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大村純忠は戦国時代から安土桃山時代にかけての大名で、大村氏の第12代当主です。 ”大村純忠”(2022年6月 吉川弘文館刊 外山 幹夫著)を読みました。 領国支配に苦悩しつつ洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となり、天正遣欧使節を派遣した戦国大名の大村純忠の生涯を紹介しています。 日本初のキリシタン大名となり、長崎港を開港した人物として知られています。 1533年に、肥前国の戦国大名・有馬晴純の次男として生まれました。 母が大村純伊の娘であったため、1538年に叔父の大村純前の養嗣子となりました。 純前には庶子の又八郎がいましたが、このため武雄の後藤氏に養子に出され後藤貴明と改名しました。 この相続事情は、家臣団の分裂をきたす原因となりました。 そして貴明は、自らの悲運の根源は大村純忠にあるとして、執拗に純忠を攻撃するようになりました。 純忠は1550年に家督を継ぎ、17歳の若さで大村家を相続することになりました。 外山幹夫さんは1932年長崎市生まれで、長崎県立大村高等学校を卒業しました。 1961年に広島大学大学院博士課程国史専攻を単位修了しました。 1978年に、大名領国形成過程の研究大友氏の場合で文学博士とないました。 佐世保工業高専助教授、長崎大学教育学部教授を歴任しました。 1998年に定年退官して、名誉教授となりました。 その後、長崎県立女子短期大学教授、県立長崎シーボルト大学教授を歴任しました。 2002年に退職し、県文化財保護審議会長、長崎市史編纂委員会委員長などを務めました。 2012年に瑞宝中綬章を受章し、2013年に没しました。 本書の刊行に際して、長崎県長崎学アドバイザーの本馬貞夫さんのコメントが掲載されています。 本馬貞夫さんは1948年長崎県生まれ、山口大学文理学部国史専攻を卒業しました。 長崎県立高等学校教諭、長崎県立長崎図書館郷土課長・副館長を歴任しました。 現在、現在、長崎県長崎学アドバイザーを務めています。 1550年に初めてポルトガル船が来航してから、平戸は南蛮貿易とキリスト教布教の拠点でした。 しかし、イエススズ会の宣教師によって、神社や寺院の破壊が行われるようになりました。 すると平戸領主の松浦隆信は、キリスト教への不信感を高め、宣教師を領地から退去させました。 こうして、平戸とイエズス会の関係は悪化していきました。 1561年に、日本人商人とポルトガル人商人の間で争いが起きました。 宮ノ前事件では、ポルトガル人14名が殺傷されました。 ポルトガル人は新しい港を探し始め、純忠は1562年に自領にある横瀬浦の提供を申し出ました。 イエズス会宣教師は、ポルトガル商人に対して大きな影響力を持っていました。 純忠は、イエズス会士に住居の提供など便宜をはかりました。 これにより、1562年にイエスズ会は肥後国平戸を退去しました。 そして、イエスズ会と純忠は開港協定を結び、横瀬浦に拠点を移しました。 イエズス会は、当時からキリスト教の布教と貿易を一体化する方針を固めていました。 純忠は、貿易の免税、キリスト教布教の自由、教会の建設などの特権を含む開港協定に同意しました。 そして1563年に、純忠は家臣とともに宣教師のコスメ・デ・トーレスから洗礼を受けました。 純忠には、ドン・パルトロメオという洗礼名が授けられました。 キリシタン大名の最初であり、以後、積極的に布教保護の方針を進めました。 その結果、大村領内では最盛期のキリスト者数は6万人を越えました。 1564年に、平山城である三城城を築いてここを居城としました。 この城は純忠の子の喜前が玖島城へ移るまで、大村氏の居城でした。 日本全国の信者の約半数が、大村領内にいた時期もあったとされます。 純忠の信仰は過激で、領内の寺社を破壊し先祖の墓所も打ち壊しました。 領民にもキリスト教の信仰を強いたり、僧侶や神官を殺害したりしました。 改宗しない領民は、殺害されたり土地を追われるなどしました。 家臣や領民の反発を招き反対派によって横瀬浦が焼打ちされると、1565年に福田港を開きました。 さらに、1570年に寒村にすぎなかった長崎を開港し、やがて伝道と貿易の中心地となりました。 1572年に、貴明が松浦氏らの援軍を得て三城城を急襲しましたが、純忠は持ち堪えて撤退に追い込みました。 1578年には、長崎港が龍造寺軍らに攻撃されましたが、純忠はポルトガル人の支援を得て撃退しました。 そして、1580年に長崎周辺の土地をイエズス会に協会領として寄進しました。 1582年に、日本を訪問し巡察中のイエズス会士・アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面しました。 そして、有馬晴信、大友宗麟とともに天正遣欧使節を派遣を決めました。 純忠の名代は、甥にあたる千々石ミゲルでした。 純忠のキリスト教信仰は狂信的として領内の反発を招き、他氏との争いも絶えませんでした。 周辺の戦国大名では、佐賀の龍造寺氏、平戸の松浦氏、武雄の後藤氏などと争いました。 そして、龍造寺氏からの甚大な圧迫があって、1584年以降一時完全に領主権を喪失しました。 しかし、龍造寺隆信が有馬・島津の連合軍に敗れ戦死したため解放されました。 1586年の夏に、兄の死後に長与氏の領地を奪った長与純一が純忠に反旗を翻しました。 純忠は軍を送り、長与純一の浜城を落とし速やかに鎮圧しました。 やがて、豊臣秀吉が島津氏征討のため九州に出陣すると、純忠は秀吉の下知に従いました。 純忠には、既に咽頭癌と肺結核があり重病の床にありました。 旧領は安堵されて豊臣政権下の一大名となりましたが、直前の1587年6月23日に没しました。 隠居生活を送っていた坂口館で、55歳の生涯を閉じました。 三城城下の宝生寺に埋葬されましたが、その後、草場寺に、さらに本経寺に移されたと伝えられます。 しかし、江戸時代の末期に本経寺には見あたらず、墓はどこにあるかわからなくなっているそうです。 大村純忠については、1978年に先学の松田毅一氏の『大村純忠伝』が出されています。 大村藩主の子孫の大村市長らの依頼で、世界史につながる純忠の功績を顕彰する目的で書かれました。 その成果は最先端の日葡交渉史研究というべきものでした。 この書は、キリシタンとしての純忠の側面から把えています。 これに対し、本書は戦国大名としての本来のありかたに注目して全体像を把えようとしたといいます。 著者は長崎生まれの大村育ちで、幼少の頃から20年近くを大村の地で過ごしたそうです。 大学を卒業するとともに、以後20数年にわたって豊後大友氏の研究に専念したとのことです。 いつかは純忠も手がけたいと思いつつ、大友氏研究に目鼻をつけるまで禁欲生活を続けてきたといいます。 そして、その研究に一応の区切りをつけてから、一気呵成に本書を書き上げたということです。1 若き純忠の時代/2 純忠の領国支配/3 横瀬浦開港と純忠の受洗/4 福田浦開港前後/5 長崎開港と内憂外患/6 教勢の発展と純忠の苦悩/7 純忠の卒去とその歴史的位置/付録1 大村氏の出自と発展/付録2 大村純忠の発給文書/あとがき/有馬氏略系図/大村氏略系図/参考文献/解説・本馬貞夫 [http://lifestyl e.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【3980円以上送料無料】大村純忠/外山幹夫/著完訳フロイス日本史(9(大村純忠・有馬晴信篇 1)) 島原・五島・天草・長崎布教の苦難 (中公文庫) [ ルイス・フロイス ]
2025.11.08
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伊能忠敬は、江戸時代に全国を歩いて測量を行って正確無比な日本地図を作りました。 長久保赤水は、あらゆる手段を講じて資料や情報を集めて、伊能忠敬より半世紀早く精巧な日本地図を完成させました。 ”長久保赤水と伊能忠敬の二度咲き人生 日本地図づくりに賭けた二人の男”(2025年6月 共栄書房刊 岡村 青著)を読みました。 伊能忠敬は、緻密な測量で正確無比な日本地図を作りました。 長久保赤水は、実測でないものの半世紀程前に精巧な日本地図を完成させました。 日本地図づくりに賭けた二人の男の二度咲き人生を紹介しています。 赤水は1717年に赤浜の農家に生まれ、幼くして父母を失い継母の手で育てられました。 14歳のころ、鈴木松江について学問や詩の手ほどきを受けました。 その後、水戸の名越南渓に学び学問研究に励み、貧困者や病人などを救うために活躍しました。 52歳のとき、水戸藩から学問の功績によって郷士格に列せられました。 後に、水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川に勤めました。 1779年に、『改正日本輿地路程全図』を刊行しました。 地図の正確さ、詳細さ、便利さが喜ばれ、近代的な日本地図の先駆けとなりました。 その後、大日本史編纂の地理誌の執筆にあたり、75歳まで完成に努力し、1801年に85歳で生涯を終えました。 忠敬は1745年に現在の千葉県九十九里町で名主農家に生まれ、横芝光町で青年時代を過ごしました。 17歳で佐原村の伊能家に婿入りしましたが、この頃は家運が傾き始めていたといわれます。 忠敬は薪や炭などの新しい事業を始め、米の売買も関西方面にまで手を伸ばしました。 家業は再び盛んになり、佐原で家業のほか、村のため名主や村方後見として活躍しました。 その後、49歳で家督を譲り隠居して勘解由と名乗り、50歳で江戸に出ました。 55歳の1800年から71歳まで、10回にわたって測量を行いました。 地図の作成作業は当初、1817年暮れ終了予定でしたが、この計画は大幅に遅れてしまいました。 忠敬が地図投影法に不案内だったためで、早急に投影法を研究して資料作りを始めました。 しかし秋頃から喘息がひどくなり、病床につくようになりました。 1818年に急に体が衰えて、74歳で生涯を終えました。 死後完成した地図は、極めて精度が高く、明治以降において国内の基本図の一翼を担いました。 岡村 青さんは1949年茨城県生まれ、諸雑誌のフリー記者を経てノンフィクションライターとなりました。 『満州帝国崩壊8・15』『世界史の中の満州国』『マッカーサーの日本占領計画』(潮書房光人新社)ほか、多数の著書があります。 長久保赤水は江戸時代中期の地理学者、儒学者です。 常陸国多賀郡赤浜村、現、茨城県高萩市生まれで、俗名は源五兵衛といいました。 号の赤水と字の玄珠は、荘子の天地篇から取られています。 農民出身ですが、遠祖の長久保親政は長久保城主となり長久保氏を称しました。 1731年14歳の頃から近郷の医師で漢学者の鈴木玄淳の塾に通いました。 17歳には江戸に遊学し、服部南郭に学びました。 25歳の頃、鈴木玄淳らとともに名越南渓に師事し、朱子学・漢詩・天文地理などの研鑽を積みました。 地図製作に必要な天文学については、水戸藩の天文家であった小池友賢に指導を受けました。 1768年に『改製日本分里図』が完成しました。 1775年に『新刻日本輿地路程全図』が完成しました。 1779年に『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)が完成しました。 1780年に大坂で出版され、赤水生存中に2版、没後3版、修正を重ね発行されました。 茨城県は価値の高い学術資料として、2017年に長久保赤水関係資料693点を有形文化財に定めました。 2020年に長久保の地図や資料群107点は学術的価値が認められ、国の重要文化財に指定されました。 伊能忠敬は、江戸時代の商人、天文学者、地理学者、測量家です。 上総国山辺郡小関村、現、千葉県山武郡九十九里町小関の名主の小関五郎左衛門家で生まれました。 幼名は三治郎、通称は三郎右衛門、勘解由、字は子斉、号は東河といいました。 父親は酒造家の次男で、小関家に婿入りしました。 三治郎の他に、男1人女1人の子がおり、三治郎は末子でした。 1751年6才の時に母が亡くなり、家は叔父が継ぐことになりました。 婿養子だった父は兄と姉を連れて実家の神保家に戻りましたが、三治郎は祖父母の下に残りました。 当時の小関村は鰯漁が盛んで、三治郎は漁具がある納屋の番人をしていたと伝えられています。 10歳のとき、三治郎は神保家の下に引き取られました。 神保家は、父の兄が継いでいました。 父は当初そこで居候のような生活をしていましたが、やがて分家として独立しました。 三治郎は、常陸の寺で半年間そろばんを習い、優れた才能を見せました。 17歳くらいのとき、南中村の名主紹介で土浦の医者に医学を教わった記録があるといいます。 佐原村の酒造家の伊能家は跡取りの婿が亡くなり、後継のミチが再び跡取りを探す必要がありました。 伊能家・神保家両方の親戚の平山家の仲介で、三治郎を伊能家の跡取りすることになりました。 三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りしました。 その際、大学頭の林鳳谷から忠敬という名をもらいました。 1762年12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継ぎました。 このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いました。 忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、後に三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬と名乗りました。 当時の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄えていました。 舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交いました。 村民の中でも特に経済力があり大きな発言権を持っていたのが、永沢家と伊能家でした。 伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていました。 しかし、当主不在の時代が長く続いたため、事業規模を縮小していました。 永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていました。 伊能家としては、家の再興のため新当主の忠敬に期待するところが多かったのです。 1763年に長女のイネ(稲)が生まれましたが、ミチと前夫の間に生まれた男子は亡くなりました。 1766年には、長男の景敬が生まれました。 忠敬は伊能家の当主という立場から、村民からの推薦で名主後見に就きました。 1769年に佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、忠敬の力量が試される事件となりました。 佐原村は不作続きで農民も商人も困窮したため、倹約を心がけ豪華な山車飾り慎むことに決めました。 にもかかわらず、永沢家よりの山車が引き回されるという事態が発生しました。 伊能家は永沢家と義絶すると宣言したところ、各町は山車を出すことをようやく取り止めました。 しかし、佐原で両家の義絶は村にとって良くないため、仲介により両家は和解しました。 この年、忠敬とミチとの間に次女・シノが生まれました。 幕府では田沼意次が台頭し、利根川流域などに公認河岸問屋を設け運上金を徴収することとしました。 佐原村も河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告されました。 商人や船主は公認に乗り気でなく運上は免除願いたいと申し出ましたが、認められませんでした。 その後、紆余曲折ありましたが、伊能茂左衛門と忠敬の2人が河岸問屋を引き受けることになりました。 運上金の金額も、一時は二貫文に上がりましたが、2年後には一貫五百文に戻りました。 この河岸の一件が片づくと、忠敬は比較的安定した生活を送りました。 1774年に、これまで天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となりました。 当初は永沢家が重用されましたが、そのうちに忠敬の待遇も上がりました。 1781年に名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となりました。 名主としての忠敬は、1783年の天明の大飢饉に遭遇しました。 忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど貧民救済に取り組みました。 村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続け、佐原村からは一人の餓死者も出なかったといいます。 この年、忠敬は津田氏から名字帯刀を許されるようになりました。 1784年に名主の役を免ぜられ、新たに村方後見の役を命じられました。 村方後見は、名主を監視する権限を持っていました。 1787年に江戸で天明の打ちこわしが起きましたが、佐原村は役人の力を借りずに打ちこわしを防げました。 佐原が危機を脱してから、忠敬は保有の残りの米を江戸で売り払い多額の利益を得られました。 妻・ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えました。 1786年に次男・秀蔵、1788年に三男・順次、1789年に三女・コトが生まれました。 妻は1790年に26歳で死去し、忠敬は仙台藩医の娘・ノブを新たな妻として迎え入れました。 この頃、地頭所には断られましたが、忠敬の隠居への思いはなお強かったです。 1793年に3か月にわたって上方への旅に出かけ、方位角、天体観測など測量を行っていました。 1794年に忠敬は再び隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れました。 忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由と改め江戸で暦学の勉強をする準備をしました。 1795年に、妻・ノブは難産が原因で亡くなりました。 忠敬は天体観測のための器具を購入し、自宅に天文台を作り観測を行いました。 観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量とも幕府の天文台に劣りませんでした。 忠敬は、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食などを毎日観測しました。 星の観測も、悪天候の日を除いて毎日行いました。 1800年の2月頃に、幕府は、測量は認めるが荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めました。 しかし、船で移動したのでは道中に子午線の長さを測るための測量ができません。 そこで陸路を希望しましたが、測量器具などの荷物の数は減らされました。 4月14日に、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下されました。 忠敬は出発直前に、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に申請書を出しました。 忠敬一行は1800年4月19日に、自宅から蝦夷地へ向けて出発しました。 忠敬は当時55歳で、内弟子3人と下男2人を連れての測量となりました。 寛政12年(1800年)、56歳から、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量しました。 そして、1818年5月17日に73歳で死去しました。 その後は弟子たちが遺志を受け継ぎ、『大日本沿海輿地全図』を完成させました。 二人とも地理学者で地図の作成者、そして農民出身と共通点は多いです。 ただし、二人のあいだには28年の年齢差、時代差がありました。 著者があげる二人の汪目点は、大きく4つの理由があるといいます。 一つ目は、二人にとって50代が人生において大きな転機、ターニングポイントになったということ。 二つ目は、二人が生きた江戸時代中期の平均寿命は、男女とも大体51歳であったということ。 三つ目は、二人とも農民出身であったということ。 そして四つ目は、二人とも引退後に人生を謳歌したということです。 名を成し功をとげた者の常として、地位に固執し守りに入るのが相場です。 しかし二人はまったく逆で、人生に対してまっつぐ、いつも前傾姿勢でした。 政治権力や損得勘定におもねず、打算や思惑などとは無縁でした。 独自の着想で、ほとんど独力でおのれのやるべき事業を全うしました。 死ぬまで現役を押し通し、ずっと青春しながら人生を二倍、それ以上大いに楽しみました。 リタイア後といえども、余生などではなく、現役、いやそれ以上のものです。 人生二度咲きの秘訣は、リタイア後にあります。 二人が試したリタイア後の人生から、私たちは教訓として学び取ることができます。第一章 夢は末広がりに/第二章 身分制度の呪縛をこじ開けた二人/第三章 助走から跳躍へ/第四章 人生を二倍楽しんだ二人の男/第五章 二人の天命/第六章 晩年に引きも切らない大仕事/第七章 生き方まっつぐ [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]長久保赤水と伊能忠敬の二度咲き人生 日本地図づくりに賭けた二人の男 [ 岡村 青 ]清學の士 長久保赤水[本/雑誌] (単行本・ムック) / 横山洸淙
2025.10.25
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アラン(Alain)はペンネームで、本名はエミール=オーギュスト・シャルティエといいます。 フランス第二帝政時代のノルマンディー・モルターニュ=オー=ペルシュ出身の、哲学者、評論家、モラリストです。 ”アラン 戦争と幸福の哲学”(2025年6月 筑摩書房刊 田中 祐理子著)を読みました。 20世紀前半にフランスの思想界に大きな影響を与え、二度の世界大戦を生き抜いた、合理的ヒューマニズム思想家アランの評伝です。 ペンネームのアランは、フランス中世の詩人、作家であるアラン・シャルティエに由来します。 1868年生まれで、リセ・ミシュレやエコール・ノルマル・シュペリウールに入学し、哲学を専攻しました。 リセ・ミシュレで、教師だった合理主義哲学のジュール・ラニョーの講義を受け、後々まで大きな影響を受けました。 卒業後は、ポンティヴィやロリアン、ルーアンに位置するコルネイユ高等学校などのリセで教師を務めました。 1909年から、アンリ4世高等学校に哲学を教える教師として務めました。 過去の偉大な哲学者達の思想とアラン独自の思想を絡み合わせた哲学講義は、学生に絶大な支持を受けたといいます。 レイモン・アロンやジョルジュ・カンギレム、シモーヌ・ヴェイユ、ジュリアン・グラックなどの作家・学者・思想家を輩出しました。 第一次世界大戦が始まると、46歳で自ら願い出て志願兵となり好んで危険な前線に従軍しました。 戦後は再びアンリ4世高等学校に戻り、1933年頃まで教師を務めました。 教師を退職した後は、亡くなるまで執筆活動を続けました。 1951年6月2日に、フランスのル・ヴェジネにて83歳で没しました。 田中祐理子さんは1973年埼玉県生まれ、2000年に東京大学大学院総合文化研究科博士課程を単位取得退学しました。 2000年に日本学術振興会 特別研究員となり、2001年に京都大学人文科学研究所の助手となりました。 2009年に同研究所の助教となり、2018年に同大学白眉センターの特定准教授となりました。 2021年に神戸大学大学院国際文化学研究科の準教授となり、2025年に教授となりました。 東京大学博士(学術)で、専門は哲学・科学史です。 アランはフランス各地の高校で、哲学の1教師として生涯を貫きました。 アランが生きたのは、世界が大きく転換していった時代でした。 第一に、第二次産業革命で人々のライフスタイルが大きく変化しました。 第二に、帝国主義の延長線上に二度の大きな戦争がありました。 第三にロシア革命をはじめとする革命の機運が高まった時代でした。 そして、第四に、1929年にアメリカのウォール街から広がった金融危機が世界大恐慌へと発展しました。 目まぐるしく変化する社会にあって、人々の不安が蔓延していた時期でした。 19世紀末のフランスは、第二次産業革命の恩恵と、植民地からの収益によって繁栄していました。 人々は富を享受しましたが、必ずしも平等に富が分配されたわけではありません。 新興ブルジョワジーが出てきましたが、貧者は相変わらず厳しい労働にさらされていました。 20世紀になると、サラエヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発しました。 アランは1874年、6歳のとき、カトリック系の規律の厳しい学校に入れられました。 冒険譚に親しみ空想を好んだアランは、勉強には興味を示さなかったものの成績は良好でした。 国立高等中学校でも優秀な生徒で、どの科目もよくできたそうです。 教師からは高等理工科学校を勧められましたが、受験には失敗しました。 そして、パリのミシュレ校に進学することになりました。 ここで17歳年上のジュール・ラニョーという教師に出会い、哲学に目覚めました。 とくに、プラトンとスピノザについて学びました。 1892年に24歳で高等師範学校を卒業し、哲学の先生になりました。 その後は、フランス各地の高校を転々としました。 アランはラニョーのことを、自分が出会った唯一の偉人と称えました。 1894年にラニョーが亡くなり、のちにその作品を『ジュール・ラニョーの遺稿』と題してまとめました。 1894年のドレフュス事件では、ドレフュス擁護派の論客として活躍しました。 ドレフュス大尉が逮捕されたのは、冤罪のためでした。 これによって、アランの名は世に知られることになりました。 1900年から、ロリアン新聞にアランというペンネームで寄稿するようになりました。 民衆大学という啓蒙活動に参加し、科学などを教えたり講演や論争したりしました。 1930年代には、反ファシスト知的監視委員会を組織しました。 相変わらず一高校教師であることを貫き、1909年にはパリの名門アンリ四世校に移りました。 引退するまで、この高校で教鞭を執りました。 1925年に57歳のときに、『幸福論』の初版がプロポの数60編で出版されました。 第1次世界大戦前後の執筆した文章から、幸福をテーマとしたものを集めて編纂した書です。 プロポは断章と呼ばれ、短くて独立したコラム的な形式で書かれています。 『幸福論』は加筆され、93編のプロポから成っています。 難解で観念的な哲学書と異なり、平易な言葉で書かれた思索の本です。 アランは1933年にアンリ四世校を退職しましたが、その後も執筆を続けました。 新聞への寄稿も精力的に行い、連載した文章は膨大な数に及んでいます。 アランは、二度の世界大戦を生きた哲学者でした。 一度目の大戦では、徴兵対象の年齢を超えていながら志願兵となってフランス東部の前線に赴きました。 深刻な怪我を負いながらも、3年間の軍役を果たして生還しました。 二度目の大戦では、老境のため戦場に立つことはありませんでしたが、戦争に反対しました。 そして、ナチスドイツ支配下でヨーロッパ各地に生じた民族的憎悪と虐殺の事実に直面しました。 戦争とは石と同じように、無遠慮で執拗に人間たちに圧おしつけられている事実です。 石は情け容赦なく存在する、石は私たちの同意を必要としません。 厳然としてそこにある事実たる石を前に、純然たる理念の絶望的な弱さの直視から出発します。 人々がこの理念の方に向けて、石から離れる一歩を踏み出すことを願い告げるといいます。 アランは生涯独身を貫いていましたが、1945年に77歳のときかつての恋人と再会して結婚しました。 そして、1951年に83歳で亡くなりした。 数々の教室や、より広く人々に哲学や科学を講じる民衆大学などで、終生、教師であり続けました。 アランは、短く、一見とてもシンプルとも思える言葉で、自分の哲学を伝え続けました。 一つの主題ごとに便箋2枚ほどの言葉で書かれるプロポは、手紙のように読者に話しかけました。 しかし、語り続けた言葉は、甘くやさしいものばかりではありませんでした。 正義や真理は最も強いものなどと、決して言ってはならないといいます。 現実離れしている理念が、それ自体で最も強いものとしての力を持つことはあるわけありません。 美しい理念と私たち人間の関係は、決してそんなに都合のよいものではありません。 だからこそ私たちは、幸福であろうとしなければなりません。 いま現実としてないものだからこそ、それであろうとします。 いつでも、すべての力を振り絞って私たちはそれを求めなければなりません。 「アラン?彼はいま煉獄にいるし、おそらくはしばらくの間そうだろう。」第一章 〈共和国〉の申し子―アランの生と哲学/第二章 なぜプロポで語るのか/第三章 第一次世界大戦と『マルス 裁かれた戦争』(1921年)/第四章 鏡でしかない知性の時代へ/第五章 第二次世界大戦との戦い/第六章 煉獄の思想―人間はどれほどのことができるのか [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]アラン 戦争と幸福の哲学 (ちくま新書 1862) [ 田中 祐理子 ]【中古】 アラン『幸福論』/哲学・心理学・宗教(その他)
2025.10.11
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藤原広嗣は、生年不詳、奈良前期の政治家で式家宇合(うまかい)の第1子です。 母は蘇我石川麻呂の女で、弟に綱手・良継・田麻呂・百川らがいます。 ”藤原広嗣”(2023年12月 吉川弘文館刊 北 啓太著)を読みました。 藤原式家宇合の嫡男に生まれ出世街道を歩んでいましたが、突如左遷されました。 後に内乱の首謀者となって蜂起しましたが、敗死してしまった藤原広嗣の生涯を紹介しています。 宇合は藤原四子の一つで、藤原式家の開祖です。 藤原四子は、中臣鎌足の息子である藤原不比等の子供です。 四子はそれぞれ独自の家を起こして、当時隆盛を誇っていました。 武智麻呂は藤原南家、房前は藤原北家、宇合は藤原式家、麻呂は藤原京家の開祖です。 藤原家は、在位西暦724年~749年の第45代聖武天皇の時代に政治の中枢を担っていました。 広嗣は宇合の長男として生まれ、順調にいけば出世を約束されている地位にありました。 宇合は右大臣だった藤原不比等の三男で、官位は正三位・参議、勲等は勲二等です。 731年に参議となり、畿内副惣管となりました。 翌年に西海道節度使として九州に赴き、西国警備のための警固式を作成しました。 ところが、735年に大宰府管内において天然痘が襲い掛かかりました。 藤原四兄弟も次々と天然痘を発症し、737年に相次いで病没しました。 聖武天皇は緊急事態を打開すべく、橘諸兄に事態の収拾を任せました。 北 啓太さんは1953年北海道生まれ、1984年に東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学しました。 宮内庁書陵部編修課長、同庁正倉院事務所長、同庁京都事務所長を歴任し、2014年に定年退職しました。 藤原不比等政権の末期から、日本は新羅と安定した外交関係を築きました。 それを前提に、軍事を縮小して経済的に資するようにしました。 続いて長屋王もこの軍縮路線を継承しましたが、藤原四兄弟に討たれてしまいました。 藤原四兄弟は唐を支援する新羅に軍事的圧力をかけ、軍事拡張路線に転じたのです。 737年に藤原四兄弟が天然痘によって死去すると、代って政治を担ったのは橘諸兄でした。 諸兄は聖武天皇の皇后である光明子の異父兄で、臣籍降下して橘朝臣姓を名乗っていました。 諸兄は社会の疲弊を復興するため、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小政策を取りました。 また、唐から帰国した吉備真備と玄昉を重用するようになりました。 この二人は、当時としては最先端の知識と学問を携えて帰国していたのです。 唐の最新文化を取り入れ国の威信を高めるために、当時の日本には適材適所でした。 これに対して、藤原氏の勢力は大きく後退し、広嗣は738年に大養徳守から大宰少弐に任じられました。 これは対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざけ、新羅使の迎接に当たらせる思惑がありました。 広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いたとみられます。 藤原氏の地位低下に対し、日常的に周囲に不満をもらしていたといいます。 740年4月に新羅に派遣した遣新羅使が、追い返される形で8月下旬に帰国しました。 憤った広嗣は8月29日に政治を批判し、吉備真備と玄昉の更迭を求める上表を送りました。 同時に筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して太宰府管内諸国の兵を徴集しました。 朝廷はこの言動を謀反とし、広嗣逮捕の勅を出しました。 しかし広嗣はこれに従わず、9月3日に九州の兵を集めて反乱を蜂起しました。 藤原広嗣が反乱を起こしたとき、挙兵は大宰府管内諸国に及びました。 広嗣は、弟綱手に筑後・肥前などの軍兵5000人を率いて、豊後道より豊前国へ進ませました。 一隊は田河道に配し、自らは鞍手道を遠珂郡家に進み、ここに軍営を営みました。 烽火をあげて軍兵を徴発し、隼人を含めて大隅・薩摩・筑前・豊後などの軍兵5000人余を擁しました。 聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられました。 東海・東山・山陰・山陽・南海五道の1万7000人を動員し、24人の隼人も従軍させました。 朝廷からは伊勢神宮へ幣帛が奉納され、諸国に戦勝を祈願するよう命じられました。 9月21日に東人は長門国へ到着し、渡海のために停泊中の新羅船の徴用の許可を求めました。 9月22日には、勅使・佐伯常人、阿倍虫麻呂が板櫃鎭に陣を構え、一帯を制圧しました。 これに伴い、広嗣勢の豊前国の京都鎮・登美鎮・板櫃鎮の三営は政府軍に抑えられました。 9月25日には、豊前国の諸郡司が500騎、80人、70人と率いて官軍に投降してきました。 10月初旬の板櫃川の対陣で、1万余の軍勢を擁しながら、広嗣勢は渡河を阻まれ隼人の降伏も続出しました。 中旬には船で敗走し、済州島付近に達しましたが、逆風で五島列島に吹き戻されました。 最後は9月23日に、宇久島で捕らえられ、11月1日に綱手とともに斬刑に処せられました。 反乱に対する処分は280人以上に及び、弟良継・田麻呂らも配流されました。 そして、広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に広嗣を祀る鏡神社が創建されました。 新薬師寺の西隣に鎮座する南都鏡神社は、その勧請を受けたものです。 藤原式家は一時衰退し、大宰府も742年から3年余り廃止されることになりました。 広嗣と言えば、一般的には、ほぽこの藤原広嗣の乱の一事のみで知られているのではないかといいます。 本書でも、それ以外に付け加えられる内容は多くないといいます。 乱関係を除くと、確かな史料が少ないからです。 五位以上にならないと、特別なことがないと正史には記載されません。 乱の時には五位になってわずか3年で、まだ20代だったと考えられます。 広嗣については、確かな史料に基づく事跡というものはあまり求められません。 そのため本書では、広嗣に関わる周囲の状況や歴史の流れをみていくといいます。 これにより、広嗣という人物を理解できるよう叙述を進める場合があるということです。はしがき/第1 家系、一族/第2 誕生、成長、出身/第3 五位貴族として/第4 藤原広嗣の乱の勃発/第5 乱の展開と終息/第6 乱後の世界/第7 伝承上の藤原広嗣/藤原広嗣関係系図/皇室略系図/略年譜 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]藤原広嗣/北啓太【3000円以上送料無料】聖武天皇 「天平の皇帝」とその時代 (法蔵館文庫) [ 瀧浪 貞子 ]
2025.09.27
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志筑忠雄は、1760年に長崎の資産家だった中野家三代用助の子として生まれました。 通称は忠次郎といい、名を盈長、忠雄といいました。 晩年には、飛卿、季飛と字を名乗り、柳圃と号しました。 ”志筑忠雄”(2025年1月 吉川弘文館刊 大島 明秀著)を読みました。 江戸後期に並外れたオランダ語力と数学的思考力で、天文学書の和訳に専念した志筑忠雄の生涯を紹介しています。 志筑は「しづき」と読まれてきましたが、現代の長崎では「しつき」と読む苗字もあるそうです。 生家は旧県庁舎にほど近い、現在の長崎市万才町の一画です。 中野家は、呉服商・三井越後屋の長崎での落札商人でした。 三井家との関係は、代理で貿易品の取引をした有力な家でした。 忠雄は幼時に長崎通詞の志筑家の養子となり、8代目を継いで1776年に稽古通詞となりました。 稽古通事は、長崎勤務の唐通事・オランダ通詞の職階で、見習いの通訳官です。 1777年に、18歳のとき病身のため辞職して中野家に出戻りました。 その後、本木良永について天文学、オランダ語学の研究に専心しました。 主著の『暦象新書』をはじめ、多くのオランダ書の訳述や著述に従いました。 主著は、イギリス人ジョン・ケールの著書のオランダ語訳書を解訳したものです。 このなかで地動説を述べ、地動説を肯定しながらも天動説を排除しない立場です。 付録の混沌分判図説では、星雲に関して独創的見解が述べられています。 ヨーロッパの自然科学説の紹介だけでなく、科学思想史的にも重要な意義をもちます。 大島明秀さんは1975年大阪府生まれ、1999年に関西学院大学文学部日本語日本文学科を卒業しました。 2003年に、九州大学大学院比較社会文化学府国際社会文化専攻修士課程を卒業しました。 2008年に、同大学院比較社会文化学府国際社会文化専攻博士後期課程を修了しました。 2008年に熊本県立大学 文学部講師、2010年に准教授、2022年に教授となりました。 博士(比較社会文化)で、研究分野は蘭学・洋学史、日欧交流史、日本近世史です。 志筑忠雄は、稽古通詞を遅くとも27歳までに辞め、その後は家にこもり蘭書の翻訳にふけったとされます。 志筑には4人の兄がいて、一人は養子に出され薬種目利という貿易の仕事に就いていました。 父用助は貿易関係情報入手のため、息子たちを能力に応じてそれぞれの職に就けたと思われます。 通詞を辞めた志筑を養ったのは、オランダ語ができる人間を置いておく利点がありました。 志筑は当時としては、飛び抜けたオランダ語の能力や国際的な感性を持っていたといいます。 23歳のとき、通詞は休職中でしたが、ジョン・キール蘭書訳出の唱矢である『天文管閥』(1782年)を訳出しました。 並行して、西洋のさまざまな事柄を記した雑記帳である、『万国管閥』を書き上げました。 1792年には、第一回ロシア遣日使節ラクスマンが来日しました。 1796年頃から、ロシア南下情報や西洋人の日本観などに関わる新分野の翻訳に取り組み始めました。 イギリス人ジョン・キールのニュートン力学解説書の蘭訳書を、『暦象新書』(1798年)で抄訳しました。 オランダ語で記された書籍を通して、日本で初めてニュートン物理学を紹介したのでした。 これは公儀、社会に対する貢献を目的として、公務ではなく私事として行いました。 また、ネイピアの法則を案内するなど、自然科学分野で稀代の才能を示しました。 ネイピアの法則は、直角球面三角形の辺と角に関する法則です。 その慧眼と能力は、国際関係分野においても発揮されました。 特筆すべきは、『鎖国論』(1801年)で鎖国という日本語を創出したことです。 また、ケンペル『日本誌』蘭語版の中から、日本の対外関係を論じた附録第六編(1802年)を訳出しました。 当時、ロシア南下の情報に動揺する社会情勢があったため、ヨーロッパの日本観を呈示しました。 絶筆となった『二国会盟録』(1806年)では、ネルチンスク条約締結の状況を訳出しました。 条約は、清朝とピョートル1世との間で結ばれた、境界線などを定めた条約です。 これは、約50年後の日露和親条約の交渉・締結の際に、勘定奉行と翻訳官が参考書としました。 これらの学問を支えた忠雄のオランダ語力は、同時代の水準を超越していました。 革命的な蘭文法書と蘭文和訳論は、西洋文法を踏まえてオランダ語を理解・説明していました。 これらは、蘭学者をはじめ19世紀日本人のオランダ語読解力を飛躍的に向上させました。 また、翻訳の際に使用した「引力」「重力」「弾力」「遠心力」「求心力」「真空」「分子」などは、後に自然科学分野の術語となりました。 「鎖国」「植民」など、国際関係あるいは政治にまつわる新しい言葉を創出しました。 このように、多岐にわたる仕事を成し遂げた、空前の才能と情熱の持ち主です。 しかし病弱で、後半生は人との交わりを絶ち、実家に螢居して蘭書翻訳に専念しました。 このように、著作は多数ありますが、意外に手紙や墓といった史料が残っていません。 そのため、業績のわりに活動の実態が分かっていないといいます。 忠雄の学問は、主に蘭書訳出を通してそれまでになかった新しい知識や視点、方法をもたらしました。 第一に、訳業を通して自身の言葉でオランダ語理解と蘭文和訳の要諦をまとめました。 第二に、『暦象新書』を代表として、天文学、弾道学、数学の新しい知識をもたらしました。 第三に、『万国管闚』などによる、地理誌、物産でも新しい知識をもたらしました。 第四に、『鎖国論』などによる、西洋に照準を合わせた国際情勢についての新しい所見をもたらしました。 これらは、それぞれの分野において、没後の近世後期社会にも一定の影響をもたらしました。 しかし、忠雄の社会的活動は短く、人生を跡付けられる一次史料がきわめて少ないです。 そのため、第二章以下の主要な史料は、目下25点確認されている生前の著述とならざるをえません。 近世後期の長崎を舞台に、謎と魅力に満ちた一学者の生涯を見ていくことになります。 仕事を手掛かりに、それぞれの時期における関心や活動を検討して見ていくといいます。はしがき/第一 生い立ちと通詞の辞職/第二 学問への熱情と献身/第三 学問の変容と再仕官の夢/第四 『暦象新書』の完成とその後/第五 オランダ語読解の革命/第六 晩年と没後の影響/中野家略系図/志筑家当主略系図/略年譜/生前(文化三年七月八日以前)の分野別著作・署名一覧/参考文献 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし] 志筑忠雄 (人物叢書 325) [ 大島 明秀 ]【中古】 蘭学のフロンティア: 志筑忠雄の世界志筑忠雄没後200年記念国際シンポジウム報告書
2025.09.13
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蔦屋重三郎は、1750年に江戸の新吉原で生まれました。 ”蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王”(2024年10月 新 潮社刊 増田 晶文著)を読みました。 貸本屋から身を起こし日本橋通油町の版元となり、北斎、歌麿、写楽ら浮世絵師の才能も見出した、蔦屋重三郎の生涯を紹介しています。 重三郎の本姓は喜多川、本名は柯理=からまるといいました。 通称は蔦重、重三郎、号は蔦屋、耕書堂、薜羅館などです。 当初は、遊郭を案内するただの細見屋でした。 20代で吉原大門前に耕書堂という書店を開業しました。 1774年に北尾重政の『一目千本』を刊行してから、日本橋の版元として化政文化隆盛の一翼を担いました。 細見を刊行し、書店を作り、新人作家や浮世絵師を発掘し、洒落本や版画を出版しました。 版元として、多数の作家や浮世絵師の作品刊行に携わりました。 大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、北尾重政、鍬形蕙斎、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽などです。 また、エレキテルを復元した平賀源内をはじめ、多くの文化人と交流を深めました。 そして、最終的に版元として一流の実績と富を築きました。 増田晶文さんは1960年大阪府布施市、現、東大阪市生まれ、1973年に大阪市内の私立中高一貫校に通いました。 1979年に、同志社大学法学部法律学科に入学しました。 1983年に卒業して、大阪ミナミのアメリカ村にあった編集プロダクションに入社しました。 1984年に、会社が広告企画の業務にシフトするため東京へ進出しました。 1994年3月に会社員生活に終止符を打ち、文筆の世界へ入りました。 しばらくはスポーツを中心に、実業家、作家、文化人とインタビューをして、雑誌に原稿を書きました。 1998年に、短編『果てなき渇望』で「文藝春秋Numberスポーツノンフィクション新人賞」を受賞しました。 2000年に、長編『果てなき渇望』を草思社から単行本で刊行しました。 同年に、『フィリピデスの懊悩』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞しました。 蔦屋重三郎は寛延3(1750)年の正月七日に生まれ、父は尾張出身の丸山重助、母が江戸出身の広瀬津与でした。 両親は譚つまり名乗り名柯理と名付け、通り名は重三郎と言いました。 重三郎は、狂歌をこしらえる時に蔦唐丸(蔦が絡まるに掛けている)というペンネームを用いていました。 数えで8つだった宝暦7(1757)年に、父母が離婚しました。 そのため親戚に預けられることになり、養父の姓は喜多川と言いました。 吉原で蔦屋の商号を掲げていましたが、親の生業や兄弟姉妹があったかなどは不明です。 曲亭馬琴は、重三郎の養父を叔父だと書き残しました。 馬琴は戯作者として大成する前の一時期、重三郎のもとで働いていたことがあったといいます。 叔父は、吉原にあってかなり羽振りがよかったそうです。 重三郎は、親戚に身を寄せたことで経済的な貧窮とは縁遠かったと思われます。 安永2(1773)年23歳の時、新吉原の大門口五十間道に貸本、小売りの店舗を開店しました。 お店は、吉原で引手茶屋を営む重三郎の義兄の、蔦屋次郎兵衛の軒先だったと言われます。 引手茶屋は、客と妓楼や遊女を取り持つ役割でした。 客はまず茶屋にあがって、豪奢な宴席を楽しみ、好みの遊女を指名します。 遊女が花魁であれば、妓楼から茶屋まで迎えにきてくれました。 ただし、吉原には茶屋経由など必要のない店もたくさんあったといいます。 当時の本屋は、多色摺りの浮世絵と、見開きに挿画を配した草双紙が主力でした。 一方、貸本屋は店舗としての本屋に負けない影響力を誇っていました。 長屋だけでなく武家屋敷にまで、風呂敷や葛龍を背負った貸本屋が入り込んでいました。 貸本屋には、身ひとつの商いだけでなく、たくさんの要員を抱える大手もありました。 江戸の本は、店頭販売だけでなく貸本することによって評判を高めました。 この年の秋に、重三郎は『這蝉観玉盤』を版木で印刷して発行しました。 これが、重三郎が出版にかかわった最初です。 安永3(1774)年に、吉原細見の改めの『細見鳴呼御江戸』編纂に携わりました。 吉原細見は、遊郭の最新情報を満載した案内書でした。 版元は鱗形屋孫兵衛といい、経営する鶴鱗堂は100年以上続く老舗でした。 年2回出されて、妓楼、茶屋、船宿の場所や、遊女の名前、揚げ代などが書かれました。 奥付には取次として、新吉原五十間左かわ蔦屋重三郎と明記されました。 内容については、最新、詳細、正確である必要がありました。 細見改には、廓内情報を収集する役割がありました。 そして、蔦屋の名で初めて大物絵師の北尾重政の評判記『一目千本』を刊行しました。 これはいわば遊女の名鑑であり、遊女を挿絵に擬して紹介したものです。 掲載してもらう遊女は、上客にねだって費用を出してもらったりしました。 開板した本は、遊女が名刺代わりに配りました。 遊郭や引手茶屋も、この本を販売促進用に利用しました。 安永4(1775)年に洒落本の『青楼花色寄』を刊行し、吉原細見『籬の花』の刊行を始めました。 この吉原細見では、中本という判型で旧来より一回り大きくしました。 一方、町内案内は見やすく軽便にして、鱗形屋より安く売れました。 8年後には、重三郎が吉原細見を独占出版するようになりました。 最上級の遊女は浮世絵に描かれ、その衣装や装飾は江戸の流行の先端となりました。 吉原は、老若男女を問わず足を運びたい町でした。 人々は細見を片手に吉原を訪れ、地方からの客は細見がお土産になりました。 そして、巻頭の序文には有名人を起用し、有名人との絆を世に広めました。 巻末の刊行物案内では、重三郎が手掛けた本を宣伝しました。 安永5(1776)年には、北尾重政、勝川春章の彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行しました。 この本は、当時の吉原の最高傑作とされています。 版元には、重三郎だけでなく問屋の山崎金兵衛も名を連ねました。 その後も、天明の時代から寛政の時代にかけて、一段と大きく飛躍していきました。 重三郎の狙いを満載した出版物は、江戸を席巻したのです。 狂歌集、黄表紙、洒落本などで話題作が続出しました。 美人画や役者絵の大首絵は、浮世絵の主流になりました。 浄瑠璃では、富本節の詞章を写した版本が人気を博しました。 喜多川歌麿、東洲斎写楽の画業は、重三郎の存在なしに考えられません。 勝川春朗と名乗っていた若き日の葛飾北斎にも、眼をかけていました。 また、戯作の山東京伝、狂歌の大田南畝も大いに関係があります。 さらに、曲亭馬琴と十返舎一九は重三郎のもとで働き、初期作品を世に出してもらいました。 こうして築いた人材ネットワークが、江戸のメディア王に押し上げる源泉となったといいます。 出版活動を通じて、化政文化の端緒を開き礎を築いたのです。 そして、寛政8(1796)年秋に体調を崩し、翌年3月に脚気により47歳で死没しました。 本書は、蔦屋重三郎の発想、手法、業績を振り返っています。第1章 貸本屋から「吉原細見」の独占出版へ/第2章 江戸っ子を熱狂させた「狂歌」ブーム/第3章 エンタメ本「黄表紙」で大ヒット連発/第4章 絶頂の「田沼時代」から受難の「寛政の改革」へ/第5章 歌麿の「美人画」で怒涛の反転攻勢/第6章 京伝と馬琴を橋渡し、北斎にも注目/第7章 最後の大勝負・写楽の「役者絵」プロジェクト/第8章 戯家の時代を駆け抜けて [http://lifestyl e.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]蔦屋重三郎ー江戸の反骨メディア王ー(新潮選書)【電子書籍】[ 増田晶文 ]眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎 江戸を熱狂させたエンタメ界の風雲児! 王様文庫 / 板野博行 【文庫】
2025.08.30
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武田家三代とは、武田信虎、武田信玄、武田勝頼の三代を指しています。 ”武田家三代 戦国大名の日常生活”(2025年3月 吉川弘文館刊 笹本 正治著)を読みました。 戦国大名が乱世をいかに生きていたのかについて、甲斐武田家三代の日常生活にも目を向け、戦争に明け暮れたというイメージを再考しています。 信虎は1494年に誕生し、1507年に武田家を継いで甲斐国主となりました。 1519年につつじが崎に新館を造営して、家臣や商人職人の集住を図って城下町甲府を開創しました。 有力土豪が割拠していた甲斐を統一し、さらに積極的に隣国の信濃に侵攻して家勢を拡大しました。 しかし、1541年に信玄によって追放されて、駿河に退隠となりました。 信玄は、1521年に信虎の嫡男として積翠寺で誕生し晴信と称しました。 1536年に三条公頼の娘と結婚し、1541年に家督を継ぎ甲斐国主となりました。 隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで信濃侵攻を進め、越後の長尾景虎と衝突しました。 今川氏衰退後、嫡男の義信を切腹に追い込んだのち、同盟を破棄して駿河国へ侵攻しました。 1553年に始まった第1回川中島の戦いで有名ですが、政治家としても優れた手腕を発揮しました。 釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にしました。 そして、商人職人集団を編成して甲府への居住を進め、城下町を大きく拡大しました。 交通網の整備も行ったことから、往還に沿って荷継ぎの馬を配備した宿町も発達しました。 1572年に、西上の軍を起こして三方ヶ原で徳川勢を撃破しました。 途中、室町幕府将軍の足利義昭の要請に応じて、上洛戦に転じました。 しかし1573年に、病気のため信州の伊那駒場で53歳の生涯を閉じました。 勝頼の代に美濃に進出して領土を拡大しましたが、次第に家中を掌握しきれなくなりました。 1575年の長篠の戦いに敗北すると、信玄時代からの重臣を失って一挙に衰退しました。 1582年には、織田信長に攻め込まれて、後を継いだ信勝ともども滅亡しました。 笹本正治さんは1951年山梨県中巨摩郡敷島町生まれ、生家は林業を営む農家でした。 1974年に信州大学人文学部を卒業し、長野県阿南高等学校教諭となりました。 1975年に名古屋大学大学院文学研究科へ入学し、1977年に博士課程前期課程を修了しました。 同年同大学助手となり、1984年に信州大学助教授、1994年に教授となりました。 1997年に名古屋大学文学博士となり、2009年に信州大学副学長、2016年に長野県立歴史館長となりました。 多くの人は戦国大名と聞くと、代表として北条早雲、武田信玄、上杉謙信などの名前を思い起こします。 それぞれのイメージを描く際には、戦国大名という名称から戦争が想起されます。 川中島の合戦、桶狭間の合戦、厳島の合戦などです。 戦国時代ということから、戦いに明け暮れて戦いは日常的であったと考えるでしょう。 戦国大名を取り上げたテレビ、映画、小説で、クライマックスになるのは戦争の場面です。 戦争を趣味や生活の糧にして、常に戦場に身を置いていた人はどれだけいたのでしょうか。 人間は本来的に、戦うために生まれてきた動物ではありません。 自分たちの利益を守ったり、新たな利益を獲得するために戦争をするのです。 けっして戦争、それ自体を目的として活動するわけではありません。 戦国大名も同様に、戦争することが人生のすべてだったわけではありません。 人が生まれるためには男女の関係があり、子が育つには家庭が重要です。 成長した人間もまた、子孫を作っていくのが人類の連環です。 戦国大名にも家庭があり、人間として一般人と変わらぬ日常生活があったはずです。 本書で取り上げたいのは、そうした戦争の場以外の戦国大名の日常生活だといいます。 この三代の間に武田家の領国は拡大し、支配のあり方も変化しています。 しかし、武田家は1582年に滅亡しましたので、武田家に伝わった文書が残っていません。 今から400年以上も前に滅亡したことから、利用できる材料はわずかです。 まして、日常生活を伝える史料は少ないのです。 特に、信虎の史料は数が少ないだけでなく、検討を要するものが多いです。 戦国大名として一括すると、三代の変化が見えなくなってしまうのです。 そこで本書では、戦国大名の武田家といっても、信玄、勝頼の日常生活を多く取り上げています。 著者は、三人の当主による差異に着目し、三代の間における変化を追うことにするといいます。 第一章では、三人の当主がいかなる過程を経て家を継いだかを確認しています。 家督相続には、戦国大名が乗り越えるべきさまざまなハードルや社会状況が見えるといいます。 第二章では、戦国大名がいかにして戦争で勝利していったかを確認しています。 戦いに勝つことが戦国大名の使命ですが、戦争より背後の意識や政策に着目したいといいます。 第三章では、戦国大名の統治者としての側面に光を当てています。 戦国大名はどうして人気があるのか、当時の領民の立場から述べるといいます。 第四章では、戦国大名と家族の関係を見つめています。 戦国大名にとって、家族とはいったいどのような意味を持つのかを明らかにしたいといいます。 第五章では、戦国大名がどのような毎日を送っていたか、日々の暮らしについてまとめています。 戦国大名の一生、教養や日常の信仰などについても触れるといいます。 第六章では、武田家の滅亡について記しています。 勝頼は凡庸な戦国大名ではなかったのに、なぜ武田家が滅亡したか明らかにしたいといいます。 そして、戦国大名についての神話が後世の人々によっていかに作られるかも考えています。 多くの人は、戦国大名は自分の力を頼りに意のままに生きた存在と考えているようです。 しかし、戦国大名の典型の武田家当主でさえ、思うがまま自分勝手に行動できたわけではありません。 社会と時代の制約の上で、必死になって生きていたのです。 神仏を絶対的とする中世的考えから、神仏も統治の手段とする近世的考えへの転換点にありました。 しかし覇者は一人のみで、多くはその下に座するか、戦って死ぬしか道がありませんでした。 勝頼の場合は、後者の典型的な例であったといいます。はじめに/第一章 日の出ー家督相続と家臣/第二章 戦うー時代を生き抜く/第3章 治めるー公としての統治/第四章 家族ー心の絆/第五章 日々の暮らしー日常の決まり/第六章 落日ーそれでも滅亡した武田家/あとがき/補論 武田信玄と川中島合戦 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]武田家三代 戦国大名の日常生活/笹本正治【1000円以上送料無料】その時家康・景勝・氏政は、そして秀吉は、武田家三代年表帖(下巻) 勝頼と真田一族の顛末 勝頼vs家康の10年戦争、真田家三代と
2025.08.16
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ピーター・ファーディナンド・ドラッカーは、1909年ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人です。 経営学者として、現代経営学あるいはマネジメント の発明者として知られています。 ”ピーター・ドラッカー”(2024年12月 岩波書店刊 井坂 康志著)を読みました。 20世紀から21世紀にかけて経済界にもっとも影響力のあった、経営思想家であるピーター・ドラッカーについて、アウトサイダーとしての実像を紹介しています。 マネジメントとは、目標達成を見据えた組織の経営資源の活用やリスク管理を指しています。 分権化、目標管理、民営化、ベンチマーキング、コア・コンピタンスなど、マネジメントの主な概念と手法を生み発展させました。 未来学者とかフューチャリストと呼ばれたりしましたが、自分では社会生態学者であるとしました。 社会の生態に関して、東西冷戦の終結や知識社会の到来をいち早く知らせました。 産業社会と企業、そして働く自由な人間に、未来への可能性を見出しました。 井坂康志さんは、1972年埼玉県加須市生まれ、國學院大學栃木高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部を卒業しました。 続いて、東京大学大学院人文社会系研究科社会情報学専攻博士課程を単位取得して退学しました。 2020年3月に、専修大学より商学博士を授与されました。 東洋経済新報社を経て、現在、ものつくり大学教養教育センター技能工芸学部情報メカトロニクス学科教授を務めています。 上田惇生氏とともに、ドラッカー学会を創立し、NPO法人ドッカー学会の共同代表です。 2005年5月に、ピーター・ドラッカーに外国人編集者として最後となるインタビューを行いました。 ピーター・ドラッカーは2005年に亡くなりましたが、今なお注目されつづけています。 しかし、ビジネスや経営の世界では誰もが知っているのに、人物像はいまだに謎が多いです。 産業界や学界が取り上げてきたのは、ほぼマネジメントのドラッカーだったからです。 しかし一歩踏み込むと、経営論は表の顔に過ぎず裏側は、哲学、文学、芸術、全体主義批判の支えがあります。 それは、一つの問いの体系と言ってよい構成をとっていました。 実人生と問いの体系は、精密にリンクしていました。 そして、長年培われた知的土壌が発言を支えていました。 父親はウィーン大学教授で、家庭はドイツ系ユダヤ人の裕福な家族でした。 父親はフリーメイソンのグランド・マスターでした。 1917年に、両親の紹介で心理学者ジークムント・フロイトに会ったといいます。 ドラッカーは、第一次世界大戦を人生で最初の断絶だと見ていました。 その体験のあるなしで、世界の解釈は違ったものになります。 ドラッカーは早熟の天才ではなく、1916年に地元の公立小学校に入学しました。 悪筆と不器用で、自信もなく学校に適応できなかったといいます。 1919年に、私立のシュヴァルツヴァルト小学校に転校しました。 この小学校から、ドラッカーにとって運命的な影響を受けました。 ドラッカーの、生涯にわたる知的活動を決定づけました。 1918年にハプスブルク帝国は崩壊し、共和制が導入されました。 ドラッカーは1919年に小学校を卒業し、デブリンガー・ギムナジウムに入学しました。 しかし、ここでの8年間は退屈な時間だったため、外に目を向けるようになりました。 1920年代のウィーン体験は、後の全体主義批判につながるものでした。 当時のギムナジウムは、卒業試験に合格すれば大学への進学資格が得られました。 しかし、ドラッカーにはインテリ嫌いの傾向が芽生えていました。 1927年にギムナジウムを卒業して、ハンブルクで機械製品の貿易会社の見習いになりました。 勤務のかたわら、ウィーン脱出の口実だったハンブルク大学法学部に在籍しました。 講義には一度も出席せず、代わりにハンブルク市立図書館分室に通いました。 ここで、思想書や社会科学書を手当たり次第に読みました。 それが、本物の大学教育だったと振り返っています。 ここで、フェルデナンド・テニエスとセーレン・キルケゴールに出会いました。 以来、専業学生にならず労働現場で学ぶ人生を死ぬまで続けました。 1929年に、ドイツのフランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー紙の記者になりました。 1931年に、フランクフルト大学にて法学博士号を取得しました。 この頃、国家社会主義ドイツ労働者党のアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスから、度々インタビューが許可されました。 1929年に大恐慌が起こって、会社が倒産して失業しました。 直前は空前の好景気でしたが、ドラッカーの甘い予測は粉砕されました。 以後、ドラッカーはありのままの現実の観察を心がけるようになりました。 1929年から1933年まで、フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガーという日刊新聞の記者生活を送りました。 記者生活のかたわら、フランクフルト大学で研究も行いました。 昼は記者として、夕方以降は大学での講義という日々でした。 1933年に、発表した論文がナチ党の怒りを買うと確信し、退職して急遽ウィーンに戻りました。 イギリスのロンドンに移り、友人の紹介でフリードバーグ商会に職を得ました。 ドラッカーはエコノミストとして、主にアメリカ株の取引き業務に携わりました。 生きて働く知性から、実践知が学知に匹敵することとなりました。 この頃、独力で大学の職を得る試みをしましたが、叶いませんでした。 1936年には、ケンブリッジ大学でジョン・メイナード・ケインズの講義を直接受けました。 1937年に、同じドイツ系ユダヤ人のドリス・シュミットと結婚し、アメリカ合衆国に移住しました。 当時、移民家族の生活は不安定で、なかなか職を得ることができませんでした。 文筆で生計を立てようとして、地元の新聞社をいくつか訪ねました。 紹介状なしで『ポスト』を訪ねて、発行人のユージン・マイヤーと面談して記事の前金を入手しました。 ほかにも、いくつかの新聞社で記事掲載の約束を取り付けました。 1939年に、処女作『経済人の終わり』を上梓しました。 この一作をもって、ドラッカーは論壇の寵児となりました。 1940年に、サラローレンス・カレッジから非常勤講師のオファーがありました。 1942年に、ヴァーモント州ベニントン・カレッジの専任教授となり、1945年まで務めました。 1942年に、『産業人の未来』を上梓しました。 1943年に亡命生活を終え、アメリカ合衆国国籍を取得しました。 1946年に、『企業とは何か』を上梓しました。 1950年から1971年までの約20年間、ニューヨーク大学、現在のスターン経営大学院の教授を務めました。 1950年に、『新しい社会』を、1954年に『現代の経営』を上梓しました。 1959年に初来日し、以降も度々来日しました。 そして、日本古美術のコレクションを始めました。 1966年に「産業経営の近代化および日米親善への寄与」が認められ、勲三等瑞宝章を受勲しました。 1969年に、『断絶の時代』を上梓しました。 1971年に、晩年の創造のため、西海岸に移住しました。 カリフォルニア州クレアモントのクレアモント大学院大学教授となり、以後2003年まで務めました。 1979年に自伝『傍観者の時代』を、1982年に初めての小説『最後の四重奏』を上梓しました。 2002年に、アメリカ政府から大統領自由勲章を授与されました。 そして、2005年にクレアモントの自宅にて老衰のため95歳で死去しました。 ドラッカーの生涯は、大きく前半と後半に分けて見ることができます。 前半は、マネジメントの探求に至る少年から壮年期にかけての時期です。 後半では、期待をかけた産業社会の行き詰まりから一転して、コミュニテイ人間社会へ舞い戻ります。 19世紀は合理主義が進むとともに、生きた人間社会が否定される過程でした。 20世紀は、そのつけを支払うための100年間でした。 このような認識には、ビジネスの視点だけからは迫ることができません。 ドラッカーの紡いだタペストリーの、鮮やかな横糸のみではなく、縦糸に着目することが必要です。 ドラッカーの20世紀の苦闘と苦悩を抜きにして、その業績の全貌をとらえることは不可能であるといいます。第1章 破局 一九〇九ー一九二八/第2章 抵抗 一九二九ー一九四八/第3章 覚醒 一九四九ー一九六八/第4章 転回 一九六九ー一九八八/第5章 回帰 一九八九ー二〇〇五/終章 転生 二〇〇六ー [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]ピーター・ドラッカー 「マネジメントの父」の実像 (岩波新書 新赤版 2045) [ 井坂 康志 ]カフェde読む 図解ピーター・ドラッカーのマネジメント論がよくわかる本【電子書籍】[ 中野明 ]
2025.08.02
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中田 薫は山梨県甲府市生まれの日本の法制史家で、日本法制史を専門としました。 ”中田 薫”(2023年8月 吉川弘文館刊 北 康宏著)を読みました。 自然法観念のうえにドイツ歴史法学と自由法論を応用し、日本の歴史を個人の権利意識から私法史として捉え直した、中田 薫の生涯を紹介しています。 中田 薫は第二高等学校をへて、1900年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業しました。 その後、同大学院に入学し、1902年から東京帝国大学法科大学助教授となりました。 1908年から1911年まで、文部省外国留学生としてヨーロッパに留学しました。 1910年に法学博士の学位を授与され、1911年に教授となりました。 1925年に帝国学士院会員となり、1937年に大学を退官しました。 日本の中世法が、ドイツ中世の制度と類似することを明らかにしました。 後年の村や入会の研究でも、ドイツとの比較を通じてその法的性質を解明しました。 1946年に文化勲章を受賞し、1951年に文化功労者となりました。 1946年に貴族院勅選議員に任じられ、無所属倶楽部に属し1947年の貴族院廃止まで在任しました。 北 康宏さんは1968年大阪府生まれ、1992年に同志社大学文学部文化学科を卒業しました。 1994年に同大学院文学研究科博士課程前期を終了し、1997年に博士課程を後期退学しました。 1999年に博士文化史学(同志社大学)となり、2001年に日本学術振興会特別研究員となりました。 同志社大学、京都造形芸術大学、その他の非常勤講師を経て、2005年に同志社大学文学部専任講師となりました。 2009年に同志社大学文学部准教授となり、現在、同大学文学部教授を務めています。 中田 薫は、1877年に山梨県甲府市紅梅町で生まれました。 父親は国家官僚の中田直慈、母親はワカといい、四男二女の兄弟の長男でした。 中田家は羽後国、現、秋田県亀田藩の士族であり、直慈はその長男でした。 若くして郷土を離れ、薫の生まれた頃には権中属として山梨に赴任していました。 亀田藩は、岩城家を藩主とする外様2万石、藩庁は亀田城に置かれていました。 東北戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わりましたが、同盟を脱退して新政府側に与しました。 しかし、新政府軍の先鋒として酷使され、庄内軍に敗れた際に見捨てられました。 その後再び庄内軍と組んで戦いましたが、新政府軍に敗れ降伏しました。 反新政府軍となり、2000石減封されて維新をむかえました。 直慈は幼くして学を好み、鳥海弘毅・久野謙次郎とともに藩校長善館の三羽烏と称されました。 長じて藩校教授、学監となりましたが、戊辰戦争では斥候として活躍した文武両道の人物でした。 1870年に三人は貢士に抜擢されて、大学南校で洋学を学び、国典は平田鉄胤に教えを受けました。 その後も東京に残って、1874年に大蔵省に入省し、山梨県少属として官僚の道を歩みました。 1880年に大蔵省租税局四等属となって、一家は一時東京に移りました。 1884年に鹿児島県収税長に任ぜられ、鹿児島に移りました。 薫はこの時7歳で、すでに東京の尋常小学校に通い始めていました。 直慈はのちに、内大臣秘書官兼宮内書記官、大正天皇の東宮主事を務めました。 薫は、鹿児島師範学校付属小学校に転校しました。 1890年7月に鹿児島師範学校付属小学校を卒業し、鹿児島高等中学造士館予科補充科に入学しました。 そして1893年に、直慈が岐阜県収税長への転任を命じられました。 家族は岐阜に転居しましたが、薫は第三高等中学校予科に転学し、叔父を保証人として寄宿舎に入りました。 1894年に第三高等中学校が改組され、本科は解散し他校へ転配されました。 鹿児島を除く6校を高等学校と称し、本科二年から大学予科三年へと改正されました。 第三高等学校には大学予科が置かれず、帝国大学進学資格を得られない専修コースに改組されました。 本科生は、一高114名、二高78名、四高31名、五高55名、山口高13名、鹿児島高造士館1名となりました。 転配の選定基準に関する資料は確認できませんが、成績席次で選抜されたようだといいます。 薫は、第一高等学校は落選し、第二希望の第二高等学校転学となりました。 1894年に、仙台の第二高等学校予科第一部第一年に転学しました。 1896年9月に予科第一部第三年に進学し、級長は粟野健次郎教授でした。 翌年3月、予科生たちの吉村寅太郎校長への不満が爆発して、校長排斥運動が起こりました。 校長は温厚な人物でしたが普段から小言を重ねていたため、豪快な旧制高校生には不満だったといいます。 しかし、このとき薫は所信を異にし、全校学友と快を分かって参加しませんでした。 薫は、時代の潮流に左右されない自主自立の毅然とした人物でした。 ボイコットは2週間以上続きましたが、最終的に校長の依願免官と予科生の2週間の停学処分で落着しました。 後任の校長には澤柳政太郎が着任し、その尽力で揃って無事卒業することができました。 1897年9月に、薫は東京帝国大学法科大学政治学科に入学しました。 総長は潰尾新、法科人学長は梅謙次郎が就任していました。 2人は穂積陳重とともに、民法制定の中心的役割を担った人物です。 薫はしばらく青山の自宅から通っていましたが、桜木神社境内に隣接する晃陽館に下宿しました。 講義はゴシック風煉瓦造2階建て本館と、その後の別建て教室2室や大講堂木造建物で行われました。 在学中に最も感銘を受けた講義は、第1学年から第3学年まで講じられた梅謙次郎の民法講義だったといいます。 梅はフランス法が基礎にあり、ドイツにおける民法編纂を横目で見つめつつ民法の起草を進めていました。 明治民法は1896年に第一編総則・第二編物権・第三編債権が、1898年に第四編親族・第五編相続が公布されました。 薫は、出来たての前編と起草中の後編について、起草者から直々に学ぶことができました。 薫は梅のことを恩師として、深く敬愛しました。 当事者の梅の魅力的講義から多くを学び、独自の研究視角を獲得していったといいます。 権力関係を軸として描かれてきた公法的歴史の背後に、隠れた私法的水脈を発見したのです。 そして、薫の法制史研究に影響を与えたのが、宮崎道三郎の比較法制史講義と法制史講義でした。 歴史に関心を持っていた薫はその学問に魅せられ、そこから具体的な研究方法を学びました。 宮崎は穂積陳重に次ぐ長老ですが、研究に専念し清貧を貫きました。 薫の学問基盤は、宮崎から学んだゲルマン法研究者の歴史法学に求めるのが一般的です。 しかし、後世の法社会学者やマルクス主義者と比較すると、薫の受容は異質です。 梅から学んだ、柔軟で現実的な視角や自然法に基づく意識や観念を基礎に置いています。 そして、多様性を把握する視角が本源的な思考基盤をなしています。 薫は政治学科に進んで父親と同じ官僚の道に進む予定でしたが、学問に魅せられ法制史研究を志しました。 1900年に、修学年限3年で大学を卒業しました。 薫は法制史研究への志を固め、宮崎のもとで法制史研究を志しました。 1900年9月に大学院に進学し、鎌倉時代の法制を課題として宮崎研究室に所属しました。 薫は日本における法制史学の創始者で、東京帝国大学法学部教授として堅実な学問的人生を歩みました。 ドイツ歴史法学と自由法論を用い、従来の公法史的な日本歴史の奥の私法史の水脈を捉えました。 昭和期には文学部にも出講し、人文科学系の日本史学の発展に決定的な影響を与えました。 また、歴代総長のブレインとして、大学の自治と学問の自由を守るために戦った大学人でした。 本書では、薫の学問を理解する基礎作業として、その人生の忠実な復元を目指したといいます。はじめに/第一 転勤族官僚の子の日本各地での文化体験/第二 東京帝国大学法科大学における学問形成と恋愛/第三 大学院・助教授時代の研究と戸水事件の体験/第四 欧州留学/第五 法学部「若手グループ」の活躍と大学の自治/第六 中田の教育理念と学問の自由/第七 大学行政での活躍と講義準備・学生指導の日々/第八 関東大震災後の大学復興と研究の進展/第九 法学部長としてー左翼運動と学生処分/第十 軍国主義の抬頭と大学自治の危機/第十一 中田の退官と戦時下の大学/第十二 戦中・戦後の生活と静かな晩年/おわりに/中田家関係系図/略年譜 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]中田薫[本/雑誌] (人物叢書) / 北康宏/著日本法制史講義 公法篇【電子書籍】[ 中田薫 ]
2025.07.19
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高台院は戦国時代の女性で、豊臣秀吉の正室です。 ”高台院”(2024年2月 吉川弘文館刊 福田 千鶴著)を読みました。 幼名はねねと言い、織田信長の家臣の豊臣秀吉を支え、のち戦国大名の妻として、さらに関白秀吉の妻として尽力した高台院の生涯を紹介しています。 1549年生まれで、杉原定利の次女ですが、叔母の嫁ぎ先である尾張津島の浅野長勝に養女として入りました。 生年については、天文十一(1542)年説、天文十七(1548)年説、天文十八(1549)年説があります。 本書では、寛永諸家系図伝や高台院画像などから、天文十八年説を採っているといいます。 幼名はねね(寧々)といい、いっとき吉子と称しました。 1588年に従一位を授かった際の位記には、豊臣吉子の名があります。 諱には諸説あり、一般的にはねねとされています。 秀吉や高台院の署名などは、おね、祢(ね)、寧(ねい)表記もあります。 近代に戸籍ができる前は、女性の名前は大名家に生まれた娘でも不明な場合が多いです。 実際の生活の場では、名前を必要とする場面がほとんどなかったいためです。 大名家の娘であれば、生まれてから死ぬまで姫と呼べばことが足りました。 姫は若い娘に限らず、老齢の女性であろうと姫は死ぬまで姫でした。 婚姻して妻になれば、夫や婚家の格式に応じて、御台所、御簾中、御前、奥方、御上などと呼ばれました。 ねねの実家は杉原氏といい、尾張国春日井郡朝日村の武家です。 尾張杉原氏は、桓武平氏だと称しています。 南北朝時代に、備後国南部に桓武平氏の杉原(椙原)氏がいました。 室町時代には幕府の奉公衆となるなど、この地の有力武士でした。 1561年8月に、織田信長の家来の木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉と結婚しました。 福田千鶴さんは1961年福岡県生まれ、1985年に九州大学文学部史学科国史学専攻を卒業しました。 1991年に、九州大学文学研究科博士課程を中退しました。 博士(文学、九州大学)号を取得し、専攻は日本近世政治史です。 1993年から、九州大学文学部国文学研究資料館・史料館助手となりました。 その後、東京都立大学助教授、九州産業大学教授等を務めました。 現在、九州大学基幹教育院教授を務めています。 ねねは14歳の時、24歳だった秀吉と結婚しました。 秀吉との結婚について、身分の差から反対されたといいます。 秀吉の出自については諸説あり、定かではありません。 一般的には、父はもと足軽の農民だったといわれます。 ねねは結婚した当時、織田信長の家臣浅野長勝の養女となって浅野家から嫁いでいます。 ねねは浅野家の養女でしたが、母方の姓が木下ということで入り婿の形をとりました。 この後、秀吉は木下藤吉郎と名乗ることになりました。 その後、秀吉は1573年に近江小谷城主となり、1581年に姫路城を築いて本拠としました。 1582年に明智光秀が織田信長を本能寺に襲ったとき、ねねは近江長浜城にありました。 ねねは難を避けて、浅井郡の山中にある大吉寺に逃れました。 間もなく山崎の戦で秀吉が光秀を破ると、長浜に帰り秀吉と再会しました。 その後は、秀吉とともに大坂城に移り住みました。 1585年に秀吉が関白になると、ねねは北政所となり従三位に叙せられました。 北政所と呼ばれた人物は数多く存在しましたが、ねね以降はねねと不可分となりました。 女性の場合は、置かれた立場や相手との関係で呼び名が変化します。 娘なのか、妻なのか、母なのか、隠居なのかによって、これらの呼称を用いれば事足りました。 そのため、名前をわざわざ用いる必要がなく、記録に名前が残されることは少なかったのです。 女性の名前が不明の場合、歴史研究では実家や婚家の氏名を用いる方法を採用します。 1588年4月14日に後陽成天皇の聚楽第行幸があり、還御の翌19日付をもって従一位に叙されました。 1598年3月15日に醍醐の三宝院で秀吉の最後の花見の宴が催され、北政所も行をともにしました。 同年8月18日に秀吉が没すると、大坂城西ノ丸にあった北政所は落飾して高台院と称しました。 翌年、徳川家康に西ノ丸を明け渡して京都三本木の邸に隠棲しました。 1606年に秀吉の冥福を祈るため、徳川家康にはかって京都東山に高台寺を建立しました。 ここを終焉の地として禅床三昧の日々を送り、1624年9月6日に76歳で没しました。 ねねは、秀吉との間に子どもはいなかったものの、仲睦まじい夫婦だったと言われています。 高台院の76年におよぶ生涯を振り返り、人物像を一言で表現するならば、「努力の人」であったといいます。 もともと、高台院自身も尾張庶民出身の娘でした。 秀吉と夫婦になったことで、人臣として最高位の従一位を得て、日本女性を代表するトップレディとなりました。 当時、女の人生は男に左右されましたので、そうした女の性を生きた代表格といもいえます。 その地位上昇の過程において、それ相応の振舞いをするための努力を惜しみませんでした。 そこには、想像を超える努力があったに違いないのです。 その姿は、従来は糟糠の妻として語られることが多かったです。 夫に献身的であったという点については、そうかもしれないといいます。 ただし、それは当時一般の女性に求められた良き妻の資質でした。 しかし、高台院の前半生は、秀吉の身近にいて支える姿からは程遠いものでした。 夫は戦場の日々で、1577年からは播磨姫路に単身赴任となりました。 たまに長浜城に戻ってきても、ゆっくり過ごす時間は多くありませんでした。 子にも恵まれず、長浜城で寂しく秀吉の帰りを待つ身でした。 しかし、時間を無駄にすることなく、自分磨きに努力していたのです。 大名の妻として恥ずかしくない教養を持ち、身なりを整えることに余念がありませんでした。 秀吉が戦陣に明け暮れるなかで、夫婦関係は冷めかけもしましたが、離縁をせずに乗り越えました。 高台院の地位を不動にしたのは、自身を支える人々の存在も大きかったです。 実母朝日、養母七曲は、豊臣家の親族として高台院の家政を助けてくれていました。 兄の木下家定は、常に高台院のよき理解者でした。 姉の長慶院は、同じく子を持たない者同士で精神的な支柱でした。 また、高台院は「慈悲の人」でもありました。 破天荒な秀吉と連れ添うことができたのは、慈悲の心があったゆえです。 何度、家康から裏切られ、ひどい仕打ちを受けても、家康を許し礼節を欠くことはありませんでした。 高台院が一芸に秀でたとすれば、裁縫が得意だったようです。 趣味では、花を愛でていたことが、贈答のありようから窺えます。 高台院にも文才があったかもしれませんが、和歌は嗜んだものの辞世は残されていません。 高台院は現代に至るまで、天下人豊臣秀吉の妻「北政所」として名を歴史に大きく刻んでいます。はしがき/第1 誕生から結婚まで(高台院の本名/誕生をめぐる三説/実家杉原氏とその家族/木下秀吉との婚姻と養家浅野氏)/第2 近江長浜時代(織田信長の教訓状/近江長浜での生活/本能寺の変/山崎城から大坂城へ)/第3 北政所の時代(関白豊臣秀吉の妻/聚楽城と大坂城/小田原の陣/豊臣家の後継者/秀次事件と秀吉の死/寺社の再興)/第4 高台院と豊臣家の存亡(京都新城への移徒/関ヶ原合戦/出家の道/豊臣秀頼との交流/大坂冬の陣・夏の陣)/第5 晩年とその死(豊国社の解体/高台院の経済力/木下家定と浅野長政の死/木下家の人々との交流/古き友との再会と別れ/高台院の最期)/おわりに/杉原家・浅野家・木下家略系図/豊臣家略系図/略年譜/参考文献 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]高台院 (人物叢書 323) [ 福田 千鶴 ]【中古】 高台院おね 長編歴史小説 / 阿井 景子 / 光文社 [文庫]【メール便送料無料】【最短翌日配達対応】
2025.07.05
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里見義堯は、1507年に安房里見家第4代目当主・里見実堯の嫡男として誕生しました。 ”里美義堯”(2022年8月 吉川弘文館刊 滝川 恒昭著)を読みました。 庶家に生まれながら一族の内乱に勝利して家督を継ぎ、安房・上総を基盤に里見氏の最盛期を築いた、里美義堯の生涯を紹介しています。 生年について具体的に記した資料はなく、1512年という説もあります。 ここでは、妙本寺住職の日我の日記や妙本寺源家系図などに基づいています。 義堯は、正室でない女性から生まれた庶子でした。 当時の里見家は、当主になる予定だった義豊がまだ幼かったため、実堯が後見人として実権を握っていました。 しかし、義豊が成長したあとも実堯が実権を握り続け、一族のなかで不満が溜まり内紛が起こりました。 実堯は1533年に、義豊に襲われた事件である稲村の変に絡んで自害しました。 その報を受けて、義堯は正木時茂や北条氏綱の支援を受けて挙兵しました。 1534年に、義豊と義堯の従兄弟同士の間で犬掛の戦いと言われる里見氏の内紛が起こったのです。 正木時茂は、稲村の変で父と兄が戦死したため家督を相続しました。 そして義堯に寄騎として属し、義豊討伐に従いました。 北条氏綱は後北条氏第2代当主で、伊勢宗瑞の跡を継いで領国を拡大させました。 義堯は犬掛の戦いにて勝利し、義豊を自害に追い込みました。 同時に里見本家を吸収し、安房里見家第5代目当主に就任し、里見家の基盤を作りあげていきました。 滝川恒昭さんは1956年千葉県生まれ、1999年に國學院大學大学院博士課程前期を修了しました。 千葉県公立高等学校教員として、県立船橋高教諭を経て千葉経済大学非常勤講師となりました。 現在、敬愛大学特任教授として、日本経済史と日本史の講義とゼミナールを担当しています。 また、千葉市史編集委員、木更津市史専門部会部会長、一宮町史編さん委員などを務めています。 家督を継承した後も、義堯はなかなか安心できる状況にはなりませんでした。 稲村の変で義豊を支えた真里谷信清が、犬掛の戦いののち後継者不在のまま死去したからです。 後継者候補は、庶長子の信隆とその弟の信応の2人でした。 そのどちらを推すかで、義堯と氏綱が対立しました。 氏綱は信隆を支援しましたが、義堯は信隆の弟の信応を支援しました。 これにより、里見家と北条家は敵対関係となりました。 一方、小弓公方足利義明は氏綱と敵対関係にはありませんでしたが、信清の死後地域への影響力を増大させました。 義明は領土を拡大する氏綱に対抗して、北条軍が駿河攻めで疲弊している隙を突きました。 北条と連携する信隆を追放して、信応を当主に据える策を打ちました。 そして1537年に、義堯は義明と結んで信隆を降伏へ追いやることに成功しました。 しかし、信隆を支持していた氏綱の勢いはすさまじく、1538年に第一次国府台合戦に発展しました。 この合戦では、義堯は義明方に参戦しました。 しかし義明が劣勢に陥ると、足利軍を救援せず本国の安房に帰還してしまいました。 この結果、義明は戦死して小弓公方は滅亡しました。 合戦は氏綱の勝利に終わりましたが、義堯は義明の下総国や、真里谷家の上総国へ進出して勢力を強めました。 やがて真里谷氏の勢力を駆逐しようとして、1544年に真里谷朝信を倒して大多喜城を奪取しました。 1551年に、北条方に属する真里谷信政を攻撃しました。 1552年に椎津城を落として信政を自刃させ、真里谷氏の勢力を衰退させました。 房総半島に勢力を拡大し、上総の久留里城を里見家の本拠地と定めました。 安房・上総の二力国を基盤に子の義弘とともに、戦国大名里見氏の最盛期を築きました。 そして、上杉謙信、佐竹義重等と結び、後北条氏と関東の覇権をめぐって争い続けました。 1553年に氏康が武田晴信と今川義元と三国同盟を結び、1555年には上総西部のほとんどを北条家に奪われました。 1556年に北条軍が水軍を率いて攻め入ると、里見水軍を率いて三浦三崎にて対陣しました。 戦いの最中に、北条水軍が暴風雨によって沈没や沖に流され、戦況は里見軍の勝利に終わりました。 1560年に再び北条軍が攻め入りましたが、久留里城に籠城して抗戦しました。 まもなくやって来た上杉軍の援軍を得て勝利し、上総西部のほとんどを取り戻しました。 1564年に第二次国府台合戦が勃発し、緒戦は勝利したものの、翌日に北条軍の奇襲を受けて敗走しました。 若くして里見氏の武の中心として活躍した正木信茂は、この戦で戦死しました。 安西実は、敗走するなか馬を失った主君の義弘に馬を差し出し、身代りとなって討死しました。 敗れた義堯は義弘と共に安房へ退却し、上総の大半を失ったことで里見家は一時的に衰退しました。 しかし2年後に、失地を回復できるまでに勢力は再び盛り返しました。 氏康は里見氏の息の根を止めようと、佐貫城の北の三船山に砦を築かせ佐貫城を伺いました。 1567年に北条氏政が大軍を率いて三船山に着陣し、義弘と対峙しました。 義堯は久留里城へ籠城して攻撃を防ぎ、北条軍が撤退するまで耐え凌ぎました。 三船山での勝利により、里見家は上総の支配に関して優位に展開し下総まで進出しました。 義堯は北条氏康より8歳、武田信玄より14歳、上杉謙信より23歳年長です。 全国的知名度は高い方とはいえず、地元でも実名や居城を知っている人はあまりいません。 一方で、里見氏の存在自体はよく知られています。 江戸時代後期のベストセラー、曲亭馬琴の南総里見八犬伝の影響によるものです。 いま一般にイメージされる里見氏像は、八犬伝をベースにしたまったくの虚構の姿のものになっていました。 このギャップの解消の努力が、大野太平氏や川名登氏などによって行われました。 架空の物語によって刷り込まれた虚像を拭い去り、史実に基づいた歴史像を描こうとしました。 本書も大野・川名氏の路線を継承するなかで、義堯の生涯と人物像を、史料に即して描こうとしています。 ただし、当主や一族家臣の受発給文書などの史料の総数が少なく、ほとんどが没個性の公的文書です。 里見氏は近世初頭に滅亡したことで家伝文書がないことに加え、活躍地域や勢力も限られた大名でした。 しかも義堯は、もともと里見家の家督を継ぐはずのない家系の子として生まれました。 特にその前半生については、確実な史料どころか逸話すら何一つ残っていません。 初代とされる義実から義豊まで、関係史料もほとんどといってよいほど残っていません。 一方で、北条氏・武田氏・上杉氏といった戦国大名や、関東足利氏については研究も深化しています。 わずかではありますが、義堯や里見氏の動向が垣間見られるものも出てきました。 また、里見氏を含めた房総の戦国時代に関する史料の掘り起こしと整理も進んでいます。 信頼できる史料から裏づけられた、義堯やその時代を描く環境もようやく整ってきました。 とはいえ、初代義実の実在・出自を含めた成立の謎については、本書でも解明できていません。 義堯の伝記を叙述することは、そのまま里見氏の戦国大名への発展過程をなぞることにもなります。 本書では、その重要な課題に取り組んでみたいといいます。はしがき/第一 義堯の誕生と房総里見氏/第二 天文の内乱と義堯の登場/第三 政権確立と復興/第四 小弓公方の滅亡と北条氏/第五 江戸湾周辺に生きる人々/第六 上杉謙信の越山と反転攻勢/第七 第二次国府台合戦/第八 混沌とする関東の争乱/第九 策謀渦巻く関東情勢/第十 義堯の死とその影響/第十一 その後の里見氏/あとがき/里見家略系図/略年譜 [http://lifestyl e.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]里見義堯(314) (人物叢書) [ 滝川 恒昭 ]【中古】 里見義尭 条の野望を打ち砕いた房総の勇将 PHP文庫/小川由秋(著者)
2025.06.21
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スパルタは、ペロポネソス半島のラコニア平原に位置します。 アテナイと並ぶ古代ギリシアの代表的都市国家即ちポリスです。 ”スパルタ 古代ギリシャの神話と実像”(2024年12月 文芸春秋社刊 長谷川 岳男著)を読みました。 1000におよぶポリスが乱立する古代ギリシアにおいて、軍事大国として君臨していたスパルタについて、その盛衰を詳しく紹介しています。 紀元前11世紀ごろ、この地に侵入したドーリア人が先住民を征服し奴隷化して形成しました。 スパルタ人はドーリア人の一派で、エウロタス河畔に居を定めました。 自らを強固な支配身分の共同体として結合し、他の従属的な諸身分を抑える戦士団の共同体をつくりました。 スパルタ人が支配する従属民には、ヘイロータイという奴隷身分とペリオイコイとよばれる半自由民身分がありました。 紀元前7世紀から前6世紀半ばまでに、リュクルゴスの制といわれる軍国主義体制を作り上げました。 紀元前5世紀のペロポネソス戦争でアテナイを破って、ギリシアの覇権をにぎりました。 ペロポネソス同盟の盟主となり、アテナイを破って一時期はギリシア世界に覇を唱えました。 少数の市民が多数の奴隷と半自由民を支配するため、厳しい軍国主義体制をとりました。 長谷川岳男さんは1959年神奈川県生まれ、上智大学大学院文学研究科を単位取得退学しました。 専門は西洋古代史です。 2000年に鎌倉女子大学児童学部非常勤講師となりました。 2004年に同学部助教授、2006年に准教授を経て、2011年に教育学部教授となりました。 2019年に東洋大学文学部教授となり、現在は人間科学総合研究所客員研究員を務めています。 スパルタ教育という言葉はよく知られていますが、言葉の由来は古代ギリシャのスパルタにあります。 スパルタでは、軍隊の兵士を育て上げるために子どものうちから厳しい訓練をしていました。 このスパルタ教育という言葉を生み出した、スパルタというコミュニティが本書のテーマです。 なぜスパルタは強国として君臨することが可能だったのでしょうか。 それを支えた社会とはいかなるものだったのでしょうか。 元祖スパルタ教育は、なぜ必要だったのでしょうか。 スパルタはラコーニアーとメッセーニアーを治めましたが、支配地には城壁等はありませんでした。 スパルタの陸軍は最強だ、というのが当時のギリシア世界の常識でした。 攻め入ることは自殺行為に等しい、という認識が浸透していたからといいます。 スパルタが弱体化してレウクトラの戦いで敗れるまで、侵入できた軍隊は存在しませんでした。 プラトンは、その体制はまるで兵営におけるもののようだと述べました。 強健な兵士を生み出すために、社会全体がポリスの厳格な統制下にあるというイメージが強かったのです。 紀元前5世紀末以降、熱烈な支持者により理想の社会として高い評価を受けました。 これがその後の西洋世界で、一貫したイメージとなり賛美者を生み出してきました。 その意味で、スパルタはある種のブランドと化したといます。 古代ギリシア世界は、西洋文明の源流と見なされてきました。 最終的にローマの属州となる紀元前2世紀後半まで、専制君主制が生まれず多数のポリスが林立していまsた。 ポリスでは市民が政策などを合議で決め、戦争の際に市民自らが武器を執って戦いました。 スパルタ人たちは、ギリシアでは珍しい肥沃な平野を擁するラコニア地方に居を構えました。 紀元前8世紀より周囲への拡大を始め、前7紀末までにギリシアのポリスで群を抜いた領土を得ました。 前6世紀半ばには、リュクルゴスの改革で一連の国制や社会の改革を断行して国内の安定を得ました。 北隣のテゲアや東で国境を接するアルゴスで優位に立ち、ペロポネソス半島の最大勢力となりました。 前6世紀の後半に、多くのポリスとギリシア史上初めてペロポネソス同盟を結成して盟主となりました。 その名を高めたのは、ペルシア戦争でした。 紀元前5世紀初めに、オリエント世界で大帝国を築いたアケメネス朝ペルシアがギリシアに侵攻しました。 一回目の戦いは、アテナイが撃退しました。 二度目の戦いでは、スパルタがギリシア連合軍の総大将を務めてペルシアに勝利しました。 しかしアテナイがデロス同盟を結成して、スパルタの強力な対抗勢力となりました。 紀元前430年代末に、ペロポネソス同盟とデロス同盟がギリシア全土の全面戦争に突入しました。 スパルタは30年近く続いたこの戦争に勝利し、名実ともにギリシアの覇者の地位を得ました。 紀元前4世紀に、ペルシアの支援を受けたコリントス、テーバイ、アテナイなどと戦争に突入しました。 最終的にはペルシアと和解して、その王を後ろ盾としてギリシアでの覇者の地位を維持しました。 その後も他のポリスとの抗争が絶えず、紀元前371年にはテーバイに敗れました。 覇権を喪失すると、それまで国力を支えていた肥沃なメッセニアも独立してしまいました。 かつての勢威を取り戻すことは困難になり、紀元前321年にはマケドニアに敗れました。 紀元前3世紀以降、国政改革を実施して、アカイア同盟、マケドニア、共和政ローマと戦いました。 セッラシアの戦い、マンティネイアの戦い、ナビス戦争に敗北しました。 この時期に、名実共に独立国家としての地位を失いました。 そして、紀元前146年にローマがスパルタを含むギリシア全土をローマの属州に組み込みました。 ただし、アテナイとスパルタは、かつての功績から一定の自治権を認められました。 スパルタは紀元前4世紀前半までギリシア随一の軍事大国として君臨し、名声は外国にまで及びました。 その強さの理由として注目されたのが、産まれた時から始まる元祖スパルタ教育でした。 他のポリスでは教育は個人的でしたが、スパルタでは公的な形で義務として実施されました。 教育を受けることは、市民資格を得るために必要とされました。 親は子どもの成長への関わりを制限され、新生児は年長者たちによる身体審査がありました。 7歳になると本格的な公教育が始まり、集団生活に入りました。 20歳で成人しても、集団生活が続きました。 優秀とされた者は、騎兵隊とよばれた王の親衛隊に選抜されました。 競争は30歳まで続き、30歳になってようやく解放されました。 この間、厳しい肉体的な鍛錬などが競争を通して徹底されました。 これにより、強健な肉体、したたかさ、対応力、団結心、服従、愛国心、知性が培われました。 市民は生業に就くのを禁じられ、成人後も軍事教練などを日課とした戦闘の専門家集団でした。 必要な生産物は、所有地で労働に従事する隷属農民から得られていました。 幼少から徹底した訓練を受け、成人後も軍事訓練に明け暮れました。 スパルタは、プロの兵士から成るポリスのため強国として名を轟かしたと認識されてきました。 ところが意外なことに、英語のSpartan Educationには、体罰を含む厳格な教育という意味はないといいます。 単純に、スパルタでなされる教育を指す言葉として使われています。 日本では、スパルタは明治初期に認知されていました。 今日的な意味でのスパルタ教育という言葉は、第二次世界大戦前から存在しました。 広まったのは、石原慎太郎氏の著書、”スパルタ教育”(1969)によるところが大きかったといいます。 ベストセラーとなりましたが、スパルタにおける教育を扱ったものではなく、スパルタヘの言及もありません。 これを契機に、スパルタとは関係なく広く我が国でスパルタ教育なる語が用いられるようになりました。 しかしスパルタに関する情報は、数は多いが謎が多く彼ら自身が書き残したものはほぼ皆無に近いです。 それゆえ、現実のスパルタ社会の内情を正確に伝える情報が少ないです。 スパルタに関する本は、大きなクェスチョンマークのみを記した一頁の本となると言われます。 最近の研究は、新たな手法を駆使した考古学の成果をもとにその社会の考察が進められています。 これにより、先入観を乗り越える可能性が開け、スパルタの現実を理解する動きが高まりました。 そこで本書は、スパルタの現実と共に視野を広げて、何が特異でなぜそう考えられたかを分析します。 ひるがえって、我々が有する価値判断の基準を再認識してみたいといいます。 そこには、現代世界が抱える様々な問題を改めて考えさせる要素が多く見られるからです。 本書では、日本ではほとんど紹介されていないスパルタとそれを取り巻く世界を説明しています。 そして、現代の社会を改めて考え直すヒントが提供されています。はじめに スパルタ教育の元祖/第一章 テルモピュライの戦い/第二章 スパルタ人の創造 「元祖」スパルタ教育を中心に/第三章 エウノミア(Eunomia) 秩序ある世界の成立/第四章 ギリシアの覇者 スパルタの対外関係/第五章 リュクルゴス体制のほころび/第六章 スパルタの黄昏/第七章 永遠のスパルタ ブランド化への道程/おわりに/参考文献リスト/あとがき[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]スパルタ 古代ギリシアの神話と実像 (文春新書) [ 長谷川 岳男 ]【中古】 スパルタとアテネ 古典古代のポリス社会 / 太田 秀通 / 岩波書店 [新書]【メール便送料無料】【最短翌日配達対応】
2025.06.07
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佐久間象山は、江戸時代後期の信州松代藩士で、兵学と朱子学に長けた思想家です。 ”佐久間象山”(2022年7月 吉川弘文館刊 源 了圓著)を読みました。 幕末に開国と海防を訴えて西欧の近代科学を積極的に受容すべきと説いた、時代の先覚者である佐久間象山の生涯を紹介しています。 通称は修理といい、諱は国忠、のちに啓、字は子迪、後に子明と称しました。 洋学、蘭学、砲術、造艦、天文、医術、あらゆる分野に最先端の深い知識をもっていました。 幕末の天才と呼ばれ、当時の日本最高の知識人と言われていました。 1811年に松代藩士の佐久間一学国善の長男として、信濃埴科郡松代字浦町で生まれました。 佐久間家は微禄でしたが、父は藩主の側右筆を務め卜伝流剣術の達人で藩からは重用されていました。 母は松代城下の東寺尾村に住む足軽の荒井六兵衛の娘で、国善の妾に当たります。 象山は、父が50歳母が31歳の時に生まれた男児でした。 1824年に、藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学びました。 1826年に、佐藤一斎の門下生だった鎌原桐山に入門して経書を学びました。 1833年に、江戸に出て林家の塾頭の佐藤一斎の門下となりました。 林家は、林羅山を祖とする日本の儒学者・朱子学者の家系です。 のち帰郷しましたが、1839年に再び江戸に出て、神田お玉ヶ池付近に塾を開きました。 さらに、松代藩の江戸藩邸学問所頭取なども務めました。 このころ、松崎慊堂、藤田東湖、渡辺崋山などと交流しました。 源 了圓さんは1920年熊本県宇土市生まれ、第五高等学校を経て京都大学文学部哲学科に進みました。 1948年に同大学を卒業し、同大学大学院に進学しました。 京都学派の田辺元や西谷啓治に学び、梅原猛と親交を結びました。 日本女子大学文学部教授を経て、東北大学文学部教授に就任しました。 1981年に、学位論文を東北大学に提出し文学博士となりました。 1984年に東北大学を定年退官となり、名誉教授となりました。 その後は、国際基督教大学教授として教鞭をとりました。 2001年に、日本学士院会員に選出されました。 並行して、コロンビア大学・北京日本学センター・オックスフォード大学などで客員教授を務めました。 佐久間象山は、若い頃は朱子学を学んでいましたが、藩主・真田幸貫の命令により洋学研究の担当となりました。 1841年に松代藩主の真田幸貫が老中に抜擢されると、象山は海防顧問となり海防八策を提出しました。 アヘン戦争の報により対外的危機に目ざめ、1842年に江川太郎左衛門に入門して砲術を学びました。 大砲の鋳造をはじめカメラや地震予知機まで、洋書だけを頼りに自分で作り上げたという逸話も残っています。 続いてオランダ語学習をはじめ、砲術教授の塾を開きました。 そこで、勝海舟、吉田松陰、坂本竜馬、加藤弘之らを教えました。 蘭学・砲学を入り口に、西洋学問の第一人者となり日本初の指示電信機による電信を行いました。 ほかに、ガラスの製造や地震予知器の開発まで成功させました。 西洋技術の摂取による、産業開発と軍備充実を唱えました。 1854年に門人吉田松陰の海外密航の事件に連座して蟄居となり、洋書をむさぼり読びました。 ペリー来航時は攘夷論を主張していましたが、のちに和親開国論者に立場を変えました。 1863年に赦免となり、翌年幕命により上洛しました。 当時上洛していた徳川慶喜に、公武合体と開国の必要性を説くことになりました。 これにより、京都に潜伏していた尊王攘夷派に目をつけられることとなりました。 1864年に、幕末四大人斬りのひとりである河上彦斎らの手により暗殺されました。 7月11日の夕刻、路上を馬に乗って通りかかり、刺客に襲われて斬られ即死したといいます。 松代町の西南には象山生誕の地が残り、隣接して象山を祀った象山神社があります。 近代日本における西欧文明への対応には、二つの型がありました。 第一は、いかなる意味においても西欧文明を排撃しようとするものです。 第二は、日本の取るべき進路は積極的に西欧文明を受容することにあるとするものです。 アーノルド・トインビーに従うと、第一のタイプの人々はゼロット(熱狂的排外主義者)、第二のタイプの人々は耐え難きを耐えるヘロデ主義者とみなされるでしょう。 象山は、ヘロデ主義者の代表ともいうべき人でした。 西欧の科学技術文明を積極的に受容することによって、西欧諸国の圧力に抵抗して自国の独立を守ろうとしました。 したがって、象山は両義性をもつ日本の近代科学技術文明の型をつくった人と言ってよいといいます。 近代日本の優れた面もそこに潜む問題点も、自分の生涯に集約的に具現しました。 しかしその範囲だけでは、象山の歴史的個性や日本の西欧文明受容の個性は明確にはなりません。 大切なのは、象山がどんな仕方で西欧の科学技術文明を学び、それを受容しようとしたかです。 ここまで問題を深めてはじめて、歴史的意義も日本の近代化の特性も明らかになります。 本書の初版は、PHP研究所の歴史人物シリーズの一冊として刊行されました。 温厚篤実な人格者の著者が、変人奇人と評される象山を扱うのは意外かも知れません。 著者は江戸時代の実学思想史の研究において、幕末期を代表する重要人物として早くから象山に着眼していました。 それゆえ象山理解は本格的で、実学史研究のさまざまな作品の中に象山研究の成果が織り込まれています。 著者は、長年の実学思想史研究の中で得たエッセンスを、簡潔平易な文体をもって要約しています。 象山の地元史家の、長年に亘る地道な研究の産物です。 本書は、著者が象山になり代わって象山という人間の人と思想を簡潔に語った伝記と考えられます。 「序章」と、「象山の生い立ち」「儒者の時代」「兵学への開眼」「黒船来航」「聚遠楼の日々」「上洛とその死」の六章で構成されています。 さらに各章の中が五話前後に区分けされ、全体が「五〇話」で完結しています。 すなわち、五十面体の象山像を読みやすさ理解しやすさに配慮して書かれた象山の伝記です。 読み進めると、変人奇人と言われた象山の虚像が覆され、長短を併せ持つ個性豊かな象山の実像が浮かびます。 コメンテーターの坂本保富氏は、本書は象山の思想と行動の全体像を描写した、象山研究の啓蒙書といえるのではないかといいます。序章 佐久間象山への視覚/第1章 象山の生い立ち/第2章 儒者の時代/第3章 兵学への開眼/第4章 黒船来航/第5章 聚遠楼の日々/第6章 上洛とその死 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【3980円以上送料無料】佐久間象山/源了圓/著佐久間象山に学ぶ大転換期の生き方 [ 田口佳史 ]
2025.05.24
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三浦義村は鎌倉時代初期の相模国の武将で、鎌倉幕府の有力御家人です。 ”三浦義村”(2023年10月 吉川弘文館刊 高橋 秀樹著)を読みました。 北条義時と政子の死後に執権泰時と協調して新体制を支えた、有力御家人であった三浦義村の生涯を紹介しています。 1168年ころ、桓武平氏良文流三浦氏の当主である三浦義澄の次男として生まれたとされます。 義村の母親は、伊東祐親の娘にあたります。 義村の時代は、源平の戦い、鎌倉幕府の成立、御家人らの権力闘争が行われた時期と重なります。 父親の義澄は相模の国の武将で、源頼朝の挙兵に初期から加わりました。 各地に転戦して鎌倉幕府の成立に尽力し、十三人の合議制の一人として選ばれました。 義村は、生年を始め幼少期についてあまり明らかにされていません。 義村が初めて史料に登場するのは、1182年の『吾妻鏡』です。 源頼朝正室政子の安産祈願のため、安房東条庤へ遣わされた使者として三浦平六の名前が見えます。 三浦平六は、義村の別名の通称です。 1184年と翌年の平氏追討や、1189年の奥州征伐に従い、父親とともに平氏追討に武功をあげました。 和田義盛の挙兵や承久の乱で北条氏を助けたことから信任され、評定衆にも選ばれました。 頼朝亡き後は北条氏と密接に結びつき、幕府内での政治的地位を高めました。 高橋秀樹さんは1964年神奈川県生まれ、1989年に学習院大学大学院人文科学研究科修士課程を修了しました。 1996年に同博士課程を修了し、”日本中世の家と親族”で博士(史学)となりました。 1992年に日本学術振興会特別研究員、1994年に放送大学非常勤講師となりました。 1995年に国立歴史民俗博物館非常勤研究員、1998年に東京大学史料編纂所研究員となりました。 2018年から國學院大學文学部史学科教授となり、現在に至っています。 1190年に頼朝が上洛したとき、義村は父親の功によって宮中の警備をする右兵衛尉に任じられました。 のちに左衛門尉に転じ、さらに駿河守となり正五位下に叙せられました。 1199年1月に源頼朝が没し、嫡男の源頼家が2代将軍となりました。 このころ鎌倉幕府内部では、御家人らの権力闘争が目立つようになりました。 義村は、そのなかでたびたび重要な役割を果たしました。 1199年12月の梶原景時の乱では、朋友の結城朝光を助け他の御家人たちの談合を画策しました。 義村は、御家人66名による梶原景時の糾弾状を作成し、梶原一族を退けました。 1202年には、娘を北条泰時に嫁がせ北条氏との関係を固め勢威を強めました。 1205年の畠山重忠の乱では、北条時政の命により義時とともに畠山重忠を討滅しました。 この事件は、牧の方が時政に讒訴したため畠山氏に叛意のなかったことが判明しました。 すると義村は、事件の関係者らを鎌倉の経師谷で討ちました。 同年7月には、将軍の実朝を廃して平賀朝雅を擁立しようとした牧の方の陰謀が発覚しました。 このとき義村は、北条政子と義時に協力して実朝の安全を守りました。 この事件がきっかけで、執権の時政は落飾して伊豆に隠退し義時が執権となりました。 義時の味方となったために、ときには一族と相対する立場に身を置くこともありました。 鎌倉幕府内部の権力闘争を、冷静かつ大胆に生き抜いたのです。 執権義時の亡き後は、幕府を左右する政治力を持つ存在となりました。 この頃、三浦一族の国司、守護、地頭職にあった地域は全国に及びました。 1213年に、一族の中で大きな勢力であった従兄弟の和田義盛と和田合戦で敵対しました。 将軍実朝と執権義時を廃して、故将軍頼家の遺子栄実を擁立しようとしました。 義村は、義盛に味方するという起請文を書きながら変心しました。 義時に義盛の挙兵を伝え、謀反人とされた義盛らは滅亡しました。 1219年1月27日に、将軍実朝が頼家の子の公暁に暗殺されました。 公暁は義村に幕府の準備を頼む書状を持った使いを出しましたが、義村は偽って討手を差し向けました。 公暁は、義村宅の塀を乗り越えようとしたところを殺害されました。 1221年の承久の乱では、弟の胤義から決起をうながす書状を受けとりましたたが、義村は使者を追い返し義時の元に向かい通報しました。 出戦が決まると、東海道方面軍の大将軍の一人として東海道を上り東寺で胤義と相対しました。 その後、胤義は子の胤連、兼義とともに現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社で自害しました。 乱終息後の戦後処理でも、義村は活躍しました。 1224年に北条義時が病死すると伊賀氏事件が起き、義村は伊賀の方一族を追放しました。 1225年夏に、大江広元・北条政子が相次いで死去しました。 執権北条泰時の下で評定衆が設置され、義村は宿老としてこれに就任しました。 幕府内の地位を示す椀飯の沙汰では、北条氏に次ぐ地位となりました。 1232年の御成敗式目の制定では、前駿河守平朝臣義村として署名しました。 4代将軍の藤原頼経には、義村は子の泰村と共に近しく仕えました。 そして1239年に亡くなり、死因は「頓死、大中風」だったといいます。 頓死とは急死、大中風とは脳卒中発作の後で現われる半身不随です。 ほとんどの日本人にとって、ごく最近まで三浦義村は未知の存在でした。 本人は、中学校歴史教科書や高等学校日本史教科書に登場しません。 子供の泰村は、1247年に起きた鎌倉幕府の内乱である宝治合戦で滅ぼされた存在として、多くの高校教科書に書かれています。 父親の義澄については、いわゆる十三人の合議制の一人として名を載せている教科書があります。 しかし、義村の名を記す教科書はないのです。 載っていないのは、北条氏に討たれなかったからです。 滅ぼされた梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛、三浦泰材は敗者として記述されています。 義村は北条氏の協力者かライバルとみられ、対象外でした。 義村像の再評価のきっかけをつくったのは、作家の永井路子氏でしょう。 1964年の直木賞受賞作『炎環』で、源実朝暗殺事件の黒幕として義村を描きました。 1978年の『執念の家譜』では、三浦一族の歴史をたどりました。 1979年のNHK大河ドラマ『草燃える』で、ダーティーな義村のイメージは一部に定着しました。 2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、主人公の北条義時の生涯にわたる盟友として描かれました。 本書の主眼は、三浦義村の人生をたどることにあるといいます。はしがき/第1 義村の誕生/第2 若き日の義村/第3 宿老への道/第4 義村の八難六奇/第5 最期の輝き/第6 義村の妻子と所領・邸宅・所職、関係文化財/三浦氏略系図/略年譜/参考文献 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]三浦義村(321) (人物叢書) [ 高橋 秀樹 ]【中古】 三浦義村 / 暁 太郎 / KADOKAWA(新人物往来社) [単行本]【ネコポス発送】
2025.05.10
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すぐ落ち込んだりストレスだらけだったり、人前が苦手だったり空回りしたり人は少なくありません。 ”最適脳 6つの脳内物質で人生を変える”(2024年4月 新潮社刊 デヴィッド・JP・フィリップス著/久山葉子訳)を読みました。 人間の気分や幸福感を左右するのは、ホルモンや脳内伝達物質です。 薬に頼ることなく自分で物質を増やしたり減らしたりすれば、自分を最適化できるといいます。 自己肯定感が低めだと、自己啓発書を読んでもあれこれ試してもあと一歩なりたい自分になれません。 いつもネガティブで自分はダメと思っている人は、本当になりたかった自分になるためにどうしたらよいのでしょうか。 それは、脳内化学物質のバランスが崩れているからかもしれないのです。 人間の気分や幸福感を左右するのは、ホルモンや脳内伝達物質です。 脳内化学物質で重要のは、ドーパミン、オキシトシン、セロトニン、コルチゾール、テストステロンとエンドルフィンです。 この6つの組み合わせを自分で決められたら、大きな改善につなげられるといいます。 著者のデヴィッド・JP・フィリップスさんは1976年スウェーデン生まれ、父親は英国人で母親はスウェーデン人です。 18歳のときマイクロソフトのサポート技術者になり、20歳のときにIT企業を立ち上げました。 しかし、ある日突然パートナーが会社の全財産を持ち逃げし、創業の夢は終わりを告げたそうです。 これがきっかけでヘッドハンティングされ、自分の技術スキルをグループに教えることになりました。 26歳のときこの仕事を終え、ロンドンでeラーニングのディレクターになり、数年間その部門を率いました。 その後スウェーデンに戻り、今度は自分のトレーニング会社を立ち上げました。 そこで、観察し、分析し、応用し、文書化した内容に基づいた4ステップ・メソッドを開発しました。 この原則に基づき、プレゼンター・マスタリーコースを構築して普及に努めました。 このコースは進化を遂げて、グーグル、マイクロソフト、オラクルなどの一流企業で採用されました。 しかし39歳の頃、自分が大人になってからずっとうつ病だったことに気づいたということです。 この問題に4ステップ・メソッドを適用し、12ヶ月以内に自分のうつ病を効率的に解決できたそうです。 その過程で、自分自身の心と内的コミュニケーションをマスターする鍵を見つけることができました。 そこで、”WOW Life Mastery"という新しいトレーニング・プログラムを作りました。きました。 2、3年の間に何千人もの人々が受講し、その後このテーマでハイ・オン・ライフという本を書きました。 この本はたちまちヒットし、現在30カ国語に翻訳されているそうです。 動画再生回数は1億を超え、受講者数千人のコミュニケーションの世界的専門家となっています。 久山葉子さんは1975年兵庫県生まれ、神戸女学院大学文学部を卒業しました。 高校時代に1年間、交換留学プログラム(AFS)でスウェーデンに留学したことがあるといいます。 東京のスウェーデン大使館商務部勤務を経て、2010年に日本人家族3人でスウェーデンに移住しました。 現地の高校で、日本語を12年間教えました。 翻訳家・エッセイイストとして、多数の著書があります。 「自己啓発書を何冊読んでもあれこれ試しても、あと一歩なりたい自分になれていない感じがする。いつもネガティブな気分で、自分はダメだと思っている。」 本書は、このような人達が本当になりたかった自分になるための本です。 人間の気分や幸福感を左右するのは、ホルモンや脳内伝達物質なのです。 いわば、自分の脳を最適化するために必要な化学工場を自分の中につくってしまえばいいのです。 いつどのように物質を利用するかを学べば、自分で物質を増やしたり減らしたりできるのです。 あなたの人生を変える6つの物質とは、ドーパミン、オキシトシン、セロトニン、コルチゾール、エンドルフィン、テストステロンです。 これらは、天使のカクテルや悪魔のカクテルをつくる原料です。 ドーパミン(dopamine)は、中枢神経系に存在する神経伝達物質で、アドレナリン、ノルアドレナリンの前駆体です。 運動調節、ホルモン調節、快の感情、意欲、学習などに関わっています。 オキシトシン(Oxytocin)は、視床下部の神経分泌細胞で合成され、下垂体後葉から分泌されるホルモンです。 末梢組織で働くホルモンとしての作用と、中枢神経での神経伝達物質としての作用があります。 セロトニン(serotonin)は、必須アミノ酸トリプトファンから生合成される脳内の神経伝達物質の一つです。 ドーパミン・ノルアドレナリンを制御し精神を安定させ、生体リズム・神経内分泌・睡眠・体温調節などに関与します。 コルチゾール(Cortisol)は、副腎皮質ホルモンである糖質コルチコイドの一種です。 炭水化物、脂肪、タンパク代謝を制御し、生体にとって必須のホルモンです。 エンドルフィン(endorphin)は、脳内で機能する神経伝達物質のひとつです。 脳内の報酬系に多く分布し内在性鎮痛系にかかわり、多幸感をもたらすと考えられています。 テストステロン(Testosterone)は、ステロイドホルモンであり男性における主要な性ホルモンです。 男性生殖組織の発達に重要な役割を果たし、筋肉や骨量の増加、体毛の成長などの二次性徴を促進します。 脳内物質自体は何百種類も存在するのに、なぜ6種類に限定したのでしょうか。 それは、効果をすぐに感じられる、望んだ時に自分でつくれる、簡単で実際的な方法によってつくれることによります。 その他の脳内物質を採用しなかったのは、望んだ時にはっきりした精神的効果を得られないからだといいます。 ドーパミンとノルアドレナリンをみなぎらせて、やる気を最高潮に出したい? オキシトシンに満たされて、誰かとじっくり時間を過ごしたい? セロトニンのおかげで、心穏やかでいたい? エンドルフィンで幸福感を感じ、テストステロンが与えてくれる自信を持ちたい? 天使のカクテルとは、自分が必要な時に必要な気分をつくれるようにできる組み合わせです。 これに対して、悪魔のカクテルとは慢性的なうつにつながる組み合わせです。 強いストレスを長いこと受けて、心配と落胆と愚痴ばかりです。 ポジティブな感情が乏しく、人生が灰色に見えます。 来る日も来る日も同じことの繰り返しで、閉じ込められたように現実味がありません。 大きな喜びを感じることなく、人生が進んでいきます。 悪魔のカクテルを飲んでしまうことはこれまで習ってきませんでした。 社会では成功をお金で測るから、つい周りの人の真似をしてしまうからです。 うつから脱するには、自分の感情がどこから生まれ、生理学的、神経学的にどうなっているかという知識を得ることが大切です。 自らの感情をコントロールして、暮らしやすい日々を手に入れましょう。 天使のカクテルの効果は一時的ですので、ここぞというときに活用すべきです。 なお、この文章は科学的にあるいは学問的に深く追究したい人のためのものではないといいます。 専門的な内容を簡略化した、ポピュラーサイエンスの文章であることに留意が必要です。第1部 “天使のカクテル”のつくり方(“天使のカクテル”と“悪魔のカクテル”;ドーパミン―生きる原動力を得、人生を満喫するには;オキシトシン―人との連帯感と人間らしさを感じるには;セロトニン―自分の社会的地位に安心し、満足感を得るには;コルチゾール―集中力を保ち、緊張やパニックから脱出するには;エンドルフィン―高揚感を得て笑顔で過ごすには;テストステロン―自信をゲット、勝利を手にするには;“天使のカクテル”のベース素材;24時間営業、“天使のカクテル”のバー;“悪魔のカクテル”のつくり方)第2部 自分の未来をつくる(一生“天使のカクテル”をつくり続けるために) [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]最適脳 6つの脳内物質で人生を変える (新潮新書) [ デヴィッド・ジェイピー・フィリップス ]医者が教える疲れない人の脳 3つの脳内物質を増やせばいい (知的生きかた文庫) [ 有田 秀穂 ]
2025.04.26
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矢部貞治は欧米に留学し、帰国後は大学で政治学講座を担当しながら首相のブレーンとして活躍しました。 ”矢部貞治 知識人と政治”(2022年11月 中央公論新社刊 井上 寿一著)を読みました。 首相のブレーンの昭和研究会に参加し、現実政治での実践を試みました。 矢部貞治は1902年に鳥取県気鳥取市生まれで、のち愛媛県今治市出身の司法官の養子となりました。 旧姓は横山で、後に養子縁組によって矢部姓にかわりました。 旧制鳥取県立鳥取中学校と旧制第一高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部に入学しました。 1926年3月に大学法学部政治学科を卒業し、矢内原忠雄博士から教育者になることをすすめられました。 政治学の創始者として知られる恩師の小野塚喜平次博士に従って、政治学者への道を進むこととなりました。 1928年に東京帝国大学法学部助教授、1939年に同大学法学部教授となり、1945年に東大教授を依願免官となりました。 1952年に早稲田大学大学院講師、1953年に選挙制度調査会委員、1955年に拓殖大学総長兼教授となりました。 1955年に行政審議会委員、1956年に公安審査委員会委員、1957年に憲法調査会副会長となりました。 ほかに、1959年に中央教育審議会委員、選挙制度審議会委員になりました。 1960年に文部省東南アジア教育調査団長として、東南アジアの4か国に出張しました。 1961年に憲法調査会海外調査団長として、北中南米の7か国に出張しました。 1964年に拓殖大学総長を辞任し、以後は政治評論家として活躍しました。 1967年5月7日に自宅で死去し、従三位勲一等瑞宝章を授与されました。 井上寿一さんは1956年東京都生まれ、1981年に一橋大学社会学部を卒業し、1983年に一橋大学大学院法学研究科修士課程を修了しました。 1986年に同博士課程を単位取得退学し、1988年に法学博士(一橋大学)となりました。 専攻は、日本政治外交史、歴史政策論で、日本外交について一次史料に即した実証研究を重ねています。 以後、一橋大学助手を経て、1989年に学習院大学法学部助教授、1993年に法学部政治学科教授となりました。 2005年から2009年まで、学習院大学法学部長を務めました。 1995年に吉田茂賞を、2011年に第12回正論新風賞を受賞しました。 2014年から2020年まで、学習院大学学長を務めました。 矢部貞治は、政治に直接コミットした最初の研究者の一人です。 助教授時代の1935年から1937年まで、ヒトラー台頭下の欧米に留学し政治の大きな変革に遭遇しました。 帰国後は政治学講座を担当しつつ、首相の近衛文麿のブレーンとして昭和研究会に参加しました。 そこで現実政治での実践を試みて、国内と国際関係の新体制を立案しました。 敗戦後は東大を辞職し、同志を集めて日本再建についての研究を始めました。 1950年代半ば以降は、拓大総長、憲法調査会委員、選挙制度審議会委員などを歴任し、メディアでも積極的に発言を行いました。 本書は、矢部貞治の評伝と日本政治での知識人の役割を考えています。 これまでの、欧米を中心とした民主主義世界が大きく動揺しています。 ロシアのウクライナ侵攻、台頭する中国、アフガユスタンにおげるタリバソ勢力の復権です。 欧州における極右勢力の伸長、アメリカのドナルド・トランプ現象も危機の例証になっています。 日本でも、ポピュリスムと反知性主義が日本の民主主義を脅かしています。 この点で、日本固有のデモクラシーの発展を求め続けた矢部貞治から学ぶべきことは多いでしょう。 日本の民主主義の将来について、矢部貞治がその方向を示しているといいます。 二大政党制の可能性については、保守一党優位体制の継続が望ましいのでしょうか。 有権者は、それよりも二大政党制のような政党政治システムを求めている可能性もあります。 矢部貞治は、イギリスを模範国として戦前から二人政党制の確立をめざしました。 戦後は、保守政党の進歩化と革新政党の現実化に力を注ぎました。 今日の政治状況において、矢部貞治の二大政党制論は振り返るに値するでしょう。 つまり、進歩的な保守と穏健なリベラルとの間の二大政党制のような政党政治システムです。 憲法改正問題については、いまこのまま改憲に進むべきかが問題です。 少し前まで改憲の発議が可能な国会の勢力分布が続き、世論も改憲志向にみえました。 その後この状況に変化がありましたが、ふたたび改憲の可能性が高まったときどうすべきでしょうか。 改憲論者だった矢部貞治は,立ち止まって考えることを促しています。 それは、国民のなかから湧き上がるような改憲支持の勢いかあるか否かが重要であるといいます。 しかし、二大政党割と憲法改正を中軸とする矢部貞治の戦後構想は、道半ばで未完のまま終わりを告げました。 矢部貞治は、政治家志向ではなく学究の徒だったのです。 日本の知識人たちは、英語さえ満足に喋れずヨーロッパ語もまともに読み書きできません。 かといって、ソフトウェアが書けるわげでも数学を使いこなせるわけでもありません。 メディア知識人は、滑舌と声が良く話がわかりやすく面白いですが、ちょっと博識な一般人でしかありません。 一方で、古い知識人たちは、誰も読まない論文を書いて同業者同士でやりあっているだけです。 そして、審議会やメディアでおしゃべりの下請けをしているようです。 このような知識人の没落は、大衆社会状況における知の民主化がもたらしたものです。 知の民主化は、反知性主義の興隆と社会からの知識人の退場を促しています。 他方で、知識人は権力と国民との間に介在し、情報伝達・政策立案・政策評価の三つの機能を持ちます。 今でも、これら三つの機能を持つ知識人の社会的な有用性は変わりません。 矢部貞治は、この三つの機能を持つ知識人として、1930年代から1960年代まで日本政治に大きな影響を及ぼしました。 しかし、丸山眞男、清水幾太郎、清沢冽、馬場恒吾と比較して、矢部貞治の存在感は稀薄です。 その理由を詮索してみたところで、どうなるものでもないのです。 矢部貞治は過去から呼び戻すに値しますので、本書はこの忘れられた知識人の生涯を追跡するということです。はじめに/第1章 デモクラシーのなかの立身出世ー鳥取から東京へ/第2章 欧米での在外研究ー一九三五年~三七年の体験/第3章 日中戦争の勃発ー危機と好機/第4章 昭和研究会への参加ー近衛文麿のブレーンへ/第5章 「新体制」と大政翼賛会ー議会制度への懐疑/第6章 「大東亜」戦争下の活動ー海軍への接近と戦後構想/第7章 政治への再接近ー「協同民主主義」の伝道師/第8章 未完の戦後ー憲法調査会と選挙制度調査会/おわりに/あとがき [http://lifestyl e.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]矢部貞治 知識人と政治 (中公選書) [ 井上寿一 ]矢部貞治日記〈紅葉の巻〉【中古】
2025.04.12
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民藝とは民衆的工芸の略語で、柳宗悦と美の認識を同じくする陶芸家の浜田庄司、河井寛次郎らによってつくられた言葉です。 ”民藝のみかた”(2024年11月 作品社刊 ヒューゴー・ムンスターバーグ著)を読みました。 民藝とは何かからいま日本で盛んになっている民藝運動まで、多岐にわたり読みやすく解説しています。 民藝品とは一般の民衆が日々の生活に必要とする品という意味で、民衆の民衆による民衆のための工芸といえます。 日々の生活のなかにある美を慈しみ、素材や作り手に思いを寄せるコンセプトです。 民藝運動の創始者の柳宗悦は、生活道具として使われていた民藝品に新たな価値を見出し用の美と称えました。 簡素で飾らない美しさと、道具としての機能性を併せ持つ民藝は、海外からも高く評価されています。 民藝のコンセプトはいま改めて必要とされ、私たちの暮らしに身近なものとなりつつあります。 今からおよそ70年前、日本の民蓼に魅せられたひとりのアメリカ人がいました。 東洋美術史家の、ヒューゴー・ムンスクーバーグです。 本書は1985年に発表された日本の民芸を海外に紹介するための書、 The Fork Arts of Japan の初めての邦訳です。 ヒューゴー・ムンスターバーグは1916年ベルリン生まれ、父親はユダヤ系ドイツ人、母親はアメリカ人です。 幼い頃に父親を亡くし、家庭の問題に加えユダヤ人として迫害を受けたこともあって、1935年にアメリカに移住しました。 ハーバード大学で美術史を学び、博士号を受けました。 日本や中国の美術品を愛好した父親の影響もあり、アジアの美術史を専門としました。 なかでも、中心は日本と中国古代の美術でした。 1952年から国際基督教大学に赴任し、4年にわたって教鞭をとりました。 そこで出会った同大の初代学長で民藝の蒐集家であった湯浅八郎の影響で、民藝への関心を深めました。 柳宗悦とも交流し、調査と研究を重ねた成果が本書に結実しました。 1956年にアメリカに戻り、1958年にはニューヨーク州立大学ニューパルツ校に美術史学科を設立しました。 長年にわたりアジアの美術、世界の芸術について、講義を行うかたわら多数の著書も発表しました。 そして1995年に、78歳で永眠しました。 今でも、ニューパルツ校に燦然と名を残しています。 なお、アメリカ心理学会会長を務めたハーバード大学の1863年生まれのヒューゴー・ムンスターバーグとは、叔父と甥の関係です。 弟のオスカーの長男が本書の執筆者です。 本書はもともと、外国人の目で日本の民藝を見つめてわかりやすくまとめた、外国人向けのガイドブックです。 現代の私たち日本人にとっても、当時の民藝の全体像を知るための良き道しるべとなります。 民藝について初めて英文で書かれた本として、きわめて重要な意味をもっています。 民衆的芸術の研究と体系的な収集は、19世紀末にドイツの学者たちによって始められました。 道をひらいたのは、ウィーンの著名な美術史家、アロイス・リーグルです。 1896年に、ロベルト・ミールケによって民衆的芸術の書が出版されました。 それ以来、ヨーロッパやアジアの各地で見られる工芸品についても、数えきれないほどの著作が発表されました。 日本における草分けは柳宗悦で、民藝を広く紹介してその評価を高めました。 柳宗悦は著書や寄稿文のなかで、日常生活で普通に使う器具の美しさを繰り返し褒めたたえました。 真の美とは、名前や芸術家としての経歴が知られていなくても、職人たちの手仕事にのみ見出されるといいます。 自己意識の強い芸術家が上流階級のためにつくった美術品より、素朴な人々が使うためにつくった質素な工芸品のほうが称賛に値するといいます。 工芸品にこそ、芸術に対する真に民主的な取り組み方が表れていると考えます。 名もなき職人の作品と著名な芸術家の作品を比較して、前者のほうが美の表れかたとして優れているということです。 民藝のなかに見ているのは単に抽象的審美的な美ではなく、実用と密接に結びついた美です。 民藝品に対する日本人の審美眼や敬意は、400年ほど前の初期の茶人たちに起源があります。 茶人たちが讃えた茶器のほとんどは、民器品でした。 そうした茶器の美の概念は、常に渋さの美という言葉で表現されます。 そこには簡素、静寂、礼節、空といった考え方が含まれ、自然美や健康美が高く評価されています。 茶道はただ美を眺めるだけでは飽き足らず、美しい物を実際に生活で用いた時に初めてその美を真に味わえるのだと説きました。 用に即した器物に注目し、美術品ではなく工藝品に対する深い関心を育みました。 富貴な階級の鑑賞用に作られた物ではなく、庶民が日常の暮らしに用いるために作られた物を重視しました。 そして、近年の民藝運動こそが対象とする範囲を広げ、そうした品物を日常生活で用いることを推し進めました。 この運動は、鑑賞するだけでは不十分であり、品物自体が庶民の日常生活に取り入れられるべきだと訴えています。 日本の民藝運動について特筆すべき点の一つとして、無銘性の意義を強調してきたことがあげられます。 民藝品はまさにその性質上いつもかならず無銘であり、個人が名前を記す必要のない世界の美しさを見せてくれます。 そうすることで、個人主義がはびこる現代の悪をいくらか正す一助となるのかもしれません。 本書の巻頭言に、日本の民藝の美を正しく理解することを教えてくれた柳宗悦氏に捧げる、とあります。 柳宗悦は、1889年生まれの美術評論家、宗教哲学者です。 学習院高等科在学中に、志賀直哉、武者小路実篤らと雑誌・白樺を創刊しました。 芸術を哲学的に探求し、日用品に美と職人の手仕事の価値を見出す民藝運動も始めました。 1913年に、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業しました。 心理学は純粋科学とはなり得ないと考え、アカデミズムに対する違和感を覚えたといいます。 このようなことから、独自の学問を形成提起していくこととなりました。 ブレイクの直観を重視する思想に影響を受け、芸術と宗教に立脚する宗悦独自の思想大系の基礎となりました。 ブレイクとの出会いをきっかけに、柳の関心は次第に東洋の老荘思想や大乗仏教の教えに向けられていきました。 1919年に東洋大学教授となり、1921年からは明治大学予科にも出講しました。 1923年の関東大震災を機に、京都へ転居しました。 同志社大学と同志社女学校専門学部、関西学院の講師となりました。 木喰仏に注目し、1924年から全国の木喰仏調査を行いました。 民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界を紹介するため、1925年から民藝の言葉を用いました。 1926年に、陶芸家の富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎の4人連名で、日本民藝美術館設立趣意書を発表しました。 1931年には、雑誌・工藝を創刊し、民藝運動の機関紙として共鳴者を増やしました。 1934年に、民藝運動の活動母体となる日本民藝協会が設立されました。 全国を手仕事調査でまわり、思想面でも実際面でも職人たちの生計を助けるなどの役割も果たしました。 1936年に実業家大原孫三郎の支援により、宗悦が初代館長となり東京駒場に日本民藝館を創設しました。 また、沖縄・台湾などの南西諸島の文化保護を訴えました。 人間は個人の自由を常に求めていますが、それと同時に、みずから生みだした新たな制約の犠牲になっています。 だからこそ民藝運動は、自我のない世界の美しさがどれほど奥深いものか示そうとしています。 そうした意味で日本の民蓼運動は単なる工藝運動を超え、新しい美の宗教としても重要と言って過言ではありません。序文 柳宗悦/第1章 日本の民藝の精神/第2章 陶器/第3章 籠と関連製品/第4章 漆器、木器、金属器/第5章 玩具/第6章 織物/第7章 絵画と彫刻/第8章 農家の建物/第9章 現代の民藝運動/謝辞/解説 いまなぜ民藝か/訳者あとがき [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]民藝のみかた [ ヒューゴー・ムンスターバーグ ]民藝とは何か (講談社学術文庫) [ 柳 宗悦 ]
2025.03.29
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上杉謙信は、戦国時代に越後国など北陸地方を支配した武将です。 ”上杉謙信の本音 関東支配の理想と現実”(2024年10月 吉川弘文館刊 池 亨著)を読みました。 上杉謙信について、覇権、挫折、同盟、衝突などの戦国争乱を辿りその生涯を紹介していまう。 上杉謙信は、長尾為景の末子として誕生し幼名を虎千代と名乗りました。 長尾為景は長尾氏本家筋に属し、越後国の守護代を務めていた戦国大名です。 長尾氏は上杉氏の被官として、関東管領や越後守護代を代々務めていました。 1536年に為景が病死したため家督は兄の晴景が継ぎ、虎千代は春日山城下の林泉寺に入りました。 青年期の7歳から14歳までをここで過ごし、深い学識と厚い仏心を培ったと言われます。 その後、元服して長尾景虎と名乗り、病弱だった兄に代わって家督を継いで越後守護代となりました。 以後のいろいろな戦歴は、元服をした1543年に始まっています。 武田信玄、北条氏康、織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねました。 謙信の戦いは欲によるものではなく、義を重んじ出兵したものだったといわれます。 また、旗印の毘の文字は、自らを生まれ変わりと信じ厚く信仰していた毘沙門天からとったものです。 内政や外交にも才を発揮し1578年に享年49歳で亡くなりましたが、その生涯は戦の連続でした。 妻を持たずに生涯未婚を貫くなど、戦国武将としては異色の人物であったといいます。 池 享さんは1950年新潟県に生まれで、1974年に一橋大学社会学部を卒業しました。 1976年に大学院経済学研究科修士課程を修了し、1980年に大学院経済学研究科経済史専攻博士課程を単位取得退学しました。 1997年に一橋大学より、博士(経済学)の学位を取得しました。 1980年に一橋大学経済学部助手、1981年に大月短期大学専任講師、1983年に新潟大学人文学部助教授となりました。 1987年に一橋大学経済学部助教授、1991年に同教授となり、2014年に定年退職して名誉教授となりました。 専門は日本中近世史、特に室町時代と戦国時代の大名の研究です。 以後、ソウル大学校教授、歴史学研究会委員長、歴史科学協議会代表理事などを歴任しました。 上杉謙信の初名は長尾景虎で、関東管領の上杉憲政の養子となり山内上杉家の家督を譲られました。 上杉政虎と改名し、同家が世襲していた室町幕府の関東管領を引き継ぎました。 後に室町幕府将軍の足利義輝より偏諱の輝の1字を受け、最終的には輝虎と名乗りました。 正式な姓名は藤原輝虎で、謙信はさらに後に称した法号です。 謙信は合戦に明け暮れ、1561年の川中島合戦など派手な戦いも多く、1577年に加賀手取川で織田軍を撃破した一戦は印象深いです。 しかし、1566年の下総臼井城での手痛い敗戦もあり、百戦百勝だったわけではありません。 また、私利私欲なく信義に基づいて戦ったかどうかについては、再考が必要でしょう。 他地域からの援助要請に基づいて出兵することは、戦国時代にはよくあったのです。 何をもって信義とするかは、時代によって変わるのです。 信義を絶対化するのではなく、政治戦略的意味づけが必要となるでしょう。 謙信は、関東諸将の要請に応じて出兵を繰り返しました。 これにはまったく領土的野心はなく、関東管領として平和秩序の回復を目指したといいます。 もとをただすと、関東管領山内上杉氏と越後守護上杉氏との関わりにたどり着くといいます。 越後上杉氏は、関東の享徳の乱、長享の乱介入、顕定の関東管領就任などで関東政治と関わってきました。 はじまりは謙信最初の出兵から100年以上さかのぼり、政治状況は大きく変わっていました。 関東管領は鎌倉府体制の主要な担い手ですが、その位置や役割も変わっていました。 戦国争乱が何によって引き起こされたのかが、まず明らかにされねばならないでしょう。 必要なのは、室町幕府による政治秩序がどのようなもので、なぜ機能不全に陥ったのかを明らかにすることです。 その際大切なのは、社会のあり方に視野を広げることです。 既存の社会秩序維持システムで紛争解決できなくなった理由や、新システムがどう用意されたかです。 本書は、戦国争乱を通じて新たな政治秩序が生み出される過程を、社会動向との関わりのなかで見ていきます。 これによって、謙信の出兵の意義も歴史の流れのなかで客観化してとらえることができるでしょう。 「越後上杉氏と関東」で、鎌倉公方足利氏と関東管領山内上杉氏の成立までさかのぼります。 そこから越後上杉氏と家宰の越後長尾氏が生まれ、室町時代の関東政治に関わっていきます。 そして、鎌倉公方と関東管領の対立が高じて本格的武力衝突である享徳の乱が起こります。 そして、上杉氏一族内部での主導権争いである長享の乱へと続き、関東の戦国争乱が始まります。 越後上杉氏は、これに深く巻きこまれていきました。 ここを押さえないと、なぜ謙信が関東にこだわったのかも理解できないでしょう。 「長尾為景と関東」で、謙信の父為景は守護上杉房能を討ち国主として越後に臨み、享禄天文の乱など国衆らの抵抗を受けつつ戦国大名化していきました。 「長尾景虎の覇権確立」で、為景の路線を引き継いだ謙信は享禄天文の乱を終結させ越後の覇権を確立させ、、覇権確立を機に本格的外征へと路線を転換しました。 「関東管領体制の挫折」で、小田原北条氏との争いに敗れた関東管領上杉憲政が越後に避難してきて、これを契機に謙信自らが関東管領となって関東一円の支配を目指しました。 「越相同盟の成立と崩壊」では、謙信が北条氏と越相同盟を締結し、北陸方面に外征の主目標を置いて関東から撤退していきました。 「上杉謙信の遺産と波紋」で、謙信が実子を儲けなかったことから、養子の景勝と北条氏康の子の景虎の間で後継者争いが起こり、上杉氏と北条氏、武田氏との関係も変わっていきました。 最後に、「関東管領から普通の戦国大名ヘーエピローグ」で、関東戦国史のなかに越山を位置づけ、あらためてその歴史的意味を考えるといいます。上杉謙信のイメージープロローグ/越後上杉氏と関東/長尾為景と関東/長尾景虎の覇権確立/「関東管領体制」の挫折/越相同盟の成立と崩壊/上杉謙信の「遺産」と波紋/関東管領から普通の戦国大名へーエピローグ/あとがき/略年表/参考文献[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]上杉謙信の本音 関東支配の理想と現実/池享【3000円以上送料無料】上杉謙信 (シリーズ・中世関東武士の研究 第36巻) [ 前嶋 敏 ]
2025.03.15
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熊沢蕃山は江戸時代初期の陽明学者で、政治家、経世家です。 呼称について本人は自分を熊沢蕃山と称したことはなく、生存中に周囲からそう呼ばれなかったはずだといいます。 ”熊沢蕃山 まづしくはあれども康寧の福”(2023年10月 ミネルヴァ書房刊 川口 浩著)を読みました。 単なる学者としてではなく、儒教的価値を実現するため専心した為政者であった武士の熊沢蕃山の生涯を紹介しています。 江戸時代以前、呼び名は誕生から死亡までの間に、さらに死後においても、幾度か変わることがありました。 蕃山も、左七郎、二郎八、次郎八、助右衛門、伯継、了介、息游軒などと名乗りそう呼ばれていました。 しかし、この中に熊沢蕃山がないことに読者は戸惑われるかも知れないといいます。 熊沢は正式な名字ですが、蕃山とうのはそうではありません。 これは本来バンサンではなくシゲヤマと読み、自分の知行地の村に付けた名です。 一時期、蕃山子介と名乗っていたことはありますが、熊沢と蕃山を連ねて使ったことはありません。 異説もありますが、いつの頃からか誰かが熊沢蕃山と呼ぶようになり、それが次第に世間に広まりそのまま現在に至ったのだといいます。 川口浩さんは1951年三重県生まれ、早大高等学院を経て1974年に早稲田大学政治経済学部を卒業しました。 1985年に、同大学院経済学研究科博士課程を単位取得満期退学しました。 1986年に中京大学商学部専任講師となり、1991年に経済学部助教授となりました。 1994年に早稲田大学政治経済学部助教授となり、1996年に政治経済学部教授となりました。 現在、早稲田大学政治経済学術院教授を経て名誉教授を務めています。 専門は日本経済思想史で、社会経済史学会常任理事を務めました。 熊沢蕃山は1619年に京都の浪人の野尻藤兵衛一利の長男として生まれました。 8歳の時に母方の祖父の熊沢守久の養子となり、熊沢姓を名乗ることとなりました。 池田輝政の女婿の京極高広の紹介で、16歳のとき輝政の孫の備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕しました。 21歳のとき池田家を離れ、滋賀県近江八幡市近江桐原の熊沢家に戻りました。 島原の乱への参陣を許可されなかったために出奔したと云われていますが、詳細が不明です。 光政は蕃山を他の児輩と異なると評価していたため、蕃山の成長を考え敢えて世に放ったのではないでしょうか。 光政には、自藩といった枠を越えて個人を活かす道を選ぶ癖があったといいます。 蕃山は、桐原の地の熊沢守久宅で朱子学の勉学に励みました。 しかし、独学では満足できず、師を探し始めました。 そこで出会ったのが、滋賀県高島市の近江小川村に住む中江藤樹でした。 藤樹は1608年に近江国小川村、現、滋賀県高島市に生まれ、9歳のとき祖父吉長の養子となりました。 陽明学の確立と知行合一の道を実践し、のちに近江聖人と称えられました。 陽明学は、中国で明の時代に王陽明が宋の陸象山の説を継承して唱えた学説です。 人は生来備えている是非・善悪・正邪の判断力を養って、知識と実践とを一体化すべきだとします。 藤樹は愛媛の伊予大洲藩を脱藩して、母の住む小川村に戻り私塾の藤樹書院を開いていました。 蕃山は23歳のとき、34歳だった藤樹の塾に入門しました。 わずか8ヶ月間の塾生生活でしたが、蕃山は藤樹から学問と陽明学の思想を学び儒教信者となりました。 陽明学は実践の学問であり、机上では無意味だとされていました。 1645年に、再び京極高広に口添えを願い出て、備前岡山藩の池田光政に出仕する運びとなりました。 藩政に参与して零細農民の救済や土木事業で業績をあげ、三千石の番頭に命ぜられました。 蕃山の治国策は、儒教の普及、軍事面の充実、治山治水などに至るまで国政全般に及びました。 農本主義を唱え、治水・治山による農業政策を実践し、岡山藩の財政立て直しに寄与しました。 しかし、大胆な藩政改革で藩内からも幕府からも不審を招き、岡山を去ることとなりました。 このため、1657年に39歳で岡山城下を離れ、知行地の和気郡寺口村、現、岡山県備前市蕃山に隠棲を余儀なくされました。 1658年に京都に移り私塾を開いて、多数の家下・武士・町人に師事されました。 さらに、浪々の中で幕府政策批判を続け、参勤交代や兵農分離策などを批判しました。 また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者であったため、保科正之や林羅山らの批判を受けました。 そのため、69歳で茨城県古河城に蟄居謹慎を命ぜられ、1691年に古河城にて享年74歳で死去しました。 蕃山の学問と思想は没後も多くの識者に影響を与え、やがて明治維新の大きな原動力になりました。 熊沢蕃山は、現在では、江戸時代初期の経世思想家として知られています。 その思想の根底には儒学思想と儒教的価値観があり、経世策はその応用編でした。 本書は、両者は一体不可分であるという立場に立脚しています。 蕃山は、自分が生み出した政策案を助言・吹聴するだけの学者ではありません。 蕃山は、生涯、自分の中では自身が学者であることをよしとすることはありませんでした。 儒教的価値実現のための政治・行政に注力・専心する、為政者としての武士であり続けました。 自己を武士であると確信している蕃山は、生真面目な信念の人であると言えます。 しかし、非妥協的で独善的な人物であるかも知れないのです。 このため、尊崇する門人・知人がいる一方で、忌み嫌う反対者・敵対者も少なからず存在していました。 その結果、蕃山の人生はいろいろな力によって右へ左へと揺さぶられ、数奇なものになってしまいました。 ある意味で、そこには自業自得な側面もなにがしかはあるかも知れません。 蕃山は薄幸な人であったかといえば、恐らくそうではないように感じられるといいます。 蕃山は、自己に与えられた天命のままに生きたように思われてならないということです。 蕃山の思想の基軸にあるのは、天道とか誠とかいわれる普遍的だと信じていた道徳規範です。 しかし、これは観念の世界における理念であり、そのままでは画に描いた餅です。 それゆえ、それは現実の中で具体化されなければなりませんが、幸運にも蕃山はその実現の場と力を得ました。 蕃山は誠に基づく治国安民という理念を具体化するため、備前岡山藩で身を粉にして働きました。 しかし、蕃山は池田家の家臣であったため、池田家のために働く対価として藩から扶持を得ていました。 ここには、普遍である誠と個別である岡山藩の二重構造があります。 なにごともなかったならば、この二つは矛盾せず相互補完的であったかも知れません。 ただし、両社が甑語をきたしたとき、蕃山はしばしば前者を優先して非妥協的・激情的な行動をとりました。 何が普遍で何が個別かの判断や、軸足をどちらに置くかあるいは折り合いをつけるかは、人それぞれです。 蕃山の弟の泉仲愛は、周囲との摩擦を生むことなく新参者でしたが藩主から信頼される家臣の一人となりました。 しかし、蕃山は、良し悪しは別にして、大人の度量を欠き普遍と個別の谷間に落ちてしまいました。 著者が気になることは、蕃山の思考の大前提にある無成長という経済のあり方であるといいます。 現在の日本では経済成長は当たり前のことと思われていますが、近年では一部に脱成長という主張があります。 ただし、前近代の無成長と21世紀の脱成長とは歴史的文脈を異にし、同一視することはできません。 しかし、蕃山を読むと人類史全体の中で近代は例外であり、前近代の無成長と将来の脱成長の間に超歴史的な一貫性があるのはないかといいます。はしがき/第1章 武士人生の始まりと躓き/第2章 師と君主/第3章 岡山藩政への参画/第4章 擁護と排斥/第5章 儒学思想/第6章 経世済民論/第7章 古河幽閉/あとがき/参考文献/年表・索引 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]熊沢蕃山 まづしくはあれども康寧の福 (ミネルヴァ日本評伝選) [ 川口 浩 ]熊沢蕃山 その生涯と思想 [ 吉田 俊純 ]
2025.03.01
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イギリスの科学者チャールズ・ダーウィンは、1809年にイギリスのシューズベリで生まれの自然科学者です。 ”ダーウィン 「進化論の父」の大いなる遺産”(2024年7月 中央公論新社刊 鈴木 紀之著)を読みました。 ”種の起源”を著して進化論を提唱し、自然淘汰による進化という考え方で生物学に革命をもたらした、ダ-ウィンの生涯を紹介しています。 一般に生物学者と見なされていますが、自身は存命中に地質学者を名乗っていました。 1831年にケンブリッジ大学神学部を卒業し、イギリス海軍測量艦ビーグル号に乗り組み世界一周の航海に出ました。 1836年に航海より帰って、1839年に航海記が出版されました。 1858年にロンドンのリンネ学会で、生物学ウォーレスの論文とともに進化論を発表しました。 そして、1859年に”種の起源”が出版されました。 これにより、全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、自然選択のプロセスを通して進化したと明らかにしました。 進化の事実については、存命中に科学界と一般大衆に受け入れられました。 しかし、自然選択の理論が進化の主要な原動力と見なされるようになったのは1930年代です。 ダーウィンは科学に革命をもたらしましたが、大発見は進化論にとどまりません。 人類の起源、感情の由来、性淘汰、動物の心理、新種の化石の発掘、サンゴ礁の形成、家畜・作物の品種改良、花と昆虫の関係などなどたくさんあります。 鈴木紀之さんは1984年神奈川県横浜市生まれ、専門は進化生態学と昆虫学です。 2007年に京都大学農学部を卒業し、2009年から日本学術振興会特別研究員等を経験しました。 2012年に京都大学大学院農学研究科博士課程を修了し、農学博士となりました。 2014年に立正大学地球環境科学部助教、2016年に米カリフォルニア大学バークレー校研究員などを歴任しました。 2018年より、高知大学農林海洋科学部准教授となりました。 チャールズーダーウィンは、1819年に10歳でシュルーズベリーの寄宿制のパブリック・スクールに入学しました。 狩猟に夢中になり、1825年6月に父より学校を退学させられました。 10月に、医学を学ぶためにエディンバラ大学に入学しました。 1828年に19歳でエディンバラ大学を中退し、1829年にケンブリッジ大学のクライスト・カレッジに入学しました。 ここで植物採集に開眼し、植物学者ヘンズローに気に入られました。 1832年1月に23歳でケンブリッジ大学の学士号を取得して、6月に同大学を卒業しました。 8月にビーグル号への搭乗を持ちかけられ、12月にイギリスのプリマスから乗船して出航しました。 以後、カナリア諸島のテネリフェ島、アフリカのサンチャゴ島を経て、ブラジルを始め南アメリカ東岸・西岸を回りました。 イギリスを出発してから、3年半が過ぎていました。 東太平洋上の赤道下にあるエクアドル領のガラパゴス諸島では、ウミイグアナやガラパグスフィンチなどに出会って観察や実験を行いました。 続いて太平洋に行き、タヒチ、ニュージーランド、オーストラリアなどを回りました。 最後に、インド洋、喜望峰を回って、もう一度ブラジルに立ち寄りました。 そして、4年9か月におよぶ長旅を経て、1836年10月にイギリスに帰国しました。 1839年1月に30歳でエマ・ウェッジウッドと結婚し、5月に”ビーグル号航海記”を出版しました。 ダーウィンは進化論を提唱した人物として知られ、自然淘汰による進化という考えは生物学に革命をもたらしました。 今では多くのゆるぎない証拠によって、その妥当性と普遍性か確かめられています。 19世紀のヨーロッパで支配的だったのは、人間と生き物は神によって創造されたとする宗教観でした。 聖書の教えと対立した進化論という考え方は、後代の人々の思想や社会にも影響を与えつづけました。 ダーウィンの生涯は、科学史の観点から語られることもよく見られます。 注意すべきは、進化論が優生思想と結びつくと差別を正当化する科学的な根拠と見なされてしまうことです。 自然淘汰という考え方は、弱肉強食の論理とも言われてきたからです。 進化論とともに、ダーウィンの名は広く世に知られています。 しかし、そのダーウィン像は実際のほんの一部を反映しているにすぎません。 実際には、進化論の提唱者としてのイメージの何倍もの著作を書き上げ、何倍もの科学的価値を後世にもたらしました。 ダーウィンには進化論に匹敵するような発見がいくつもあったこと、に気づかされるそうです。 サンゴ礁の形成、古生物の化石の発掘、作物と家畜の品種改良、フジツボの分類、動物の心理と表情、人類の進化、花と昆虫の共進化、植物の反応と動き、ミミズと土などなど。 これらのテーマは一つ一つが重いもので、どれかひとつでもダーウィンと同じレベルで取り組むことができたら開拓者として不朽の名を残すであろうといいます。 ダーウィンはそれらすべてを、大学に所属することもなく自宅で研讃し成し遂げました。 また、性淘汰などのアイデアに関しては、その重要性に気づくまでに数十年かかったものもあります。 性淘汰とは、異性をめぐる競争で有利な形質が子孫に伝わることで生じる進化です。 自然淘汰は生存に有利になるように働き、性淘汰は繁殖に有利になるように働きます。 さらに、現代でもまだ検討されていない驚くべきアイデアが著作の中に散見されるそうです。 ダーウィンの書いた本や手紙を読めば、研究者にとっては宝探しのような体験を味わうことができるといいます。 そこで本書では、進化の考え方をわかりやすく解説しつつ、ダーウィンの生涯と科学的功績を振り返っていきたいとのことです。序章 ダーウィンが変えたもの/第1章 ビーグル号の航海/第2章 『種の起源』の衝撃/第3章 人間の由来と性淘汰/第4章 植物と生きた晩年/終章 もしダーウィンが現代に生きていたら[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]ダーウィン 「進化論の父」の大いなる遺産 (中公新書 2813) [ 鈴木紀之 ]【中古】 進化論の不思議と謎 進化する「進化論」~ダーウィンから分子生物学まで / 山村 紳一郎, 中川 悠紀子 / 日本文芸社 [単行本]【メール便送料無料】【最短翌日配達対応】
2025.02.15
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アルベール・カミュは、1913年にフランス領アルジェリアのモンドヴィ、現、ドレアン近郊で生まれました。 ”アルベール・カミュ 生きることへの愛 ”(2024年9月 岩波書店刊 三野 博司著)を読みました。 史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞したフランスの小説家・劇作家・哲学者・随筆家・記者・評論家であったカミュについて、アルジェリアでの出生から不慮の死までを紹介しています。 19世紀初めに祖父がフランスからアルジェリアに渡ってきて、父親は農場労働者でした。 生まれた翌年に父がマルヌ会戦で戦死し、以後、母と2人の息子はアルジェ市内の母の実家に身を寄せました。 この家には、祖母のほかに叔父が一人同居していました。 聴覚障害のあった母親も含め、読み書きできるものは一人もいませんでした。 カミュはこの家で育ち、貧しいものの自然に恵まれた幼少期を過ごしました。 カミュの著作は、不条理という概念によって特徴付けられています。 不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことです。 不条理な運命を目をそむけず、見つめ続ける態度が反抗と呼ばれます。 人間性を脅かすものに対する反抗の態度が、人々の間で連帯を生むとされます。 病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力と闘いました。 一貫して、キリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否しました。 何よりも時代の妥協しない証言者で、あらゆるイデオロギーと闘い、実存主義、マルクス主義と対立しました。 超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探し求めました。 そして、父としての神もその代理人としての歴史も拒否しました。 三野博司さんは1949年京都生まれで、1974年に京都大学文学部仏文科を卒業しました。 1976年に、大阪市立大学大学院修士課程を修了しました。 1978年に同文学部助手となり、1983年に講師となりました。 1985年に、フランスのクレルモン=フェラン大学博士課程を修了し、文学博士となりました。 1986年に大阪市立大学文学部助教授、1991年に奈良女子大学文学部助教授、1996年に同教授となりました。 2010年に同文学部長となり、2015年に定年退任し同名誉教授となりました。 1982年の日本カミュ研究会設立以来代表を務め、2007年に国際カミュ学会副会長となりました。 カミュは1918年に公立小学校に入学しましたが、貧しいサンテス家では高等学校へ進学する希望はありませんでした。 庇護者を失った子どもは、アルジェの貧民街で少年時代を過ごしました。 そして、17歳のときには、当時まだ治療薬のなかった結核を発症して死を覚悟しました。 しかし、教諭のルイ=ジェルマンはカミュの才能を見抜き、家族に進学を説得しました。 これにより、カミュは1924年にアルジェの高等中学校リセ=ビジョーに進学しました。 この時代にリセの教員ジャン・グルニエと出会い、文学への志望を固めていきました。 その後、1930年より結核の徴候が現れて喀血し、病院退院後もしばらく叔父の家で療養生活を送りました。 そして1932年にバカロレアに合格し、アルジェ大学文学部に入学しました。 在学中の1934年に、眼科医の娘であったシモーヌ・イエと学生結婚しました。 これをきっかけに結婚反対の叔父と疎遠になり、アルバイトやイエの母親からの支援を受けながら学生生活を続けました。 しかし派手好きなシモーヌとの生活はやがて破綻し、後に離婚することになりました。 1935年に、グルニエの勧めもあって共産党に入党しました。 しかし党幹部とアラブ人活動家たちとの間で板ばさみになり、最終的に党から除名処分を受けました。 第二次大戦が始まると、レジスタンスに参加してナチズムと闘い、反抗と連帯の価値を見出しました。 しかし、戦後は対独協力者の粛正をめぐり殺人と正義の問題に直面しました。 第二次世界大戦中に刊行された小説”異邦人”やエッセイ”シーシュポスの神話”などで不条理の哲学を打ち出しました。 戦後は、レジスタンスにおける戦闘的なジャーナリストとして活躍しました。 戦後に発表した小説”ペスト”は、ベストセラーとなりました。 東西冷戦の時代には、歴史を絶対視する思想と左翼全体主義を批判しました。 エッセイ”反抗的人間”において、左翼全体主義を批判しました。 1957年に、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞しました。 受賞時に行った講演で、芸術の偉大さは、美と苦しみ、人間への愛と創造の狂熱、拒否と同意、こういったものの絶えざる緊張関係にあると述べました。 カミュを読むということは、この緊張関係に身を置くということです。 カミュはノーベル賞記念講演の出版の際に、ルイ=ジェルマン先生へとの献辞を添えました。 1960年に交通事故により急死し、未完に残された小説”最初の人間”が1994年に刊行されました。 東日本大震災とそれに続く未曽有の大惨事は、日本人がカミュの”ベスト”を再発見する機会ともなりました。 この小説は、単に第二次大戦のレジスタンスを疫病との闘いに読み替えるだけではありませんでした。 それはより広く深く、人類を襲う不条理な暴力との闘いの物語でした。 それから9年後、この小説は世界中で再読されることになりました。 しかも、コロナウィルスと同じ速さで世界中を駆けめぐりました。 この小説を再読することが、今日の状況を理解するために有効でした。 適切な対策を講じることができない政府のあわてふためきから、医療者の勇気ある献身的行動まで、すでに小説のなかに描かれていました。 まさに、現実のほうがフィクションを模倣しているように思われました。 この小説が時代を超え読み継がれているのは、ペストをあらゆる不条理の象徴として意図的に描かれたからです。 時代ごとに、ふさわしい読み方ができるのです。 カミュはこれまで、それぞれの時代が抱える課題のなかで読み継がれてきました。 カミュは生前も死後も一貫して、一般読者から見放されることが一度もなかった作家です。 1989年のベルリンの壁の崩壊は、左翼全体主義を批判したカミュの立場の正しさを立証しました。 90年代から続いたアルジェリアのテロは、テロリズムについてカミュの考察を再発見する機会をもたらしました。 今日フランスにおいては、あらゆる場所でカミュが引き合いに出されています。 カミュは、時代の趨勢に流されない明晰な目をもっていました。 超越的な価値に依存することなくこの世界に生きることを愛し、人間の次元に立って不条理に反抗しました。 成功の確信や救済の約束がないとしても、人間が自分の職務を果たすのを受け入れることがメッセージでした。 世界の美しさと人間の苦しみと、その双方に忠実であろうとしながら生きる意味を探求し続けました。 時をこえて私たち自身の生をも映し出し、その現代性はいまも失われていません。 ここでは、個々の作品論や主題別の論孜を執筆するのではなく、カミュの全体像をどのように提示したいといいます。第1章 アルジェリアの青春ー「節度なく愛する権利」(貧民街の少年/習作から最初の出版へ/地中海の霊感)/第2章 不条理の時代ー「世界の優しい無関心」(『異邦人』-戦時下パリ文壇への登場/パリの劇作家)/第3章 反抗の時代ー「われ反抗す、ゆえにわれらあり」(レジスタンスから解放へ/『ペスト』-長い労苦の果ての成功作/反抗と正義の戯曲/冷戦時代の論争)/第4章 再生へ向けてー「孤独と読むか、連帯と読むか」(失意の時代とアルジェリア戦争/『転落』-周囲を驚かせた傑作/ノーベル文学賞)/第5章 愛の時代ー「私の夢見る作品」(不慮の死と遺作/『最初の人間』-未完の自伝的小説) [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]アルベール・カミュ 生きることへの愛 岩波新書 / 三野博司 【新書】カミュ伝(インターナショナル新書)【電子書籍】[ 中条省平 ]
2025.02.01
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アルジャイ=阿爾寨石窟は中国内モンゴル自治区オルドス市オトク旗にある石窟で、草原の敦煌とも言われます。 ”アルジャイ石窟 モンゴル帝国期 草原の道の仏教寺院”(2024年10月 筑摩書房刊 楊 海英著)を読みました。 内モンゴル草原の石窟寺院であるアルジャイ石窟にかかわる歴史と文化について、モンゴルとチベット仏教の関係から説き起こしています。 石窟はもともと修行の為に選ばれた閑静な場所に造られ、辺鄙なところに開かれています。 大同の雲岡石窟、洛陽の龍門石窟、敦煌石窟など、すべて都市や村落から離れた場所にあります。 また、河や泉があって観像する佛像を彫刻できることも条件です。 アルジャイ石窟は北方の草原地域では最大級の規模の石窟群で、石窟65カ所、浮彫石塔22基などが存在します。 地域には、石窟建築、摩崖造像、石刻造像、壁画、彫像、彫刻を一体とした仏教芸術が残されています。 このうちの壁画には、遊牧民族の移動式住居であるゲルや、騎射、狩猟、葬儀の風習などが描かれています。 アルジャイ石窟は、モンゴル史と北アジア史の鍵を握る遺跡と言えます。 本書はかかわる歴史を詳細に手繰って、出土したウイグル・モンゴル文書群について解説しています。 楊 海英さんは1964年南モンゴルこと内モンゴル自治区オルドス生まれ、北京第二外国語学院大学アジア・アフリカ語学部日本語学科を卒業しました。 当時は、内モンゴル自治区から北京大学の入学が認められない年でした。 1989年に来日して別府大学の研究生となり、国立民族学博物館、総合研究大学院大学で文化人類学の研究を続けました。 総合研究大学院大学博士課程修了後、中京女子大学人文学部助教授となり、1999年に静岡大学人文学部助教授となりました。 2000年に日本へ帰化し、2006年に静岡大学人文学部教授となりました。 2011年に著書”墓標なき草原”で、司馬遼太郎賞を受賞しました。 帰化後の日本名は大野旭で、楊海英は中国名のペンネームです。 中国政府が公刊した文化大革命に関する第一次史料を収集し、風響社からシリーズ14巻を公開しています。 仏教はインド発祥で、チベット高原に伝わった後に独自の発展を遂げました。 チペット語に翻訳された仏典は、多くのサンスクリットをそのまま残しています。 モンゴルは13世紀にチベット高原に進軍し、元朝が成立すると両者は正式に帰依処の関係を結びました。 チベット仏教の高僧たちは、モンゴルの政治力と軍事力を借りて中央ユーラシアの草原部に布教しました。 モンゴル人は遊牧民の戦士でしたが、経典と学問をこよなく愛する民族に変身しました。 仏教が誕生した直後ないしそれ以前から、インドでは石窟内での宗教的修行が重視されました。 その後、ガンダーラ、カシミール高原、バーミヤン渓谷、天山山中など、沿路に多数の仏教の石窟寺院が栄えました。 石窟は、東西文明が行き交った際の宗教的拠点だと理解されてきました。 従来、ユーラシア大陸の東西だけを、開化した文明圏として謳歌してきました。 中国、インド、ヨーロッパのみが文明の地で、草原は文化のない空白地帯で遊牧民は野蛮人だとされました。 しかし多くの世界史研究家が示すように、草原文明に対する評価は変わりつつあります。 ただし、チベット仏教は草原の道に存在する石窟造営と信仰の実践、学問の研讃についての研究は未開拓の領域です。 本書は、そうした学問上の誤謬を訂正しようという狙いがあるといいます。 アルジャイ石窟の造営は、遅くとも5世紀頃の北魏時代に始まります。 また西夏王朝期にも大いに繁栄し、西夏がモンゴルに帰順してからも栄華は維持されました。 北魏を建立した鮮卑拓践は、モンゴル系の言葉を操る遊牧民でした。 大同雲尚石窟や洛陽の石窟も、北魏王朝の遺産です。 チベット教は、モンゴルではラマ教と呼ばれます。 仏教が伝わってから、遊牧民の草原に多数の寺院が建ちました。 どの寺院にも学識と階層に基づいて組織された僧侶団体があって、広大な土地と多数の領民を管轄しました。 19世紀末には、モンゴル高原全体におよそ1900の寺院がありました。 そのうち、モンゴル高原南部の内モンゴルに1200、現在のモンゴル国には700ありました。 モンゴル草原に伝わった仏教は、院のほとんどが学問寺で石窟寺院での実践が盛んでした。 学問寺で訓練されたモンゴル人ラマにより、モンゴル語とチベット語の仏教文献が多いです。 仏教を含む世界宗教は早い時代に東アジアに伝来しましたが、中国では例外なく弾圧を受けました。 弾圧を受けた宗教はすべて中国を離れ、北のモンゴル高原の遊牧民社会に活路を見つけました。 遊牧民は、宗教に寛容だからです。 東部ユーラシア世界には豊富な宗教遺跡が残っており、本書の舞台のアルジヤイ石窟もその一例です。 アルジャイと呼ばれる地域は、スゥメト・アルジャイ、イケ・アルジャイ、バガ・アルジャイの三つです。 このうち、スゥメト・アルジャイが一番南、イケ・アルジャイはその北約2km、バガ・アルジャイはその東約1kmにあります。 現在アルジャイ石窟というときは、だいたいスゥメト・アルジャイにある石窟群を指すとされています。 しかし、実際にはバガ・アルジャイにも石窟と佛塔が存在します。 また、イケ・アルジャイはまだ完全に確認できていませんが、近現代以前の遊牧民の残した遺跡が若干存在しています。 著者は今後の研究を考えて、アルジャイ石窟という場合は三つのアルジャイをすべて含めるべきと考えているそうです。 スゥメト・アルジャイは、高さ約40m、東西約300m、南北約50mの砂岩の山です。 石窟は山の四方に分布し、確認されている石窟は66に達しています。 特に南側の岩壁に石窟が最も集中し、上・中・下三層からなっています。 東と北側には石窟が少なく、まったく窟を開造していない空間もあります。 比較的保存状態が良い窟は43ありますが、残りは沙に埋もれたり倒壊した状態にあります。 石窟群には、中心柱式のものもあれば平面方形や長方形のものもあります。 窟内部は直壁平頂で、天井も平らな形式をとっています。 壁には佛龕や須弥座、天井には網状の方格か蓮花状の藻井が開削されています。 岩壁には合計26の塔が彫ってあり、ひとつは密檐式塔で他はすべて覆鉢式の塔です。 約6mもの高さの塔もあれば、わずか10cmの小さい塔もあります。 スゥメト・アルジャイのスゥメ=寺の跡は山頂にあり、合計6つの建物の跡があるそうです。 その後、20世紀においてモンゴルの仏教寺院は、例外なく社会主義によって破壊されました。 本書は中央アジアのシルクロード草原の道に位置する、チベット仏教の石窟寺院の興亡に焦点を当てています。 遊牧民の石窟文化を記録し、その宗教哲学の世界を伝えるのが目的であるといいます。プロローグ モンゴル草原の仏教信仰/第1章 モンゴルとチベット仏教との関係/第2章 北魏とチンギス・ハーンの石窟/第3章 伝説と記憶のアルジャイ石窟寺院/第4章 流転の石窟寺院/第5章 大元王朝のウイグル文字モンゴル語題辞/第6章 草原の僧侶が聴く英雄叙事詩/第7章 シルクロード草原の道に栄えた石窟寺院/エピローグ 廃墟となった菩提寺 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]アルジャイ石窟 ーーモンゴル帝国期 草原の道の仏教寺院【電子書籍】[ 楊海英 ]【中古】 石窟寺院の研究―インド・中国・韓国・日本の系譜を求めて
2025.01.18
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西郷従道=さいごうつぐみちは、1843年薩摩国鹿児島城下生まれの明治の軍人、政治家、元老です。 ”西郷従道ー維新革命を追求した最強の「弟」”(2024年8月 中央公論新社刊 小川原 正道著)を読みました。 従道は、幕末期に兄隆盛のもとで尊攘派志士として活躍しました。 しかし、西南戦争で反乱軍指導者の兄に背を向け、国家建設を優先しました。 従道は薩摩藩の下級藩士であった西郷吉兵衛の第六子三男として、鹿児島城下の加治屋町に生まれました。 母親は同藩士椎原権右衛門の娘マサで、西郷隆盛は従道の長兄です。 剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学びました。 有村俊斎の推薦で薩摩藩主の島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号しました。 兄隆盛の影響のもとで、若くから国事に奔走しました。 兄・隆盛を大西郷と呼び、弟・従道を小西郷と呼ぶことがあります。 父親を幼くして亡くした従道にとって、15歳以上離れた隆盛は父代わりの存在でした。 幕末期に兄や大久保利通のもとで尊王攘夷の志士として活動し、戊辰戦争では大怪我を負いながら活躍しました。 その後、薩摩藩を代表する若手官僚・政治家として、新政府に登用されました。 隆盛は従道の出世を後押しし、従道と妻・清子の縁談の仲立など私生活をサポートしました。 しかし、隆盛の苫悩と破滅への道と反比例するように、成功と栄達を遂げていきました。 西南戦争で没して以降は賊軍の将として、むしろ従道には重荷となりました。 従道はそれを背負いながら、自らの意志と才を頼りに主に軍事畑でキャリアを積みました。 小川原正道さんは1976年長野県東御市生まれ、1999年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業しました。 2003年に同大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程を修了し、博士(法学)となりました。 武蔵野短期大学国際教養学科専任講師・助教授、武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部助教授・准教授などを務めました。 2008年より慶應義塾大学法学部准教授、2013年より慶應義塾大学法学部教授となりました。 イリノイ大学ロースクール、ハーバード大学ライシャワー日本研究所、マサチューセッツ工科大学歴史学科などで客員研究員を歴任しました。 従道は斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じました。 1858年に島津斉彬が没すると、藩内では革新派の謹王党と守旧派の佐幕派は対立しました。 革新派は、幕府による朝廷の軽視と藩主の忠義による斉彬の遺志の無視に憤慨しました。 そして、隆盛ら薩摩藩士によって大老の井伊直弼などの襲撃が計画されました。 従道は薩摩藩士による大老井伊直弼襲撃計画に加わり、急進的な尊王攘夷運動を行いました。 1862年には寺田屋事件に連坐して、藩庁より謹慎を命ぜられました。 まもなく赦され、薩英戦争・禁門の変にも薩軍の一員として参加しました。 1868年には鳥羽・伏見の戦にも従軍し、重傷を負いました。 1868年に明治維新により明治政府が成立すると、従道は新政府に出仕しました。 1869年には山県有朋とともに、兵制研究のため渡欧しました。 帰国後、兵部権大丞陸軍少将、兵部少輔、陸軍少輔、同大輔に昇進しました。 1874年には陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ、台湾へ出兵しました。 1876年には征台の功により、最初の勲一等に叙せられました。 1878年には参議兼文部卿、次いで陸軍卿に就任しました。 1781年には農商務卿、1884年には伯爵、1885年には内閣制の成立を機に海軍大臣となりました。 海軍の基礎確立のために、樺山資紀、山本権兵衛、安保清康らを抜擢しました。 1890年には山県内閣の内務大臣、1892年には枢密顧問官を歴任しました。 1893年には伊藤博文内閣の海相に復帰し、海軍の整備拡充に尽力しました。 1894年には最初の海軍大将となり、1895年には侯爵となりました。 1898年には元帥府に列せられ、山県内閣の内務大臣となり、1902年には大勲位菊花大綬章に叙せられました。 従道は兄隆盛ゆずりの包容力に富んだ性格の持ち主で、実務には疎かったといわれます。 細事に拘泥しない茫洋たる人柄により、終始政府の要柱として広い徳望を集めたといいます。 1902年に胃癌のため享年60歳で死去し、多磨墓地に埋葬されました。 明治期に限れば、地元・鹿児島に足を引っ張ら続けた隆盛に比して、東京で勇躍する従道の姿は対照的でした。 従道は華やかなキャリアを歩みましたが、その道程には何時も偉人な兄の影がありました。 隆盛は薩摩藩と明治政府との間で板挟みの苦悩を味わいましたが、従道は隆盛と明治政府の問で葛藤しました。 1873年にその葛藤が表面化し、隆盛は征韓論をめぐる政変に敗れ政府を去りました。 これに同調した鹿児島出身の多くの近衛将兵、官吏などが、職を辞することになりました。 陸軍大輔だった従道は天皇の命で辞職を思い止めるよう説得しましたが、願いは届きませんでした。 従道自身、身の処し方にはかなり迷ったに違いありませんが、明治政府側に身を置きました。 そして、1877年2月に、鹿児島に帰郷していた隆盛が鹿児島県士族を率いて決起して西南戦争が始まりました。 従道は、自分も政府を去っては天皇に対する忠誠を欠く恐れがあると痛感して踏みとどまったといいます。 政府に残ることは、隆盛も了解済みであったそうです。 従道は、陸軍省を預かる陸軍卿代理として、主に政府軍の編成、兵姑、情報収集活動に従事しました。 兄の反乱という未曽有の事態に対し、冷静に状況を見通し忠実に幟務にあたりました。 隆盛が先導した維新大業の基礎を固め国家の発展に貢献し、天皇への忠誠を尽くしました。 従道は葛藤の末に兄と微妙な距離を保ちつつ、自らの進路を定めていったといいます。 本書ではまず、従道の幼少期からの成長過程を兄・隆盛との関係を中心に描写しています。 続いて、明治期以降の従道のキャリア形成と国家建設への関与の内実や過程について、分析を試みています。まえがき/第1章 幼少期から陸軍官僚への道程/第2章 西南戦争と兄・隆盛の死/第3章 日本海軍建設と日清戦争/第4章 政治家としての軌跡ー宰相待望論と兄の「罪」/第5章 晩年と私生活/終章 「道」に従って/あとがき/参考文献/西郷従道略年譜 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]西郷従道ー維新革命を追求した最強の「弟」 (中公新書 2816) [ 小川原正道 ]大西郷兄弟物語 西郷隆盛と西郷従道の生涯 (光人社NF文庫) [ 豊田穣 ]
2025.01.04
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柴田勝家は、室町時代末期から安土桃山時代にかけて織田信長に仕えた戦国武将です。 ”柴田勝家 織田軍の「総司令官」”(2023年6月 中央公論新社刊 和田 裕弘著)を読みました。 織田家きっての重鎮であったが、信長没後の争いで羽柴秀吉に出し抜かれた柴田勝家について、その実像に迫ろうとしています。 斯波氏の諸流柴田土佐守の子として尾張愛知郡に生まれたとされていますが、生年未詳です。 出自は不明で、柴田勝義の子といわれますが確実な資料はありません。 生年も不詳で、1526年説や1527年説もあり明確ではありません。 1568年の上洛以来、各地で奉行職をこなし、伊勢の北畠攻め、北近江の浅井攻め、越前の朝倉攻めなどに従軍し活躍しました。 1570年に六角丞禎に攻められて近江の長光寺城に篭城中、城には戻らない覚悟で猛襲しついに敵を破りました。 1575年の越前再往後は越前国の支配を任され、以降、北陸道の総督として、越前国の支配を強化しました。 さらに、加賀国、能登国、越中国へ侵攻し、着実に成果を上げました。 同年に信長が越前の一向一揆を滅ぼすと、越前の内49万石を与えられました。 宣教師ルイス・フロイスから、日本で最も勇猛果敢な武将と評されたことで知られています。 織田信長の筆頭家老で、戦上手で勇猛果敢、情に厚いが武骨として知られています。 織田家随一の重鎮として信長の信頼が厚く、北陸方面軍司令官に任じられました。 北ノ庄、現在の福井市中心部に、壮大な天守閣を持つ城を築きました。 一乗谷から商人や職人を寄せて足羽川に九十九橋を架橋し、城下町の形成に努めました。 また、国中掟書を掲げて刀狩りを行うなどして、安定的な統治を行いました。 59歳まで独身でしたが、60歳のときに織田信長の妹のお市の方の再婚相手に選ばれました。 お市の方は1547年生まれで、浅井長政の妻の小谷の方でした。 1573年に夫の長政が信長に攻め滅ぼされた後、茶々、初、江の3人の娘とともに尾張に帰っていました。 ですが本能寺の変により運命は暗転し、主君の弔い合戦で後れをとりました。 信長の死後、織田家後継を決める清須会議で秀吉の専行を許しました。 そして、1583年に賤ケ岳の戦に敗れ北ノ庄に敗走し、妻お市の方と共に城にて自害しました。 和田裕弘さんは、1962年奈良県に生まれの戦国史研究家です。 織豊期研究会会員で、著書に、『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』『信長公記―戦国覇者の一級史料』ほかがあります。 織豊期研究会は1995年3月創立で東海地域に基盤を置き、会誌『織豊期研究』は第18号を数えます。 三重県津市栗真町屋町1577の、三重大学教育学部日本史研究室内に事務局があります。 柴田勝家は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、大名として織田氏の宿老でした。 もともと信長の父信秀に仕え、尾張国愛知郡下社村を領したといいます。 1551年に信秀が死去してから、信長の弟信勝の家老として歴史に登場しました。 信長の家老の林秀貞兄弟と共謀して、信勝を織田家当主にしようと画策しました。 しかし、信長との1556年の稲生原の戦いに敗れて降伏しました。 その後、信勝が再度の謀叛を企てた時、信長に密告して信勝が誘殺されることになりました。 これを機に信長に転仕し、信長の家督継承のころには織田家の重鎮でした。 のちに越前国の支配を任され、主君の織田信長に従い、天下統一事業に貢献しました。 歴史好きの人で柴田勝家という戦国武将を知らない人は、まずいないでしょう。 知名度は抜群ですが、勝家にはどうしても秀吉の引き立て役としてのイメージが付きまといます。 1566年の墨俣一夜城の築城に失敗し、その功を秀吉に奪われました。 1582年の本能寺の変後の対処では秀吉の後手に回って、清須会議で秀吉の独断を許しました。 最後は1583年の賤ケ岳の戦いで、猿冠者と蔑んだ秀吉に敗北して自害して果てました。 織田信長在世時から、勝家と秀吉は仲が悪かったといいます。 猪突猛進型の猛将が、抜け目のない秀吉にまんまとしてやられたという風情です。 しかし、秀吉が名乗った「羽柴」という名字は、織田家重臣の丹羽長秀の羽と柴田勝家の柴組み合わせたものと推測されます。 もし勝家と仲が悪ければ、勝家の名字から一字を拝借することはないでしょう。 勝家に対する研究も、信長の家臣に対する研究の進展とともに深まっています。 北陸車の総大将として上杉氏を滅亡寸前まで追い詰め、北陸道の総督として伊達氏などとの外交にも手腕を発揮しました。 また、本能寺の変後の勝家は、中国人返しを成功させた秀吉を上回るスピードで光秀討伐に向かったといいます。 ただし、地の利か悪く秀吉に後れをとったため、実現はしなかったことが明らかになっています。 織田一門として、野心に燃える秀吉を掣肘するため、信長三男の信孝、織田家重鎮の滝川一益らと結び、反秀吉の行動を起こしました。 最終的には秀吉と全面対決し、賤丿岳の戦いで敗れ、本城である北庄城に戻って壮絶な最期をとげました。 その後、秀吉は勝家を斃した勢いをもって、天下統一を成し遂げました。 秀吉にとって最大の敵は、明智光秀や徳川家康などではなく、織田家の総司令官と評された勝家だったでしょう。 秀吉は勝家が最大の敵であると自覚し、賤ケ岳の戦いを天下分け目の戦いと認識していました。 勝家との戦いが、秀吉の天下を決したのです。 徳川四天王ならぬ織田四天王という言葉があるらしいですが、当時の史料には登場しません。 検索すると、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の4人を指す場合が多いといいます。 この中に、羽柴秀吉も佐久間信盛も入っていないのです。 秀吉はのちに天下人となったので別格扱い、佐久問信盛は追放されたことで除外されたのでしょうか。 しかし、信長の家臣の中で吏僚系などを除いた武臣としては、佐久間信盛と柴田勝家が最有力家臣です。 信盛追放後は、筆頭家老ではありませんが、勝家が晩年の信長の家臣の中ではナンバー1でしょう。 秀吉や光秀より格が上でしたが、本能寺の変後の秀吉の武功によって立場は逆転しました。 勝家は信長亡き後も織田家に忠実な家臣であり、野心は感じられません。 守勢の勝家が、強烈な野心を持つ秀吉に勝利することは困難だったでしょう。 それでも勝家は織田家を守ろうとした、いわゆる忠臣でした。 これが勝家の限界だったという見方もできようかといいます。第1章 尾張時代/第2章 近江時代/第3章 越前時代/第4章 本能寺の変と清須会議/第5章 賎ヶ岳の戦い/終章 勝家王国の崩壊 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]柴田勝家 織田軍の「総司令官」 (中公新書 2758) [ 和田裕弘 ]戦国人物伝 柴田勝家 (コミック版 日本の歴史 75) [ 加来 耕三 ]
2024.12.21
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リトアニアは北ヨーロッパの共和制国家で、フィンランド、エストニア、ラトビアなどとともにバルト海東岸に位置しています。 ”リトアニア知るための60章”(2020年3月 明石書房刊 櫻井 映子編著)を読みました。 古い歴史をもち命のビザを発行した杉原千畝で知られるバルト三国の一つのリトアニアについて、33名の専門家が基本的な知識を提供しています。 リトアニア人はスラヴ系ではなく、インド=ヨーロッパ語族バルト系に属する民族です。 リトアニア共和国はバルト海の南東側に位置する、バルト三国の中で最も大きな国です。 国土の98%が農地と森林に覆われ、大小合わせ約4000の湖を有する森と湖の国として知られています。 国土は平坦で川が多く、最も高い山でも標高300m以下です。 第一次世界大戦後の1918年に、リトアニア共和国としてロシア帝国より独立しました。 1940年にソビエト連邦から侵略され、さらに1941年の独ソ戦勃発でナチス・ドイツからも侵略されました。 その後、ソ連に再占領されてソ連の構成共和国の一つとなりましたが、ソ連崩壊に伴い1990年に独立を回復して親欧米路線を歩んでいます。 櫻井映子さんは名古屋大学を卒業し、同大学大学院博士課程を修了しました。 ヴィルニュス大学留学を機に、リトアニアの児童書の収集と研究に着手し現在に至ります。 文学博士で日本学術振興会特別研究員を経て、現在、東京外国語大学・大阪大学講師を務めています。 専門は、リトアニア語学、リトアニア文学、バルト・スラヴ学です。 リトアニアはバルト海に面し、北はラトビア、東はベラルーシ、南はポーランド、南西はロシアのカリーニングラード州と接しています。 国連の分類では北ヨーロッパの国ですが、東ヨーロッパもしくは中東欧の国との表記も見られます。 1009年の年代記において、Lituaeと記されたのが歴史上リトアニアの国名が登場する最初の例です。 1230年代に、ミンダウガスがリトアニアの諸部族を統一し1253年にリトアニア王となりました。 1263年にミンダウガス王が暗殺され、その後はドイツ騎士団やリヴォニア騎士団からの攻撃を受けるようになりました。 以後100年にわたり、騎士団からの攻撃を受け続けつつ東方へ勢力を伸ばしていきました。 1385年にリトアニア大公ヨガイラはポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、ポーランド王を兼ねるようになりました。 これを機にヨガイラはキリスト教を受容し、ポーランド王国との間にポーランド・リトアニア合同が形成されました。 その後2度の内戦を経て、1392年にヴィータウタスがリトアニア大公となりました。 14世紀末までに、リトアニア大公国はヨーロッパ最大の国家となりました。 ヴィータウタス大公のもとで、リトアニア大公国は最大版図を達成しました。 当時、リトアニア大公国における公用語はリトアニア語ではなく、現在のベラルーシ語の原型のルテニア語でした。 リトアニア人の大公家を戴いていましたが、政治的実態はリトアニア人国家ではなくスラヴ人国家でした。 リトアニアの支配者はスラヴ文化・宗教に対して寛容で、多くの伝統をスラヴ部族から受け入れました。 1410年に、ポーランドとの協力によりドイツ騎士団との戦いに勝利を収めました。 ヨガイラとヴィータウタスの死後、ポーランドとの合同を解消して独自にリトアニア大公を選出しようとしました。 しかし、15世紀末にモスクワ大公国が力をつけリトアニアにとって脅威となり、ポーランドとの関係を強化せざるを得ませんでした。 1569年にポーランド王国との間にルブリン合同が成立し、ポーランド・リトアニア共和国が誕生しました。 こうして、リトアニアの政治、言語、文化など、すべての面においてポーランド化が進みました。 16世紀半から17世紀半に、ルネサンスと宗教改革の影響から、文化、芸術、教育が栄えました。 1573年以降、ポーランド王兼リトアニア大公は貴族による自由選挙で選ばれるようになりました。 1655年から1661年の北方戦争において、リトアニアの領土や経済はスウェーデン軍によって破壊されました。 復興する前に、大北方戦争が1700年~1721年まで勃発し、リトアニアは荒廃しました。 周辺諸国、とりわけロシアのリトアニア国内における影響力は増大しました。 リトアニア貴族の諸派閥が拒否権を発動し続け、改革は全て妨げられました。 その結果、ロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア大公国によって、1772年に第1次ポーランド・リトアニア分割が行われました。 その後、1792年に第2次、1795年に第3次分割が行われました。 これによって、ポーランド・リトアニア共和国は解体されました。 この分割によって、現在のリトアニアの領土の大半はロシア帝国領となりました。 リトアニア地域は、ロシア帝国内では北西地方と呼ばれる地方に属することとなりました。 1877年の露土戦争の後、ロシア帝国とドイツ帝国の関係が悪化しました。 1868年から1914年までの間に、約63万5,000人、人口のおよそ20%がリトアニアを離れました。 多くは、1867年から1868年に起きた飢饉をきっかけにアメリカ合衆国へ移住しました。 第一次世界大戦が起きると、リトアニアは東部戦線の戦場となりました。 1918年にロシア革命が起き、その中でリトアニア評議会はリトアニアの独立を宣言しました。 当初はリトアニア王国として独立しましたが、これはドイツ帝国の計画した汎ヨーロッパ主義の一環でした。 その後、第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北して崩壊すると、リトアニア第一共和国となりました。 その後、リトアニアはポーランドとドイツとの領土問題を抱えることとなりました。 また、ドイツとはクライペダ地方をめぐる領土問題を抱えました。 第一次世界大戦後、クライペダ地方は国際管理地域とされましたが、1923年にリトアニア軍が侵攻して占領しました。 リトアニア共和国は、カウナスが臨時首都とされて以降は議会制民主主義体制がとられていました。 しかし、1926年の軍事クーデタによりアンタナス・スメトナを大統領とする権威主義体制に移行しました。 1939年8月にナチスドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結し、その秘密議定書でバルト三国と東欧の分割支配を約しました。 9月に、ドイツに続いてソ連がポーランド東部に侵攻し、ヴィリニュス地域がリトアニアに返還されました。 しかし、1940年6月にソ連から侵攻されてリトアニアは独立を失いました。 1941年にドイツ軍はソ連への侵攻を開始し、リトアニアは独ソ戦末期までドイツ軍の占領下に置かれました。 1944年にソ連軍が再び侵攻し、その後はリトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入されました。 世界の複数の国は、ソ連によるリトアニア併合を国際法的に否認していました。 1944年から1952年にかけて、約10万人のパルチザンがソビエト当局と戦いました。 1986年以降、ソ連のペレストロイカやグラスノスチを機に、国民運動サユディスが設立され独立運動へと発展しました。 1990年3月の最高会議選挙で選ばれた初の非共産党員の議長が、独立回復を宣言しました。 これを受けて、ソ連政府は経済封鎖を実施しました。 1991年2月にアイスランドが、世界に先駆けてリトアニアの独立を承認しました。 8月にモスクワでのクーデターの企てが失敗に終わると、9月にソ連もリトアニアの独立を承認しました。 以後はリトアニアの独立は多くの国によって承認され、エストニア、ラトビアとともに国際連合に加盟しました。 1991年にソビエト連邦が崩壊し、1993年にロシア連邦軍はリトアニアから撤退しました。 その後のリトアニアは、欧米との結びつきを強め、1994年にNATOに加盟申請しました。 2004年に、欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)に加盟しました。 通貨は2015年よりユーロを導入し、2018年に経済協力開発機構(OECD)に加盟しました。 著者は数十年リトアニアを見守り続けてきましたが、関心は文化面に偏りがちで全体を把握できていると言えないといいます。 そこでこの本を編集するにあたり、できるだけ多面的・総合的にこの国を紹介することを目指したそうです。 そこで、章ごとに最もふさわしいと思う方々に執筆をお願いし、リトアニアからも専門家に参加してもらったとのことです。 結果として、日本とリトアニアの恩師や友入たちと知り合い集う、33名のリトアニアーフオーラムのような本となりました。 本書がリトアニアとの幸福な出会いとなり、さらなる旅のきっかけとなれば幸いであるといいます。1 リトアニアのあらまし/2 言語/3 歴史/4 政治/5 近隣諸国との関係/6 経済・産業/7 教育・社会/8 文化・芸術/9 生活・習慣/10 日本との関係 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]リトアニアを知るための60章 (エリア・スタディーズ 177) [ 櫻井 映子 ]地球の歩き方 A30 バルトの国々 エストニア ラトヴィア リトアニア 2019-2020【電子書籍】[ 地球の歩き方編集室 ]
2024.12.07
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頼山陽は、1781年に大坂で生まれ広島で育った江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・文人です。 ”頼山陽 詩魂と史眼 ”(2024年5月 岩波書店刊 揖斐 高著)を読みました。 詩人であり歴史家でもあった不世出の文人である頼山陽の生涯について、江戸後期の文事と時代状況の中で紹介しています。 頼山陽は、幼名は久太郎、名は襄、字は子成で、山陽、三十六峯外史と号しました。 有力な漢学者であり、歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍しました。 18歳のとき、江戸に出て尾藤二洲に師事し朱子学・国学を学びました。 20歳のとき、広島藩医・御園道英の娘淳子と結婚しました。 21歳のとき、広島藩を脱藩した罪で一時監禁されました。 その後京都に出て、『日本外史』22巻を書き松平定信に献じました。 これは没後に出版され、ベストセラーとなって尊王倒幕の志士にも影響を与えました。 文学の分野では「鞭声粛々」の詩や、「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩などが広く愛誦されています。 美術の分野では、能書家として有名で絵画についても優れた水墨画を残しました。 揖斐高さんは1946年福岡県生まれ、1971年に東京大学国文科を卒業し、1976年に同大学院博士課程を単位取得満期退学しました。 1978年度第5回日本古典文学会賞を受賞し、1999年に文学博士となりました。 白百合女子大学文学部講師、成蹊大学文学部教授等を務め、2017年に日本学士院会員となりました。 現在、成蹊大学名誉教授で、2011年に紫綬褒章、2019年に瑞宝重光章を受章しました。 1999年に第50回読売文学賞(翻訳・研究部門)、2010年に第18回やまなし文学賞、角川源義賞を受賞しました。 頼山陽の父の頼春水は、若くして詩文や書に秀でて大坂へ遊学しました。 そこで尾藤二洲や古賀精里らとともに、朱子学の研究を進めました。 現在の大阪市西区江戸堀の江戸堀北に私塾「青山社」を開きました。 頼山陽はこの頃、飯岡義斎の長女で歌人の頼梅颸=らいばいしを母として同地で誕生しました。 1781年に父が広島藩の儒学者に登用され、現在の広島市中区袋町に転居して同所で育ちました。 頼山陽も父と同じく幼少時より詩文の才があり、歴史にも深い興味を示したといいます。 1788年に、7代藩主が藩士教育のため開いた広島藩学問所に入学しました。 その後、父親が江戸在勤となったため、学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学びました。 頼杏坪は1785年に広島藩儒となり、学問所の職務に精励していました。 山陽は1797年に江戸に遊学し、父親の学友の尾藤二洲に師事しました。 二洲は荻生徂徠に学んだあと朱子学に転じ、大坂に私塾を開いて朱子学の普及に尽くしました。 1800年に突如脱藩を企てて上洛しましたが、追跡してきた杏坪によって京都で発見されました。 広島へ連れ戻され、廃嫡され自宅へ幽閉されました。 山陽はかえって学問に専念して、3年間は著述に明け暮れました。 『日本外史』の初稿が完成したのも、このころのことだったといわれます。 謹慎を解かれたのち、1805年に広島藩学問所の助教に就任しました。 1809年に、父親の友人だった儒学者の菅茶山より招聘を受け、廉塾の塾頭に就任しました。 茶山は少年時代の山陽の才能を高く評価しており、後継者にとの密かな思いを持っていたといいます。 山陽は廉塾にいた1年余りに茶山の代講を行い、茶山の詩集の校正などを任されました。 しかし、三陽には江戸・京都・大坂に進出して、学者として天下に名をあげたいという気持ちがありました。 山陽は、比較的恵まれた境遇にあったものの満足することできませんでした。 1811年に廉塾を去り京へと向かい、洛中に居を構え開塾しました。 1816年に父親が死去すると、その遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓しました。 1818年に九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ました。 1822年に京都の上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え、水西荘と名付けました。 この居宅で著述を続け、1826年に代表作の『日本外史』が完成しました。 1827年に、江戸幕府の老中松平定信に献上されました。 1828年に文房を造営し、以前の屋敷の名前をとって山紫水明處としました。 山陽の結成した笑社には京坂の文人が集まり、諸氏の交流の場になりました。 その後も文筆業にたずさわり、『日本政記』『通議』などを完成させようとしました。 しかし、51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどして容態が悪化し、1832年に享年53歳で死去しました。 『日本外史』は山陽が著した国史の民間による歴史書です。 源氏と平家から徳川氏までの武家盛衰史で、すべて漢文体で記述されています。 1827年に、山陽と交流があった元老中首座の松平定信に献上されました。 そして2年後に、大坂の秋田屋など3書店共同で全22巻が刊行されました。 幕末から明治にかけて、一番多く読まれた歴史書です。 司馬遷の『史記』の体裁にならい、武家13氏の盛衰を記述しています。 1800年の脱藩後の幽閉中に書き、放免後の1826年に推敲を重ねて全22巻12冊を完成させました。 武家政権の成立と展開を跡づけた『日本外史』は、人知を超える勢いが歴史を動かすとしました。 歴史の展開のさまざまな局面に際会した人間が、どのような表情を見せどのような行動を選択して対処したかを平明な漢文で表現しました。 当時は武家政権の崩壊を経て、天皇中心の中央集権国家へという歴史が転換した時期でした。 人々に、歴史の転換期における人間の在るべき姿を指し示してくれる魅力的な歴史書でした。 ただし、歴史考証では難あり議論には偏りがあったため、史書よりはむしろ歴史物語でした。 しかし、独特な史観と動的な表現で幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響はきわめて大きいものでした。 山陽は、歴史における勝者と敗者の姿を具体的に描き、その心情に分け入ろうとしました。 山陽はこの時代を代表する漢詩人の一人で、その詩は人々に愛誦されたと内村鑑三が回顧しています。 天皇中心の歴史書『日本政記』は山陽の遺稿を校正したもので、伊藤博文、近藤勇の愛読書であったといいます。 山陽的な歴史観、国家観は、幕末から維新、戦前の日本に大きな影響を及ぼしました。 山陽の歴史に対する問題意識や歴史著述の方法は、どのようにして生まれたのでしょうか。 また、山陽の漢詩人としてのあり方はどのようなものであったのでしょうか。 詩人と歴史家が同居していた山陽の全体像を、山陽自身の言説をもとにできるだけ具体的に明らかにしたいといいます。 なお、本書は専門的な研究書ではなく入門的な概説書です。1(第一章 生いたち/第二章 脱藩逃亡/第三章 回生の一歩/第四章 西国遊歴/第五章 罪を償う/第六章 山紫水明の愉楽)/2(第七章 山陽詩の形成/第八章 『日本外史』への道/第九章 『通議』と『日本政記』/第十章 「勢」と「機」の歴史哲学/第十一章 歴史観としての尊王/第十二章 地勢から地政へ/第十三章 『日本外史』の筆法/第十四章 三つの『日本外史』批判/第十五章 『日本楽府』-詩と史の汽水域)/3(第十六章 臨終その後) [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]頼山陽 詩魂と史眼 (岩波新書 新赤版 2016) [ 揖斐 高 ]頼山陽のことば [ 長尾 直茂 ]
2024.11.23
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竹林の七賢とは、3世紀の中国三国時代末期から晋代初期にかけて老荘思想を主張し清談を行った七人の思想家です。 ”竹林の七賢”(2024年6月 講談社刊 吉川 忠夫著)を読みました。 中国三国時代末期から晋代初期にかけて、老荘思想を主張し清談を行った七人の思想家について簡明に紹介しています。 七賢は、俗世間を避け竹林に集まって酒を酌み交わし琴をひき清談をしたといわれています。 阮籍(げんせき)、 康嵆(けいこう)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、王戎(おうじゅう)の7人です。 時に漢王朝が滅亡し、儒教の権威が失墜し、政治社会が揺れ動いた魏晋の時代でした。 7人は、葛藤を抱えながら己の思想を貫こうとする者たちでした。 そのなかにはさまざまのタイプの人間が含まれていて、実に個性豊かです。 中には、権力に睨まれ刑死した者もあり、敢えて世俗にまみれた者もありました。 儒教が唯一絶対の価値の源泉であった漢代と異なり、価値が多様化した時代の指標をみとめることができます。 七賢の面々は、ある場合は文学作品や哲学論文によって、ある場合はそれぞれ生き方によって、強烈でしたたかな自己主張を行ないました。 吉川忠夫さんは1937年京都府生まれ、1959年に京都大学文学部史学科を卒業し、1964年に同大学院文学研究科を単位取得退学しました。 専門は中国中世思想史で、東海大学文学部講師、京都大学教養部助教授となりました。 1974年に京都大学人文科学研究所助教授、1984年から教授を務めました。 1991年から1993年まで人文科学研究所長を務め、2000年に京都大学を定年退官し、名誉教授の称号を受けました。 2000年に花園大学客員教授、国際禅学研究所所長、2002年に龍谷大学文学部教授を経て、客員教授となりました。 2006年より日本学士院会員となり、2009年に東方学会会長に就任し、2011年秋まで勤め、現在は顧問となっています。 2013年に文化功労者となり、2022年に文化勲章を受章しました。 3世紀の魏晋の時代には、敬愛すべき人物が少なからず輩出されました。 それらのなかで、竹林の七賢は際立った存在です。 これらの7人が竹林の七賢と呼ばれるようになったのは、4世紀の東晋時代のことでした。 東晋時代の人たちは、七賢に人間の典型を見いだし、自分たちの理想を託しました。 七賢が生きた魏晋の時代に、前漢と後漢あわせて400年の長きに存在した漢王朝が崩壊しました。 このときは、政治的にも思想的にも無政府状態となった中から立ち現れた時代でした。 魏晋の政権交替期の権謀術数の政治や社会と、形式に堕した儒教の礼教を批判しました。 偽善的な世間のきまりの外に身を置いて、老荘の思想を好みました。 前漢の武帝は儒教を王朝の正統教学として採用し、それ以後、儒教は王朝に政治理論を提供しました。 儒教に根拠を置く礼教主義は、漢代の人びとの日常生活にも浸透しました。 漢代は儒教があらゆる価値の源泉で、人びとは自由に精神を飛翔できませんでした。 儒教がすべてを基礎づけていた漢王朝が崩壊すると、儒教の権威は失墜しました。 魏晋の人びとは、もはや儒教にのみに人生の指針を見だすことができなくなりました。 そこで、みずからの信ずるところにしたがって、人それぞれに生きる道を模索しはじめました。 このような時代を生きた七賢は、それぞれに自己を際立たせました。 竹林の七賢というものの、中にはさまざまのタイプの人間が含まれていて個性豊かです。 一人の人間についても、性向と行動とは一見すると矛盾するかのように思われる場合すらあるといいます。 山濤は、205年生まれの後漢末年の三国時代の魏および西晋の文人です。 幼少時に父を亡くし、貧窮した生活を送りました。 40歳を過ぎて魏の官途について司馬氏に属しました。 曹爽の台頭により隠棲しましたが、曹爽が司馬懿のクーデターで粛清されると再び出仕しました。 西晋代になって、吏部尚書・太子少傅を歴任するなど栄達しました。 老荘思想に耽って嵆康・阮籍らと交遊し、竹林の七賢の一人と後世に称されました。 嵆康は、223年生まれの中国三国時代の魏の文人で、七賢の主導的な人物の一人です。 幼少の頃孤児となり、魏の末期の政治的に不安な時代を生きました。 自由奔放な性格と魏の公主を妻とした複雑な立場から、名利を諦めました。 琴を弾き詩を詠い、山沢に遊んでは帰るのを忘れたといいます。 老荘を好み官は中散大夫に至りましたが、山濤から役を譲られようとした時、絶交を申し渡しそれまで通りの生活を送りました。 「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど、音楽理論に精通していました。 著作は他に「養生論」「釈私論」があり、詩は四言詩に優れていました。 阮籍は、210年生まれの中国三国時代の思想家で、七賢の指導者的人物です。 魏の末期に偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置きました。 蔣済が召し出そうとするも応じず、怒りを買いました。 親類に説得されたためやむなく仕官しましたが、病気のため辞職しました。 司馬懿がクーデターを起こして実権を握ると、従事中郎に任じられました。 歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になりました。 大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をしたといわれます。 俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対しました。 老荘思想を理想とし、「大人先生伝」「達荘論」などの著作があります。 劉伶は、221年生まれの三国時代の魏から西晋にかけての文人で、竹林の七賢の一人です。 酒を好み礼法を蔑視する生活を送り、世を避けて清談に明け暮れました。 「酒徳頌」などの著作があります。 王戎は、234年生まれの三国時代から西晋にかけての政治家・軍人で、竹林の七賢の一人です。 幼少時から、大人顔負けの聡明さを発揮しました。 鍾会の推薦で司馬懿に取り立てられ、河東太守、荊州刺史などを歴任しました。 晋の恵帝の時に、三公である司徒となりました。 廉潔な一面をもちますが、利殖にたけて莫大な財産を築きました。 阮籍と交遊し、竹林の遊びと清談を好みました。 七人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃から竹林の七賢と呼ばれるようになりました。 隠者と言われることがありますが、多くは役職についていました。 魏から晋の時代には老荘思想に基づき、俗世から超越した談論を行う清談が流行しました。 しかし、当時の陰惨な状況では、奔放な言動は死の危険がありました。 本書は、いずれも激烈に生きた竹林の七賢について、鋭敏な筆致で簡明に描いています。序章 「竹林の七賢」と栄啓期像/第1章 「竹林の七賢」グループの誕生/第2章 見識と度量の人ー山濤/第3章 嵆康の「養生論」/第4章 方外の人ー阮籍/第5章 劉伶の「酒徳頌」と阮籍の「大人先生伝」/第6章 広陵散ー嵆康/第7章 阮籍の「詠懐詩」/第8章 愛すべき俗物ー王戎/終章 なぜ「竹林」の「七賢」なのか[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]竹林の七賢 (講談社学術文庫) [ 吉川 忠夫 ]『世説新語』で読む竹林の七賢 (漢文ライブラリー) [ 大上 正美 ]
2024.11.09
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土倉庄三郎は=どぐらしょうざぶろうは、1840年奈良県川上村大滝に生まれ、幼名は、丞之助、族籍は奈良県平民でした。 父の庄右衛門も林業家で、1856年に父に代わり家業に従事し名を庄三郎と改めました。 ”山林王”(2023年3月 新泉社刊 田中 淳夫著)を読みました。 吉野川源流部の川上村に居を構え、近代日本の礎づくりに邁進し豪商三井と並ぶ財力を持った山林王の土倉庄三郎を紹介しています。 植林から育成、伐採、運搬にいたるまで、独自の造林技術を全国へ広めました。 また、吉野林業の特徴である山の所有者と管理者を分け山を維持する山守制度を築きました。 1868年に紀州藩による吉野川流下木材の口銭徴収反対運動を起こし、民部省に請願し廃止させました。 1869年に吉野郷材木方大総代、吉野郡物産材木総取締役になりました。 1870年に水陸海路御用掛となり、吉野川の水路改修工事に尽力しました。 1873年には東熊野街道の開設に着手し、1887年に街道が完成しました。 1887年から1897年にかけて、群馬県伊香保、兵庫県但馬地方、台湾などの造林も手掛けました。 1899年には鉄道計画にも参加し、吉野鉄道株式会社の設立にも携わりました。 明治期における吉野林業と日本林業の先覚者であり、吉野郡内では山林経営に従事しました。 100年先を見すえて生涯1800万本の樹木を植え、手にした富は社会のために惜しげも無く使い切ったといいます。 田中淳夫さんは1959年大阪生まれ、静岡大学農学部を卒業後、出版社、新聞社等に勤務しました。 その後フリーの森林ジャーナリストになり、森と人の関係をテーマに執筆活動を続けています。 土倉庄三郎は、林業分野とどまらず多方面で活躍した日本林業の父であり吉野林業の中興の祖です。 父から山林経営の手法を学び、伝統の吉野林業を集大成し、日本全国に植林の意義を広め林業興国を説きました。 庄三郎には卓越した先見の明があり、行動は林業分野にとどまらず、政治、経済、教育など多方面に及びました。 林業における庄三郎の功績として、土倉式造林法があげられます。 父祖伝来の吉野林業の造林技術の上に工夫を加え、通常の3倍近い本数の苗を植える超密植多間伐を行いました。 成長した木は、節がなく真っ直ぐで根元から末口までの太さがほぼ同じでした。 良質な材として全国に知られ、滋賀県西浅井、群馬県伊香保、兵庫県但馬、静岡県天竜など、各地への造林が始まりました。 そして台湾台北県での造林にも進出し、台湾で植林されたものは戦後沖縄に電柱として輸出されるようになりました。 また、庄三郎は林業の要は運搬にありとしてインフラ整備に目をむけました。 林業のみならず地域経済の発展に貢献し、陸と川と海の交通路の整備を担当しました。 庄三郎は自らの財産を国のため教育のため事業のために3分し、教育にも充分な支援を行いました。 1875年に私費を投じて川上村大滝に小学校を作り、教科書や文房具などを支給しました。 1882年に敷地の隣地に私塾芳水館を開設し、近在の青少年にも受講を認めました。 その後、入塾希望者が増えたため、3年後西河地区に寄宿舎や教師の住宅も備えた学舎を建築しました。 漢学、算術、英語、武道の学科があり、私塾の枠を超え中等教育機関へと発展しました。 1881年に、次男、三男等の教育のため、新島譲と面談して同志社大学の設立に賛同し出資を約束しました。 庄三郎は自身の子供の教育にも熱心で、男女11人の子供のほとんどを同志社に通わせました。 次女のマサは同志社女学校のほか、米国ペンシルベニア州のブリンマーカレッジでも学ばせました。 また、女子の高等教育の必要性を説く成瀬仁蔵の日本女子大学の設立について寄付を行い、1901年に日本女子大学が創設されました。 さらに、1877年頃から自由民権家らと交流し、1880年に中島信行の遊説の際に資金を提供しました。 1881年に大阪で立憲政党が結成されるとこれに加わり、1882年に日本立憲政党新聞の出資者となりました。 1882年に、自由民権運動の中心人物であった板垣退助の洋行費用を提供しました。 1973年にトンネルが開通する前は、川上村に入るには結界の山を登って五社峠を越えなくてはなりませんでした。 帰国後板垣はすぐ、五社峠を越えて川上村詣を行ったといわれます。 ほかに、山県有朋、井上馨、伊藤博文、太隈重信、松方正義、後藤象二郎、中島信行などの要人も、支援を求めて川上村詣をしたといいます。 五社峠を越えたわけは、川上村在住の土倉庄三郎に面会するためでした。 土倉家は代々続く大山主で、所有山林は最盛期で9,000ha、県外と台湾を加えると23,000haに及びました。 山から伐り出された木材は吉野川を下り、和歌山から大阪そして全国に運ばれました。 それらによって生み出された富は非常に大きく、明治初年の土倉家の財力は三井家と並ぶと称せられました。 その経済力とともに、庄三郎という人間の信念と行動力が明治の世を動かしました。 庄三郎は川上村から明治の社会を見据え、時代と四つに組みました。 新たな教育を広め、技術革新を進め、国土の改良に取り組み、政治を揺さぶりました。 武器は林業であり、森から明治という時代を動かしました。 しかし、長い年月の間に庄三郎の事績は忘れられつつあります。 庄三郎に関する資料は少なく、本人直筆の文書も庄三郎について語られた記録も数えるほどです。 そこで庄三郎の生きた時代を洗い直し、交わった人々が残した断片的な記録を拾って再構築する作業を進めたということです。 それらを基に、本書において土倉庄三郎の実像に迫りたいといいます。 筆者が庄三郎を知ったのは、1980年代末に川上村を初めて訪れて磨崖碑を目にしたときだったそうです。 2000年代に入ってから詳しく調べようとしましたが、資料は少なく、実像を知るまでいきませんでした。 基本文献は、一つは1917年に配布された佐藤藤太著『土倉庄三郎ー病臥、弔慰、略歴』でした。 もう一つは、1966に出版された土倉祥子著『評伝土倉庄三郎』です。 前者は簡素であり、後者は記事の多くが真偽を確認する必要があったそうです。 そこで、同時代の雑誌や新聞、吉野の歴史や林業の文献から、庄三郎に関わる点を拾い出すことに注力しました。 少ない資料からなんとか庄三郎の足跡を拾い出し、2012年に『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』を刊行しました。 この本を出版したことで、次々と新資料が寄せられたといいます。 複数の庄二郎の子孫縁戚の方から連絡があり、資料も提供されたそうです。 前著の刊行後10年を超え、新たに得た情報を取り込んで庄三郎の実像を描き直そうとしました。 すると、単なる増補には収まらなくなり、全面的に書き改めることとなったとのことです。序 源流の村へ/第1章 キリスト教学校と自由民権運動/第2章 山の民の明治維新/第3章 新時代を大和の国から/第4章 国の林政にもの申す/第5章 土倉家の日常と六男五女/第6章 逼塞の軌跡と大往生/終章 庄三郎なき吉野/あとがき/年表/参考文献[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]山林王 [ 田中 淳夫 ]吉野林業全書【電子書籍】[ 土倉梅造 ]
2024.10.26
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道鏡はこれまで、平将門・足利尊氏と並んで天下の三大悪人と称されました。 道鏡は女帝を寵絡した天下の悪僧と呼ばれ、平将門は朱雀天皇に対し新皇を自称し、足利尊氏は後醍醐天皇をないがしろにしました。 ”道鏡 悪僧と呼ばれた男の真実”(2024年4月 筑摩書房刊 寺西 貞弘著)を読みました。 女帝に取り入って皇位さえうかがった野心家として、様々な謎に包まれ悪評にまみれた奈良時代の僧・道鏡の実像に迫ろうとしています。 戦前は皇国史観が盛んに唱えられ、三人は天皇に弓を引いた大悪人として扱われていました。 しかし、戦後の民主化によって皇国史観が払拭されると、三大悪人に対する見方も大きく変化しました。 とくに足利尊氏については、後醍醐天皇の保守性に対し武家社会の要望に応えた一面が評価されています。 では、道鏡についての評価はどうでしょうか、悪僧との評価がどれほどまでに改められたでしょうか。 本書では、さまざまな伝説を検証し最新資料を検討しています。 すると、道鏡は実際には政治に関与せず天皇への仏教指導に終始した人物という意外な実像が見えてくるといいます。 寺西貞弘さんは1953年大阪府摂津市生まれ、1978年に関西大学文学部史学科日本古代史を卒業しました。 1983年に同大学院博士課程後期課程満期退学し、1989年に文学博士となりました。 1984年に和歌山市立博物館学芸員、同館学芸課長、副館長を経て、2002年に館長となりました。 2015年から有田市郷土資料館学芸員を務めました。 道鏡は700年に河内国若江郡、現在の八尾市の一部で生まれ、俗姓は弓削氏の弓削連でした。 弓削氏は弓を製作する弓削部を統率した氏族で、複数の系統があります。 道鏡の属する弓削連は物部氏の一族で、物部守屋が弓削大連と称してから子孫が弓削氏を称したといいます。 道鏡は葛城山などで厳しい修業を積み、修験道や呪術にも優れていたそうです。 若い頃に法相宗の高僧・義淵の弟子となり、奈良の東大寺を開山した良弁から梵語を学びました。 禅に通じていたことから、宮中の仏殿に入ることを許され禅師に列せられました。 当時は第45代聖武天皇の治世の時代でした。 聖武天皇は天武天皇と持統天皇の血を引く直系とは言え、非皇族の母を持つ皇子の即位は異例でした。 このころ、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願い、後に光明子は非皇族として初めて立后されました。 聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、阿倍内親王のみでした。 阿倍内親王は弟の第一皇子が夭逝し他に適任者がなかったため、749年に聖武天皇が譲位し孝謙天皇が即位しました。 孝謙天皇は重祚して、称徳天皇とも称した、第46代天皇および第48代天皇です。 史上6人目の女性天皇で、天武系からの最後の天皇です。 この称徳天皇以降は江戸時代の第109代明正天皇まで850余年、女性天皇が立てられることはありませんでした。 『続日本紀』では終始、高野天皇と呼ばれ、ほかに高野姫天皇、倭根子天皇とも称されました。 母の光明皇后とその甥の藤原仲麻呂の支援を受けて政治を行なっていました。 758年に母の光明皇后の看病を理由に、藤原仲麻呂の推す大炊王に皇位を譲り、孝謙天皇は上皇となりました。 大炊王は淳仁天皇として即位し、760年に光明皇后が崩御しました。 孝謙上皇と道鏡が出会ったのは、その3年後の761年のことでした。 761年には平城宮の改修のため、都が一時的に近江国保良宮に移されました。 そのとき孝謙上皇が病気を患い、道鏡は傍に侍して看病しました。 藤原仲麻呂や淳仁天皇は、道鏡への寵愛を深める孝謙上皇を諌めました。 しかし、孝謙上皇はこれに激怒し、孝謙上皇と淳仁天皇は一触即発状態になりました。 孝謙上皇は女性天皇であるが故に、生涯独身である必要がありました。 そして、子がなかったため常に後継問題に悩まされていました。 道鏡はそんな孝謙上皇の心のすき間に入り込み、信任を得ていきました。 そして、病気を治したことから重用されるようになり、その寵を受けることとなりました。 762年に孝謙上皇は、淳仁天皇が不孝であるとして仏門に入り別居し、政務を自身が執ると宣言しました。 淳仁天皇はこれに対して意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となりました。 763年には慈訓に代わって道鏡が少僧都に任じられ、764年には太政大臣禅師に任ぜられました。 764年9月に、藤原仲麻呂が軍備を始めたことを察知した孝謙上皇は、淳仁天皇から軍の指揮権を奪いました。 藤原仲麻呂は乱を起こして対抗しましたが、敗れて殺害されました。 そして淳仁天皇を廃して流罪にすると、孝謙上皇は同年10月に再び皇位に返り咲いて称徳天皇となりました。 765年に道鏡は法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進しました。 道鏡の後ろ盾を受け、弟の弓削浄人が8年間で従二位・大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達しました。 加えて、道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対し、藤原氏らの不満が高まりました。 769年には、宇佐八幡神託事件とも道鏡事件とも呼ばれる事件を起こして失脚しました。 これは、道鏡を天皇の位につければ国家は安泰とする、偽の神託を奏上させる事件でした。 弓削浄人と大宰府の主神の中臣習宜阿曽麻呂が、宇佐八幡宮の神託があったと称徳天皇に奏上したのでした。 称徳天皇は喜び、神託の真偽を確かめるために和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣しました。 ところが和気清麻呂が受けた神託は、皇位は皇族が継ぐもので無道の人である道鏡は早く追い払えというものでした。 怒った称徳天皇は、和気清麻呂に別部穢麻呂という屈辱的な名前を与えて流罪にしました。 道鏡も和気清麻呂を暗殺しようと試みましたが、急に雷雨が巻き起こり実行は阻止されたといいます。 この事件により道鏡は、女帝をたぶらかして皇位を狙った不届き者として日本三悪人に数えられるようになりました。 事件の翌年の770年に称徳天皇が病気で崩御すると失脚し、道鏡の権力は一気に低下しました。 軍事指揮権は、太政官である藤原永手や吉備真備に奪われました。 道鏡は長年の功労により処刑されませんでしたが、弓削浄人ら親族4名は土佐に流されました。 道鏡は下野国の下野薬師寺別当に左遷されそこで没し、死後は一庶民として葬られました。 道鏡を研究する際に必要不可欠な史料である『続日本紀』は、古代律令国家が編纂した立派な歴史資料です。 これは古代律令国家が国家の威信をかけて編纂し、天皇とその国家の非を書き記すことは絶対にしないといいます。 そのため、道鏡は、必要以上に悪人として語られてしまっているのではないでしょうか。 本書はこのような観点から『続日本紀』を読み返して、道鏡の評価を再考しようとするものです。 第一章では、うわさの道鏡として道鏡にまつわる伝承を取り扱います。 第二章では、仏教との出会いとして道鏡が出家するまでの過程を検討しています。 第三章では、道鏡と律令国家として、国家政治における道鏡の位置づけを考えています。 第四章では、称徳朝政治と道鏡として、称徳朝における道鏡の政治的立場を検討しています。 第五章では、称徳天皇の崩御と道鏡の左遷として道鏡の左遷に至る経緯を再確認しています。 以上から、道鏡の生涯を総覧すべく述べ来って述べ終わったといいます。第1章 うわさの道鏡(道鏡の生年/道鏡同衾伝説/称徳女帝淫猥伝説/歴史と伝説の間)/第2章 仏教との出会い(道鏡の出自/道鏡の仏教)/第3章 道鏡と律令国家(称徳天皇の即位事情/称徳天皇との出会い/藤原仲麻呂の乱と淳仁天皇廃帝)/第4章 称徳朝政治と道鏡(大臣禅師・太政大臣禅師・法王/太政官政治と道鏡/西大寺の創建と道鏡/宇佐八幡託宣と道鏡)/第5章 称徳天皇の崩御と道鏡の左遷(称徳天皇の晩年/道鏡の左遷と死去)[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]道鏡 悪僧と呼ばれた男の真実 (ちくま新書 1790) [ 寺西 貞弘 ]道鏡 悪業は仏道の精華なり【電子書籍】[ 三田誠広 ]
2024.10.12
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室鳩巣は1658年に室玄樸の子として、武蔵国谷中村、現在の東京都台東区谷中で生まれました。 室玄樸は1616年生まれの備中岡山の人で、剛直な性格で世間と合わず、摂津、江戸で町医者として過ごしました。 ”武士の道徳学 徳川吉宗と室鳩巣『駿台雑話』”(2024年6月 KADOKAWA刊 川平 敏文著)を読みました。 新井白石の推挙で幕府儒学者として召し抱えられ徳川吉宗の享保の改革の相談役となった、朱子学者・室鳩巣の人生を紹介しています。 室鳩巣は諱は直清、号は鳩巣・滄浪、字は師礼、通称は新助、信助、駿台先生と言いました。 1672年に金沢藩に仕え、藩主前田綱紀の命で京都の木下順庵の門下となりました。 1686年に加賀に赴任し廃屋を買って住居としてから、鳩巣の号を用いるようになりました。 以後、加賀・京都・江戸を往来して勉学を続けました。 この間、山崎闇斎門下の羽黒養潜と往来して学問を深め、朱子学者としての定見をもったのは40歳近くになってからといいます。 1711年に新井白石の推挙で江戸幕府の儒学者となり、幕府より駿河台に屋敷を与えられました。 徳川家宣、家継、吉宗の3代に仕え、ここで献策と書物の選進を行いました。 吉宗期にはブレーンとして享保の改革を補佐し、湯島聖堂において朱子学の講義を行いました。 また、幕臣への学問奨励のため吉宗の命を受けて、八重洲河岸に開設された高倉屋敷でも講義を行いました。 白石失脚後も吉宗の信任を得て1722年に侍講となり、しばしば諮問を受けて幕政にも関与しました。 1725年には西丸奥儒者となり、77歳で没するまでその地位にありました。 著作には、『五常名義』『五倫名義』『駿台雑話』『赤穂義人録』『兼山麗澤秘策』『六諭衍義大意』などがあります。 川平敏文さんは1969年福岡県生まれ、1999年に九州大学大学院博士後期課程を修了し、博士(文学・九州大学)となりました。 専攻は、日本近世文学・思想史で、1998年に柿衞賞を、2000年に日本古典文学会賞を受賞しました。 熊本県立大学文学部助教授となり、2007年准教授、2010年九州大学大学院人文科学研究院准教授、2021年教授となりました。 2015年にやまなし文学賞、2016年に角川源義賞を受賞しました。 室鳩巣という名前は、日本史に興味があれば享保の改革で、古典文学に興味があれば近世の随筆で覚えているかもしれません。 高等学校の教科書にも載る人物でも、実際どのような人物だったか知る人はあまりいないでしょう。 鳩巣は18世紀初頭に江戸幕府に仕えた儒者で、当時の政治・思想・文学・教育などを考えるうえで重要な人物です。 もともと江戸の生まれですが、若いころに加賀藩主・前田綱紀に見出され藩の儒者として仕えていました。 おそらく本人は北陸の一儒者として一生を終えるものと、思っていたのではないでしょうか。 ところが幕府の政治に深く参与していた新井白石の推薦をうけ、幕府の儒者として召し抱えられたのです。 その後、将車が徳川吉宗になり白石は失脚し、政治の表舞台から姿を消します。 このとき、吉宗から大きな信頼を寄せられたのが鳩巣でした。 吉宗の享保の改革は財政・組織・農政・文教など多方面にわたりますが、鳩巣は文教方面の相談役として活躍しました。 陽明学や仁斎学、徂徠学の流行時に、鳩巣は朱子学を墨守して普及に努めました。 朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系です。 朱子の思想は宇宙論から人間論まで幅広く、しかもどのように真理を認識するかという方法論まで含んでいました。 宋において官学とされ、科挙を受験する士大夫の修身・斉家・治國・平天下という理念が強調されるようになりました。 日本などに伝来するうちに、幅広い思想体系と言うより、統治哲学ともいうべき側面のみが発達していく傾向がありました。 日本においては、江戸幕府の封建的身分制社会のイデオロギーとなっていきました。 陽明学は、中国で明の時代に王陽明が宋の陸象山の説を継承して唱えた学説です。 人は生来備えている良知を養って、知識と実践とを一体化すべきだとします。 日本では江戸時代に、中江藤樹・熊沢蕃山らが支持しました。 朱子学は権威や秩序を重んじますが、陽明学は心のままに自分の責任で行動することを説いています。 当時の朱子学は、支配階級に都合よく解釈され、本来の理想とは、かけ離れた姿になっていました。 すっかり形骸化した朱子学を憂い、真っ向から否定したのが陽明学です。 仁斎学は、江戸前期の儒学者伊藤仁斎が築いた思想体系です。 総体的に、仁斎学は朱子学の克服を目ざして形成されました。 朱子をはじめとする先行の注解を排除して、直接、論語、孟子を熟読することを求めます。 こうして聖人の思考様式、文脈を知り、それを通じて儒教の意味、正統思想を理解せよと主張します。 徂徠学は、江戸時代に興った荻生徂徠に始まる儒教古学の一派です。 古い辞句や文章を直接読むことによって、後世の註釈にとらわれず孔子の教えを直接研究しようとします。 鳩巣は朱子学や仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する古文辞学を標榜しました。 鳩巣の『駿台雑話』は、鳩巣による江戸時代半ばの随筆であり儒学書でもあります。 朱子学的な観点で、学術や道徳などを奨励した教訓的なものです。 鳩巣による著作物の中でも特に著名なものであり、江戸時代の随筆の中でも代表的なものです。 1732年に成立し、全5巻、仁・義・礼・智・信の五常を5巻に配しています。 鳩巣の生涯の最晩年に、幕儒を引退する間際に書かれた和文随筆です。 鳩巣の政治・思想・文学などについての考えが、門人や客人と談話する形式に寄せて書かれました。 書かれている鳩巣の考えは、18世紀末に老中・松平定信によって推進された寛政異学の禁の骨子をなしています。 寛政異学の禁は、朱子学を幕府の正学とし、幕府の学問所の昌平黌で朱子学以外を教えることを禁じた命令です。 また、なかに掲載されている往古の武士たちの忠義の逸話や、和漢の詩歌を評判した文章は、明治から昭和戦前の国語教科書において頻出教材となりました。 鳩巣は政治史的には新井白石、思想・文学的には荻生徂徠、教育史的には貝原益軒などの同時代儒者たちの影に隠れてしまっているように見えます。 その理由のひとつは、鳩巣がいわば燻し銀のように、目立つことを潔よしとしなかったからです。 鳩巣が信奉していたのは朱子学ですが、朱子学で最も重要とされたのが中庸の精神です。 中庸とは、しっかりした理念のもとに、どこが本当の真ん中であるかを判断しその状態を不断に維持し続けることです。 近世中期から近代前期にいたるまで、日本人の道徳観の涵養や文学観の形成に少なからず貢献していました。 戦後、価値観は大きく変わりましたが、それでも現代のわれわれの道徳観や文学観につながる部分もあろうといいます。 本書では室鳩巣という人物とその著述について、さまざまな角度から光を当てています。 序章では、幕儒になる以前の加賀藩儒時代、鳩巣がどのような思いで過ごしていたかを概観しています。 第一章では、江戸に招聘された鳩巣が幕儒としてどのような仕事をこなしていたのかを考えています。 第二章では、徳川吉宗が鳩巣に編述を命じた『六諭術義大意』が、どのようなやり取りを経て完成したのかを追いかけます。 第三章は、鳩巣の主著ともいえる『駿台雑話』が、どのような社会背景のもとで書かれたかを押さえています。 第四章では、『雑話』における思想的問題を取り上げるています。 第五章は、『雑話』における武家説話を取り上げています。 第六章では、『雑話』における文学論を取り上げています。 終章では、『雑話』を中心とした鳩巣の著述が、後世にどのように広がったかを見ています。 室鳩巣は晩年に、心をよりどころにして近世的な自我意識や、君臣、君民間の契約を論じました。 これは、単に封建的なイデオローグとしてかたづけられない可能性を示したといいます。序章 鳩巣、江戸へー不遇意識のゆくえ/第1章 幕儒としての日々/第2章 庶民教化の時代/第3章 『駿台雑話』の成立/第4章 異学との闘い/第5章 武士を生きる/第6章 文学とは何か/終章 後代への影響ー『駿台雑話』の受容史 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]武士の道徳学 徳川吉宗と室鳩巣『駿台雑話』 [ 川平 敏文 ]『中古』駿台雑話 (岩波文庫)
2024.09.28
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岡倉天心は日本の思想家であり、日本美術の発展の種まきをし耕した人物です。 ”岡倉天心『茶の本』の世界 ”(2024年5月 筑摩書房刊 岡倉 登志著)を読みました。 ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めた岡倉天心が、日本の茶道を欧米に紹介する目的でニューヨークの出版社から刊行した『茶の本』の世界を紹介しています。 明治時代初期に横浜で生まれ、幼少期から英語を得意としてエリート街道を進みました。 官僚となってから日本美術の素晴らしさに目覚めました。 語学力を活かして、日本美術・日本文化の発信者として生きる道を選択しました。 現在の東京藝術大学の前身の東京美術学校の設立に貢献し、のちに日本美術院を創設しました。 近代日本における美術史学研究の開拓者でもあり、明治時代以降の日本美術成立に大いに寄与しました。 代表作は東洋の美術を欧米に紹介した『茶の本』であり、1906年に出版され全米ベストセラーとなりました。 現在では20数種の言語に翻訳され、世界的名著として知られています。 日本国内でも誰もが認める、日本を代表する書といえるでしょう。 岡倉登志さんは1945年千葉県生まれ、1974年明治大学大学院政治学研究科博士課程を単位取得退学しました。 1975年に西アフリカに半年滞在、その後もエチオピア、ジブチ、ケニア、タンザニアで数回の調査・研究旅行を行いました。 1988年4月から2011年3月まで、大東文化大学文学部教授を務めました。 現在、大東文化大学名誉教授、横山大観記念館評議員となっています。 専門はヨーロッパ・アフリカ関係史、日本と西洋の交流史です。 岡倉天心の曾孫にあたり、2002年に天心研究会「鵬の会」を結成し、論文発表や講演活動を行っています。 岡倉天心は1863年横浜生まれ、日本の思想家、文人で、本名は岡倉覚三、幼名は岡倉角蔵といいました。 福井藩士・岡倉覚右衛門の次男で、福井藩は覚右衛門に神奈川警備方を命じて赴任させました。 福井藩は横浜で海外貿易の盛隆を目の当たりにし、生糸を扱う貿易商店石川屋を1860年に横浜に開店しました。 店を訪れる外国人客を通じて、岡倉は幼少時より英語に慣れ親しんでいきました。 1871年に父親の再婚をきっかけに、大谷家に養子に出されました。 里親とそりが合わず、神奈川宿の長延寺に預けられました。 寺の住職から漢籍を学び、高島嘉右衛門が開いた高島学校へ入学しました。 1873年に、廃藩置県によって石川屋が廃業となりました。 父親が蛎殻町で旅館を始めたため、一家で東京へ移転しました。 天心は、官立東京外国語学校、現在の東京外国語大学に入学しました。 1875年に、東京開成学校、後の東京大学に入学し、1878年に結婚しました。 1880年7月に東京大学文学部を卒業し、11月より文部省に音楽取調掛として勤務しました。 1881年に、アーネスト・フェノロサと日本美術を調査しました。 アーネスト・フェノロサは、1853年生まれのアメリカの東洋美術史家、哲学者です。 明治時代に来日したお雇い外国人で、日本美術を評価し紹介に努めました。 1882年に専修学校、現在の専修大学の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献しました。 1884年に、フェノロサとともに京阪地方の古社寺歴訪を命じられ、法隆寺夢殿を開扉し、救世観音菩薩像を調査しました。 1886年から1887年にかけて、東京美術学校、現在の東京芸術大学美術学部設立のため、フェノロサと欧米を視察しました。 1887年に東京美術学校幹事となり、翌年に博物館学芸員に任命されました。 1889年に日本美術学校が開校され、5月に帝国博物館理事に、12月に大博覧会美術部審査官となりました。 1890年10月に天心が東京美術学校初代校長になり、フェノロサが副校長となりました。 同校での美術教育が特に有名で、福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てました。 1898年に東京美術学校を排斥され辞職し、同時に連帯辞職した大観らを連れ、日本美術院を下谷区谷中に発足させました。 1901年から1902にかけてインドを訪遊し、タゴール、ヴィヴェーカーナンダ等と交流しました。 1902年に来日した、ボストン生まれのアメリカ医師、日本美術研究家、仏教研究者のビゲローと交歓しました。 1904年にビゲローの紹介で、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられました。 この後は、館の美術品を集めるため日本とボストン市を往復することが多くなりました。 それ以外の期間は、茨城県五浦のアトリエにいることが多くなりました。 1905年と1907年に渡米し、美術院の拠点を茨城県五浦に移しました。 1910年にボストン美術館に東洋部を設けることになり、美術館中国・日本美術部長に就任しました。 1911年に帰国し、1912年に文展審査委員に就任しました。 1913年に、静養に訪れていた新潟県赤倉温泉の自身の山荘にて、9月2日に50歳で永眠しました。 同日、従四位・勲五等双光旭日章を贈られ、戒名は釈天心でした。 『茶の本』は、茶道を仏教、道教、華道との関わりから広く捉え、日本人の美意識や文化を解説しています。 天心没後の1929年に邦訳され、2019年時点で約90年を経て118刷56万部に達しています。 新渡戸稲造の『武士道』と並んで、明治期の日本人による英文著書として有名です。 ジャポニズム興隆や日露戦争における勝利によって、日本への関心が高まったヨーロッパ各国でも翻訳されました。 2016年には、世界的な名著を集めたペンギン・ブックス双書にも加えられました。 『茶の本』の解説書はすでに数多く刊行されています。 本書では、『茶の本』の世界を、できるだけ多岐にわたって紹介していきたいといいます。 筆者は天心の人的交流に詳しく、その背景となる天心の書簡・日誌類など一次資料を丹念に見ています。 先行研究の著作を参考にしながら、それらを補足・訂正し新しい視点を提起しています。 また、国際的な文化交流の文脈で、『茶の本』を再考していくことにしたいとのことです。 さらに、筆者ならではの視点から、120年前の『茶の木』を21世紀の現代から見るということです。 序章では『茶の本』が執筆・出版されるまでの経緯ついて述べ、天心のコスモポリタンな思考と類いまれな英語力に着目しています。 第一章では天心の幼少期から振り返りその思想的背景を概観し、六角堂について考察し数々の著名人との関わりについて心論じています。 第二章では『茶の本』刊行100周平記念行事にについて触れ、『茶の本』の成立事情と構成について述べています。 第三章はユーモリストで風流人でもあった天心に着目し、重要な思想的立脚点について論じています。 第四章では清国を視察した天心の中国文化・思想への強い関心をテーマとし、『茶の本』に見える道教、詩歌について考察しています。 第五章では1893年のシカゴ万博について詳しく述べ、天心が内装を手がけた鳳凰殿と併設のティーハウスに注目しています。 第六章は天心の精神的支えであったガードナー夫人の来歴と、10年間にわたる両者の交流について考察しています。 第七章では天心が愛した東洋の詩人たちに注目し、ブリヤンバダ・デーヴィ-、アンリーミショー、タゴールについても論じています。 終章では晩年の天心が多忙な生活の中で夢見た二重の人生や、死への旅立ちを意識した天心の辞世ともいえる詩を考察しています。序章 『茶の本』の世界/第1章 『茶の本』は「茶の湯」の経典か/第2章 宗教と哲学から『茶の本』を読む/第3章 文学・演劇にみるユーモリスト/第4章 中国文化との関連/第5章 万国博覧会と日本の建造物/第6章 ガードナー夫人のサロンに集う人々/第7章 詩で詠む『茶の本』の世界/終章 黄昏 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]岡倉天心『茶の本』の世界 (ちくま新書 1792) [ 岡倉 登志 ]【中古】 岡倉天心『茶の本』を読む 岩波現代文庫 学術302/若松英輔【著】
2024.09.14
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インネパ店とはインド・ネパール料理店の略で、主としてネパール人が手がけるインド料理店を指します。 よく見かける外国人経営のカジュアルなインド料理店は、実は多くがネパール人が経営していることが多いです。 ”カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」”(2024年3月 集英社刊 室橋 裕和著)を読みました。 いまやいたるところで見かける格安インドカレー店について、その急増の理由や稼げる店の秘密と裏事情などを解説しています。 2022年現在、全国に少なくとも2000軒のインネパ店があるといいます。 しかも、その軒数はここ15年ほどで5倍前後になっているそうです。 2022年1月時点の日本ソフト販売による集計では、代表的な飲食チェーン店の国内店舗数は、たとえば松屋は977店、ドトールは1069店、CoCo壱番屋は1238店です。 これらに比べると、インネパ店の2000軒は大きな数字です。 インネパ店の多くは個人経営ですので単純な比較はできませんが、今や有名チェーンの店舗数をはるかに上回っているといえます。 お店のほとんどが、ネパール人による経営なのはなぜでしょうか。 また、どの店にもナンとインドカレー、タンドリーチキンなどの定番メニューが並んであるのはなぜでしょうか。 室橋裕和さんは1974年埼玉県入間市生まれ、両親は共働きで町工場の営業をしていたそうです。 バックパッカーに憧れて、東京の大学に進学後はアルバイトで貯めた資金で中国、インド、中近東などを旅しました。 その後、週刊文春の記者を経てタイに移住しました。 現地発日本語情報誌のデスクを務め、10年に渡りタイと周辺国を取材しました。 2014年に帰国後は、アジア専門のライター、編集者を務めています。 現在は多国籍タウンの新大久保に住み、外国人コミュニティと密接に関わり合いながら取材活動を続けています。 インネパ店には共通する定番のメニューといえるものがあるそうです。 中心に据えているのは、ナン、インドカレー、タンドリーチキンなどです。 中でも多くの店のウリは、バターチキンカレーとおかわり自由なナンです。 10種類ほどあるカレーはスパイスをきかせすぎず、ナンは甘く柔らかいです。 最近では、チョコレートナン、明太子ナン、あんこナンなどのナンを出す店も増えています。 こうした料理は北インド料理がルーツで、ネパール料理ではありません。 インネパ店で出されているのは、北インドのカレーを外食風にアレンジした少し濃い目の味付けのものです。 これは、ネパールではあまり一般家庭で食べるものではありません。 というのは、タンドールという釜がないとナンやタンドリーチキンは焼けないからです。 ネパール人が普段食べているのは、ご飯にダルという豆の汁が主なものです。 カレーの味付けはスパイスの量が少なく、野菜、高菜、アチャールという漬物や発酵ものが多いです。 しかし、メニューにはネパール餃子のモモがあったり、店の内外にネパール国旗やヒマラヤ山脈の写真を掲げていたりします。 メニューは伝統料理ではなく、幅広い層の日本人の好みに合わせたものです。 インドやネパールの食文化にこだわらず、知名度の高いインド料理として出しています。 日本各地に存在するインドカレー店は、インド人がやっているところもありますが、ネパール人が経営していることがほとんどのようです。 ネパールは出稼ぎ国家で、外食産業がネパール人の出稼ぎの手段になっています。 多くが、カトマンズから200キロ近く離れたバグルンという山に囲まれた地域出身です。 インドでコックとして働いてきたネパール人が、さらに大きなお金を稼ぐために日本へ渡ってきています。 法務省の統計では、2006年に7844人だった在留ネパール人の数は、2020年には9万9582人となっています。 バブル期に日本に出稼ぎに来るネパール人が増え、2000年代にビザの取得要件が緩和されました。 また、外国人でも500万円を投資すれば、経営・管理という在留資格を持って会社を経営できるようになりました。 しかし、日本にやって来るのも簡単な話ではなく、店を出すのにも多額の資金が必要になります。 親戚や銀行からお金をかき集め、海を渡って出稼ぎにやってくるネパール人たちが大勢いるといいます。 ネパール人コックは、インネパ店の店主が招聘する形で日本にやってきます。 働く店が決まっていないと、ビザが下りないからです。 来日するコックは、店主または仲介業者に仲介手数料を払うのが商習慣となっています。 来日したコック自身も後に独立して経営者となり、同じように仲介手数料をとってネパール人コックを呼び寄せるケースが多いそうです。 多くは、なんとしてでも稼いで一旗あげるとか、絶対に失敗できないという必死な気持ちで日本にやってきています。 もともと、日本のインド料理店では、ネパール人が多く働いていました。 それが独立して、お店を始めるようになったことからインネパが生まれ始めました。 インネパ店でも、お客がよく入る店とそうでない店の差があるそうです。 あくまで稼ぎに来てるわけで、日本人のお客さんを掴むため、いろいろ考えてメニューを開発しています。 いろいろな改造されたナンは、お客さんを意識して出されています。 これには、ネパール人のしなやかさとか柔軟性の象徴みたいなところがあります。 インド人から見たら許せないのかもしれないものでも、ネパール人は日本人にいかにウケるかを大事にしています。 インドの本場のナンは、日本で作られているナンほど大きくありません。 日本人は映えを意識するから、なるべく大きくしろといわれるそうです。 しかし、現地の人はもっとうすいチャパティとかを食べていて、ナンは外食時の食べ物という感じがするとのことです。 現在、日本では円安問題や経済不況だと騒がれていますが、それでも日本に来たいというネパール人はまだたくさんいるそうです。 カレーの原価率は一般的には20~30%といわれ、他の料理と比べても低いことが特徴です。 また、名物のナンはおかわりサービスをしていても、赤字になるような原価ではありません。 インドカレー店は特殊な厨房機器を必要とせず、最低限の機器を揃えるだけで十分といえます。 さらに、インドカレーは日本人に馴染みがあり人気の高い料理です。 インネパ店はオーナーやスタッフが家族や親戚である場合が多く、身内で経営することで人件費を比較的安く抑えています。 昔は単身赴任の出稼ぎスタイルが多かったようですが、今では家族を一緒に連れてくる人も増えました。 奥さんも働いて家計を支え、子供は日本の学校に通わせています。 一番の問題と感じているのは、カレー屋の子供のことだといいます。 親は経営に追われて忙しく、子供の面倒を十分に見れません。 日本に連れてこられた子供たちは、わけもわからずなかなか馴染むことができません。 また、子供の教育に関心の低いネパール人も少なくないようです。 このような問題があっても、日本が閉ざさない限りこれからもカレー移民は増え続けていく可能性が高いといいます。 本書は、インネパ点のメニューの源流を探し、在留外国人統計からネパール人が増加した歴史をたどっています。 母国からコックを呼ぶブローカー化した経営者や、搾取されるコックたちといった闇にも切り込んでいます。 背景には、日本の外国人行政の盲点を突く移民たちのしたたかさもあるといいます。第1章 ネパール人はなぜ日本でカレー屋を開くのか/第2章 「インネパ」の原型をつくったインド人たち/第3章 インドカレー店が急増したワケ/第4章 日本を制覇するカレー移民/第5章 稼げる店のヒミツ/第6章 カレービジネスのダークサイド/第7章 搾取されるネパール人コック/第8章 カレー屋の妻と子供たち/第9章 カレー移民の里、バグルンを旅する[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」 (集英社新書) [ 室橋 裕和 ]日本のインド・ネパール料理店[本/雑誌] / 小林真樹/著
2024.08.31
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福沢諭吉は、天保5年12月12日、西暦では1835年1月10日に生まれ、来るべき近代国家の在り方を構想した大思想家です。 ”福沢諭吉 「一身の独立」から「天下の独立」まで”(2024年5月 集英社刊 中村 敏子著)を読みました。 慶應義塾の創設者で西洋の学問や思想を日本に広めた福沢諭吉において、儒学の枠組みと西洋がいかに響き合いどう変化したかなどを紹介しています。 幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家でした。 1858年に慶應義塾の前身の蘭学塾、1875年に一橋大学の前身の商法講習所、1902年に神戸商業高校の前身の神戸商業講習所の創設にも関わりました。 代表作の「学問ノスゝメ」は全部で17編のシリーズもので、初編が1872年に、1876年に最後の第17編が刊行されました。 既存の研究では、武士としての前半生はほとんど重視されてきませんでした。 しかし、未知の文明の受容と理解を可能にするため、何らかの器が必要だったはずです。 本書では、福沢は私的領域を含む社会を見据え、西洋思想の直輸入ではない「自由」と「独立」への道筋を示しています。 中村敏子さんは1952年栃木県宇都宮市生まれ、1975年に東京大学法学部を卒業し東京都庁職員となりました。 退職後、1988年に北海道大学大学院法学研究科博士課程を修了し、同法学部助手となりました。 1994年に北海学園大学教養部助教授、1996年同大教養部教授、1998年同大法学部教授・同大学院法学研究科教授となりました。 北海学園大学教養部長、同学生部長、同就職部長なども務め、2018年に同大を定年退職し、名誉教授となりました。 思想史学としての福沢諭吉研究のみならず、政治思想における女性および家族の位置付けや政治理論も研究しています。 福沢諭吉は幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家です。 諱は範、字は子圍、揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」、雅号は三十一谷人です。 豊前中津藩の下級武士の子として、大阪にある中津藩蔵屋敷で生まれました。 2歳のときに父が亡くなると中津に戻り、下駄作りなどの内職をして、貧しい家計を助けました。 14歳で塾に通い始め、19歳で長崎に出て蘭学と砲術を学びました。 その後、大阪の蘭学者で医師の緒方洪庵の適塾で学ぶようになりました。 お金がなく途中からは塾に住み込みで勉強して、塾長にもなりました。 1858年23歳のときに、江戸の藩邸で蘭学塾を開くことになりました。 翌年、外国人の多い横浜を訪れ外国人は英語ばかり使い、オランダ語が通用しないことを知りショックを受けました。 英語を教えてくれる人が近くにいなかったため、英蘭対訳辞書を基に独学で英語を学び始めました。 1860年25歳のとき、幕府の遣米使節に志願して、咸臨丸で渡航しました。 アメリカでは、身分に関係なく、能力次第で活躍できることに感動を覚えました。 アメリカで英語の辞書のウェブスターを購入し、帰国後は単語集「(増訂)華英通語」を刊行しました。 塾の教育を英学に切り替え、その後も、幕府の使節として欧米を視察しました。 1866年31歳のときに、海外で見てきたことを「西洋事情」という本にまとめました。 1868年33歳のとき、築地の蘭学塾を芝に移し慶應義塾と名付けました。 塾生から毎月授業料を取る形の学校運営は、これが初めてでした。 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」で始まる「学問のすすめ」は、1872年から刊行が始まりました。 17冊に分けて1冊の値段を安くして漢字には読み仮名を振り、300万部のベストセラーとなりました。 1879年に東京学士会院、現、日本学士院の初代会長に就任しました。 東京府会副議長にも選出されましたが、これは辞退しました。 1880年に慶應義塾の塾生が激減し財政難に陥りましたが、門下生たちが広く寄付を求めて奔走した結果、危機を乗り切りました。 1881年に慶應義塾仮憲法を制定し、引き続き諭吉が社頭となりました。 1889年に慶應義塾規約を制定し、1890年に慶應義塾に大学部を発足させ、文学科・理財科・法律科の3科を置きました。 1898年に慶應義塾の学制を改革し、一貫教育制度を樹立し、政治科を増設しました。 1901年2月3日に脳出血で倒れ死去し、2月8日に葬儀が塾葬とせず福澤家私事として執り行われました。 福沢は、明治期に日本を西洋のような近代国家にしようと奮闘した人物として知られています。 それゆえ、これまで福沢の思想は、西洋からの影響を中心に考察されてきました。 また日本という国家が進むべき方向について考えたことから、国家に関する議論が主たる分析の対象とされてきました。 しかし天保年代に生まれ明治年代に亡くなった福沢は、明治維新をはさみ、前半は武士後半は知識人として生きました。 にもかかわらず、これまでの研究では福沢の明治期の活動が中心で、武士だった時代の影響は重視されてきませんでした。 古い社会を新しい社会へ転換することについて、福沢はどのように考えたのでしょうか。 本書は、幕末から明治にかけての福沢の思想の変化を中心に考察しています。 福沢は、江戸時代から色々な経験をする中で、個人や社会のあり方について考えました。 そこには、江戸時代のさまざまな要素が影響を与えています。 その中で、江戸時代に人々の生活の基盤だった家、つまり家族という集団も福沢の社会構想における考察の対象になっていました。 しかし、政治学の枠組みでは、家族と国家は私的領域と公的領域とに分けられます。 そして、私的領域である家族は社会構想から排除され、考察の対象とされることはありません。 福沢は明治期になってから国家を中心に論じたため、もともと含まれていた家族が後世の研究者による考察対象から省かれました。 そうした偏りをなくし、福沢が家族も含んだ形でどのように社会を構想したのかを示したいといいます。 もうひとつ重要なのは、福沢が若いときに武士の基本的教養である儒学をかなり深く学んでいて、社会構想に影響を与えたという点です。 著者は、福沢が若い頃学んだ儒学の思想枠組みを基礎として持ち、西洋の思想を学んでいったという解釈を採っています。 イギリスでの私的な経験から、外国の事象を理解するためには対応する概念や枠組みを持っている必要がある、と気付いたそうです。 符号としての外国の文字を見るだけでは、外国の観念は理解できないのです。 福沢が西洋を理解するためには、受容と理解を可能にする概念枠組みがすでにあったのではないかと考えるようになりました。 はじめから福沢の思想を読み直した結果、その概念枠組みは儒学だったという結論に至ったといいます。 本書は、再び福沢の思想を儒学の枠組みにもとづき読み直し解釈し直しました。 福沢は、儒学の枠組みを持ちながら西洋の思想を学んだとしています。 その過程で東西の思想はどのように響きあい、どのような変化がもたらされたのでしょうか。 本書では、福沢が最も重要だと考えた「独立と自由」を軸に、思想の変遷を分析し新しい社会において何をめざしたのかを解明したいといいます。はじめにー「議論の本位を定める」(『文明論之概略』第一章)一、福沢の前半生ー「一身にして二生を経る」(『文明論之概略』緒言)二、西洋から学ぶー「文字は観念の符号」(「福沢全集緒言」)三、『中津留別の書』ー「万物の霊」としての人間四、『学問のすすめ』ー自由と「一身の独立」五、『文明論之概略』ー文明と「一国の独立」六、「徳」論の変化ー「主観の自発」か「客観の外見」か七、男女関係論ー「一家の独立」八、理想社会としての「文明の太平」ー「天下の独立」引用文献・参考文献あとがき[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]福沢諭吉 「一身の独立」から「天下の独立」まで (集英社新書) [ 中村 敏子 ]福沢諭吉「学問のすすめ」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫) [ 福沢 諭吉 ]
2024.08.17
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ニセコは、広義には北海道後志総合振興局の岩内郡岩内町、岩内郡共和町、虻田郡倶知安町、虻田郡ニセコ町、磯谷郡蘭越町からなります。 ”なぜニセコだけが世界リゾートになったのか 「地方創生」「観光立国」の無残な結末”(2020年12月 講談社刊 高橋 克英著)を読みました。 世界有数のパウダースノーと美しく壮大な山並みが人気です。 毎年多くの外国人観光客が訪れるニセコという新世界の新しい経済に、観光消滅の苦境から脱するヒントがあるといいます。 ニセコは、後志管内のほぼ中央部に位置しています。 1895年に清川孫太、岩上判七らが西富に入地しました。 1897年に虻田村、現在の洞爺湖町から分村し、真狩村、現在の留寿都村の区域となりました。 この5町のうち、観光客の間で特に人気が高いのは、俱知安町、ニセコ町、蘭越町です。 この3町をニセコ観光圏と称されることもあり、特に倶知安町とニセコ町をニセコ地域ということもあります。 羊蹄山周辺は支笏洞爺国立公園に指定され、ニセコアンヌプリ周辺はニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されています。 北海道遺産には「スキーとニセコ連峰」が選定されています。 ニセコ町は北海道虻田郡にある町です。 現市街付近は真狩川と尻別川が合流する地点にあることから、アイヌ語でマッカリペップトゥと呼ばれました。 尻別川は清流日本一に認定されたことがあり、サケやサクラマスがのぼる川でもあります。 真狩川と尻別川に字を当てると、真狩別太=まっかりべつぶととなりました。 その後1901年に真狩川下流域を分村した際に、真狩別太を略して狩太村=かりぶとむらと命名されました。 1963年に、ニセコアンヌプリ一帯がニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されました。 国定公園ニセコアンヌプリを仰ぐ町として、観光開発、農産業振興など行政上から、名称をニセコ町に変更するべきとの声が起こりました。 そして、1964年に町議会で町名と駅名の変更が議題となり、町名の狩太町をニセコ町に変更されました。 また、駅名については、かりぶと駅をニセコ駅に変更しました。 1964年6月30日付で北海道庁に名称変更を申請して同日に許可され、10月1日を以ってニセコ町に改名しました。 そして、駅名は遅れて1968年にニセコ駅に変更しました。 ニセコの魅力として大きいのは、世界的にも高く評価されている雪質のよさです。 サラサラのパウダースノーで、しかも雪の量が多いです。 ニセコには日本海から吹き付ける北風がアンヌプリを越えて、水分のない雪が降り積もる特徴があります。 この地域の魅力は、スキー場のスケールが大きいことや宿泊施設が充実していることも理由として挙げられます。 ニセコのインバウンド需要が高い理由は、ウィンタースポーツにあります。 スキー場には初心者向けから上級者まで多様なコースを設け、ナイターも充実しています。 国外からの観光客のほとんどは日本の30年以上にわたる経済の停滞により、世界で最も安いスキーリゾートになったために来ています。 インバウンドの隆盛によってお金を生むのは、国内に世界屈指のリゾートを作ることです。 高橋克英さんは1969年岐阜県生まれ、1993年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、三菱銀行、現 三菱東京UFJ銀行に入行しました。 1999年に、日興ソロモン・スミスバーニー証券、現シティグループ証券に入社しました。 2000年に、青山学院大学大学院国際政治経済学研究科で経済学修士を取得しました。 主に銀行クレジットアナリスト、富裕層向け資産運用アドバイザーとして活躍してきました。 2010年に日本金融学会に所属し、2013年に独立して、金融コンサルティング会社マリブジャパンを設立しました。 世界60ヵ国以上を訪問し、バハマ、モルディブ、パラオ、マリブ、ロスカボス、ドバイ、イタリア湖水地方、ハワイ、ニセコ、沖縄など、国内外のリゾート地に詳しいです。 現在、事業構想大学院大学客員教授を務めています。 地元の倶知安町がスイスのサンモリッツと姉妹都市提携を結んで、2021年で57年になります。 ニセコは東洋のサンモリッツから世界のニセコとして、世界のスキーヤーや富裕層に知られる存在となっています。 今や世界的なスキーリゾートとなったニセコの源泉は、パウダースノーです。 サラサラしたパウダースノーを体験してしまうと、なかなか他のスキー場には戻れません。 欧州や北米の世界的に著名な超高級スキーリゾートには、サンモリッツ、クーシュペル、ウィスラーなどがあります。 これらのスキーリゾートも、雪質ではニセコには敵わないところがほとんどです。 このパウダースノーを、オーストラリアのスキーヤーが世界に紹介しました。 以来、ニセコにアジア全体や欧州や米国からもスキーヤーが訪れるようになりました。 パークハイアットやリッツーカールトンなどの5つ星ホテルも開業し、アマンも建設されています。 アマンホテルに併設される戸建て別荘の販売予定価格は20億円になります。 今後も、高級ホテルやコンドミニアムの開発が続く予定です。 ニセコには、世界のスキーヤーや富裕層のために外国人による外国人のための楽園ができています。 また、周辺の地域のインフラ整備も着々と進んでいることが心強いです。 2027年には、高速道路が開通してニセコにインターチェンジができる予定です。 2030年には、北海道新幹線の新駅がニセコに設置されることも決まっています。 さらに、コロナ禍があったにもかかわらず、ニセコでは最高級ホテルの建設や公共事業への投資が継続しています。 加えて、中国や韓国資本による新たな開発計画も明らかになっています。 富良野やルスツ、キロロや札幌市内のスキー場なども、設備の更新と外資系ホテルの進出が続く可能性があります。 そうなれば、冬の北海道は、欧州のアルプス、米国のコロラド、カナダのウィスラーと並ぶ世界的なスキーリゾートとなるかもしれません。 なぜ、ニセコだけコロナ禍下でも不動産投資が継続しているのでしょうか。 その理由には、外資系大手や公共事業の計画、世界的な金融緩和、海外富裕層とホテルコンドミニアムの存在があります。 外資系大手や公共事業の計画では、リッツーカールトンが開業しアマンなどの建設が進んでいます。 これらのホテル建設は、香港PCCWグループやマレーシアのYTLグループなどによる大規膜リゾート計画の一環です。 コロナ禍でも、こうした外資系大手による開発、建設、公共事業が、継続しています。 これが地元や中小企業者なども、安心して中長期的視点で営業や投資活動を行えることにつながっています。 コロナショックによる世界的な金融緩和では、日米や欧州で史上最大規模の金融緩和策と財政出勤策がとられています。 雇用と事業と生活を守るため、あらゆる手段を尽くすとの意思表示です。 これまで以上に、不動産や株式にカネが流れ、実体経済が苦戦していても、日米の株式市場は堅調です。 ニセコは他の国内リゾートとは違い、海外観光客ではなく海外富裕層の投資家を強く惹きつけてきました。 ニセコに不動産をすでに所有する富裕層の多くは、経済的に耐久力があり長期・安定保有が目的です。 海外富裕層はすでに資産・資金を十分に持っていて、投資や開発を行うことが可能です。 ニセコの場合、その投資対象となるのが高級コンドミニアムやホテルコンドミニアムです。 金融緩和の恩恵を最も受けることができ、過去5年間で10倍以上に跳ね上がった不動産も多いといいます。 ニセコでは、国内外の富裕層顧客がスキーヤーやスノーボーダーとして集まり楽しんでいます。 良質なホテルコンドミニアムなどが供給されてブランド化が進み、資産価値の上昇と開発投資が行われています。 投資が投資を呼ぶ好循環が続き、消費より投資が牽引する経済社会が到来しています。 本書では、なぜニセコが世界的リゾートとして成功したのか、なぜコロナ禍下でも開発や投資が続いているのかを明らかにしたいといいます。はじめに ニセコの強さ3つの理由/第1章 ニセコはバブルなのか?/第2章 日本の観光投資の敗北と外資による再生/(1)東急から豪州、そしてアジアへ/(2)西武から米国、そしてアジアへ/(3)ラグジュアリーホテル続々開業/第3章 ニセコに世界の富裕層が集まる理由/(1)ホテルコンドミニアムという錬金術/(2)世界的なカネ余りがニセコを後押し/(3)なぜアジア富裕層はニセコを目指すのか/第4章 ニセコの未来/(1)世界最高級リゾートとの比較/(2)「夏も強化」は正論ながら空論/(3)富裕層向けサービスに特化する/(4)新幹線開通と五輪開催/第5章 ニセコに死角はないのか?/(1)「外資VS.住民」と「開発VS.環境」/(2)自然からの警告/(3)縦割り行政の弊害/第6章 観光地の淘汰が始まる/(1)マーケティングより人間の意思/(2)地方創生の幻想と東京/おわりに 2030年ニセコリゾート近未来像/参考文献・資料[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]なぜニセコだけが世界リゾートになったのか 「地方創生」「観光立国」の無残な結末 (講談社+α新書) [ 高橋 克英 ](2)ブックス・フォトブック ニセコパウダー
2024.08.03
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2017年のノーベル生理学・医学賞は、体内時計の研究において遺伝子レベルでのメカニズム解明に功績を残した研究者に授与されました。 受賞者は、マイケル・ヤンブ、ジェフリー・ホール、マイケル・ロスバッシュ士のアメリカの研究者3名です。 体内時計の存在やその重要性が広く一般にも知られ、健康との関わりから関心が高まっています。 ”「2つの体内時計」の秘密 「なんとなく不調」から抜け出す!”(2021年11月 青春出版社刊 八木田 和弘著)を読みました。 体の中の周期を調整する体内時計というシステムについて、その仕組みや生活上のヒントなどを紹介しています。 体内時計は体の中の周期を調整するシステムです。 目から得られる光の情報や、食事などによっても影響をうけます。 人間の体温や心拍などの生理現象は、地球の自転周期の24時間より少し長い周期です。 マスタークロックとサブクロックがこの周期を24時間に合わせてリセットし、体の周期を調整しています。 マスタークロックは脳の視床下部にある主時計で、サブクロックは各臓器にある副時計です。 体内時計が乱れると、さまざまな健康リスクが発生します。 24時間型の現代社会では、夜更かし、暴飲暴食、運動不足、シフトワークなどで生活習慣を乱しやすいです。 体内時計の乱れが続くと、睡眠覚醒リズムが乱れて不眠が引き起こされます。 すると全身に悪影響が及び、引き起こされるのは糖尿病などの生活習慣病や睡眠障害などです。 体内時計と健康は深く関わっており、健康的な体を維持するには、マスタークロックとサブクロックのリズムを合わせることが大切です。 そのためには、食事の時間を意識する必要があります。 八木田和弘さんは、京都府立医科大学大学院医学研究科統合生理学教授です。 1995年に京都府立医科大学卒業後、同大学附属病院第3内科にて研修を受け、同大学大学院を修了しました。 神戸大学医学部第2解剖学助手、講師、名古屋大学理学部COE助教授、大阪大学大学院医学系研究科神経細胞生物学准教授を務めました。 2010年より現職となり、2017年から地域生涯健康医学講座の教授を併任しています。 時間生物学、環境生理学の研究と、生活改善の大切さを伝える活動にも取り組んでいます。 体内時計に関する研究には、犬きく分けて、植物、睡眠、動物、遺伝子という4つの流れがあります。 植物を対象にした研究は、体内時計研究のもっとも古い歴史を持ついわば元祖といってよいものです。 古代ギリシャに遡り、ネムノキが夜に葉を閉じて眠るように見える様子は、当時から不思議に感じられていました。 睡眠を対象にした研究は、医学の分野からはじまりました。 人はなぜ寝るのかという哲学的な命題からはじまり、20世紀初頭に犬の断眠実験が世界ではじめて日本で行われました。 さらに1950年代から、犬を含めた動物の生体リズムの研究が行われました。 ユルゲン・アショフとコリン・ピッテッドリックという生理学者が、学問として形作っていきました。 日本では、北海道大学の本間研一・さと夫妻が、長年にわたってこの分野の研究を牽引してきました。 1960年ころから、生物時計に対する生物学者の関心が高まってきました。 日本でも同様で、1970年代に研究が活発になり生物リズム研究会が生まれ、1990年代に日本時間生物学会へ発展しました。 体内時計研究を決定的に推し進める原動力となったのが、時計遺伝子の発見です。 1970年代初頭に、アメリカのシーモア・ベンザーがショウジョウバエを使って、体内時計を司る時計遺伝子の存在を明らかにしました。 この時計遺伝子を中心にして、時間を測るシステムを解明したのが3人のノーベル賞受章者です。 体内時計を持っているのは人間だけではなく、すべての脊椎動物に体内時計があります。 さらに、ハエなどの昆虫にも、単細胞生物にも体内時計はあります。 少なくとも太陽の影響を受ける生物は、ほとんど体内時計を持っているといってよいとのことです。 それがわかったのはそれほど昔のことではなく、2000年前後のことです。 体内時計とは生物時計とも呼ばれ、生物が生まれつき備えていると考えられる時間測定機構です。 地球上の生物は、地球の自転によってもたらされる約24時間の明暗周期にその活動を同調させています。 生物リズムは概ね1日周期という意味で、概日リズムと呼ばれています。 生物は地球の自転による24時間周期の昼夜変化に同調し、ほぼ1日の周期で体内環境を変化させます。 単細胞生物や培養細胞株、あるいは各組織を構成する細胞の一つ一つが概日時計を有しています。 概日リズムはサーカディアンリズムとも呼ばれ、24時間周期のリズム信号を発振する機構です。 隔離された環境で自由に生活してもらうと、寝付く時刻と目覚める時刻が1日ごと約1時間ずつ遅れることが観察されます。 このことから、ヒトの体内時計の周期は約25時間であることがわかりました。 哺乳類では脳の視交叉上核によるとみなされ、睡眠や行動の周期に影響を与えています。 視交叉上核から、神経あるいは体液性のシグナルを介して、各組織の細胞の概日リズムが同期されています。 生物時計は通常、人の意識に上ることはありません。 しかし睡眠の周期や行動などに大きな影響を及ぼし、夜行性・昼行性の動物の行動も生物時計で制御されています。 病院に行くほどではないけれど、心も体もすっきりしないことはありませんか。 そんななんとなく不調の原因は、もしかすると体内時計の乱れにあるかもしれないです。 実は体内時計は縁の下の力持ちのように、私たちの心と体の健康を支えてくれています。 これまでは、夜勤や交替勤務をおこなっているシフトワーカーの方々の健康を守るために注目されていました。 今や、すべての人にかかかる重要な存在になりました。 そのきっかけが、新型コロナウイルスの感染拡大による生活様式の変化です。 不要不急の外出自粛が呼びかけられ、テレワークを導入する企業や、オンライン授業をおこなう学校も増えました。 通勤や通学がなくなったことにより、夜型になったり食事の時間もバラバラになったりしました。 これが生活リズムの乱れを招き、体内時計にも影響を与えている可能性があります。 体内時計には、脳にある中枢時計(親時計)と、全身の細胞にある末梢時計(子時計)の2種類があります。 この2つの体内時計にズレが生じると、なんとなく不調が起こってきます。 その典型的な状態が時差ぼけですが、今は日本にいなから時差ぼけ状態の人が急増しているのではないでしょうか。 体内時計の乱れは心と体のパフォーマンスを低下さたり、さまざまな病気とのかかわりが指摘されています。 高血圧、心筋梗塞、脳卒中、メタボリックシンドローム、糖尿病、不妊、がん、睡眠障害、うつなどです。 本書は、体内時計の仕組みから、なんとなく不調を解決するヒントまで紹介していきたいといいます。はじめに/序章 「なんとなく不調」には体内時計が関係していた!?/1章 脳と細胞にある「2つの体内時計」の秘密/2章 体のなかで体内時計ができる仕組み/3章 体内時計を整える生活習慣のヒント/4章 ベストコンディションをつくる24時間の過ごし方/おわりに/参考文献 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]「2つの体内時計」の秘密 「なんとなく不調」から抜け出す!/八木田和弘【3000円以上送料無料】睡眠リズムと体内時計のはなし (Science and technology) [ 山元大輔 ]
2024.07.20
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三浦義村は桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄の次男として生まれたとされますがるが、正確な生年は不明です。 義澄は桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、鎌倉幕府の御家人でした。 ”三浦義村 ”(2023年10月 吉川弘文館刊 高橋 秀樹著)を読みました。 ごく最近まで未知の存在だった、鎌倉時代初期の相模国の武将で幕府の有力御家人の三浦義村の生涯を紹介しています。 1184年8月に、源範頼を総大将とする平家追討軍に父・義澄とともに従軍しました。 これが史料で確認できる初めての従軍です。 この追討軍の参加資格は17歳以上でした。 著者は、義村がこれ以前に従軍した形跡がないことから、この年に17歳になった可能性が高いとしています。 このことから、生年は1168年ころと推定されます。 義村は、父義澄とともに平家追討や奥州合戦を転戦しました。 家督を継ぐと、鎌倉での政争や将軍実朝暗殺、承久の乱を北条氏と共に乗り越えました。 北条義時・政子の死後、執権泰時と協調して新体制を支えました。 高橋秀樹さんは1964年神奈川県生まれ、1989年に学習院大学大学院人文科学研究科修士課程を修了しました。 1996年に同博士課程を修了し、「日本中世の家と親族」で博士(史学)となりました。 1992年に日本学術振興会特別研究員、1994年に放送大学非常勤講師となりました。 1995年に国立歴史民俗博物館非常勤研究員、1998年に東京大学史料編纂所研究員となりました。 2018年から、國學院大學文学部史学科教授を務めています。 三浦義村は幼名を平六といい、「吾妻鏡」の1182年8月11日条に初めて登場しています。 また、源頼朝正室の安産祈願のため伊豆・箱根の寺社に遣わされた使者の中に、平六の名前が見えます。 1190年の源頼朝上洛時に右兵衛尉に任じられ、のちに左衛門尉となりました。 1199年に頼朝が亡くなると、幕府内部における権力闘争が続発しました。 梶原景時は、侍所所司として御家人たちの行動に目を光らせる立場にありました。 景時は、結城朝光の御所での発言を謀叛の証拠であると将軍頼家に讒言しました。 窮地に立たされた朝光は義村に相談しました。 義村は和田義盛、安達盛長と相談の上、景時を排除することを決断しました。 有力御家人66人が連署した景時糾弾訴状を、頼家の側近・大江広元に提出しました。 景時を惜しむ広元は当初は躊躇しましたが、最終的には頼家に言上しました。 これにより、景時は失脚して所領の相模国一ノ宮の館に退きました。 翌正月、景時は一族を率いて上洛の途に就き、義村は幕府の命で追討軍の1人として派遣されました。 追討軍が追いつく前に、景時一族は駿河国清見関にて在地の武士たちと戦闘になりました。 嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時も付近の西奈の山上にて自害しました。 1205年に北条時政の後妻・牧の方の娘婿・平賀朝雅の讒訴により、畠山重忠と嫡子・重保に謀叛の疑いが浮上しました。 時政は2人を成敗することを決断し、義村の命を受けた佐久間太郎らが重保を由比ヶ浜で取り囲み殺害しました。 さらに、武蔵から手勢を引き連れて鎌倉に向かう重忠の討伐軍が編成されると、義村も参加しました。 両軍は二俣川で合戦に及び、激戦が繰り広げられたのち、重忠は矢に討たれて討死しました。 しかし事件後、謀反の企てはでっち上げであったことが判明しました。 稲毛重成父子、榛谷重朝父子は重忠を陥れた首謀者として、義村らによって誅殺されました。 1213年2月に、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見しました。 義村の従兄弟で侍所別当であった和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が関係者として捕縛されました。 その後、息子2人は配慮されて赦免になりましたが、義盛は一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請しました。 しかし、胤長は首謀者格と同等として許されず流罪となりました。 北条氏と和田氏の関係は悪化し、義盛は親族の三浦一族など多数の味方を得て打倒北条を決起しました。 しかし、義村は弟の胤義と相談して直前で裏切り義時に義盛の挙兵を告げ、御所の護衛に付きました。 戦いは義時が将軍源実朝を擁して多数の御家人を集め、義盛を破り和田氏は滅亡しました。 1219年1月に、将軍実朝が兄の2代将軍源頼家の子の公暁に暗殺されました。 公暁は義村に書状を持った使いを出し、義村は偽って討手を差し向けました。 公暁が義村宅に行こうと裏山に登ったところで、討手に遭遇しました。 激しく戦って振り払い、義村宅の塀を乗り越えようとしたところを殺害されました。 1221年の承久の乱では、検非違使として在京していた弟の胤義から決起をうながす書状を受けとりました。 しかし、義村は使者を追い返した上で義時の元に向かい、事を義時に通報するという行動に出ました。 その後、軍議を経て出戦と決まると、義村は東海道方面軍の大将軍の一人として行動しました。 東海道を上り、東寺で胤義と相対しました。 胤義は兄に熱く呼びかけましたが、義村は取り合わず、その場を立ち去りました。 その後、胤義は子の胤連、兼義とともに現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社で自害しました。 乱終息後の戦後処理でも義村は活躍し、同年7月、紀伊国守護に任ぜられたと推測されます。 このとき、義村自身は紀伊に入らず、孫の三浦氏村が代わりに入国しました。 そして、上皇方の所領の没収、新補地頭の設置などにあたりました。 1224年に北条義時が病死すると、後家の伊賀の方が自分の実子の北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとした事件が起こりました。 政村の烏帽子親であった義村はこの陰謀に関わり、北条政子が単身で義村宅へ問いただしに訪れたことにより翻意しました。 釈明して二心がないことを確認し、事件は伊賀の方一族の追放のみで収拾しました。 1225年夏には、大江広元・北条政子が相次いで死去しました。 同年12月に執権北条泰時の下、合議制の政治を行うための評定衆が設置され、義村は宿老としてこれに就任しました。 幕府内では北条氏に次ぐ地位となり、1232年の御成敗式目の制定にも署名しました。 4代将軍・藤原頼経は、将軍宣下ののち、三浦一族と接近するようになり、義村は子の泰村と共に近しく仕えました。 その後、幕府では駿河守、相模、河内、紀伊、土佐の守護、評定衆などを歴任しました。 このように大活躍した義村であったが、ほとんどの日本人にとって、ごく最近まで三浦義村は未知の存在でした。 理由は、義村の名は中学校の歴史教科書や高等学校の日本史教科書に登場しなかったからです。 子の泰村は、1247年におきた宝治合戦で滅ぼされた存在としてほとんどの高校教科書に書かれています。 父の義澄も、いわゆる「士三人の合議制」の一人として名を載せている教科書があります。 しかし、北条氏に討たれなかったためか、義村の名を記す教科書はありません。 滅ぼされた、梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛、二浦泰村は敗者として記述されています。 北条氏の協力者あるいはライバルとみられている義村には、出る幕がありませんでした。 義村の態度は常に北条氏に利益を与え、それによって自らの存在意義を高めました。 一方で、他氏に対しては不遜な行動もあったといわれ、義村に対する無関心、低評価の流れがありました。 このような中で、初めて義村に強い関心を寄せたのが作家の永井路子氏でしょう。 1964年の直木賞受賞作「炎環」で、源実朝暗殺事件の黒幕として義村を描きました。 1978年の「執念の家譜」で、その一族の歴史をたどりました。 1999年にはじまった横須賀市史編纂事業による約3300点の史料収集と分析によって、三浦氏研究は一変しました。 2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、三浦義村には準主役の役割が与えられました。 これによってそれまでほとんど知られていなかった義村が広く認知されるところとなりました。 しかし、そこで描かれた人物像はあくまで脚本家と演出家・演者が作り上げたものです。 内容は、現在の研究者が史料の分析から導き出した義村像とはかなり異なっています。 本書の主眼は三浦義村の人生をたどることにあるといいます。 まず、義村の活動の前提となる平安時代末期から頼朝の挙兵前後に至る三浦一族の歴史を略述しています。 次に、義村の子や所領などについて、各人・各地ごとにまとめて記しています。 また、義村を語る上で欠かせない文献史料、文化財、史蹟について解説しています。第1 義村の誕生/第2 若き日の義村/第3 宿老への道/第4 義村の八難六奇/第5 最期の輝き/第6 義村の妻子と所領・邸宅・所職、関係文化財 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]三浦義村(321) (人物叢書) [ 高橋 秀樹 ]英傑大戦 第3弾 EX074 三浦義村
2024.07.06
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喜多川歌麿は姓は北川、後に喜多川と改め、幼名は市太郎、のちに勇助または勇記と言いました。 ”もっと知りたい 喜多川歌麿 生涯と作品”(2024年4月 東京美術刊 田辺 昌子著)を読みました。 総数約1900点という膨大な多色刷木版画の錦絵を残した、喜多川歌麿の画歴と作品を紹介しつつ、絵師の魅力のエッセンスをしっかり伝えようとしています。 歌麿は生年、出生地、出身地などは不明で、生年は没年数え54歳からの逆算で1753年とされることが多いです。 出身は川越説と江戸市中の2説が有力ですが、他にも京、大坂、近江国、下野国などの説もあります。 名は信美、初めの号は豊章といい、天明初年頃から歌麻呂、哥麿と号しました。 生前は「うたまる」と呼ばれましたが、19世紀過ぎから「うたまろ」と呼ばれるようになったといいます。 1782年刊行の歳旦帖「松の旦」には、鳥山豊章、鳥豊章の落款例があります。 俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆綾丸ふでのあやまる、紫屋と号し吉原連に属しました。 1790年に絵本の仕事をやめ大首絵を発表して、一躍人気絵師となりました。 遊女から市井の娘まで、歌麿が美人を描けば天下一品です。 名品の数々が、蔦屋重三郎をはじめとした版元と策をめぐらして生み出されました。 田辺昌子さんは1963年東京都生まれ、学習院大学人文科学研究科博士前期課程を修了しました。 永青文庫学芸員を経て千葉市美術館の開設に準備室段階から関わり、現在副館長を務めています。 鈴木春信を中心に浮世絵の研究に携わっています。 2008年に第1回國華賞展覧会図録賞共同受賞、2018年に第34回國華賞を受賞しました。 喜多川歌麿は鳥山石燕のもとで学び、初作は1770年の北川豊章名義の絵入俳書の挿絵1点です。 歌麿名義では、1783年の「青楼仁和嘉女芸者部」「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続」が最初期と言われます。 1788年から寛政年間初期にかけて、蔦屋重三郎を版元として、狂歌絵本などを版行しました。 当時流行していた狂歌に花鳥画を合わせた「百千鳥」「画本虫撰」「汐干のつと」などです。 1790年から描き始めた「婦女人相十品」「婦人相学十躰」などの美人大首絵で人気を博しました。 「当時全盛美人揃」「娘日時計」「歌撰恋之部」「北国五色墨」などの、大首美人画の優作を刊行しました。 一方、最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとしました。 また、蔦重と連携して彫摺法を用い、肌や衣裳の質感や量感を工夫しました。 やがて「正銘歌麿」という落款をするほど、美人画の歌麿時代を現出しました。 さらに、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられます。 歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘などを対象としました。 歌麿が取り上げることによって、モデルの名はたちまち江戸中に広まりました。 これに対し、江戸幕府は世を乱すものとして度々制限を加えました。 歌麿は判じ絵などで対抗し、美人画を描き続けました。 1804年5月に「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたことから、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受けました。 当時は、織豊時代以降の人物を扱うことが禁じられていました。 これ以降、歌麿は病気になったとされ、2年後の1806年に死去しました。 墓所は世田谷区烏山の専光寺で、戒名は秋円了教信士です。 浮世絵師といえば、最初に思い浮かべれるのが喜多川歌麿です。 次に思い浮かぶのは、切手になった作品、婦人相学十鉢のポヘンを吹く娘あたりでしょうか。 歌麿は、現在確認されている数でいえば、総数約1900点という膨大な錦絵を残しています。 その作品をすべて網羅して語ることは難しいものの、本書ではその画歴と作品を早回しで紹介しつつ、この絵師の魅力のエッセンスをしっかり伝えたいといいます。 これだけ有名であっても、歌麿のプライベートな情報には語るべきことがほとんどないそうです。 確実なのは亡くなった文化3年=1806年という年です。 生年については一説に宝暦3年=1753年とされるものの、当時の記録によるものではなく詳細は不明とされています。 少年時代に町狩野の絵師である鳥山石燕の門人となり、錦絵出版界に入りました。 当初は、一般的な新人浮世絵師と同様に、細判の役者絵など安価な商品をまかされるだけでした。 それが版元の蔦屋重三郎に見い出されて、そのプロデュースによって飛躍的な変貌を見せて優れた美人画を出すようになりました。 蔦屋は、吉原の妓楼と遊女の案内書の役割をした「吉原細見」を出していました。 1782年ころ、蔦屋は出版界のメインストリートの日本橋通油町に出店しました。 先に活躍していた鳥居清長の向こうを張るように、大判錦絵、しかもその続絵の美人画を歌麿に制作させました。 そして、天明(1781~1789)後期から寛政(1789~1801)初期に、画期的な彩色摺絵大狂歌本7種を手がけました。 そこでは、美人画家という印象をくつがえすほどの、精緻で写実的な描写で生き物や植物を表わしました。 そして美入画を代表するのが、寛政(1792~1793)頃の錦絵で、顔を大きくとらえた大首絵です。 その題材には、当時美人で評判の市井の娘たちを多く描き、大衆の注目を一気に集めました。 同様に「観相物」と呼ばれるジャンルを打ち立て、その女性の性格や心情に思い至らせました。 しかしスター絵師であるがゆえに寛政の改革で、出版界でも一番に狙われたターゲットでした。 一枚絵に評判娘の名を入れること、それを絵で表すこと、大言絵までも禁じられました。 ついには文化元年=1804年に、罰を受けることになりました。 喜多川歌麿という希代の浮世絵師の画業を振り返ってみると、主に2つの事象が、その作品内容を大きく左右したことに気がつくといいます。 ひとつは蔦屋重三郎との出会いとその活躍、加えてほかの版元の参入も含めた、版元との関わりです。 そしてもうひとつは、寛政の改革による、歌麿をはじめとする錦絵出版界への厳しい統制です。 蔦屋という版元との出会いによって、なぜ歌麿が突然のように素晴らしい美人画を描くことができるようになるのでしょうか。 美人画家だと思われていた歌麿が、なぜ急に精緻な自然観察にもとづく写実的な絵を描けたのでしょうか。 寛政の改革によって、大衆が好む表現というものも、大きく軌道修正せざるを得ない事態がくり返されました。 最終的には処罰され、晩年は力の入った錦絵が見られなくなりました。 それでも筆を折らなかったのはなぜでしょうか。 最後まで歌麿が錦絵界から完全に離れた様子はありません。 歌麿にとって、錦絵に大衆に支持される絵を描くことは、挑戦的な喜びであったようにも思えます。 さらに、大衆を相手にしたビジネスで勝負して、短期間に次々と作品を出しました。 歌麿は、そのようななかで感じる高揚感を、新興の版元とともに得ていたのではないでしょうか。 才気あふれるこの絵師の大量の作品を前にして、まだまだ語りつくせぬドラマがあることを予感するといいます。はじめに/序章 浮世絵師・歌麿の誕生まで/第1章 新興版元 蔦屋との出会い(歌麿の変貌;彩色摺絵入狂歌本の世界)/第2章 美人画革命 大首絵の成功(美人大首絵と寛政三美人;青楼の画家 歌麿)/第3章 蔦屋を追う出版界の動向(蔦屋に対抗する版元たち;日常を活写する眼 蔦屋亡き後の歌麿)/第4章 禁制下の動向(歌麿と寛政の改革;肉筆画の世界)/特集 生涯をかけた大作 雪月花/おわりに[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]もっと知りたい喜多川歌麿 [ 田辺昌子 ]喜多川歌麿 (新潮日本美術文庫) [ 喜多川歌麿 ]
2024.06.22
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日蓮は1222年生まれ、12歳で千葉県の清澄寺で修行を始め16歳で出家して僧侶になりました。 僧侶として出家した日蓮は、仏教界の既成概念を覆すような新しい教えを展開しました。 ”日蓮 「闘う仏教者」の実像”(2023年11月 中央公論新社刊 松尾 剛次著)を読みました。 天台宗ほか諸宗を学び、日蓮宗を開いて法華経の信仰を説き、激動の鎌倉時代を生きた日蓮の生涯を紹介しています。 日本の主要な仏教の流派を研究して、法華経が唯一の真の教義であることを宣言しました。 1253年に南無妙法蓮華経、つまり法華経に帰依するという真言を発表しました。 最初は拒否されましたが、教えは今日の日本の仏教の支配的な伝統の一つを形成しています。 身延山久遠寺の建物や記念碑の多くは、日蓮とその教えに捧げられています。 松尾剛次さんは1954年長崎県生まれ、東京大学文学部卒業後、1981年に同大学院人文科学研究科博士課程を中退しました。 同年山形大学講師となり、助教授を経て教授に就任しました。 1994年に東京大学文学博士となり、山形大学都市・地域学研究所所長を兼務しました。 2019年3月に山形大学を退官し、東京大学特任教授、日本仏教綜合研究学会会長などを歴任しました。 現在、山形大学名誉教授で、専門は日本中世史、宗教社会学です。 官僧・遁世僧研究を基点に、中世日本宗教史の見直しを行なっています。 日蓮は1222年に安房国長狭郡東条郷片海、現在の千葉県鴨川市小湊で生まれました。 幼名は善日麿、父親は三国大夫の貫名次郎重忠、母親は梅菊女だという伝承があります。 1233年に清澄寺の道善房に入門し、1238年に出家し是生房蓮長の名を与えられました。 1245年に比叡山・定光院に住し、1246年に三井寺へ、1248年に薬師寺、仁和寺へ、1248年に高野山・五坊寂静院へ、1250年に天王寺、東寺へ遊学しました。 1253年に清澄寺に帰山し、4月28日の朝に日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱えたといいます。 この日の正午に清澄寺持仏堂で初説法を行い、名を日蓮と改めました。 中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受け、清澄寺を退出しました。 1257年に富士山興法寺大鏡坊に妙法蓮華経を奉納し、1258年に実相寺にて一切経を閲読しました。 1260年に立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送りました。 建白の40日後、他宗の僧らにより松葉ヶ谷の草庵が襲撃されましたが難を逃れました。 その後、ふたたび布教を行いましたが、1261年に伊豆国伊東、現在の静岡県伊東市へ配流されました。 1264年に安房国小松原、現在の鴨川市で念仏者の地頭・東条景信に襲われ、左腕と額を負傷し門下の工藤吉隆と鏡忍房を失いました。 1268年に蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となりました。 日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫りました。 1269年に富士山に経塚を築きました。 1271年に良観・念阿弥陀仏等から連名で幕府に日蓮を訴えられました。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場で処刑されかけましたが免れました。 その後、評定の結果佐渡へ流罪となりました。 流罪中の3年間に「開目抄」「観心本尊抄」などを著述し、法華曼荼羅を完成させました。 1274年春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれました。 「よも今年はすごし候はじ」と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁を行いました。 その後、身延一帯の地頭である南部実長の招きに応じて、身延へ入りました。 1274年に予言してから5か月後に蒙古が襲来し、1281年に蒙古軍の再襲来がありました。 1282年に病を得て、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため、身延を下山しました。 10日後、武蔵国池上宗仲邸、現在の本行寺に到着し、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定めました。 10月13日に池上宗仲邸、現在の大本山池上本門寺にて享年61歳で入滅しました。 日蓮の61年にわたる人生は波乱万丈で起伏に富み、魅力に満ちています。 日蓮が活躍した時代は、地震・疫病などの天変地異が頻発し、さらに蒙古襲来という未曽有の危機に見舞われました。 こうした状況は末法に入って200余年後の状況と認識し、正法である法華経を広める活動を進めていきました。 しかし、その活動は激しい他宗批判を伴い、殉教の覚悟をもって行われ、伊豆、佐渡へ配流されることとなりました。 日蓮が生きた時代は法難もあって、さほど多くの信者を獲得できたとはいえませんでした。 しかし、弟子たちの布教活動によって15世紀には京都の町衆に浸透していきました。 江戸時代初期の芸術家の、木阿弥光悦や俵屋宗達らも信者でした。 近代において、国柱会の田中智学や顕本法華宗の本多日生が提唱した日蓮主義は、日本が中国侵略などを進めるイデオロギーの一つとなりました。 日蓮主義は、日蓮の教えを信仰のレペルにとどめることなく、政治・社会・文化運動にまで拡張した点に大きな特徴かあります。 日蓮主義は法華経にもとづいて、天皇を中心とする日本統合と世界統一の実現により、理想世界の達成をめざした活動です。 日蓮主義は大きな影響力をもち、宮沢賢治、石原莞爾、井上日召らも国柱会の会員であり、田中智学の信奉者でした。 また、霊友会、立正佼成会、創価学会といった現在において大きな勢力を有する新宗教の教団が日蓮系です。 とくに、創価学会は現在の新宗教教団の中で最大の信者数を誇り、政権与党公明党を支える在家教団です。 日蓮の宗教は、中世以来、近現代に至るまで人々に生きる力やモデルを与えてきました。 本書では、そうした人々の心を捉え、人々に生きる力を与えてきた日蓮とは何かを考察していくとのことです。 本書は、思想史的な成果に学びつつも、歴史学的な方法論を駆使して、日蓮の実像に迫ろうとしています。 日蓮が生きた中世の宗教状況を明らかにしつつ、その中で日蓮の言説を見直したいといいます。 日蓮がライバル視し、激しく糾弾した鎌倉極楽寺の僧忍性との関わりにも注目しながら、日蓮の実像に迫りたいということです。第1章 立教開宗へ(安房に生まれる/貫名氏の出身 ほか)/第2章 立正安国への思いと挫折(鎌倉での日蓮/『守護国家論』 ほか)/第3章 蒙古襲来と他宗批判(念仏系寺院の展開と法難/伊豆配流 ほか)/第4章 佐渡への配流(文永八年の法難/教団の離散と改宗者の出現 ほか)/第5章 身延山の暮らし(日蓮赦免/身延入山 ほか)[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]日蓮 「闘う仏教者」の実像 (中公新書 2779) [ 松尾剛次 ]日蓮 (山岡荘八歴史文庫 山岡荘八歴史文庫 4) [ 山岡 荘八 ]
2024.06.09
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熊谷次郎直実は1141生まれの平安末期から鎌倉時代初期、武蔵国熊谷郷、現・熊谷市で活躍した武将です。 下級武士の家に生まれ、治承・寿永の乱で獅子奮迅の活躍をしました。 ”熊谷直実 浄土にも剛の者とや沙汰すらん”(2023年12月 ミネルヴァ書房刊 佐伯 真一著)を読みました。 一ノ谷合戦でついに平敦盛を討ちとるに至った、熊谷直実の生涯を紹介しています。 父親の直貞は熊谷郷の領主となって熊谷の姓を名乗り、当初は平家に仕えていました。 石橋山の戦い以降は源頼朝の御家人となり、数々の戦さで名を上げて鎌倉幕府成立に貢献しました。 熊谷直実は、一ノ谷の戦いで平家の若武者の平敦盛を打ち取りました。 しかし、息子ほどの年齢の若者だったため、戦の無情さや世の無常観を感じて心に深い傷を負いました。 もともと気性が荒く直情型で反骨精神が強く、源頼朝の命令を拒否したため領地を没収されたこともあります。 挙句に領地問題の訴訟に際して頼朝の目前で髪を落とし、出家してしまいました。 その後、法然に弟子入りして蓮生と名乗り、京都・東山で修行を重ねました。 そして熱心な念仏信者となり、各地に寺院を開基しました。 佐伯真一さんは1953年千葉県生まれ、1976年に同志社大学文学部文化学科国文学専攻を卒業しました。 1977年に早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程を中退し、東京大学大学院人文科学研究科国語国文学専攻修士課程に入学しました。 1979年に同修士課程を修了し、1982年に東京大学大学院文学研究科博士課程を単位取得退学しました。 1982年に帝塚山学院大学文学部日本文学科専任講師、1985年に同助教授、1990年に国文学研究資料館整理閲覧部参考室助教授となりました。 1995年に青山学院大学文学部日本文学科助教授、1999年に同教授となり、2022年に定年退職しました。 1986年に第12回財団法人日本古典文学会賞を共同受賞し、2005年に第3回角川財団学芸賞を受賞しました。 熊谷直実は現代でもなかなか有名な人物です。 熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫・維時の6代の孫を称しますが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、明らかではありません。 直実の祖父・平盛方が勅勘を受けたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗りました。 熊谷直実は幼名の弓矢丸という名のとおり、弓の名手でした。 幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われました。 1156年7月の保元の乱で源義朝指揮下で戦い、1159年12月の平治の乱で源義平の指揮下で働きました。 その後、久下直光の代理人として京都に上りましたが、一人前として扱われないことに不満を持ち、自立を決意して平知盛に仕えました。 源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、1180年の石橋山の戦いまでは平家側に属していました。 以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵されました。 1184年2月の一ノ谷の戦いに参陣し、源義経の奇襲部隊に所属しました。 鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入しました。 しかし、平家の武者に囲まれて、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけました。 この戦いで直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止めて一騎討ちを挑みました。 直実が若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年でした。 直実は死後のご供養をいたしましょうと言って、泣く泣くその首を斬りました。 これ以後直実には深く思うところがあり、出家への思いはいっそう強くなったといいます。 敦盛を討った直実は出家の方法を知らず模索していました。 法然との面談を法然の弟子・聖覚に求めて、いきなり刀を研ぎ始めました。 驚いた聖覚が法然に取り次ぐと、直実は真剣にたずねたといいます。 1193年頃、法然の弟子となり法力房 蓮生と称しました。 直実の出身地である熊谷市に行ってみると、鎧兜に身を固め馬にまたがった勇ましい武士の像があるそうです。 台座には「熊谷の花も実もある武士道の香りや高し須磨の浦風」の歌が刻まれています。 インターネットで検索すれば、熊谷市観光局が熊谷の偉人として直実を紹介しています。 直実は、郷土の英雄として地域のアイデンティティの確立に重要な役割を果たしているようです。 しかし、熊谷直実のイメージとして勇ましい武士の像を思い浮かべるのは、実は必ずしも伝統的なあり方ではありません。 今から120年あまり以前に新渡戸稲造が「武士道」を著した頃までは、直実は蓮生でもあったが故に有名だったのではないでしょうか。 蓮生の足跡は今も各地に残っていて、直実の屋敷跡には蓮生山熊谷寺が広い寺域を占めています。 また、蓮生は法然のもとで浄土をめざして修行しましたので、その跡を残す寺は京都にも多く、代表的な存在は金戒光明寺でしょう。 寺内の塔頭の一つである蓮池院は、自作と伝えられる蓮生像や敦盛像など、多くの寺宝を蔵しています。 また、京都市の西南、長岡京市にある西山浄土宗総本蓮生は、この地で結んだ草庵、念仏三昧院をもととしています。 蓮生はこの大寺院の開基であり、現在も御影堂の中心に法然像があり、左側には証空と蓮生の像が並んでいます。 京都における蓮生ゆかりの寺院としては、熊谷山法然寺を挙げることができます。 蓮生開基と伝えられ、版本『熊谷蓮生一代記』や巻子本『蓮生法師伝』、掛幅絵『蓮生上人一代略画伝』を生んだ寺でした。 熊谷直実ゆかりの寺は他にも全国各地にあり、たとえば藤枝市の熊谷山蓮生寺はその代表例です。 直実=蓮生は、武士としてだけでなく、浄土信仰の僧としても、近年まで非常に有名な人物でした。 それは、直実が敦盛を討って発心したという物語が、多くの人々の心に広く強く訴えかけたからです。 下級武士として、生活のために血眼になって功名をめざしていた直実が、自分の息子と同年配の美少年を殺害するという行為の非道さを痛感しました。 そのことにより、武士という生き方をやめて信仰の道へと転じたという物語が、無数の人々の共感を呼びました。 直実が有名になったのは、なにしろ、武士であることをやめたからであるといってもよいでしょう。 本書は、この物語については、その史実性よりも、なぜこの物語が非常に多くの人々の心に訴えかけたのかという精神史的な問題を、最大の問いとしたいといいます。 それは、過去の人物の考証を越えて、現代に生きる私たちにとって重要な問題を提起してくれるからです。 実際の直実=蓮生は、僧となってからも、武士らしさを十分に保った人物であったようです。 武士としては剛直に勲功をめざし、そして僧としてはひたむきに浄土をめざしました。 このような直実=蓮生という人物の実像に迫ることもまた、本書の重要な目的です。 第一章では熊谷直実の生い立ちと基本的な資料の扱い方について記述しています。 第二章では『平家物語』に描かれる熊谷・敦盛の物語について述べています。 第三章では合戦後の熊谷直実―蓮生の出家と往生について記載しています。 第四章では直実の死後、日本人がこの人物をどのように語り継いでいったのか、その変化に富んだあり方を見ています。 そして最後に、現代に生きる私たちが熊谷直実から何を学ぶことができるのかを考えて、まとめとしたいといいます。序章 熊谷直実とは何だったのか/第1章 生い立ちと生き方/第2章 敦盛を討つ/第3章 出家と往生/第4章 熊谷直実伝の展開/終章 熊谷直実から何を学ぶか[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]熊谷直実 浄土にも剛の者とや沙汰すらん (ミネルヴァ日本評伝選) [ 佐伯 真一 ]【中古】 熊谷直実 中世武士の生き方 歴史文化ライブラリー384/高橋修(著者)
2024.05.25
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川路利良は1834年に薩摩藩与力の長男として、現在の鹿児島県鹿児島市皆与志町比志島地区生まれました。 ”川路利良 日本警察をつくった明治の巨人”(2024年1月 講談社刊 畑中 章宏著)を読みました。 薩摩藩の下級武士の家に生まれ幕末の激動の時代を生き国家と警察組織に一身を捧げ初代大警視となった、川路利良の生涯を描いています。 川路家は身分の低い準士分でしたが、16世紀に横川城主だった北原伊勢介の末裔とされます。 北原氏は肝付氏庶流で横川城落城後に北原伊勢介の一族は蒲生に逃れ、川路氏と名乗りを変えたといいます。 重野安繹に漢学を、坂口源七兵衛に真影流剣術を学びました。 島津斉彬のお伴として初めて江戸に行き、薩摩と江戸をつなぐ斥候的役割の飛脚として活動しました。 大久保利通の腹心の部下で、戊辰戦争に参加しました。 1872年にイギリス・フランスに渡り警察制度を研究し、帰国後に警察を司法省より内務省に移管しました。 1974年に警視庁が創設された際に大警視に就任し、治安維持に尽くしました。 西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、別働第三旅団を率いて西郷軍に大きな打撃を与えました。 欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した、日本の警察の創設者であり日本警察の父とも言われています。 加来耕三さんは1958年大阪市生まれ、1981年に奈良大学文学部史学科を卒業後、同大学文学部研究員として2年間勤務しました。 1983年より執筆活動を始め、歴史的に正しく評価されていない人物や組織の復権をテーマに著作活動などを行っています。 講演活動やテレビ番組、ラジオ番組などの出演も数多くこなし、テレビ番組では監修、時代考証、構成も手掛けました。 観光大使としては、2018年に港区観光大使に、2019年に薩摩大使に、2019年に柳川市観光大使に就任しています。 このほか、内外情勢調査会、地方行財政調査会、外交知識普及会、政経懇話会、中小企業大学校などの講師を務めました。 1874年に創設された東京警視庁が、2024年に150年目となりました。 東京警視庁は発足3年で内務省警視局に吸収されましたが、今日の警視庁の第一歩は東京警視庁にあります。 これはそれまでの日本になかった、近代的な警察制度です。 ほぼ独力で東京警視庁を創り、今日なお日本警察の父と呼ばれるのが川路利良の存在です。 本書では、薩摩藩下層から出て一代で藩士となり、ついに東京警視庁を創った川路の生涯を紹介しています。 1830~1844年の天保年間は、幕末の入口に相当する時代でした。 幕藩体制は弛緩し、事実上、経済はすでに破綻していました。 夢も希望も抱きにくいこの時代に、遅れていた日本に明治の時代を築く人々が輩出しました。 1840年には隣国の清がイギリスとの阿片戦争を本格化させ、清がイギリスに敗れました。 南京条約を結ばされ、広州・福川・厦門・寧波・上海を開港し、香港を割譲させられました。 その衝撃は大きく、日本の心ある人々は次は日本が狙われると怖気をふるいました。 大半の日本人は悲嘆に暮れるか観するかで、何もしない日常を送っていました。 その中にあって、わずかな人々だけが自国独立の尊厳を守るべく立ち上がりました。 1864年に禁門の変で、長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功を挙げました。 1867年に藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学びました。 1868年に戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いに、薩摩官軍大隊長として出征しました。 上野戦争では、彰義隊潰走の糸口をつくりました。 東北に転戦し磐城浅川の戦いで敵弾により負傷しましたが、傷が癒えると会津戦争に参加しました。 1869年に戦功により、藩の兵器奉行に昇進しました。 1871年に西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事・典事に累進しました。 1872年に邏卒総長に就任し、司法省の西欧視察団の一員として欧州各国の警察を視察しました。 帰国後、警察制度の改革を建議し、パリ警視庁のポリスを模範とする警察機構を日本に築こうとしました。 ポリスとは終日、市中を巡回したり毅然と街頭に立ったりして、国民の生命・財産を守る人々のことです。 しかし、国民はポリス=警察官をこれまでに見たことがありませんでした。 徳川時代の与力・同心・岡っ引などは今日のような民主的なものではありませんでした。 まったく知らないものを認知させるには、多くの労力が必要でした。 新生日本では国民はポリスは保護者でなければならないと、川路は主張しました。 そのため、警察官一人ひとりに課せられた責務は、重く厳しいものでした。 1874年に警視庁創設に伴い、満40歳で初代大警視に就任しました。 執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回ったといいます。 1873年に政変で西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くがこれに従いました。 しかし、川路は忍びないが大義の前には私情を捨てて、あくまで警察に献身すると表明しました。 大久保利通から厚い信任を受け、不平士族の喰違の変や佐賀の乱では密偵を用いて動向を探りました。 薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を、帰郷の名目で鹿児島県に送り込みました。 川路は不平士族の間では大久保と共に、憎悪の対象とされました。 1877年の西南戦争勃発後、川路は陸軍少将を兼任し、別働第三旅団の長として九州を転戦しました。 激戦となった田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退けました。 5月に大口攻略戦に参加した後、6月に宮之城で激戦の末、西郷軍を退けて進軍しました。 その後川路は旅団長を免じられ東京へ戻り、旅団長は大山巌が引き継ぎました。 1879年1月に再び欧州の警察を視察しましたが、船中で病を得てパリに到着しました。 当日はパレ・ロワイヤルを随員と共に遊歩しましたが、宿舎に戻ったあとは病床に臥しました。 咳や痰、時に吐血の症状も見られ現地の医師の治療を受けましたが、病状は良くなりませんでした。 同年8月に郵船に搭乗して10月に帰国しましたが、病状は悪化し享年46歳で死去しました。 川路は武家の末端に生まれながら、幕末の動乱で名を上げ、明治日本の新国家樹立に参画しました。 自らの命を賭して警察機構を作り上げ、大警視まで上り詰めた川路の生涯は大いに参考になるといいます。序章 幕末の動乱(与力・川路正之進/「貧乏に負くるこっが恥でごわす」 ほか)/第1章 新国家の樹立をめざして(薩英戦争で得たもの/文久の政変 ほか)/第2章 戦火の中の新政府(比志島抜刀隊の誕生/大政奉還から王政復古の大号令へ ほか)/第3章 東京警視庁の誕生(官軍、方向を転ず/“川路の睾丸”の由来 ほか)/第4章 “大警視”の生と死(相相次ぐ長州人の汚職/征韓論争と川路の立場 ほか) [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]川路利良 日本警察をつくった明治の巨人/加来耕三【1000円以上送料無料】大警視・川路利良 日本の警察を創った男【電子書籍】[ 神川武利 ]
2024.05.11
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佐々木惣一は1878年鳥取県鳥取市生まれ、鳥取県尋常中学校、現、鳥取県立鳥取西高等学校、第四高等学校を経て京都帝国大学法科大学で学びました。 ”佐々木惣一 ”(2024年2月 ミネルヴァ書房刊 伊藤 孝夫著)を読みました。 大正デモクラシーの理論的指導者として活躍し、戦後は憲法改正案の起草にあたった憲法・行政法学者の佐々木惣一の生涯を紹介しています。 1903年に卒業し、直ちに同大学の講師、次いで1906年に助教授、1913年に教授となり、行政法を講じました。 1927年からは、退官した市村光恵に代わって憲法も担当するようになりました。 行政法における師匠は織田萬で、憲法における師匠は井上密です。 1921年以来二回法学部長に挙げられました。 厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、東の美濃部達吉とともに、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍しました。 弟子の大石義雄とともに、憲法学における京都学派を築きました。 1933年に滝川事件に抗議して辞職し、同事件では法学部教授団の抗議運動の中心として活動しました。 1945年には内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、いわゆる佐々木憲法草案を作成しました。 その後、貴族院における日本国憲法の改正審議に参画し、日本国憲法への改正に反対しました。 専門は憲法学・行政法で、学位は法学博士です。 貴族院勅選議員、京都大学名誉教授、立命館大学学長を歴任しました。 京都市名誉市民となり、文化功労者、文化勲章を受章しました。 伊藤孝夫さんは1962年兵庫県生まれ、1985年に京都大学法学部を卒業し、1987年に同大学院法学研究科修士課程を修了しました。 専門は日本法制史で、2001年に京都大学により論文博士を授与されました。 1989年に京都大学法学部助教授、1992年に同大学院法学研究科助教授、1999年に同大学院法学研究科教授となりました。 現在、京都大学 法学研究科 教授を務めています。 佐々木惣一は厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍しました。 1916年に政党政治への不信が強まっていた時代に、「立憲非立憲」の論文を発表しました。 門地や職業に依て限られた範囲の国民を上級国民と名付けて行われた上級国民の意思による政治は、立憲主義ではないとしました。 一般の国民がその意思を政治に反映させて初めて立憲主義が生まれると、立憲主義の価値を説きました。 1940年に、革新的な新体制運動にともなって結成された大政翼賛会には一貫して反対し、自由保守主義を擁護し続けました。 1933年の京大事件により7月に京都帝国大学を免官となり、その9月に17人の教員とともに立命館大学に招聘されました。 京大事件はいわゆる瀧川事件で、瀧川教授の学説を巡り文部省が瀧川教授を罷免することに端を発したものでした。 教授の罷免にとどまらず大学の自治や学問の自由に対する侵害であるとして闘い、免官となりました。 同年12月12日には立命館大学の法律学科部長に、1934年3月9日に学長に就任しました。 1935年には創立35周年記念事業にも取り組みましたが、1936年に1年の任期を残して学長を辞職しました。 当時の天皇機関説問題などを巡る国の動向と、社会の状況によるものといわれます。 そして、1937年からの日華事変の長期化を理由とした、新体制運動の議会否定の思想を批判しました。 近衛文麿は首相として日中戦争を全面化して日独伊三国同盟を結び、国内の戦争体制を整備しました。 ナチス・ドイツに範をとった一党独裁のファシズムは日本の政治的伝統とかけ離れ、帝国憲法の運用に適っておらず、非立憲的であると主張しました。 その後佐々木は近衛の企てた大政翼賛会は違憲だと非難しましたが、太平洋戦争末期には近衛を中心とする反東条内閣、早期和平実現計画の一員に加わりました。 敗戦直後、マッカーサーは近衛に憲法改正を行うよう指示し、近衛が相談相手に佐々木を選びました。 佐々木は大正天皇の即位のときから憲法改正を念願としていましたので、これに応じました。 権力と反権力を象徴するこの二人は敗戦直後、ともに内大臣府御用掛として明治憲法の改正作業を行いました。 佐々木はこの作業を東大や同志社大出身者を交えて行う計画でしたが、実現しませんでした。 内大臣府廃止により憲法改正作業は打切られ、近衛は要綱だけを佐々木は全文を天皇に報告しました。 二人はともに、天皇主権という帝国憲法の国体を維持して、内容を民主主義に改めることを意図しました。 佐々木はGHQの意向を取り入れることを嫌い、天皇に関する第1条から第4条について変更がないなど、近衛案以上に明治憲法の枠内での改正となっています。 注目されるのは、生活権の規定、憲法裁判所の設置、地方自治についての項目が盛り込まれている点です。 近衛が戦争犯罪者に指名されて自殺したあと、佐々木は貴族院議員として主権在民の日本国憲法に反対しました。 一方で、皇室典範を天皇退位を可能にするよう改正せよと主張しました。 しかし新憲法の内容のデモクラシーには賛成で、新憲法が成立すると国民は新憲法を尊重してこれを守るよう説きました。 公法学者としての佐々本の軌跡は、明治憲法の長所と限界とをそのままに反映するものとなったといえるでしょう。 佐々木の生涯は、学問の自由を守るための闘いだったといっても過言ではありません。 本書は佐々木を扱うはじめての評伝として生涯の軌跡を追い、牽引した戦前期公法学の展開をドイツ公法学との関連の下にたどっています。 本書は京都大学名誉教授の松尾尊兌先生が書かれる予定でしたが、先生がお亡くなりになったため執筆担当を引き受けたといいます。第1章 土地の名―鳥取・金沢・京都/第2章 ドイツにて―ハイデルベルク・ベルリン/第3章 立憲非立憲/第4章 重責を担って/第5章 激動の中へ/第6章 戦時下に時を刻む/第7章 新憲法との対話 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]佐々木惣一 論理ノ正確ハ法理探究ノ目標ナリ (ミネルヴァ日本評伝選) [ 伊藤 孝夫 ]立憲非立憲【電子書籍】[ 佐々木惣一 ]
2024.04.20
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高台院は1549年尾張国朝日村、現、愛知県清須市に尾張の人杉原定利の次女として生まれました。 室町時代後期から江戸時代初期に生きた女性で、杉原(木下)家定の実妹です。 ”高台院”(2024年2月 吉川弘文館刊 福田 千鶴著)を読みました。 14歳で豊臣秀吉と結婚して正室となり北政所と称され、秀吉の死後は高台院となった女性の生涯を紹介しています。 織田信秀、織田信長に仕え弓衆となり、木下秀吉の与力とされ浅野長勝の養女となりました。 1561年8月に木下藤吉郎に嫁ぐ際、実母・朝日に身分の差で反対されました。 しかし、兄の家定が自らも秀吉に養子縁組すると諭したため、無事に嫁ぎました。 通説では14歳のときとされ、当時としては珍しい恋愛結婚でした。 結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであったといいます。 子供がありませんでしたので、加藤清正や福島正則などの親類縁者を養子や家臣として養育しました。 1568年頃から数年間は美濃国岐阜に在住し、信長に従って上洛していた秀吉は京で妾を取りました。 1574年に近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ、秀吉の生母・なかとともに転居しました。 この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にありました。 1582年の本能寺の変の際に明智方の阿閉氏が攻めてきましたので、大吉寺に避難しました。 福田千鶴さんは1961年福岡県生まれ、福岡高等学校を経て1985年に九州大学文学部史学科を卒業しました。 1993年に同大学院文学研究科博士課程を中退し国文学研究資料館助手となり、1997年に学位論文により九州大学博士(文学)となりました。 2000年に旧・東京都立大学人文学部助教授、首都大学東京都市教養学部准教授となり、2008年に九州産業大学国際文化学部教授、2014年に九州大学基幹教育院教授となりました。 2019年に第17回「徳川賞」を受賞しました。 1585年に豊臣秀吉が関白となり、秀吉の第一位の妻として北政所と称されました。 天下人の妻として、北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けました。 また、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割を担いました。 1588年5月に後陽成天皇が聚楽第に行幸し、5日後無事に還御しました。 すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位に叙せられました。 従一位叙位記には豊臣吉子と記されていました。 1592年に秀吉から所領を与えられ、平野荘、天王寺、喜連村、中川村など合計1万1石7斗でした。 1593年からの文禄・慶長の役で、秀吉は前線への補給物資輸送の円滑化のため交通整備を行いました。 名護屋から大坂・京の交通に秀吉の朱印状、京都から名護屋の交通に豊臣秀次の朱印状です。 そして、大坂から名護屋の交通に北政所の黒印状を必要とする体制が築かれました。 1598年9月に秀吉が没すると、淀殿と連携して豊臣秀頼の後見にあたりました。 武断派の七将が石田三成を襲撃した時に、徳川家康は北政所の仲裁を受けました。 1599年9月に大坂城を退去し、奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都新城へ移住しました。 関ヶ原の戦い前に、京都新城は櫓や塀を破却するなど縮小されました。 このころの北政所の立場は微妙で、合戦直後に准后・勧修寺晴子の屋敷に駆け込むという事件がありました。 関ヶ原合戦後は京都新城跡の屋敷に住み、豊国神社に参詣するなど秀吉の供養に専心しました。 秀吉から与えられていた1万5,672石余は、合戦後に養老料として徳川家康から安堵されました。 1603年に養母の死と秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に、落飾しました。 朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称しました。 1605年に実母と秀吉の冥福を祈るため、家康の後援のもと京都東山に高台寺を建立しました。 門前に屋敷を構え、大坂の陣では幕府の意向で甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられました。 そして、1615年に大坂の陣により夫・秀吉とともに築いた豊臣家は滅びました。 一方、利房は高台院を足止めした功績により備中国足守藩主に復活しました。 徳川家との関係は良好で、徳川秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催の二条城内能興行が行われました。 公家の一員としての活動も活発で、高台院からたびたび贈り物が御所に届けられました。 1624年10月17日に高台院屋敷にて享年76(77、83の諸説あり)歳で死去しました。 墓所は京都市東山区の高台寺、遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に安置されています。 諱には諸説あり、一般的には「ねね」とされますが、「おね」と呼ばれることが多いです。 木下家譜やその他の文書では、「寧」「寧子」「子為」などと記され、「ねい」説もあります。 しかし、近年、秀吉自身の手紙に「ねね」と記したものが確認されています。 戸籍ができる前の女性の名前は、大名家に生まれた娘でも不明な場合が多いです。 大名家の娘であれば、生まれてから死ぬまで「姫」と呼べば事が足りたからです。 それゆえ、記録に名前が残されることが少なかったのです。 女性の名前が不明の場合に、歴史研究では実家や婚家の氏名を用いる方法を採用します。 高台院の場合は「杉原氏」としたものが多いですが、これは生家の氏名です。 高台院の法号は死後の謐であることが多く、その人物を代表させる名とするには躊躇される場合もあります。 しかし、高台院は朝廷から勅許を得て生前から用いられた号ですので、その点での問題はありません。 とはいえ、秀吉が関白に就いたことで、その本妻の呼び名「北政所」の号で一般には知られています。 ただし、北政所とは平安時代に三位以上の公卿の本妻の呼び名だったものです。 時代が下ると、宣旨をもって特に摂政・関白の本妻に授けられる称号として用いられました。 日本歴史上に北政所と称えられた女性は複数いたため、唯一固有の号ではありません。 北政所といえば秀吉の本妻のことだけを指すと固定的に考えるのは、誤った歴史認識です。 「北政所」として語り継がれた女性の生涯には、思いのほか事実誤認が多いです。 高台院の行動と思われていた事象が、実は秀吉母のことだったり、浅井茶々のことであったします。 そのため、問題提起の意味もあり、書名には北政所を採用しなかったということです。 これは、「糟糠の妻」としての「北政所」像があまりにも大きく描かれがちだったためです。 本書ではいったん「糟糠の妻」のイメージを取り除き、等身大の高台院を描いてみたいといいます。第1 誕生から結婚まで(高台院の本名/誕生をめぐる三説/実家杉原氏とその家族/木下秀吉との婚姻と養家浅野氏)/第2 近江長浜時代(織田信長の教訓状/近江長浜での生活/本能寺の変/山崎城から大坂城へ)/第3 北政所の時代(関白豊臣秀吉の妻/聚楽城と大坂城/小田原の陣/豊臣家の後継者/秀次事件と秀吉の死/寺社の再興)/第4 高台院と豊臣家の存亡(京都新城への移徒/関ヶ原合戦/出家の道/豊臣秀頼との交流/大坂冬の陣・夏の陣)/第5 晩年とその死(豊国社の解体/高台院の経済力/木下家定と浅野長政の死/木下家の人々との交流/古き友との再会と別れ/高台院の最期)[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]高台院(323) (人物叢書 323) [ 福田 千鶴 ]【中古】高台院おね (光文社文庫) 阿井 景子「1000円ポッキリ」「送料無料」「買い回り」
2024.04.13
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レビー小体は異常なたんぱく質が脳の神経細胞内にたまったものです。 主に脳幹に現れるとパーキンソン病になり、大脳皮質にまで広く及ぶとレビー小体型認知症になります。 ”レビー小体型認知症とか何か 患者と医師が語りつくしてわかったこと”(2023年12月 筑摩書房刊 樋口直美/内門大丈著)を読みました。 50歳で若年型レビー小体型認知症と診断された著者の一人とこの病気に精通する医師との共著で、誰もが知っておくべきことを解説しています。 レビー小体が神経細胞を傷つけ壊してしまいますので、結果として認知症になります。 レビー小体が現れる原因は、脳の年齢的な変化と考えられています。 脳の神経細胞が徐々に減っていき、特に記憶に関連した側頭葉と情報処理をする後頭葉が萎縮するため幻視が出やすいと考えられています。 ただし、はっきりした原因は今のところ十分にわかっていません。 わが国のレビー小体型認知症の人は、約60万人以上いると推定されています。 65歳以上の高齢者に多くみられますが、40~50歳代も少なくありません。 幻視や認知機能の変動と並び、初期のうちからパーキンソン症状がよくみられます。 手足が震える、動きが遅くなる、表情が乏しくなる、ボソボソと話す、筋肉・関節が固くなる、姿勢が悪くなる、歩きづらくなる、転倒しやすくなるなど、身体にさまざまな症状が生じます。 樋口直美さんは1962年生まれ、50歳でレビー小体型認知症と診断されました。 41歳でうつ病と誤って診断され、治療で悪化していた6年間がありました。 多様な脳機能障害のほか、幻覚、嗅覚障害、自律神経症状等もありますが、思考力は保たれ執筆活動を続けています。 2015年に”私の脳で起こったこと”をブックマン社から上梓し、日本医学ジャーナリスト協会賞書籍部門優秀賞を受賞しました。 内門大丈さん1970年東京都目黒区生まれ、小学4年生のころ2冊の本に感銘を受け、医者を志すようになったといいます。 1996年に横浜市立大学医学部を卒業し、2004年横浜市立大学大学院博士課程(精神医学専攻)を修了しました。 大学院在学中に東京都精神医学総合研究所で神経病理学の研究を行い、2004年より2年間、アメリカのメイヨークリニックに研究留学しました。 2006年に医療法人積愛会横浜舞岡病院を経て、2008年に横浜南共済病院神経科部長に就任しました。 2011年に湘南いなほクリニック院長を経て、2022年より医療法人社団彰耀会理事長、メモリーケアクリニック湘南院長、横浜市立大学医学部臨床教授を務めています。 認知症専門医で、認知症に関する啓発活動と地域コミュニティの活性化に取り組んでいます。 レビー小体型認知症は、1995年の第1回国際ワークショップで提案された新しい変性性認知症のひとつです。 日本ではアルツハイマー型認知症や脳血管性認知症と並び、三大認知症と呼ばれています。 進行性の認知機能障害に加えて、幻視症状、レム睡眠行動障害とパーキンソン症候群を特徴とする変性性認知症です。 パーキンソン病と基本的には同じ疾患であり、運動症状が主であればパーキンソン病と診断され、認知症症状が主として出現すればレビー小体型認知症と診断されます。 原因が基本的に同一であるため両者を併せもつ症例も多いです。 アルツハイマー型認知症と同様に根治方法はありませんが、理学療法などで症状を改善することはできます。 長く治療薬がありませんでしたが、2014年にドネペジルが進行抑制作用を認められ、世界初の適応薬として認可されました。 この本の狙いは、診断された時これがあれば希望が持てると認識できることと、認知症に関わるすべての医師・専門職の誤解を解くことです。 多くの人が長寿を祝う時代になり、私たちは人生最後の数年を脳や体の病気と共に生きることが当たり前になりました。 癌は2人に1人がかかる病気ですが、認知症はそれ以上です。 95歳以上の女性では84%が認知症、それ以外のほぼ全員は軽度認知障害という報告があります。 それは長寿の結果であって、もう病気とも呼べないかもしれません。 レビー小体型認知症も診断を受けていないだけで、脳や全身の細胞にレビー小体が溜まっている高齢者は驚くほど多いそうです。 認知症のイメージは50年前のがんと似ていないでしょうか。 当時は、癌になったら終わりと思われていました。 半世紀後の今、治療を受けながら仕事や趣味の活動を続ける人もたくさんいるようになりました。 著者の一人は50歳の時にレビー小体型認知症と診断され、治療を続けている患者です。 診断後、自分の病態を観察、記録し、症状は従来の説明は違うということを書き続けてきました。 当事者を苦しめる、認知症やレビー小体型認知症に被せられたどす黒いイメージを変えたいといいます。 医療者が外から見て解説してきた症状と、自分で体験する症状にはズレがありました。 病名が知られていくと同時に、誤解も広がっていきました。 その誤解は、診断された本人や家族から希望を奪い、治療やケアの不適切さを覆い隠し病状を悪化させてしまいます。 この本は、そんな誤解を一つひとつ解き、希望を持って生きるための方法と知識を伝える内容になっています。 もう一人の著者はレビー小体型認知症の患者を大勢診てきた医師です。 執筆に際しては、診断や治療など医療に関しては専門家にお話を伺う方が良いと考え対談をお願いしたそうです。 そして長年抱いてきた疑問や本音、患者や家族から伺った切実な悩みの数々をストレートにぶつけ回答をいただきました。 臨床経験豊かな医師と患者の対談であり、診断や治療に関しても他の本にはない踏み込んだ内容となりました。 レビー小体型認知症に限らず、脳や神経の病気になっても、老いてできないことが増えていっても、満足して生きていくための道はあります。 レビー小体病は知識さえあれば素人にも早期発見が可能です。 早くから適切な治療とケアを受ければ長く良い状態を保つことができ、短命になることもありません。 実際にはその逆になっている例が多く、この病気は進行が早いからなどと諦められている状況があります。 しかし、知ってさえいれば避けられる落とし穴に転がり落ちて苦しむことを回避してもらうことが長年の切なる願いであるといいます。第1章 レビー小体型認知症とは、どんな病気なのか?/第2章 レビー小体病 症状と診断と治療/第3章 パーキンソン病とレビー小体型認知症との関係/第4章 幻覚など多様な症状への対処法/第5章 病気と医師との付き合い方/第6章 最高の治療法とは何か[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]レビー小体型認知症とは何か 患者と医師が語りつくしてわかったこと (ちくま新書 1766) [ 樋口 直美 ]第二の認知症 レビー小体型認知症がわかる本 [ 川畑 信也 ]
2024.04.03
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ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、ムスタファ・ケマルともケマル・パシャとも、ケマル・アタテュルクとも呼ばれます。 トルコ革命を指導してトルコ共和国の初代大統領となり、トルコを世俗的な近代国家とすることに務めました。 ”ケマル・アタテュルク オスマントルコの英雄、トルコ建国の父”(2023年10月 中央公論新社刊 小笠原 弘幸著)を読みました。 父なるトルコ人の意味のアタテュルクと呼ばれる、トルコ共和国の建設者で初代大統領のムスタファ・ケマル・アタテュルクの生涯を紹介しています。 1881年頃、オスマン帝国領セラーニク県の県都セラーニク、現ギリシア領テッサロニキ生まれ、父親は税関吏でした。 父母からは選ばれし者の意味のムスタファと命名され、後に入学したサロニカ幼年兵学校の数学教官から完全な者の意味のケマルというあだ名を付けられました。 1886年頃、西洋式教育の学校に入学しましたが、1888年に父親が亡くなり家族でサロニカに戻り叔父の許に身を寄せました。 その後、しばらくして母が再婚したため叔母の家に身を寄せました。 1894年頃、サロニカ幼年兵学校に入学し、1896年にマナストゥル少年兵学校に入学しました。 小笠原弘幸さんは1974年北海道北見市生まれ、青山学院大学文学部史学科卒業後、2005年に東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を単位取得退学しました。 2006年日本学術振興会特別研究員となり、2008年にオスマン朝の研修で博士(文学)となりました。 専門はオスマン帝国史とトルコ共和国史です。 公益財団法人政治経済研究所研究員、青山学院大学総合研究所員などを経て、2013年に九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門イスラーム文明史学講座准教授となりました。 2018年に樫山純三賞を受賞し、日本イスラーム協会理事を務めました。 ケマル・アタテュルクは、1899年に陸軍士官学校に入学しました。 1902年に同校を歩兵少尉として第8席の成績で卒業しました。 陸軍大学校に進み、1905年に修了して参謀大尉に昇進し、研修のためダマスカスの第5軍に配属されました。 士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱き、ダマスカスで設立された「祖国と自由」のシンパになりました。 オスマン帝国は弱体化し、バルカン半島や西アジアで領土を次々と失って瀕死の病人といわれるようになりました。 帝国の衰退をとめるために、それまでの硬直した古いスルタン政治の打破をはかる運動が青年将校の中にあらわれまし。 1905年に日露戦争で仇敵ロシア軍が新興国日本に敗れたことは、オスマン帝国の軍人に大きな刺激を与えました。 日本にならって、古い体制を打破して立憲国家を建設することをめざす青年トルコ革命を誘発しました。 1906年にマケドニアで設立された「統一と進歩協会」本拠がフランスのパリに置かれると、「青年トルコ党」の現地支部を設立して「祖国と自由」を吸収しました。 ケマル・アタテュルクは1907年に第3軍司令部に転属され、赴任地で「青年トルコ党」の現地支部である「統一と進歩協会」に加入しました。 1908年に「青年トルコ」が挙兵しミドハト憲法を復活させて第2次立憲政治を実現させ、翌年にはスルタンアブデュルハミト2世を退位させて革命を成功させました。 以後、オスマン帝国は「青年トルコ」政権による立憲体制がとられることになりました。 しかし、スルタンは実権を失ったものの依然として存続していました。 政権は安定せず革命の混乱に乗じて周辺のオーストリア、ブルガリア、ロシアなどが領土的野心を露わにしました。 さらに、イタリアがオスマン帝国領の北アフリカに進出するなど、帝国主義の荒波にさらされることとなりました。 ケマル・アタテュルクは、1909年に第3軍隷下のサロニカ予備師団参謀長に任命されました。 3月31日事件が勃発すると、軍はサロニカの第3軍とアドリアノープルの第2軍から部隊を編成して、帝都イスタンブール鎮圧に派遣しました。 ケマル・アタテュルクは第3軍所属の予備師団作戦課長として鎮圧部隊に連なり、終了すると第3軍司令部に帰任しました。 1910年には、ムスリム住民の多いアルバニアでも反乱が起こりました。 「青年トルコ」は憲法の復活による立憲政治の再開と、オスマン主義による国民統合を主張しました。 しかし、次第にその内部にトルコ民族としての自覚を重視するトルコ民族主義も台頭し、安定を欠いていました。 一方、帝国主義列強による侵略が強まり、1911年にリビアに侵攻したイタリア軍との戦争に敗れてトリポリ・キレナイカを失いました。 ケマル・アタテュルクは1910年からの同軍士官養成所勤務を経て、再び第3軍司令部に戻りました。 1911年に第5軍団司令部に配属され、第38歩兵連隊を経て参謀本部付となりました。 伊土戦争が勃発してイタリアがリビアに侵攻したため、「統一と進歩協会」の志願者と同行してトリポリタニアに赴きました。 ケマル・アタテュルクは少佐に昇進し、アレクサンドリア経由で陸路ベンガジに潜入し、ベンガジ・デルネ地区東部の義勇部隊司令官に着任しました。 1912年にデルネ地区の司令官に任命されゲリラ戦を指揮しましたが、第一次バルカン戦争が勃発したためリビアから呼び戻されてダーダネルス海峡地区に着任しました。 混成部隊司令部の作戦課長を拝命し、同部隊がボラユル軍団に再編された際も同職を続けました。 オスマン帝国は1912年の第1次バルカン戦争でも、イスタンブールを除くバルカン半島を放棄しました。 1913年に軍団主力の第27師団はボラユルの戦いで、ブルガリア勢の第7リラ歩兵師団に敗北し、アドリアノープルはロンドン条約調印により、ブルガリア王国に割譲されました。 同年の第二次バルカン戦争では、ボラユル軍団とともにブルガリア軍に対して攻勢に出てケシャンを落としました。 さらに、イプサラ、ウズンキョプリュ、カラアーチに入り、ディメトカを経由してアドリアノープルを奪還しました。 ケマル・アタテュルクは街を離れ、ブルガリアの首都ソフィア駐在武官に任命され、セルビア首都ベオグラードとツェティニェの駐在も兼任しました。 バルカンの戦禍を逃れた多くのイスラーム教徒が帝国領内に移住してきて、イスラーム教徒の比重が高まりました。 1914年に青年トルコの軍人エンヴェル・パシャがクーデタによって権力を握り、軍部独裁的な青年トルコ政権を樹立しました。 第一次世界大戦が勃発すると、青年トルコ政権のエンヴェル・パシャはロシアとの対立関係からドイツ、オーストリアとの提携を強め、同盟国側で参戦し独断で開戦に踏み切りました。 オスマン軍はドイツ軍の援助を受けて、バルカン半島ではイギリス・フランス連合軍との戦いで勝利するなど健闘しましたが次第に連合軍に押されました。 また、中東でもパレスティナをイギリス軍に占領され、アラブ人の反乱もあってオスマン帝国軍は翻弄され次第に劣勢になりました。 1918年にスルタンのメフメト6世は単独で講和を決定し、孤立したエンヴェル・パシャはドイツに亡命しました。 敗戦国となったオスマン帝国は翌年のセーヴル条約で壊滅的な領土割譲を余儀なくされ、青年トルコ政権の中枢部は国外に逃亡しました。 敗戦後、オスマン帝国政府が連合国との間に領土分割その他の屈辱的なセーヴル条約を結ぶと、国民的な抵抗運動が起りました。 ケマル・アタテュルクが指導者となり、1919年にイズミル侵攻を企てたギリシア軍と戦いました。 1920年にトルコ国民党を率いてアンカラにトルコ大国民議会を召集し、イスタンブールのスルタン政府と絶縁して新政権を樹立しまし。 1921年にサカリャ川の戦いでギリシア軍を大破して、国民軍最高司令官としてガージーの称号を得ました。 1922年にギリシア軍は撤退し、イズミルの奪回に成功しました。 ギリシアとの講和後、同年にスルタン制を廃止し、連合国とはセーヴル条約を破棄し、オスマン帝国は滅亡することとなりました。 改めてローザンヌ条約を締結してアナトリアの領土を回復し、独立と治外法権の撤廃を認めさせました。 1923年10月29日にトルコ共和国の成立を宣言し、共和人民党を率いて初代大統領に選出されました。 翌年憲法を発布し、カリフ制を廃止して政教分離を実現し、トルコの世俗主義化につとめました。 ケマル・アタテュルクの業績は、大きく2つに分けることができるといいます。 ひとつはオスマン帝国の軍人にして救国の英雄として、もうひとつはトルコ共和国という国をつくりあげた政治家としてです。 戦士としては、列強による祖国分割を阻止せんとして立ちあがった愛国者たちを糾合しその指導者となりました。 国民は奮闘し、ギリシア軍を激戦のすえ追い返して、列強の野望を打ち砕くことになりました。 政治家としては、祖国に平和世界に平和のスローガンを掲げどの陣営にもくみせず中立を保ちました。 現在のトルコは中東・バルカン諸国でもっとも成功した国のひとつであり、その礎を築きました。 ただし、裏の顔もつきまとい、大統領に就任してのちともに戦った盟友たちを追放あるいは処刑し、権力を固めました。 トルコ民族主義を強硬に推し進めたゆえにクルド人を弾圧し、宗教を抑圧しました。 なお、近年では親イスラームの公正発展党を率いるエルドアン大統領のもと、アタテュルクの業績を暗に批判されているといいます。序章 黄昏の帝国/第1章 ケマルと呼ばれる少年ー1881~1904年/第2章 ガリポリの英雄ー1905~1918年/第3章 国民闘争の聖戦士ー1919~1922年/第4章 父なるトルコ人ー1923~1938年/終章 アタテュルクの遺産[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】アタチュルク—あるいは灰色の狼ケマル・アタテュルク オスマン帝国の英雄、トルコ建国の父 (中公新書 2774) [ 小笠原弘幸 ]
2024.03.16
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宮本常一は1907年山口県屋代島、現周防大島生まれ、大阪府立天王寺師範学校、現大阪教育大学専攻科を卒業しました。 学生時代に柳田國男の研究に関心を示し、その後渋沢敬三に見込まれて食客となり、本格的に民俗学の研究を行うようになりました。 ”今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる”(2023年5月 講談社刊 畑中 章宏著)を読みました。 日本のすみずみまで歩いて聞き集めた小さな歴史の束から、世間・民主主義・多様な価値から日本という国のかたちをも問いなおした、宮本常一の生涯を紹介しています。 1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け、膨大な記録を残しました。 柳田國男は1875年生まれの民俗学者・官僚で、農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めました。 日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者で、位階・勲等は正三位・勲一等です。 日本人とは何かという問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行しました。 渋沢敬三は1963年生まれの実業家、財界人、民俗学者、政治家で、第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣を務めました。 祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継ぎました。 畑中章宏さんは1962年大阪府大阪市生まれ、近畿大学法学部を卒業し、災害伝承、民間信仰から流行現象まで幅広い領域に取り組んでいます。 平凡社の編集者として、『月刊太陽』編集部に所属し、多摩美術大学特別研究員、日本大学芸術学部講師を務めています。 フィールドワークでは、特定の調査対象について学術研究をするとき、テーマに即した現地を実際に訪れ、対象を直接観察します。 関係者に聞き取り調査やアンケート調査を行い、現地での史料・資料の採取を行うなど、学術的に客観的な成果を挙げる技法です。 宮本の民俗学は非常に幅が広く、後年は観光学研究のさきがけとしても活躍しました。 観光学は観光に関する諸事象を研究する学際的学問です。 観光学は、地域経済の振興、発展、環境保全など解決していくためにあります。 経済の発達に伴い楽しみのための旅行が広く普及し、マス・ツーリズムの時代が到来しました。 これに伴い、いかにしてより満足できる観光が実現するか問われるようになりました。 民俗学の分野では特に生活用具や技術に関心を寄せ、民具学という新たな領域を築きました。 民具は民衆の日常生活における諸要求にもとづいてつくられ、長いあいだ使用されてきた道具や器物の総称です。 これは渋沢敬三によって提唱された学術用語です。 日本常民文化研究所の前身であったアチック・ミューゼアムでは、民具をきわめて広い対象をあらわす概念としています。 アチック・ミューゼアムは1921年に、実業家で民俗学者でもあった渋沢敬三によって創設されました。 その後、財団法人時代を経て1982年に神奈川大学に移管され研究が引き継がれました。 宮本が所属したアチックミューゼアムは後に日本常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収され網野善彦らの活動の場となりました。 ここでは漁業制度史や民具の研究を中心に、日本の民衆の生活・文化・歴史の調査研究が行われています。 網野善彦は、1928年山梨県東八代郡御坂町生まれの日本中世史を専門とする歴史学者です。 宮本の学問はもとより民俗学の枠に収まるものではありませんが、民俗学研究者としては漂泊民や被差別民、性などの問題を重視しました。 そのため、柳田國男の学閥からは無視・冷遇されました。 しかし、20世紀末になって再評価の機運が高まりました。 宮本は自身も柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れ、柳田民俗学を乗り越えようとしました。 柳田国男は20世紀の日本列島に住む日本人を「私たち」とあらかじめ措定して民俗学をはじめました。 そして「私たち」の起原、定義、未来を追求する際、「心」を手がかりにし、「心」の解明によって明らかにできると考えました。 そのとき、「心」を構成する資料は、民間伝承、民間信仰から得られると考えたといいます。 これに対して宮本常一は、「もの」を民俗学の入り口にしました。 たとえば生産活動などに用いてきた「民具」を調べることで、私たちの生活史をたどることができると考えました。 そして民俗学における伝承調査を、「もの」への注目に寄せていくことで、私たちの「心」にも到達できると考えたといいます。 日本の民俗学は柳田によって開かれ、同世代の折口信夫、南方熊楠らによって発展していきました。 彼らのあと有力な財界人でもある渋沢敬三が独自の立場から後進を支援指導し、そのなかで最も精力的な活動を展開したのが宮本常一です。 宮本は、見て、歩き、聞くことにより、列島各地の歴史や事情に精通し、農業、漁業、林業等の実状を把捉するとともに問題点を明らかにしていきました。 それは、個別の共同体がどのような産業によって潤っていくかを、共同体の成員とともに具体的に考えていくことでした。 ほかの民俗学者の民俗学と際だって違うのは、フィールドワークの成果が実践に結びついていったことです。 宮本は歴史をつくってきた主体として、民衆、あるいは庶民を念頭におきました。 これまでの歴史叙述において、庶民はいつも支配者から搾取され、貧困で惨めで、反抗をくりかえしてきたかのように力説されてきました。 しかし宮本は、このような歴史認識は歴史の一面しか捉えていないし、私たちの歴史とはいえないと考えました。 また宮本は、民俗学はただ単に無字社会の過去を知るだけではなく、その伝統が現在とどうつながり、将来に向かってどう作用するかをも見きわめなければならないといいます。 そして、歴史に名前を残さないで消えていった人びと、共同体を通り過ぎていった人びとの存在も含めて歴史を描き出しえないものかというのが、宮本の目標とするところでした。 また「進歩」という名のもとに、私たちは多くのものを切り捨ててきたのではないかという思いから歴史を叙述することを試みました。 「大きな歴史」は、伝承によって記憶されるだけで記録に残されていない「小さな歴史」によって成り立っていることを、具体的に示そうとしたといいます。 生活誌、生活史を叙述する際に、私たちが獲得してきた技術や産業の変化に目を向けたことも、宮本民俗学の大きな特色です。 宮本の民俗学には「思想や理論がない」「その方法を明示していない」とアカデミックな民俗学者から批判されてきました。 しかし、宮本の民俗学には閉ざされた「共同体の民俗学」から開かれた「公共性の民俗学」へという意志と思想が潜在しているのではないかといいます。 主流に対する傍流を重視すること、つまりオルタナティブの側に立って学問を推し進めていったことも特筆すべきでしょう。はじめに 生活史の束としての民俗学/第1章 『忘れられた日本人』の思想/第2章 「庶民」の発見/第3章 「世間」という公共/第4章 民俗社会の叡智/第5章 社会を変えるフィールドワーク/第6章 多様性の「日本」 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる (講談社現代新書) [ 畑中 章宏 ]辺境を歩いた人々 (河出文庫) [ 宮本 常一 ]
2024.03.02
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新選組は幕末から維新にかけて特異な存在感を示し、さまざまな興味を抱かせる集団です。 ”斎藤一 京都新選組四番隊組頭”(2022年3月 河出書房新社刊 伊東 成郎著)を読みました。 新選組の四番隊組頭を長く務め、会津戦争と西南戦争に従軍し、藤田五郎として明治大正を生きた斎藤一の生涯を紹介しています。 新選組の中枢を担った近藤勇と土方歳三は、武家ではなく多摩地方の農家の出身でした。 ともに幼い頃から武士に憧れ、動乱の時代の中でその思いを実現させ時代の変革とともに散っていきました。 斎藤 一は1844年に江戸で(一説には、播磨国ともいわれる)生まれ、父親が明石出身であったことから明石浪人、または播州明石浪人を名乗ったようです。 父・右助は播磨国明石藩の足軽でしたが、江戸へ下り石高1,000石の旗本・則定鈴木家に仕えたとされ、後に御家人株を買って御家人になったといわれます。 斎藤 一は幕末期に新撰組で副長助勤、四番隊組長、三番隊組長、撃剣師範を務めました。 一時期御陵衛士に入隊し、戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦いました。 明治維新後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷軍と戦いました。 伊東成郎さんは1957年東京生まれ、1979年に明治大学文学部史学地理学科を卒業し、1981年に東京写真専門学校を卒業しました。 同年に全国石油業協同組合連合会広報部に就職しましたが、翌年伊東写真館祖父が明治末年に開業した同店で写真撮影業を自営し、現在に至ります。 同時に、歴史関連の調査、執筆活動を展開してきました。 2000年にNHK「その時歴史は動いた」の製作に協力し、2003年に東京都中央区江戸開府400年記念事業検討委員会委員に就任しました。 斎藤一という名前は、京都に移ってから新選組全盛期にかけてのもので、最初の名前は山口一でした。 1862年に江戸で刃傷沙汰を起こして京都に逃亡した際、斎藤一と名を変えました。 1867年に山口二郎(次郎)と改名し、会津藩に属して戊辰戦争を戦った時期には一瀬伝八を名乗りました。 斗南藩に移住する直前、妻の高木時尾の母方の姓である藤田姓を名乗り、藤田五郎と改名しました。 1872年の壬申戸籍には藤田五郎として登載されています。 19歳のとき、江戸小石川関口で旗本と口論になり斬ってしまい、父親の友人である京都の剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代を務めました。 1863年3月10日に、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組を結成しました。 同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなりました。 新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢されました。 後に長州征討に向け再編成された新選組行軍録には三番隊組長として登場し、撃剣師範も務めました。 一般に斎藤一は、新選組三番隊長と呼ばれます。 小説から漫画にいたるまで踏襲されているこの肩書きには、実は史実としての裏づけがありません。 原典は西本願寺の寺侍だった西村兼文が1889年に編んだ新選組始末記です。 後年、この組長編成は独り歩きし、京都土産の暖簾や湯呑にも登場するに至りました。 しかし、行軍録と題する新選組の編成表は行軍形式で整えられており、近藤や土方のほかに当時在籍していた小隊ごとに整然と配列された全隊士名が確認できます。 八小隊と番外の小荷駄隊という全九基による新選組の小隊編成があり、斎藤一は決して「新選組三番隊長」や「三番隊組長」ではなく、「新選組四番隊組頭」であるといいます。 1864年6月5日の池田屋事件では土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられました。 1867年3月に伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱すると斎藤も御陵衛士に入隊しましたが、のち新選組に復帰しました。 同年12月7日に紀州藩の依頼を受けて同藩士・三浦休太郎を警護しましたが、海援隊・陸援隊の隊員16人に襲撃されました。 三浦とともに酒宴を開いていた新選組は遅れをとり宮川信吉と舟津釜太郎が死亡し、梅戸勝之進が斎藤をかばって敵の刃を抱き止め、重傷を負いました。 斎藤は鎖帷子を着ており無事でしたが、三浦は顔面を負傷したものの命に別状はありませんでした。 将軍・徳川慶喜の大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加しました。 1868年1月に鳥羽・伏見の戦いに参加、3月に甲州勝沼に転戦し、斎藤はいずれも最前線で戦いました。 近藤勇が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に戻った土方歳三らとともに国府台で大鳥圭介率いる伝習隊や秋月登之助と合流の後、下妻へ向かいました。 土方は同年4月の宇都宮城の戦いに参加しましたが足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着きました。 斎藤ら新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口の戦いに参加し、8月21日の母成峠の戦いにも参加しました。 敗戦により若松城下に退却し、その後、土方らは庄内へ向かい、大鳥ら幕軍の部隊は仙台に転戦しました。 斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けました。 9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降しました。 降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送りました。 会津藩は降伏後改易され会津松平家は家名断絶となりましたが、1869年11月3日に再興を許されました。 知行高は陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代か下北半島を松平家側で選ぶこととされました。 旧藩幹部は下北半島を選択し藩名は斗南藩と命名され、斎藤も斗南藩士として下北半島へ赴きました。 斎藤は斗南藩領の五戸に移住し、会津藩士としては大身に属する系譜の篠田やそと結婚しました。 後年、1874年に元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚し、氏名を藤田五郎に改名しました。 時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の子供を儲けました。 同年7月に東京に移住し警視庁に採用されました。 1877年2月に九州で西南戦争が起き、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として西南戦争に参加しました。 斬り込みの際に敵弾で負傷しましたが奮戦して、1879年10月に政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与されました。 1881年に警視局が廃止されて一旦陸軍省御用掛となり、その後警視庁の再設置により11月に巡査部長となりました。 1885年に警部補、1888年に麻布警察署詰外勤警部として勤務し、1892年12月に退職しました。 退職後、東京高等師範学校の守衛、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務めました。 なお、出自、経歴は不明な点も多いといいます。1 新選組前夜/2 壬生狼疾駆/3 新選組四番隊組頭/4 孝明天皇御陵衛士/5 京都落日/6 転戦の果てに/7 斎藤一の明治 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし] 斎藤一 京都新選組四番隊組頭 [ 伊東 成郎 ]【中古】 斎藤一 新選組最強の剣客 / 相川 司 / 中央公論新社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2024.02.17
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土方久功は若い頃から世界の民族文化に関心を寄せ、東京美術学校で彫刻を学びました。 その後1929年に当時日本の委任統治領だったパラオ諸島に渡り、着いて3ケ月後に南洋庁の嘱託に採用されました。 ”[改訂版]土方久功正伝”(2023年5月 東宣出版刊 清水 久夫著)を読みました。 28歳で単身南洋パラオへ渡り、30歳でヤップ離島のサトワヌ島へ渡って原住民と生活を共にしながら、彫刻の制作と島の民俗学的な研究を行なった生涯を紹介しています。 島の子供たちが学ぶ公学校で木彫を教え、島々を巡りながら昔話や工芸作品の収集、民族調査などを進めました。 その時の教え子は、後にパラオの民芸品「ストーリーボード」を制作し、今日まで受け継がれています。 久功は南洋に13年間滞在し、島の人々とともに暮らし「日本のゴーギャン」と呼ばれました。 清水久夫さんは1949年東京生まれ、法政大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得しました。 日本学術振興会奨励研究員、法政大学非常勤講師を経て、世田谷区総務部美術館建設準備室学芸員となりました。 世田谷美術館開館後は、学芸部教育普及課長、資料調査課長等を勤めていました。 埼玉大学・法政大学・跡見学園女子大学非常勤講師を務めました。 土方久功は1900年現在の東京都生まれ、父親は陸軍砲兵大佐で、伯父は伯爵、母方の祖父は海軍大将・男爵でした。 旧制・学習院初等科、同中等科を経て、父親の病気退職による経済的理由から、1919年に東京美術学校彫刻科に入学しました。 三沢寛、林謙三、小室達、岡鹿之助、小泉清、山本丘人らが当時の同学に在籍していました。 1924年に同学を卒業し、土方与志が築地小劇場を設立し、久功が同劇場の葡萄の房章をデザインしました。 1929年にパラオに渡り、現地住民の初等教育学校の図工教員として彫刻を教える傍ら、パラオ諸島の各島、ヤップ島を詳細に調査しました。 1931年にヤップ諸島の最東端・現在のサタワル島に渡り、7年間を同島で過ごしました。 1939年にパラオに戻り、コロールにおかれた南洋庁に勤務しました。 現在のチューク諸島、現在のポンペイ島、現在のコスラエ島、現在のジャルート環礁、サイパン島、ロタ島を引き続き調査しました。 1942年に小説家の中島敦とともに帰国しましたが、同年にボルネオ調査団に参加し日本が統治した北ボルネオを調査しました。 1944年に病を得て帰国し、岐阜県可児郡土田村、現在の同県可児市土田に疎開しました。 第二次世界大戦終了後、1949年に東京都世田谷区に移転して、彫刻家となりました。 1977月11日に心不全のため満76歳で死去しました。 土方久功を一言で言いあらわすのは難しいです。 彫刻家であり、詩人であるとともに、民族誌家でもありました。 今日、土方久功の名を知る人は少ないかもしれません。 その原因の一つは、久功自身の生き方にあったといえるでしょう。 画壇・文壇と深く関わらず、自由人として生き抜きました。 制度の外にあり、名聞を求めず、なかば市井に隠れて、忍耐強くみずからの世界を築きつづけました。 歿後1990年から3年間、『土方久功著作集』全8巻が刊行され、主要な著書、論文、随筆、詩が収められています。 また、通算10年以上に及ぶ1922年7月から1977年1月までの日記122冊、草稿やノート類などが残されています。 今日では、土方久功に関する資料の入手は以前に比べ、容易となっていますので、今後の研究の発展が期待されます。 戦後、土方久功が展覧会を開いたときなど、新聞や雑誌で取り上げられることがありました。 その際、しばしば久功は、「日本のゴーギャン」と言われました。 没後も同様で、例えば、2007年の世田谷美術館の中島敦との二人展のタイトルは、「パラオーふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・土方久功」展でした。 旧著のタイトルは、「土方久功正伝-日本のゴーギャンと呼ばれた男」でしたが、異論があったといいます。 本人は日本のゴーギャンと呼ばれることをとても嫌がっていたということです。 しかし、著者は土方久功が目本のゴーギャンであったと言うつもりはありませんでした。 日本のゴーギャンと呼ばれていたということを言いたかったといいます。 本人の日記や著作では、本人はゴーギャンが好きで、ゴーギャンの幻想的なものに引きつけられていました。 真似たいと思う、羨ましくもあるが、どうにもならない、ゴーギャンは、あまりに自分から遠いかから好きなのかもしれないと言っています。 たしかに、久功の生き方にしろ、作品にしろ、ゴーギャンとの共通点は非常に少ないです。 ですが、久功が日本のゴーギャンと呼ばれていたのは事実です。 久功にとっては、不本意で、実に不愉快なことであったに違いありません。 なお、「日本のゴーギャン」という呼び方は、最近では日本画家の田中一村の方がゴーギャンとしてよく知られています。 本書の執筆に当っては、土方久功の遺族および知人の方々から資料を提供され、示教を得たとのことです。[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]第1章 幼年から青年時代へ/第2章 死の影/第3章 遥かなる南洋へーパラオの生活/第4章 孤島に生きて/第5章 再びパラオへー丸木俊と中島敦/第6章 戦時下の日本へ/第7章 ボルネオから土田村へ/第8章 戦後東京の生活/第9章 パラオ、サタワル島の人々との交流/終章 栄達、名誉を求めぬ一生土方久功正伝[本/雑誌] / 清水久夫/著日本のゴーギャン 田中一村伝(小学館文庫) [ 南日本新聞社 ]
2024.02.03
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スーザン・ソンタグはアメリカの女性作家、批評家です。 シカゴ大学卒業後ハーバード大学で修士号を取得し、雑誌の編集に従事し諸大学で哲学を講じました。 ”スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想”(2023年10月 集英社刊 波戸岡 景太著)を読みました。 1960年代のアメリカで若きカリスマとなり、今年生誕から90年を迎えいまでは忘れかけられている批評家スーザン・ソンタグの生涯を紹介しています。 処女作は1963年の小説『恩恵者』 です。 以後、1966年に『反解釈』 1969年に『ラディカルな意志のスタイル』1977年に『写真論』、1979年に『隠喩としての病い』 などを発表しました。 かつて、反解釈・反写真・反隠喩で戦争やジェンダーなど多岐にわたる事象を喝破しました。 波戸岡景太さんは1977年神奈川県生まれ、千葉大学を卒業し慶應義塾大学大学院文学研究科博士後期課程を修了しました。 明治大学理工学部講師、准教授、教授を歴任しました。 現在、明治大学大学院理工学研究科 建築・都市学専攻 総合芸術系教授を務めています。 アメリカ文学者で、博士(文学)〈慶應義塾大学〉、専門はトマス・ピンチョンを中心とした現代アメリカ文学・日米比較文化論です。 スーザン・ソンタグは1933年に東欧ユダヤ系移民の父母の元にアメリカ国籍者としてニューヨーク市で生まれました。 父親は中国で毛皮の貿易会社を経営していましたが、5歳の時に結核で死去しました。 その7年後、母は同じ東欧ユダヤ系のネイサン・ソンタグと親密関係になりました。 正式には結婚はしませんでしたが、スーザンと妹は義父のソンタグ姓を名乗るようになりました。 ソンタグはアリゾナ州ツーソンをへてカリフォルニア州ロサンゼルスで育ちました。 15歳でノースハリウッド高等学校を卒業後は、学部生としてカリフォルニア大学バークレー校で学び始めました。 のちシカゴ大学に転校し、学士号を得て卒業しました。 ハーバード大学大学院、オックスフォード大学のセント・アンズ・カレッジ、パリ大学の大学院でそれぞれ哲学、文学、神学を専攻しました。 大学院修了後、アメリカユダヤ人委員会の機関誌の編集者となったのち、コロンビア大学などで哲学講師となりました。 そのかたわら、1963年に作家デビューし、1966年には初の評論集を出版しました。 ソンタグは30年間、進行性乳癌と子宮癌を患っていました。 2004年12月28日に骨髄異形成症候群の合併症から急性骨髄性白血病を併発し、ニューヨークで71歳で死去しました。 生涯を通じ、アメリカを代表するリベラル派の知識人でした。 ベトナム戦争やイラク戦争に反対するなど、人権問題についての活発な著述と発言でオピニオンリーダーとして注目を浴びました。 ソンタグは写真や映画といった映像文化に造詣が深く、ジェンダーやセクシュアリティの問題にも敏感でした。 かつまた、結核やがんといった病のイメージについても熱心に議論しました。 そして、ベトナム戦争以後、9・11に至るまでずっと社会問題に反応し政治的な発言を続けました。 ソンタグは、「批評家」「作家」「評論家」「映画監督」「活動家」などの肩書きをもつマルチな才能をもった文化人でした。 ソンタグと同じくらいメディアに注目された知識人は今も昔も存在します。 ソンタグは自身の輝かしい学歴に背を向け、刺激的な内容を絶妙な文章に磨き上げました。 けれども、メディアを利用しても決してメディアに踊らされることのなかった人はとても珍しいです。 2004年にソンタグが亡くなってから20年近くが過ぎようとしています。 今、世界的な評価の高まりとは裏腹に、日本ではその名を耳にすることが減ってきたように思われます。 それはソンタグが背負ってきた1960年代的なアメリカの「カッコよさ」が、今の日本ではあまり魅力的ではなくなったことも理由の一つかもしれません。 あえて一般的な感情を逆撫でする政治的立場を表明してみせたりした、1970年代以降のもう一つの「カッコよさ」も、流行らないかもしれません。 しかし、そうした傾向はあくまでも、「今の日本では」ということに過ぎません。 ソンタグの精神的成長の記録というべき著作群は、読み方さえ理解すれば、明日を生き抜くための最高のツールとなるはずです。 本書を通じて、ソンタグの挑発する知性とあらがいの思想が、厳しくも慈愛に満ちたものであることに気づいていただければ幸いですという。誰がソンタグを叩くのか/「キャンプ」と利己的な批評家/ソンタグの生涯はどのように語られるべきか/暴かれるソンタグの過去/『写真論』とヴァルネラビリティ/意志の強さとファシストの美学/反隠喩は言葉狩りだったのか/ソンタグの肖像と履歴/「ソンタグの苦痛」へのまなざし/故人のセクシュアリティとは何か/ソンタグの誕生/脆さへの思想[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想/波戸岡景太【1000円以上送料無料】こころは体につられて 下 日記とノート1964-1980 [ スーザン・ソンタグ ]
2024.01.20
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五代友厚は1836年薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷、現在の鹿児島県鹿児島市長田町生まれ、大阪経済界の重鎮の一人です。 ”五代友厚 渋沢栄一と並び称される大阪の経済人”(2023年9月 平凡社刊 橋本 俊詔著)を読みました。 幕末に薩摩藩士の子として生まれ、後に経済人として鉱業と製造業を中心に多くの事業を始め、大阪商工会議所の設立に尽力し、大阪経済の礎を築きました。 東の渋沢栄一、西の五代友厚と称されるように、二人は日本の資本主義経済の船出に大きな貢献をしました。 それぞれ東京商法会議所と大阪商法会議所をつくり、一橋大学と大阪市立大学の創設に関与しました。 大阪経済の創始者である五代ですが、出身は関西ではなく薩摩です。 明治維新は薩摩をはじめ長州、土佐、肥前出身の武士の活躍で達成されました。 五代が偉大な人物として名を残せたのは、薩摩藩での若い頃の人生が決定的に重要です。 橘木俊詔さんは1943年兵庫県生まれ、1967年に小樽商科大学を卒業しました。 1969年に大阪大学大学院経済学研究科修士課程を修了し、1973年にジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程を修了しました。 大阪大学教養部助教授を経て、1979年に京都大学経済研究所助教授、1986年に教授となりました。 専攻は労働経済学で、1998年に経済学博士(京都大学)となりました。 2003年に同大学院経済学研究科教授となり、2007年に定年退任し名誉教授となりました。 現在、京都大学名誉教授、京都女子大学客員教授、元同志社大学経済学部特別客員教授を務めています。 五代友厚は記録奉行である五代直左衛門秀尭の次男として生まれ、質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられました。 8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学びました。 14歳のとき、琉球交易係を兼ねていた父・五代秀堯が奇妙な地図を広げて友厚を手招きました。 見せたものは、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図でした。 少年期の五代才助はこれを見ることができる環境で育ち、諸外国へ思いを馳せたのかもしれません。 1854年にペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となった折、五代は男児志を立てるはまさにこのときにありと奮いたったといいます。 1855年に藩の郡方書役助となり、翌年に長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学びました。 1862年に懇願するも渡航を拒まれた友厚は、水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航しました。 1863年に生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと寺島宗則と共にイギリス海軍の捕虜となりました。 通弁の清水卯三郎のはからいにより、横浜において小舟にてイギリス艦を脱出し江戸に入りました。 1865年に藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発し、さらに欧州各地を巡歴しました。 1866年に帰国し御小納戸奉公格に昇進し、薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任しました。 長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど、実業家の手腕を発揮し始めました。 1868年に戊辰戦争が勃発し、五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍し、明治新政府の参与職外国事務掛となりました。 外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたりました。 また、大阪に造幣廠を誘致し、初代大阪税関長となり大阪税関史の幕を開けました。 1869年の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行、また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立しました。 紡績業・鉱山業・製塩業・製藍業などの発展に尽力しました。 大阪財界人、田中市兵衛らとともに 大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立しました。 薩摩の七傑とは、西郷隆盛、島津斎彬、大久保利通、黒川清隆、桐野利秋、付田新入、そして五代友厚です。 このなかで、島津斉彬が育てた出色の家臣として、西郷、大久後、寺島宗則、そして五代が挙げられています。 マス・グラバーとシャルル・モンブランは、五代の人生を語るうえでとても重要な二人の外国人です。 五代の薩摩藩士としての富国強兵、殖産興業政策の実行、明治新政府の外交官、官を辞しての経済人としての生活にも影響を与えました。 渋沢栄一はフランスでフリュリ=エラールから銀行業を学びましたが、五代におけるグラバーとモンブランは、渋沢におけるエラールよりもけるかに大きな影響力がありました。 多岐にわたる事業を経営したのは東の渋沢と同じであるが、両者に違いもあります。 第一に、渋沢が企業の経営に関与した数は500社近くにも達し、日本資本主義の父と称されるほどですが、五代の場合はその企業数は渋沢よりかなり少ないです。 第二に、渋沢が最初に手掛けた事業は銀行業でしたが、五代の場合には、鉱山業と金・銀・銅などの鋳造と精錬でした。 経営者としての生活を送りながら、五代は商工会議所の設立に関与し、いわゆる財界活動の拠点を創設するとともに自らが会頭職を務め、文字通りの大阪財界の指導者となりました。 商業講習所の設置にも関与し、商業教育を大阪に根づかせようとしました。 ところが1885年に五代は49歳で命を落としました。 遠因は糖尿病にあったとされ、高血圧症心臓疾患が直接の死因でした。 東の渋沢は当時としては珍しい91歳まで生きた長命であり、それこそ数多くの事業を成しましたが、五代の場合には50歳になる前の死でした。 とはいえ明治時代の平均寿命は45歳前後であったとされますので、決して早世ではなく、仕事の種類と量の多さを渋沢と単純に比較するのは正しいとはいえないといいます。[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]序章 友厚の幼青年期とは/第1章 長崎海軍伝習所と薩英戦争/第2章 薩摩藩の英国使節団/第3章 幕末から明治期ー役人・民間経済人として/第4章 働き盛りを迎えた明治10年代/第5章 五代友厚と渋沢栄一五代友厚 渋沢栄一と並び称される大阪の経済人/橘木俊詔【1000円以上送料無料】新・五代友厚伝 近代日本の道筋を開いた富国の使徒 [ 八木 孝昌 ]
2024.01.06
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藤原彰子は998年に生まれた才色兼備の誉れ高い女性で、第66代一条天皇の皇后中宮になりました。 父は藤原道長、母は左大臣・源雅信の娘の源倫子で、藤原氏の土御門邸にて誕生しました。 ”藤原彰子”(2019年6月 吉川弘文館刊 服藤 早苗著)を読みました。 藤原道長の長女として生まれ一条天皇の中宮となり2人の天皇の生母として政務を後見した藤原彰子の生涯を紹介している。 誕生の日は不明ですが、道長と倫子の結婚は前年の12月16日ですので、9月から12月の誕生と推定されます。 990年12月に3歳で袴着が行われました。 995年に彰子8歳の時、父・道長が内覧の宣旨を受けました。 999年2月9日に裳着を終えた後、同11日に一条天皇から従三位に叙せられました。 同年11月1日に一条天皇の後宮に入り、同月7日に女御宣下をうけました。 この時、一条天皇にはすでに藤原道隆の長女の中宮・藤原定子、女御・藤原義子、藤原元子、藤原尊子が入内していました。 1000年に藤原彰子が新たに皇后となり、先に中宮を号していた藤沢定子は皇后宮を号しました。 朝廷史上はじめて一帝二后になりました。 藤原定子は第二皇女・媄子内親王の出産が難産となり崩御しました。 服藤早苗さんは1947年愛媛県生まれ、1971年横浜国立大学教育学部を卒業し、小学校教諭となりました。 1977年東京教育大学文学部を卒業し、1980年お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程を修了しました。 1986年に東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得退学しました。 1991年に第6回女性史青山なを賞を受賞しました。 1992年に家成立史の研究で東京都立大学文学博士となりました。 2001年に新設された埼玉学園大学教授に就任し、2009年に埼玉学園大学人間学部学部長となり、2015年に定年退職し名誉教授となりました。 専門は、日本史、家族史、女性史、ジェンダー論です。 藤原定子と藤原彰子はいとこであり、ともに一条天皇の妻でしたが、定子は皇后、彰子は中宮という肩書きでした。 定子は24歳で亡くなり、彰子は87歳まで生きました。 定子は一条天皇との間に二人の皇子を産みましたがどちらも天皇にはなれませんでした。 彰子は一条天皇との間に三人の皇子を産み、うち二人は天皇になりました。 藤原定子が生んだ一条天皇の第一皇子・敦康親王の養母を、13歳の藤原彰子が担うことになりました。 母の源倫子も育児に協力したとされます。 1006年頃からは、藤原彰子の家庭教師は『源氏物語』作者の紫式部でした。 王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁もいました。 また、紫式部の娘で歌人の越後弁、ほかに歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸界を形成しました。 藤原彰子は008年に30時間の難産で土御門殿にて一条天皇の第二皇子・敦成親王、後の一条天皇を出産しました。 1009年に今度は安産で第三皇子・敦良親王、後の朱雀天皇を生みました。 これにより、父・藤原道長の権力が強まることとなりました。 1010年に妹・藤原妍子が冷泉天皇の第二皇子・居貞親王に入内しました。 1011年に病になった一条天皇は居貞親王に譲位し崩御しました。 居貞親王は三条天皇となりましたが、24歳の藤原彰子は三条天皇の即位に反発したとされます。 ただ三条天皇の皇太子は、中宮・藤原彰子が産んだ敦成親王、後の一条天皇に決まっていました。 1012年頃、紫式部が退任した模様ですが、藤原彰子は皇太后となりました。 1016年に敦成親王が即位し、後一条天皇となり、道長は念願の摂政に就任しました。 1017年に道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引きました。 道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えました。 しかしこの後摂関家一族の姫は、入内すれども男児には恵まれないという不運が続きました。 1017年に三条天皇が崩御し、中宮彰子の子・敦成親王が後一条天皇となり、幼帝のため父・藤原道長が摂政となり権勢を振るいました。 1018年に、藤原彰子は太皇太后になりました。 1026年に藤原彰子は出家し、院号の宣下があり上東門院となりました。 1030年に、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院といいます。 1036年4月17日に後一条天皇、1045年正月18日に後朱雀天皇が崩御し10年の間に2人の子を失いました。 その後は孫の後冷泉天皇が即位しました。 1052年に重篤な病に陥りましたが、その後体調は回復しました。 そして、1074年10月3日に法成寺阿弥陀堂内にて、87歳で崩御しました。 東山鳥辺野の北辺にある大谷口にて荼毘に付され、遺骨は宇治木幡の地にある藤原北家累代の墓所のうち、宇治陵に埋葬されました。 藤原彰子には日記などはなく、唯一30余首の和歌がのこされているだけです。 しかし、父の日記や貴族男性の日記などが遺っており、彰子の行動を追うことができます。 本書では、天皇の母として政務を後見し、天皇家の家長として、また摂関家の尊長としての発言力があったことを明らかにしたといいます。第1 誕生から入内まで/第2 立后と敦康親王養育/第3 二人の親王の誕生/第4 皇太后として/第5 幼帝を支えてー国母の自覚/第6 後一条天皇の見守り/第7 天皇家と摂関家を支えて/第8 後朱雀天皇の後見/第9 大女院として/第10 彰子の人間像 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]藤原彰子(294) [ 服藤 早苗 ]藤原彰子 天下第一の母 (ミネルヴァ日本評伝選) [ 朧谷寿 ]
2023.12.22
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