心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2020.10.24
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 藤原冬嗣は右大臣・藤原内麻呂の二男で、平安時代の藤原北家隆盛の素地をつくったと評されます。

 ”藤原冬嗣”(2020年8月 吉川弘文館刊 虎尾 達哉著)を読みました。

 平安前期の藤原北家の貴族で嵯峨天皇の信任厚く、初代蔵人頭を務め側近として政界の頂点に立ち、摂関家興隆の基礎を築いた藤原冬嗣の生涯を紹介しています。

 後の嵯峨天皇が皇太弟となったとき、東宮大進=とうぐうだいしん東宮亮となり、皇太弟の信任厚く、天皇即位後の昇進には著しいものがありました。

 810年3月に初めて蔵人を置いたとき蔵人頭を兼ね、同年9月の薬子の変後式部大輔=しきぶたいふ、ついで翌年参議に昇進し、以後右大臣となりました。

 そして、淳和天皇即位後、左大臣に昇進し、嵯峨朝および淳和朝初期の重要政務に関与しました。

 虎尾達哉さんは1955年青森県生まれ、1979年に京都大学文学部史学科卒業、1983年に同大学院文学研究科博士課程中退し、1997年に京都大学博士(文学)となりました。

 1999年にロンドン大学東洋アフリカ学院客員研究員となり、現在は鹿児島大学法文学部教授を務めています。

 藤原冬嗣は775年生まれ、平安時代初期の公卿・歌人で、母は飛鳥部奈止麻呂の娘,百済永継、官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣でした。

 桓武朝では大判事・左衛士大尉を歴任し、806年に桓武天皇が崩御し皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位し、平城天皇は弟の神野親王を皇太弟としました。

 平城天皇が即位すると従五位下・春宮大進に叙任され、翌年に東宮亮に昇進しました。

 平城朝では皇太子・賀美能親王に仕える一方、侍従・右少弁も務めました。

 809年4月に平城天皇は発病し、病を叔父早良親王や伊予親王の祟りによるものと考え、禍を避けるために譲位を決意しました。

 天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍・藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は極力反対しましたが、天皇の意思は強く同年4月に神野親王が即位し嵯峨天皇となりました。

 809年の即位に伴い、冬嗣は四階昇進して従四位下・左衛士督に叙任されました。

 810年正月に平城上皇は旧都の平城京へ移りましたが、観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことから平城上皇が怒り、二所朝廷といわれる対立が起こりました。

 平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成は、この対立を大いに助長しました。

 当時の太上天皇には天皇と同様に国政に関与できるという考えがあり、場合によっては上皇が薬子の職権で内侍宣を出して太政官を動かす事態も考えられました。

 平城上皇と嵯峨天皇とが対立し、810年9月に薬師の変が起こりましたが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着しました。

 平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰されました。

 薬子の変に際し嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、冬嗣は巨勢野足と共に初代の蔵人頭に任ぜられました。

 乱後の11月に従四位上に叙せられ、翌年に参議に任ぜられて公卿に列しました。

 その後も、812年正四位下、814年従三位、816年権中納言、817年中納言と、嵯峨天皇の下で急速に昇進しました。

 そして、冬嗣より10年近く早く参議となっていた藤原式家の緒嗣を追い越し、819年には右大臣・藤原園人の薨去により、大納言として台閣の首班に立ち、さらに821年に右大臣に昇りました。

 823年4月10日に嵯峨天皇は突如として、宮中から京内の冷然院に遷りました。

 右大臣の冬嗣が召喚され、嵯峨天皇から詔が下されました。

 冬嗣は嵯峨天皇の東宮時代に東宮坊宮人として仕え、即位後の薬子の変の際には新設の蔵人頭として嵯峨天皇を助け、嵯峨朝後半期の長期に及ぶ深刻な被災期も筆頭公卿として嵯峨天皇を支え続けました。

 まさしく側近中の側近であり、嵯峨天皇の長年の宿志を知らなかったはずはありません。

 その冬嗣でも、いざ嵯峨天皇の口から譲位の意志を伝えられたとき、当惑の色を隠せなかったといいます。

 意志を尊重しつつも、もし一人の天皇と二人の上皇がいることになれば、天下が持ちこたえられなくなると諫めました。

 嵯峨朝後半期以降、連年のように列島を襲った自然災害に対処し、冬嗣は悪化の一途を辿る国家財政の建て直しに筆頭公卿として心を砕きました。

 一天皇とは大伴親王、ほかの二上皇とは平城上皇と嵯峨新上皇ですが、平城上皇はすでに政治の世界から身を退いて久くなっていました。

 嵯峨新上皇もかつての当事者として、冬嗣同様、あるいはそれ以上にかつての二所朝廷を苦い経験として胸に刻んでいました。

 長期の災害による国家の窮地から脱しきれていない状況の下、財源の逼迫に加え王権分裂の危機まで招来するような種子は播きたくありません。

 国政を預かる政府の最高責任者として、万に一つの危険であっても摘み取っておきたかったのでした。

 しかしながら、結局嵯峨天皇は譲位の宿志を貫いたため、もはや翻意を諦めるほかありませんでした。

 冬嗣は嵯峨天皇の側近中の側近であり、平安初期においてその積極性と唐風文化への傾斜から、ひときわ光彩を放った嵯峨天皇の政治は、この冬嗣の存在なしにはありえませんでした。

 淳和朝に入り、825年に淳和天皇の外叔父の藤原緒嗣が大納言から右大臣に昇進すると、冬嗣は左大臣に昇進しましたが、翌年7月24日に享年52歳で薨去しました。

 最終官位は左大臣正二位兼行左近衛大将で、没後まもなく正一位を贈られました。

 平安左京三条二坊にあった私邸が閑院邸と称された事から、閑院大臣と言われます。

 冬嗣は人としての器量が温かくかつ広く、見識も豊かで文武の才を兼備し、対応も柔軟で物事に寛容に接し、よく人々の歓心を得たといいます。

 嵯峨天皇は東宮時代からこのような逸材に日々接し、やがてこれを重用して厚い信頼を寄せました。

 それゆえ、ことに冬嗣が筆頭公卿となった嵯峨朝後半の政治は、嵯峨天皇の政治であると同時に冬嗣の政治でもありました。

 政治家冬嗣が冬嗣のすべてではなく、藤原氏の族長でもありました。

 藤原氏といえば、ともすれば権力の中枢にあって栄華や富貴を誇った人々を思い浮かべがちですが、それはごく一部です。

 すでに平安初期においても、同族中に貧しく生活に困難を来すような人々が多く存在しました。

 冬嗣は族長としてそのような人々を救済する策を進んで講じたほか、藤原氏一族に多大の貢献を行いました。

 冬嗣は摂政良房・関白基経の父・祖父であり、自身天皇家との姻戚関係を積極的にとり結ぶことによって、のちの摂関家隆盛の基礎を築きました。

 初代の蔵人頭、勧学院の創設者、興福寺南円堂の創建者としても名高いです。

 冬嗣がどのようにして嵯峨天皇の側近となり、どのようにして支え、やがてともにどのような政治を進めていったのでしょうか。

 嵯峨朝ひいては平安初期の政治を正しくまた豊かに理解するためには、人格・才能ともに秀でたこの冬嗣という政治家の実像に何としても迫らねばならないといいます。

 また、冬嗣の生きた時代はいわゆる文章経国思想の隆盛期でした。

 冬嗣も嵯峨天皇や他の多くの貴族・宮人同様、詩歌をよくする当代一流の文人でした。

 文人冬嗣は、実は薫物=たきもの合香家でもありました。

 薫物とは各種の香料を調合して作る練香のことで、平安時代の香といえばこの薫物でした。

 冬嗣は後世、その薫物の調合を考案する合香家の嚆矢と目され、薫物の歴史は冬嗣に始まるといいます。

 さらに、冬嗣は自身仏教に深く帰依しましたが、平安仏教の二大祖師、天台宗の最澄と真言宗の空海にとって、特に有力な支援者の一人でした。

 本書は、薬子の変や頻発する自然災害に大きく左右された時代に生きた、非凡な政治家の生涯に迫っています。

第1 父・内麻呂の時代/第2 官僚としての冬嗣/第3 冬嗣政権への道/第4 嵯峨朝後半期の冬嗣政権/第5 淳和朝初期の冬嗣政権/第6 さまざまな冬嗣ー族長・文人・合香家・仏教外護/第7 冬嗣の死とその後






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.10.24 07:30:47
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: