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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2011.03.29
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 重源は、1121年に生まれ1206年に没した平安末・鎌倉初期の勧進聖です。

 左馬允紀季重の子で、俗名重定、13歳で醍醐寺で出家し、法名重源、房号俊乗房、のち、みずから南無阿弥陀仏とも名乗りました。

 ”人物叢書 重源”(2004年8月 吉川弘文館刊 中尾 尭著)を読みました。

 東大寺大勧進職として源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした重源の生涯を詳しく紹介しています。

 中尾 堯さんは、1931年広島県三次市生まれ、立正大学大学院文学研究科修士課程修了後、立正大学文学部教授などを歴任し、1974年文学博士(東京教育大学)、日蓮宗勧学職、日本古文書学会顧問を歴任しました。

 重源が自らの生涯の事跡を記した南無阿弥陀仏作善集によれば、青年期には四国や大峯を修行して歩きましたが、のちに下醍醐に栢杜堂を建て上醍醐の一乗院や慈心院塔に結縁するなど、前半生の活動の拠点は醍醐寺にありました。

 3度宋国に渡り、1180年に平重衡の兵火によって東大寺の大仏殿以下が焼失すると、1181年に被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて61歳で東大寺勧進職に就きました。

 東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難がありましたが、周防国の税収を再建費用に当てることが許され、自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事しました。

 また、重源自身も京の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼しました。



 自ら巨木を求めて山に入り、奈良まで移送する方法も工夫したといいます。

 また、伊賀・紀伊・周防・備中・播磨・摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点としました。

 幾多の困難を克服して東大寺は再建され、1185年に大仏の開眼供養が行われ、1195年に大仏殿を再建し、1203年に総供養を行いました。

 この功績から、重源は大和尚の称号を贈られ、死後は栄西が東大寺大勧進職を継ぎました。

 重源が再建した大仏殿は戦国時代の1567年に松永久秀によって再び焼き払われ、現在の大仏殿は江戸時代の宝永年間に再建されたものです。

 東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、国宝の重源上人坐像が祀られています。

 東大寺には重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂が残っています。






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Last updated  2011.03.29 19:10:22
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