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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2014.03.24
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 2013年は、死後に一族誄殺という過酷な処分を受けた、大久保長安の没後400年にあたっていました。

 佐渡の逆修塔は幕末まで荒縄で縛られ続け、八王子の興林寺では、奉納した石塔が藪のなかに打ち捨てられていたといいます。

 ”江戸の金山奉行 大久保長安の謎”(2012年3月 現代書館刊 川上 隆志著)を読みました。

 江戸時代に逆賊扱いを受けた、大久保長安の実像と歴史的な意義を求めた大紀行文です。

 川上隆志さんは、1960年川崎市生まれ、東京大学文学部東洋史学科卒業、岩波書店に入社し、単行本、岩波新書の編集を手がけ、雑誌編集長等を歴任し、現在、専修大学文学部教授、日本文化論・出版文化論を専攻しています。

 大久保長安の謎を追求すべく、佐渡、石見、伊豆、甲斐黒川、高麗川、八王子等のゆかりの地から、秦氏の故地・朝鮮半島までを旅しています。

 大久保長安は1545年に猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれ、祖父は春日大社で奉仕する猿楽金春流の猿楽師でした。

 応神天皇14年に百済より120県の人を率いて帰化したと記される、弓月君を祖とする秦氏の末裔ということです。

 秦氏は、東漢氏などと並び有力な渡来系氏族です。



 父の信安の時代に、大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始しました。

 父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになりました。

 長安は信玄に見出されて、猿楽師では無く家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続の与力に任じられました。

 この時、姓も大蔵から土屋に改めています。

 長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したといいます。

 信玄没後は武田勝頼に仕え、甲斐武田氏が滅亡すると、織田信長による残党狩りが行われましたが、本能寺の変によって難を逃れました。

 徳川家康は武田の配下の者たちを自軍に引き入れることを積極的に行いましたが、特に厚遇で登用されたのが長安でした。

 鉱山や治水に関する技術に長けていた長安は、大久保忠隣の配下となり、忠隣に気に入られました。

 長安はまた、家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められました。

 関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めています。
 家康政権下で幕府直轄地の統治に手腕を発揮し、石見や佐渡、伊豆などの鉱山の開発にも貢献しました。



 長安の葬儀の中止、莫大な遺産の没収、遺子7名の切腹に親類縁者の改易などです。

 金山をはじめとする様々な管理権・統轄権を与えられていたことで不正な蓄財をくり返し私腹を肥やしていた、というのが一般的な見方のようです。

 また、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたという見解もあります。

 さらに、直属の上司である大久保忠隣と政治的に対立関係にあった本多正信との権力抗争に巻き込まれてしまったという見解もあります。

 その上、キリシタンであったため、その後の過酷なキリシタン弾圧につながったという見解もあります。



第1章 謎の能楽師
第2章 甲斐の金山を歩く
第3章 佐渡金銀山の栄華
第4章 石見銀山・伊豆金山の繁栄
第5章 海と陸のネットワーク
第6章 秦氏の末裔
第7章 秦氏の原郷を訪ねて






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Last updated  2014.03.24 11:14:56
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