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上杉鷹山は、1751年に高鍋藩江戸藩邸にて秋月種美の次男として生まれ、幼名は直松、直丸、名は治憲と称しました。
1759年に米沢藩主上杉重定との養子内約により、1760年に重定の世子となり上杉家桜田藩邸へ移りました。
“上杉鷹山と米沢”(2016年3月 吉川弘文館刊 小関 悠一郎著)を読みました。
”なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬ成りけり”で知られる、名君・上杉鷹山の思想と行動とゆかりの地を紹介しています。
上杉鷹山は出羽米沢藩藩主上杉家9代を継ぎ、後に、倹約を奨励し、農村復興・殖産興業政策などにより藩財政を改革しました。
領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。
小関悠一郎さんは、1977年宮城県仙台市生まれ、2008年一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了、博士(社会学)として、現在、千葉大学教育学部准教授を務めています。
江戸幕府の成立からおよそ150年、18世紀なかばの日本社会は、大きな時代の変動を経験しつつありました。
全国で商品生産が進み、特産物生産地帯が飛躍的に発展する一方で、その社会には貧富の格差が顕在化しつつありました。
他方で、幕府・諸藩は財政窮乏の度を深めて苦しい生活を余儀なくされる武士が増えました。
商品生産の成果を吸収しようとする幕府・諸藩の政策が各地で百姓一揆に直面するなど、政治・社会の秩序の大きな動揺を経験しました。
鷹山は1766年に元服し勝興と名乗り、従四位下弾正大弼に叙任され、将軍より偏諱を与えられ治憲と改名しました。
1767年に重定が隠居して治憲が米沢藩主となり、1769年に幸姫と婚礼をあげ初めて米沢に入りました。
当時、大名は誰も彼も華美な生活の中に生まれ育っていて、財政赤字の原因などはさっぱり、というありさまでした。
そんななか、少しでも厳しい年貢取り立てや慣行を破る新法が出されれば、年々うち続いてそこかしこから一揆徒党の情報が入ってきました。
慣行を破る新法々の主要なものの一つには、幕府・諸藩が、特権商人・有力農商層らと結んで実施した殖産政策をあげることができます。
商品生産の発展を踏まえて、それぞれの利益を追求する動きが、政策レベルで課題とされたといえます。
それは、江戸時代の政治・社会がそれまで培ってきた規範や秩序を破り、貧富の格差を一層拡大する方向性をはらむものでもありました。
幕藩の為政者たちは、人びとの政治的社会的意識・秩序の動揺と変容にいかに対峙し、どのような選をするかが問われはじめていました。
本書は、こうした時代のなかで、名門大名上杉家に養子に入り、出羽国米沢藩主として政治改革を行ったことで有名な鷹山の生涯とその足跡をたどろうとするものです。
鷹山は上杉家の祖・謙信から数えて10代目の上杉家当主にあたっています。
その謙信と数次にわたり川中島で対峙した武将武田信玄が詠んだ歌に、
”為せば或る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ”
というのがあります。
やればできるし、やらなければできない。できることをできないといってやらないのは愚かなことだ、といった意味です。
これとよく似た
”成せば成る成さねば成らぬ何事も成らぬは人の成さぬ成りけり”
と詠んだのが鷹山です。
上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両、現代の通貨に換算して約150億から200億円に累積する一方、石高が15万石、実高は約30万石でした。
初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れませんでした。
他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かったのです。
そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていました。
加わえて、農村の疲弊や、寛永寺普請による出費、洪水による被害が藩財政を直撃しました。
名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどでした。
新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立しました。
また、それまでの藩主では1500両であった江戸での生活費を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行いました。
ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果、1769年に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れました。
天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していましたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行いました。
また、曾祖父・綱憲が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。
1773年に改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発しましたがこれを退けました。
これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済しました。
1785年に家督を前藩主・重定の実子で治憲が養子としていた治広に譲って隠居しましたが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導しました。
隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移りました。
1802年に剃髪し、米沢藩領北部にあった白鷹山からとったと言われる鷹山と号しました。
1822年4月2日早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に享年72歳で死去しました。
法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所にあります。
〝成せば成る〟上杉鷹山への眼差し
Ⅰ 上杉鷹山の履歴書/藩主への道/「仁政」を求めて-明和・安永改革の展開/隠退の謎/寛政の改革)/日本史教科書のなかの藩政改革/人物相関/
Ⅱ 藩政改革の思想/学問・知識と藩政改革/「明君」と民衆/「改革」のシンボル-明君像の形成と変容)-/仁政徳治と法治主義/
Ⅲ 米沢をあるく/米沢城跡/祠堂(御堂)跡/上杉神社・稽照殿/松岬神社/餐霞館遺跡/上杉家廟所(御廟所)/米沢市上杉博物館/市立米沢図書館/藉田遺跡/黒井半四郎灌田紀功の碑/常慶院/長泉寺/春日山林泉寺/酒造資料館 東光の酒蔵/普門院・羽黒神社/文教の杜ながい・丸大扇屋)/
参考文献/上杉鷹山略年表