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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.11.16
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 伝えておかねばならない戦争の時代として、平成から令和に変わったいまこそ、昭和史は伝えておかねばならない歴史です。

 ”半藤一利 橋をつくる人 (のこす言葉KOKORO BOOKLET)”(2019年5月 平凡社刊 半藤 一利著)を読みました。

 いま89歳であるがまだまだやる気まんまんの昭和史の第一人者が語る、波瀾の生涯と痛快人生を紹介しています。

 半藤一利さんは1930年東京都生まれ、東京大学文学部を卒業し、文藝春秋社に入社し、週刊文春、文藝春秋編集長、取締役などを経て作家となりました。

 先祖は長岡藩士で、東京府東京市向島区、現在の東京都墨田区に生まれた。実父は運送業と区議をつとめ、近所に幼少期の王貞治が住んでいて顔見知りでした。

 東京府立第七中学校に入学し、1945年3月の東京大空襲では逃げまどい、中川を漂流し死にかける体験をしたそうです。

 茨城県の県立下妻中学校を経て、父の生家のある新潟県長岡市へ疎開し、県立長岡中学校3年次で終戦を迎え、卒業後に東京へ戻りました。

 浦和高等学校 (旧制)を学制改革のため1年間で修了し、東京大学へ進学しました。

 大学ではボート部で活躍しました。

 東京大学文学部国文科を卒業し、ボート部の映画ロケで知己をえた高見順の推薦で、1953年に文藝春秋新社に入社しました。

 流行作家の坂口安吾の原稿取りをして、坂口から歴史に絶対はないことと歴史を推理する発想を学び、冗談めかして坂口に弟子入りしたと称しています。

 続けて軍事記者の伊藤正徳の担当となり、日本中の戦争体験者の取材に奔走し、週刊文春に無署名で人物太平洋戦争を連載しました。

 社内で太平洋戦争を勉強する会を主宰して、戦争体験者から話を聞く会を開催しました。

 半藤は座談会の司会も務め、さらに取材して1965年に単行本『日本のいちばん長い日--運命の八月十五日』を執筆しました。

 売るための営業上の都合から大宅壮一の名前を借りて大宅壮一編集として出版された。単行本は20万部、角川文庫化されて25万部が売れました。

 この他にも30代前半は編集者生活と並行して、太平洋戦争関係の著作を何冊か出しました。

 その後、漫画読本の編集長に就任して1970年に休刊を迎えた後、増刊文藝春秋の編集長になりました。

 ムック「目で見る太平洋シリーズ」「日本の作家百人」「日本縦断・万葉の城」を手掛けました。

 次いで週刊文春編集長となり、ロッキード事件の取材で陣頭指揮を執りました。

 1977年4月に、文藝春秋編集長の田中健五と入れ替わる形で、田中が週刊文春編集長に、半藤が文藝春秋編集長に就任しました。

 1980年に季刊誌くりまの創刊編集長となったが、2年後に第9号で休刊しました。

 この間の編集長時代の13年ほどは、本職の編集業に専念するため、著述活動は控えていました。

 1993年に、『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞を受賞しました。

 出版責任者として、書き下ろしノンフィクションシリーズを手掛け、1988年に全3巻の『「文芸春秋」にみる昭和史』を監修しました。

 専務取締役を務めた後、1995年に文藝春秋を退社し、本格的に作家へ転身した。近代以降の日本の歴史を昭和を中心に執筆し、歴史探偵を自称しています。

 1998年に『ノモンハンの夏』で山本七平賞、2006年に、『昭和史』で毎日出版文化賞特別賞をそれぞれ受賞しました。

 2009年に語り下ろしで出版された『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』は単行本で45万部、平凡社ライブラリーでは23万部の売れ行きを示しました。

 2015年に、第63回菊池寛賞を受賞しました。

 妻の半藤末利子は、作家の父・松岡譲と夏目漱石の長女の母・筆子夫妻の四女で、漱石周辺に関する随筆を多く執筆しています。

 夏目漱石は義祖父、松岡譲は岳父です。

 夏目漱石が大正5年8月24日、芥川龍之介と久米正雄に宛てた長い手紙で、文壇や世間の評判を考えるのでなく、人間そのものを根気よくただ一筋に押し続けるのだと述べています。

 パッと出た火花のような一瞬のものは後には残らないと書いているのです。

 同じようなことを、兼好法師が『徒然草』で、

「されば、一生のうち、むねとあら圭ほしからむことの中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし」

と書いています。

 松尾芭蕉も『笈の小文』で、「ついに無能無芸にして只此一筋に繋がる」と書いています。

 これは、と思う三人の先人が、一つのことに心を定め、それだけに集中して、他は思い捨てても構わない、それが人生の要諦ですと同じことを言っています。

 あれもやろう、これもやろう、あっちに目を配り、こっちにも目を配り、とやっていては何もかも中途半端になってものになりません。

 ただし、これ、という一つの道を思い定めるまでが難しいのです。

 自分がいちばん好きで、気性に合っていて、これならやってみたいと思うことを10年間、ほんとうにこれ一筋と打ち込んでやれば、その道の第一人者になれます。

 何でもいい、それが著者の場合は「昭和史」だったといいます。

 改めて1から昭和の歴史に取り組んでよかったのは、自分のなかでわからなかったこと、つまりどうしてここでこうなっちゃうのかな、というところが理解できたことです。

 昭和史という一つの流れを、大づかみだけれど丁寧に辿っていったことは、ものすごく勉強になったといいます。

 よく「歴史に学べ」というが、「歴史を学べ」のほうが今の日本人には正しいと思います。

 まずは知ること、そうして歴史を学んでいれば、あるとき突然、目が開けます。

 今は戦前と違って、いくらでも各国の人の交流があり、悲惨な戦争体験の人たちが元気なうちまだ大丈夫ですが、その先のことは、少し下の世代、さらに若い人たちの双肩にかかっています。

 そのためにも、今を生きる人と昭和史のあいだに橋を架ける仕事をしなければなりません。

 自分の人生を漢字一字にたとえるとすると「漕」であり、艇だけじゃなく昭和史も漕ぎつづけてきました。

 ゴールはなくても、飽きずに一所懸命に漕いできました。

 「続ける」ということ、決して諦めず、牛のようにうんうん押していくことです。

遊びつくした子ども時代/大空襲と雪中鍛練/ボートにかけた青春/「昭和史」と出会った編集者時代/遅咲きの物書き、「歴史の語り部」となる/「のこす言葉」(直筆メッセージ)人間八十歳を超えると「一期一会」を日々意識する。人の生命には「果て」あり、つまり「涯」である。中国の『荘子』にいわく。「生に涯あり、されど知に涯なし」。八十九爺はそれで頑張っている。されば諸兄よ、奮闘努力せよ。






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Last updated  2019.11.16 06:37:17
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