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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2018.04.14
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カテゴリ: カテゴリ未分類

 人見勝太郎は幕臣でしたが、後年は、官僚、政治家、実業家に転じ成功を収めました。


 ”幕末「遊撃隊」隊長・人見勝太郎”2017年6月 洋泉社刊 中村 彰彦著)を読みました。


 徳川脱藩と称し、鳥羽・伏見の戦いから五稜郭の戦いを駆け抜け、華麗なる転身をした遊撃隊隊長・人見勝太郎の生涯を紹介しています。


 1843年に京都で生まれ、剣術砲術や儒学を学び、のち徳川義軍遊撃隊に加わり遊撃隊長にもなりました。


 明治元年=1868年に榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国政府が成立したとき、松前奉行を務めました。


 1876年に七等判事として司法省に出仕し、間もなく内務省に転じました。


 1880年に茨城県令に任じられ、5年4カ月にわたりその地位にあって腕をふるいました。


 退官後も、利根運河会社社長、台湾樟脳会社設立発起人などを歴任しました。


 中村彰彦さんは1949年栃木市生まれ、宇都宮高等学校、東北大学文学部国文科を卒業しました。


 在学中に第34回文學界新人賞佳作に入選し、卒業後の1973年から1991年まで文藝春秋に編集者として勤務しました。


 同社の雑誌編集部および文藝出版部次長を歴任し、1987年に第10回エンタテインメント小説大賞を受賞し、1991年より執筆活動に専念してきました。


 1993年に第1回中山義秀文学賞、1994年に第111回(1994年上半期)直木賞、2005年に第24回新田次郎文学賞を受賞しました。


 歴史小説・時代小説を中心に執筆し、日本文藝家協会評議員、憂国忌代表世話人、会津史学会会員、会津親善大使、伊那市ふるさと大使を兼ねています。


 人見勝太郎は徳川脱藩と称して、旧幕府脱走軍を統率しました。


 徳川脱藩という言葉は、旧幕府、あるいは駿府藩となってからの徳川家を去った者、という意味合いで使用されています。


 14代将軍徳川家茂が1866年に病死し徳川慶喜が15代将軍に就任しましたが、翌年に慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出し勅許を受けました。


 この時点で江戸幕府は消滅しましたが、江戸城、二条城、京都守護職、京都所司代などの機構は存続していたため、幕府という言葉に代わって旧幕府という表現が使われたのです。 


 その後、王政復古を布告済みの新政府は徳川一門の徳川家達に宗家を家督相続させ、家達に駿河府中城改め駿府城と駿河一円、遠江、陸奥に70万石の土地を与えると決定しました。


 以後、旧幕府の旗本・御家人たちは駿府藩徳川家の家中の者となり、駿府城は1871年の廃藩置県まで存続しました。


 人見勝太郎は、1843年に二条城詰め鉄砲奉行組同心で、御家人10石3人扶持の人見勝之丞の長男として京都に生まれました。


 1867年に遊撃隊に入隊し、前将軍・徳川慶喜の護衛にあたりました。


 鳥羽・伏見の戦いにおいて、伏見方面で戦い、その敗退後は、江戸へ撤退して徹底抗戦を主張しました。


 遊撃隊の伊庭八郎ら主戦派とともに房総半島へ移動し、請西藩主・林忠崇と合流するなど、小田原や韮山、箱根などで新政府軍と交戦しました。


 奥羽越列藩同盟に関与し、北関東から東北地方を転戦した後、蝦夷地へ渡りました。


 箱館戦争において、箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を渡す使者となり、五稜郭に向かいましたが、峠下で新政府軍と遭遇し、峠下の戦いに参加しました。


 旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、蝦夷共和国の松前奉行に就任しました。


 1869年の箱館総攻撃に際して、七重浜に出陣し、辞世の漢詩を揮毫した旗を翻し戦いました。


 そのとき負傷して箱館病院に入院し、新政府に降伏し、捕虜として豊前香春藩に預けられました。


 1870年に釈放され、5ヶ月間鹿児島に旅し、西郷隆盛などと交遊しました。


 維新後は、1871年に静岡に徳川家が設立した静岡学問所で、校長に相当する学問処大長に就任しました。


 1876年に大久保利通の推挙により勧業寮に出仕し、製茶業務に従事しました。


 1877年に群馬県官営工場所長、1879年に茨城県大書記官、翌年、茨城県令を務めました。


 その後実業界に転じ、1887年に利根川と江戸川を繋ぐ利根運河会社を設立し、初代社長に就任しました。


 また、サッポロビールや台湾樟脳会社の設立に関与しました。


 1897年から旧幕府主催の史談会に出席し、幕末維新期に関する談話を残し、1922年に享年80歳で死去しました。


 人見勝太郎関係資料はかなり少ないですが、”人見寧履歴書”と題する回想録を残しました。


 人見は、維新後、寧=やすしと名乗りました。


 かつて著者は、”KENZAN”という小説誌の第14号と第15号に、”幕臣人見寧の生涯”という歴史ノンフィクションを連載しました。


 同誌は第15号で休刊となったため執筆を中断していましたが、このところ時間ができたので加筆に取りかかったということです。


 本書は、回想録やほかの史料を参看しながら、幕末維新の荒波を浴びつつ生きた、一代の風雲児の足跡をたどっています。


第1章 幕府の遊撃隊に参加して/第2章 敗退/第3章 転進/第4章 脱藩大名との出会い/第5章 箱根戊辰戦争/第6章 奥州転戦の足取り/第7章 「蝦夷島政府」の誕生/第8章 「好し五稜郭下の苔と作らん」/第9章 戊辰の敗者の彷徨/第10章 辣腕の茨城県令






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Last updated  2018.04.14 07:17:38
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