を受けました。
純忠には、ドン・パルトロメオという洗礼名が授けられました。
キリシタン大名の最初であり、以後、積極的に布教保護の方針を進めました。
その結果、大村領内では最盛期のキリスト者数は6万人を越えました。
1564年に、平山城である三城城を築いてここを居城としました。
この城は純忠の子の喜前が玖島城へ移るまで、大村氏の居城でした。
日本全国の信者の約半数が、大村領内にいた時期もあったとされます。
純忠の信仰は過激で、領内の寺社を破壊し先祖の墓所も打ち壊しました。
領民にもキリスト教の信仰を強いたり、僧侶や神官を殺害したりしました。
改宗しない領民は、殺害されたり土地を追われるなどしました。
家臣や領民の反発を招き反対派によって横瀬浦が焼打ちされると、1565年に福田港を開きました。
さらに、1570年に寒村にすぎなかった長崎を開港し、やがて伝道と貿易の中心地となりました。
1572年に、貴明が松浦氏らの援軍を得て三城城を急襲しましたが、純忠は持ち堪えて撤退に追い込みました。
1578年には、長崎港が龍造寺軍らに攻撃されましたが、純忠はポルトガル人の支援を得て撃退しました。
そして、1580年に長崎周辺の土地をイエズス会に協会領として寄進しました。
1582年に、日本を訪問し巡察中のイエズス会士・アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面しました。
そして、有馬晴信、大友宗麟とともに天正遣欧使節を派遣を決めました。
純忠の名代は、甥にあたる千々石ミゲルでした。
純忠のキリスト教信仰は狂信的として領内の反発を招き、他氏との争いも絶えませんでした。
周辺の戦国大名では、佐賀の龍造寺氏、平戸の松浦氏、武雄の後藤氏などと争いました。
そして、龍造寺氏からの甚大な圧迫があって、1584年以降一時完全に領主権を喪失しました。
しかし、龍造寺隆信が有馬・島津の連合軍に敗れ戦死したため解放されました。
1586年の夏に、兄の死後に長与氏の領地を奪った長与純一が純忠に反旗を翻しました。
純忠は軍を送り、長与純一の浜城を落とし速やかに鎮圧しました。
やがて、豊臣秀吉が島津氏征討のため九州に出陣すると、純忠は秀吉の下知に従いました。
純忠には、既に咽頭癌と肺結核があり重病の床にありました。
旧領は安堵されて豊臣政権下の一大名となりましたが、直前の1587年6月23日に没しました。
隠居生活を送っていた坂口館で、55歳の生涯を閉じました。
三城城下の宝生寺に埋葬されましたが、その後、草場寺に、さらに本経寺に移されたと伝えられます。
しかし、江戸時代の末期に本経寺には見あたらず、墓はどこにあるかわからなくなっているそうです。
大村純忠については、1978年に先学の松田毅一氏の『大村純忠伝』が出されています。
大村藩主の子孫の大村市長らの依頼で、世界史につながる純忠の功績を顕彰する目的で書かれました。
その成果は最先端の日葡交渉史研究というべきものでした。
この書は、キリシタンとしての純忠の側面から把えています。
これに対し、本書は戦国大名としての本来のありかたに注目して全体像を把えようとしたといいます。
著者は長崎生まれの大村育ちで、幼少の頃から20年近くを大村の地で過ごしたそうです。
大学を卒業するとともに、以後20数年にわたって豊後大友氏の研究に専念したとのことです。
いつかは純忠も手がけたいと思いつつ、大友氏研究に目鼻をつけるまで禁欲生活を続けてきたといいます。
そして、その研究に一応の区切りをつけてから、一気呵成に本書を書き上げたということです。
1 若き純忠の時代/2 純忠の領国支配/3 横瀬浦開港と純忠の受洗/4 福田浦開港前後/5 長崎開港と内憂外患/6 教勢の発展と純忠の苦悩/7 純忠の卒去とその歴史的位置/付録1 大村氏の出自と発展/付録2 大村純忠の発給文書/あとがき/有馬氏略系図/大村氏略系図/参考文献/解説・本馬貞夫
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