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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2013.03.26
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 幸田露伴は幸田文にあらゆることを教え、生きる姿勢をしつけました。

 父親は掃除、食事、身だしなみ、言葉遣い、性、死生観などの教え、娘は反発しつつも必死に食い下がったそうです。

 ”幸田家のしつけ”(2009年2月 平凡社刊 橋本 敏男著)を読みました。

 幸田露伴が父親として娘の文に理詰めで教えた、いろいろなしつけを紹介しています。

 橋本敏男さんは、1937年に東京で生まれ、1963年に読売新聞社に入社し、主に婦人部で教育・子どもに関する問題を担当し、1997年に定年退職しました。

 戦後の混乱がまだ収まっていなかった1946年に、幸田露伴と永井荷風が相次いで市川市菅野に移り住んだとき、著者も近くに移り住んだといいます。

 しばしば露伴と文を実際に見かけ、1947年の露伴の葬儀も目の当たりにしたそうです。

 幸田文は1904年に作家の幸田露伴の次女として東京向島に生まれ、5歳のとき母を失い、後に姉・弟も失いました。

 女子学院を卒業し、24歳で結婚しましたが10年後に離婚し、娘の青木玉を連れて父のもとに戻りました。



 露伴没後に、露伴の思い出などを中心にした随筆集を出版し注目されました。

 その後、断筆宣言をして柳橋の芸者置屋に住み込みで働き、そのときの経験をもとにして書いた長編小説”流れる”で日本芸術院賞と新潮社文学賞を受賞しました。

 1955年に読売文学賞を受賞し、1976年に日本芸術院会員となりました。

 一人娘の青木玉は未刊行作品を編さん刊行し、平凡社で編著”幸田文しつけ帖”などを刊行しました。

 幸田露伴は1867年に幕臣の幸田利三を父として、猷を母として江戸・下谷で生まれました。

 幸田家は江戸時代、大名の取次を職とする表御坊主衆でした。

 1875年に東京師範学校附属小学校に入学し、卒業後の1878年に東京府第一中学正則科に入学しました。

 のちに家計の事情で中退し東京英学校へ進みましたが途中退学し、1883年に給費生として逓信省電信修技学校に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余市に赴任しました。

 1887年に職を放棄して上京し、免官処分を受けたため、父が始めた紙店愛々堂に勤めました。
 1889年の”風流仏”で評価され、1892年の”五重塔”1919年の”運命”などの文語体作品で文壇での地位を確立しました。

 1896年に山室幾美子と結婚し、1男2女を設けました。



 文は戦後父を失った後に作家として一家を成すに至りましたが、この父娘は普通の親子とは違った絆、縁で結ばれていました。

 露伴は兄弟の多い貧困の中で育ち、朝晩の掃除はもとより、米とぎ、洗濯、火焚き、何でもやらされました。

 そのなかでいかに能率を挙げるかを工夫したといいます。

 家庭の事情から、露伴はごく自然に自ら娘の家事教育、家庭教育に手を出し、食事の作り方、配膳のことや、ほうき、はたきの扱いなど、掃除の仕方まで伝授しています。

 文のしっかりした生活者としての姿は、この教えによって培われました。



 そんな偉大な父に反発を覚えつつも慕い、生涯畏敬の念を抱きつづけたということです。

第1章 理詰めで教える掃除の達人
第2章 父に向けた手厚い看護
第3章 反発しながらも畏敬の心
第4章 父は遊ばせ上手
第5章 最もおいしいときに食す
第6章 無言で育む美しい心
第7章 「わかる」とは「結ぶ」こと
第8章 形が人を美しく見せる
第9章 着物は着こなしにある
第10章 言葉遣いに厳しく
第11章 父と娘の性教育問答
第12章 夫婦の不和で傷つく子の心
第13章 男の子に甘い父心
第14章 生死の間に最後の教え






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Last updated  2013.03.26 19:32:32
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