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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2014.05.06
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 従来、人間外部の事象、物体について分析を加えるものであった哲学を、カントは人間それ自身の探求のために再定義しました。

 我々は何を知りうるか、我々は何をなしうるか、我々は何を欲しうるかという、人間のもつ純粋理性、実践理性、判断力の性質とその限界を考察したのです。

 ”カント先生の散歩”(2013年6月 潮出版社刊 池内 紀著)を読みました。

 デカンショで知られる偉大な哲学者カントの人生を、人間的な側面から紹介しています。

 池内 紀さんは、1940年姫路市生まれのドイツ文学者、エッセイストで、東京外国語大学外国語学部卒業、1965年東大大学院人文科学研究科修士課程修了、神戸大学助教授、東京都立大学教授、1985年東京大学文学部教授、定年前の1996年に退官しました。

 以後、文筆業、翻訳家として幅広く活躍しています。

 イマヌエル・カントは、1724年に革具職人の息子として東プロシア(プロイセン)の首都ケーニヒスベルクに生まれました。

 1732年にラテン語学校であるフリードリヒ校に進み、1740年にケーニヒスベルク大学に入学し、哲学教授クヌッツェンの影響のもと、ライプニッツやニュートンの自然学を研究しました。

 ケーニヒスベルク大学はこの時代までは、新興のベルリン大学をしのぐ北ドイツ一の大学だったそうです。



 1755年に学位論文を提出し、マギスターの学位を取得し、冬学期から大学の私講師として職業的哲学者の生活に入りました。

 1756年に恩師クヌッツェンの逝去により員外教授の地位を得ようとしましたが、政府が欠員補充をしない方針を打ち出したため白紙となりました。

 1764年にケーニヒスベルク大学詩学教授の席を打診されましたがこれを固辞、1769年にエルランゲン、イェーナからも教授就任の要請がありましたが断りました。

 招聘された際、身体の虚弱と街に多くの友人がいることを断りの理由にしたそうです。

 カントはケーニヒスベルク社交界の人気者で、多くの友人がいました。

 ただし、親友といえるのはジョゼフ・グリーンただ一人だったそうです。

 グリーンは穀物、鰊、石炭などを手広くあつかう英国人貿易商で、カントが40歳の時に知り合いました。

 以来劇場通いやカードゲームはふっつりとやめ、毎日のようにグリーン邸を訪れるようになりました。

 口伝えに、刻々と変化する現実世界を知らされ、最新情勢にもとづいて先を読むコーチを受けていました。

 ディスカッションという個人教育を通して、厳しい訓練にあずかりました。

 グリーンを知ってのちのカントの生活が大きく変わり、グリーン家通いがすべてを押しのけるまでになりました。



 グリーンはカントのわずかな貯えを有利な条件で運用し、カントが亡くなった時には一財産残すことができた、といいます。

 1770年にケーニヒスベルク大学から哲学教授としての招聘があり、以後、カントは引退までこの職にとどまりました。

 1781年に『純粋理性批判』を出版、その後、1988年に『実践理性批判』、1990年に『判断力批判』を刊行しました。

 1786年にグリーンが亡くなり、カントは同じ哲学部の教授で後輩のクラウスを新たな話し相手にしました。

 クラウスも独身でしたが、彼を日曜の食事にまねくために料理女を雇うことにしたそうです。


 カントの学者人生は順調で、晩年にはケーニヒスベルク大学総長を務めました。

 1795年に『永遠平和のために』を出版し、1804年に79歳で死去しました。

 生涯結婚せず、家庭をもたず、子供もいませんでした。

 13歳のときに母を、22歳のときに父を喪っています。

 早くから修道院付属の寄宿舎つき学院にいて、大学を出てから母校の教授に迎えられるまでに23年かかっています。

 30代から40はじめに論文をたくさん書いています。

 教授になるまでは、家庭教師、図書館司書、私講師などをして、かつかつにしのいでいました。

 私講師は非常勤講師にあたり、学期ごとに契約して教えました。

 受講者の受講料を毎回、当の講師が集め、それが俸給にあたります。

 生涯独身で、旅行や遠出もほとんどしませんでした。

 散歩のコースと時間も決まっていて、毎日定刻に同じところを通っていくので、町の人はその姿を見かけると、時計の針を直したという逸話があったそうです。

 しかし、カントは退屈な朴念仁であったのではなく、好奇心と想像力の逞しい人物でした。

 批判の鋭さ、時代を見る目のたしかさ、人間的魅力に溢れていた、といいます。

 晩年は老衰による身体衰弱に加えて老人性認知症が進行し、膨大なメモや草稿を残したものの、著作としてまとめられることはありませんでした。

 しかし、コペルニクス的転回をもたらし、フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学の祖とされ、後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼしました。

 バルト海の真珠/教授のポスト/メディアの中で/友人の力/永遠の一日/カントの書き方/時代閉塞の中で/教授の時間割/独身者のつれ合い/カント総長/一卵性双生児/フランス革命/老いの始まり/検閲闘争/『永遠平和のために』/老いの深まり/「遺作」の前後/死を待つ






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Last updated  2014.05.06 12:19:14
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