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フェリーチェ・ベアトはイギリス領ゴルフ島出身の報道写真家で、1863年に来日し、1864年の下関戦争に従軍し、1863年~1884年まで日本に在住しました。
日本滞在中、江戸期の各地の風景とさまざまな階層、職業の人々や風俗を撮影しました。
また、横浜、長崎、京都、大坂、神戸、鎌倉、箱根、富士登山、下関戦争、東海道、中山道、日光街道ほかも撮影しました。
”レンズが撮らえた F・ベアトの幕末 ”(2012年11月 山川出版社刊 小沢健志・高橋則英監修)を読みました。
幕末の時代を、外国人戦場カメラマンの目で捕えた日本の各地の写真を紹介しています。
アルバムは、幕末期の駐日オランダ総領事ポルスブルックのコレクションにある、一冊の和装丁アルバムで、現オランダ海洋博物館所蔵となっています。
ほかに、イギリス艦船エンカウンター号の海軍中尉であったダグラス所蔵のものもあります。
2つとも和製本の4つ目綴じで、同じ柄の赤い絹表紙となっていますが、なかにある写真の枚数と台紙数は異なっているということです。
監修は小沢健志さんと高橋則英さん、執筆は田中里美さん、天野圭悟さん、三井圭司さん、谷 昭佳さんです。
小沢健志さんは1925年生まれ、日本大学法文学部卒業、九州産業大学大学院教授、日本写真芸術学会名誉会長などを歴任しています。
日本の幕末から明治期の写真に関する研究については第一人者で、先駆的な研究を行いました。
高橋則英さんは1978年日本大学芸術学部写真学科卒業、日本大学芸術学部助手、専任講師、助教授を経て、2002年から日本大学芸術学部教授を務めています。
専門領域は写真史、画像保存で、近年は日本初期写真史の調査や研究を行っています。
田中里美さんは2005年日本大字芸術学部写貞学科卒業、2007年日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程映像芸術修了、日本大学芸術学部写真学科専任講師です。
天野圭悟さんは法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了、初期写真研究家で主要な研究テーマは近世文化史です。
三井圭司さんは日本大学博士課程満期退学、東京都写真美術館学芸員です。
谷 昭佳さんは植田正治写真美術館学芸員を経て、2000年から東京大学史料編纂所史料保存技術室技術専門職員です。
F・ベアトは、撮影した写真の多くは古くから知られていたにもかかわらず、過去には永くその正体が明らかでない写真家でした。
ベアトの写真は歴史的価値が高いものですが、このような重要な仕事を行った写真家の事歴が永く不明であったのは不思議なことです。
ベアトは1834年、当時イギリス領であったイオニア海のゴルフ島、現ギリシア領の出身です。
1825年にイタリアのヴェネチアに生まれたとする説やほかの説もありますが、いずれにしてもイタリア系の血筋でした。
ベアトの姉(もしくは妹)のマリアはイギリスの写真家ジェームス・ロバートソンと結婚しました。
その関係で、オスマン帝国造幣局の主任彫刻師を務めていたロバートソンから、ベアトと兄のアントニオは写真の技術を学んだと考えられます。
1855年、ロバートソンがクリミア戦争に従軍することになり、ベアトも助手としてクリミアに赴き撮影を行いました。
イギリスの写真家ロジャー・フェントンが従軍撮影した写真が有名ですが、フェントンがコレラにかかり帰国したため、ロパートソンがその代わりとして従軍しました。
ロバートソンとベアト兄弟はその後、パレスチナやエジプトで撮影を行いました。
1857年にはロバートソンがインドにおけるイギリス市の公式写真家となり、ベアトも1858年にインドに赴きました。
ベアトはその後1860年には、アロー戦争ともいわれる第二次アヘン戦争の撮影しようと、イギリス軍司令官サー・ホープーグラントとともに中国に渡りました。
ベアトは、北京の紫禁城の見事なパノラマ写真などを撮影しましたが、北京南東の大活砦の戦いでは戦闘後の城壁の内部など、戦争のリアリティーを伝える写真を撮影しました。
戦争写真家としての十分な経験と実績をもったベアトが日本へやってきたのは、1863年の春ごろです。
来日してすぐにベアトは、エメェ・アンベール率いるスイス外交使節団の江戸市中視察行に同行して撮影を行いました。
その後、横浜外国人居留地にスタジオを構えて活動を始めましたが、イラストレイテッド・ロンドン・ニューズの特派員で画家であるチャールズ・ワーグマンと共同経営でした。
ベアトは中国でワーグマンと知り合い、ワーグマンは1861年にひと足先に来日していました。
1864年の下関戦争の際もワーグマンとともに従軍しました。
日本での撮影はどこでも自由に行うということはできず、開港地から十里四方に設けられた外国人の遊歩区域が生な撮影場所でした。
横浜や同じ開港地である長崎で多くの撮影を行いました。
また、外交使節団とともに行動することで遊区域外の撮影を行うことができました。
1867年にはオランダ総領事ポルスブルックー行の富士登山に同行し、箱根や富士吉田での撮影も行いました。
この時期ベアトは日本各地で、外交筋からの依頼や海外の新聞への寄稿などのため精力的に撮影を行いました。
ベアトのように大判の原板で確かな技術により、幕末の記録を行った写真家はほかにいません。
ベアトの写真の素晴らしさは、優れた技術によって江戸期の日本の様子を数多く現在に伝えている点です。
その後、ベアトは1877年には、スタジオを建物やネガなども含めてスティルフリート&アンデルセンに売却し写真から離れ、投機的な事業に専念することになります。
そして洋銀相場や米相場で大きな損失を出して財産を失い、1884年に20年余り過ごした日本を離れました。
ベアトという写真家には、波乱万丈という言葉がふさわしいと思われます。
また、ベアトについてはまだ謎に包まれていることも多いです。
しかし未だその全容は明らかではないとはいえ、ベアトという優れた写真家の仕事は歴史のなかで光彩を放っています。
F.ベアト写真アルバム/F.ベアトの見た幕末の日本/フェリーチェ・ベアトについて/フェリーチェ・ベアトの生涯/幕末日本の風景/幕末日本の風俗/史料からみるベアト/下関戦争とフェリーチェ・ベアト/最初期ベアトアルバムの史料的考察