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藤田嗣治は1886年東京市牛込区新小川町生まれのフランスのエコール・ド・パリの代表的な画家で、第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動しました。
1920年代のパリを拠点に活躍した最初の日本人美術家として知られる藤田嗣治の没後半世紀に際して、遺族の手元以外から見つかった多くの書きもの=日記や手紙を紹介しています。
“藤田嗣治 手紙の森へ”(2018年1月 集英社刊 林 洋子著)を読みました。
日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の乳白色の肌とよばれた裸婦像などが西洋画壇の絶賛を浴びました。
父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごしました。
父・藤田嗣章は、大学東校で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監にまで昇進しました。
林 洋子さんは1965年京都府生まれ、1989年東京大学文学部美術史学科卒、1991年同大学院修士課程修了し、東京都現代美術館学芸員となりました。
その後、パリ第1大学博士課程修了、博士号取得、2001年京都造形芸術大学助教授、2007年准教授、2015年国際日本文化研究センター客員准教授を務めています。
近現代美術史、美術評論が専門で、文化庁 芸術文化調査官を務めました。
2008年にサントリー学芸賞、2009年に渋沢クローデル賞ルイ・ヴィトンジャパン特別賞、日本比較文学会賞を受賞しました。
著書に、『藤田嗣治 作品をひらく 旅・手仕事・日本』2008年、『藤田嗣治手しごとの家』2009年)、『藤田嗣治 本のしごと』2011年、『藤田嗣治 手紙の森へ』2018年などがあります。
藤田は熊本県師範学校附属小学校、高等師範附属小学校、高等師範附属中学校を卒業し、森鴎外の薦めもあって、1905年に東京美術学校西洋画科に入学しました。
当時の日本画壇は、フランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされていました。
1910年に同校を卒業。卒業に際して製作した自画像は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれていました。
精力的に展覧会などに出品しましたが、当時黒田らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選しました。
1911年に長野県の木曽へ旅行して作品を描き、また薮原の極楽寺の天井画を描きました。
この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚し、新宿百人町にアトリエを構えました。
しかし、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻しました。
1913年に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構え、後に親友とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合いました。
彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリングらと交友を結びました。
1914年に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮しました。
戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに、描いた絵を燃やして暖を取ったこともあったそうです。
そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエと2度目の結婚をしました。
このころ初めて藤田の絵が売れ、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになりました。
シェロン画廊で開催されたこの最初の個展でよい評価を受け、絵も高値で売れるようになりました。
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立されました。
以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができ、サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声が高まりました。
2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、フランス人女性リュシー・バドゥと結婚しました。
リュシーは教養のある美しい女性でしたが、酒癖が悪く夫公認で詩人と愛人関係にありその後離婚しました。
1931年には、新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへ向かいました。
その後1933年に南アメリカから日本に帰国し、1935年に25歳年下の君代と出会い一目惚れして、翌年5度目の結婚をして終生連れ添いました。
1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国しました。
その後再びパリへ戻りましたが、1914年9月に第一次世界大戦が勃発し、翌年ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされました。
その後太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手がけました。
終戦後の連合国軍の占領下において、戦争協力者と批判されることもあり、1949年に日本を去ることとなりました。
フランスに戻った時にはすでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命していましたが、その後もいくつもの作品を残しました。
1955年にフランス国籍を取得し、1957年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られました。
藤田はヨーロッパで初めて本格的に勝負し、相応の成果をあげ、作品を現地で売ることで生活できた最初の日本人美術家、パイオニアであり、2018年は藤田が逝って50年にあたります。
太平洋戦争下の作戦記録画への前のめりな取り組みや振る舞い、そしてその後の離日、国籍変更、カトリックヘの改宗など、前半生の功績をかき消すほどのノイズが多い作家でもあります。
毀誉褒貶のはげしい、生々しい存在が、死後、時間が経過し、次第に歴史的存在へと、身体感覚が希薄になり、残した作品だけでなく、日記や手紙の存在が確認され、整理公開、復刻が進んでいます。
本書は、生前の画家が書いた手紙をテーマとしています。
藤田のもとに残っていた来信はそう多くありませんが、藤田から手紙をもらった人、もしくはその遺族や関係者の手元に残っていました。
それらは、家族あて、同業の美術家あて、コレクターなど支援者あてと三種類に大別できます。
航空郵便の全盛期、目方を軽減するための裏面が透けるような薄い便箋に、インクでぎっしり書かれた文字群には相手への思いのこもったイラストレーションが添えられることもしばしばでした。
こうした紙の上の手しごとをまとめることが、藤田の多面性のいっそうの理解につながると願います。
いくつかの手紙は、藤田の人生の転機の証言者となるはずです。
さあ、手紙の封を切りましょう。
第一信 明治末の東京からはじまる/第二信 一九一〇年代の欧州から、日本の妻へ/第三信 一九二〇年代のパリで/第四信 一九三〇年代 中南米彷徨から母国へ/第五信 太平洋戦争下の日本で―後続世代へ/第六信 敗戦の影―パリに戻るまでの四年半/第七信 フランク・シャーマンへの手紙―GHQ民生官との交流/終 信 最晩年の手記、自らにあてた手紙としての
*フランク・シャーマンは、元連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政官で、藤田の戦後のアメリカ・ フランス行きを支援した人物。