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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2017.11.26
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カテゴリ: カテゴリ未分類

 ビクトリア女王時代の19世紀後半に、日本から観賞用の桜がやってきました。


 大英帝国の最盛期、世界各地からいろいろなものがイギリスに持ち込まれた勢いにのって、サクラも海を渡ったのです。


 20世紀に入って、ロンドンの東にあるケント州の植物収集家、コリングウッド・イングラムは3度日本へ足を運び、多くの桜を持ち帰りました。


 ”チェリー・イングラム-日本の桜を救ったイギリス人 ”(2016年3月 岩波書店刊 阿部 菜穂子著)を読みました。


 明治以後の急速な近代化と画一的な染井吉野の席巻から消滅の危機にあった日本独自の多種多様な桜の保護に尽力した、コリングウッド・イングラムの生涯を紹介しています。


 イングラムは日本の桜とヨーロッパ産の桜を交配させて多くの新種を作り、またたく間に桜の権威となってサクラ男と呼ばれました。


 阿部菜穂子さんはジャーナリストで、1981年国際基督教大学卒業、毎日新聞社記者を経て、2001年8月からイギリス人の夫と息子2人でロンドン在住です。


 イギリス社会、とくに教育問題や家族政策について日本の新聞、雑誌に寄稿しています。


 イギリスにはたくさんの桜が植栽されています。


 イギリスでは、じつにさまざまな品種の桜が復活祭をはさんで次々と開花していきます。


 花の色は白、ピンク、紅とそれぞれちがい、花期も少しずつずれているため、桜の季節は3月末から5月なかばごろまで長く続きます。


 復活祭を祝う桜の光景はまるで、長い冬のあいだに眠っていた人間の魂が多様な桜の花びらとなって蘇り、そこここで生命力を躍動させるかのように見えます。


 イギリスの桜の風景は、ひとことで言うと多様なのです。


 日本では染井吉野がいっせいに咲いて街全体を薄桃色に染め、わずか1週間程度でまたいっせいに花びらが散っていきます。


 しかし、日本生まれの桜はイギリスでは故郷とはちがう風景をつくったのです。


 染井吉野一色に染まる祖国の風景を見慣れている在英日本人の多くは、イギリスの多様な桜の風景にとまどいすら覚えます。


 そして、イギリスの桜は日本の桜とはちがう種類ではないだろうかとささやき合います。


 この多様な桜の風景を演出したのが、コリングウッド・イングラムです。


 イングラムは、ビクトリア王朝下の1880年にイングラム家の3男としてロンドンで生まれました。


 祖父ハーバート・イングラムは、当時人気を得ていた世界初の絵入り新聞”イラストレイテッド・ロンドン・ニュース”の創設者です。


 父親ウィリアム・イングラムは、2代目経営者として新聞事業を発展させました。


 2代にわたる財産の構築により、一家は裕福でした。


 大英帝国は世界中に植民地をもち、栄華を極めていました。


 コリングウッド・イングラムは、少年時代をウェストゲイトの豊かな自然の中で過ごし、日々沼地や森を探索して野鳥や植物の知識を身につけました。


 日本への初訪問は1902年のことで、その旅ですっかり日本びいきになりました。


 長い鎖国を終えて姿を現した日本は独自の文化と芸術をもち、植物相も豊かでした。


 イングラムは、1906年にフローレンス・ラングと結婚し、半年後に新婚旅行で再び日本を訪れました。


 桜との出会いは、第一次大戦後の1919年のことでした。


 この年に妻と3人の子供をもつ一家の主として、ケント州南部の村ベネンドンに新居のザ・グレンジを購入して転居しました。


 そのとき新居の庭に植えられていた桜の大木2本が目にとまり、ヨーロッパではまだ知られていない日本の桜を収集して庭に植樹し研究しようと思い立ちました。


 その後、猛烈な集中力と実行力で桜を収集しました。


 日本や米国から多数の品種を輸入し、知人・友人から譲り受けるなどして集めた結果、7年後には100種類を超すコレクションをもつ壮大な桜園が誕生しました。


 1920年代後半から地元で有名になり、イングラムはいつしかチェリー・イングラムと呼ばれるようになりました。


 イングラムが何よりも愛していたのは、日本人が過去千年にわたって創り上げた多様な桜でした。


 英国で可能な限りの桜を入手したイングラムは、より珍しい桜を求めて1926年に日本へ桜行脚に行くことを決意しました。


 旅の計画を助けたのは、鷹司信輔=たかつかさのぶすけ公爵で、鳥の研究のためヨーロッパに遊学中に英国でイングラムと知り合いました。


 貴族院議員でもあり豊かな人脈をもつ有力者で、まもなく日本の桜愛好家の会の会長になりました。


 鷹司公爵の紹介で、イングラムは日本で大勢の桜関係者と会うことができました。


 当時、日本では伝統文化が近代化の波の中で失われつつあり、園芸界にも商業主義が蔓延し、日本の多様な桜はどれも 絶滅の危機に瀕していました。


 イングラムはその現実を見て、日本の大切な桜が危ないと危機感を抱き、桜を英国へ持ち帰って保存しようと決意しました。


 京都、吉野、富士山麓、仙台、日光と精力的に回りながら、イングラムは懸命に珍しい桜を探しました。


 欲しい桜を見つけると、地元の人をつかまえて、穂木を英国に送ってほしいと頼み込みました。


 これらの穂木はすべ て、その年の冬に英国のイングラム邸に到着しました。


 イングラムはさらに、野生種を人工交配させて、新種の桜を創り出しました。


 こうしてザ・グレンジの庭園では、毎春、多彩な桜が3月中旬から5月末まで次々と花を咲かせ、桜の競演を繰り広げてきました。


 日本の桜は、ザ・グレンジから英国各地へ 広まっていきました。


 イングラムの桜は大西洋を越えて米国にも渡り、チェリー・イングラムの名は広く知られるところとなりました。


第一章 桜と出会う/第二章 日本への「桜行脚」/第三章 「チェリー・イングラム」の誕生/第四章 「本家」日本の桜/第五章 イギリスで生き延びた桜/第六章 桜のもたらした奇跡/関連年表/参考文献






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Last updated  2017.11.26 07:15:24
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