心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2021.07.17
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類

 ”徳川おてんば姫 ”(2018年6月 東京キララ社刊 井出 久美子著)を読みました。

 江戸幕府最後の第15代将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍であった、徳川慶喜の七男・慶久の四女として生まれ、小石川第六天町の徳川邸の屋敷で生まれ育った、孫娘自身が綴る波乱万丈な”おてんば”自叙伝です。

 大政奉還は、256年続いた江戸時代の終焉というだけでなく、700年近く続いた武家社会の終わりでもあります。

 今の私たちの暮らしは、過去の歴史の積み重ねと、こうした大きな転換点の先に成り立っていることを忘れてはいけないと、昔のことを思い起こす機会が増えたそうです。

 徳川慶喜は1837年生まれの江戸幕府第15代征夷大将軍で、在職は1867年1月10日から1868年1月3日でした。

 江戸幕府最後の将軍であり、日本史上最後の征夷大将軍でした。

 在任中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍で、最も長生きした将軍です。

 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に、将軍後見職や禁裏御守衛総督などの要職を務めました。

 徳川宗家を相続した約4か月後に、第15代将軍に就任しました。

 大政奉還や新政府軍への江戸開城を行ない、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員となりました。

 1888年に 静岡県の静岡城下の西草深に移住し、1897年に再び東京の巣鴨に移住しました。

 1901年に小日向第六天町に移転し、1902年に公爵を受爵し、徳川宗家とは別に、徳川慶喜家の創設を許されました。

 1908年に大政奉還の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与されました。

 1910年に慶久に家督を譲って、貴族院議員を辞めて隠居しました。

 1913年に死去し、勲一等旭日桐花大綬章を授与されました。

 正室の美賀子は権大納言今出川公久の娘ですが、いったん関白一条忠香の養女となってから慶喜に嫁いだため、明治天皇の皇后となった忠香の三女一条美子の義姉にあたります。

 この正室のとの間には1858年に生後5日で夭折した女子がいます。

 明治になって誕生した10男11女はすべて、2人の側室新村信と中根幸との間に儲けた子女です。

 徳川慶喜公爵家を継いだのは七男の慶久で、長女は昭和天皇の次弟高松宮宣仁親王に嫁いだ喜久子妃です。

 慶久は1884年に静岡市葵区紺屋町の屋敷で生まれ、母は側室の新村信、初名は久でした。

 宮川喜久蔵、次いで黒田幸兵衛のもとに預けられました。

 1896年に妹英子とともに、静岡から東京に移り学習院に入学しました。

 徳川慶喜家の継嗣となるにあたって、1902年に父の偏諱をとり慶久と改名しました。

 1906年に学習院高等科を卒業し、1908年に有栖川宮威仁親王の第二王女の實枝子と結婚しました。

 實枝子は有栖川宮最後の王女で、次女・喜久子が有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王と結婚しました。

 1910年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に貴族院議員となりました。

 兄は徳川慶光、長女は慶子、次女は喜久子、三女は喜佐子で、四女が久美子です。

 慶久は1922年に東京府東京市小石川区第六天町54番地の本邸で急死し、没後、正三位勲三等瑞宝章を追贈されました。

 井出久美子さんは1922年に東京小石川区第六天町の徳川慶喜家に四女として生まれ、父は徳川慶久、母は有栖川宮家から嫁いだ實枝子です。

 いまでは兄も姉たちも亡くなり、気がつけぱ、この屋敷のことを語れるのは自分だけとなってしまい、書き残し伝えるには今をおいてほかはないという思いで筆を進めたといいます。

 武家社会が終わってもまだまだお家が何よりも重んじられていた時代に、徳川がどのような立場にあったか、第六天町の暮らしから学校生活、結婚、夫の戦死と再婚、華族制度の廃止後まで、覚えている出来事を書き綴ています。

 生まれ育った家は、徳川慶喜終焉の地として知られている場所で、屋敷跡は現在、国際仏教学大学院大学の敷地になっています。

 現住所は東京都文京区春日二丁目ですが、当時の町名にちなんでこの屋敷のことを「第六天」と呼んでいました。

 今の春日通りと巻石通りの間、神田川へ向かって緩やかに下る高台にありました。

 その頃は遠くに富士山も見え、広々としてとても静かなところだったそうです。

 東側の新坂、西側の今井坂にはさまれ、新坂を下る向こう側には、金富尋常小学校がありました。

 新坂を上り春日通りを進んだ先には、徳川家の菩提寺・伝通院がありました。

 家康公の生母の於大の方や、秀忠公の長女の千姫が眠っています。

 東に歩けば光圀公ゆかりの小石川後楽園もあり、いずれも史跡として当時の面影を今に伝えています。

 慶喜公が、なぜ最期の地として第六天を選んだのかは、今になって気持ちを察することができるように感じるといいます。

 江戸城を追われ、身一つで静岡に隠棲したけれども、やはり最期に暮らすのは江戸、とりわけ徳川に縁の深いこの地でと考えられたのではないでしょうか。

 徳川邸は小石川区小日向第六天町五十四番地で、敷地西側の谷を挟んだ八番地には会津松平家がありました。

 新坂を神田川に向かって下り、丸ノ内線の線路を渡った辺りが、当時の屋敷の正門です。

 お客様はこの正門から、お客様以外の方は正門の脇の内玄関から、出入りの業者さんは勝手口のような別玄関からと、三つの玄関をそれぞれに使い分けていました。

 久美子さんが生まれたのは1922年9月22日であしが、22日は慶喜公の月命日で、父慶久の月命日も22日のため、母が届け出を23日にしたといいます。

 当時は病院での出産はほとんどなかったため、屋敷に有名なお産婆さんが来て取り上げてもらったといいます。

 兄弟姉妹も同じお産婆さんだったそうです。

 生まれた翌年の1923年に、関東一円を大地震が襲いました、

 母と自分は第六天に残っていましたが、姉の喜久子と喜佐子、兄の慶光は、夏休みで葉山の別荘にいました。

 別荘では、茅葺屋根の台所部分が崩壊し女中二人が生き埋めになってしまいましたが、どうにか無事に助け出されたとのことでした。

 第六天でも、周囲の家には火災で大きな被害がありました。

 屋敷は元々この場所にあった武家屋敷で、慶喜公が移り住んでからだいぶ増築・改築をしました。

 住んでいた頃は、建物が1300坪ぐらい、そして広いお庭があり、敷地の広さは3400坪とされていました。

 敷地の西側は石積みの急な崖があり、今も変わることなく当時の姿のまま残ってます。

 北側は高台で、それぞれに庭が付いた戸建の家が長屋のような形で並んでいました。

 ここは、家令の事務所や住居であったり、主治医や教師の住居として使われていました。

 家令は江戸時代でいう筆頭家老のような存在で、事務や会計の管理、使用人を束ねる役など、屋敷の運営全般を取り仕切っていました。

 戸建の南が屋敷の中の口で、使い走りの運転手や請願巡査の長屋がありました。

 請願巡査とは、一般個人からの依頼で派遣された警察官です。

 自分たちが暮らす屋敷はその南側にあり、敷地の中央でした。

 屋敷には部屋と中庭がいくつもあり、延びた廊下は長く幾度も曲がり、お寺かお城を思わせる作りでした。

 屋敷の南側は広い斜面のお庭になっていて、春には芝生の広場にクローバーやタンポポやレングが咲き乱れ、初夏はツツジの花が斜面を彩り、秋になると萩の花がそよぎました。

 一つ上の姉の喜佐子と自分には八畳間と九畳間の部屋があてられ、二のお方と呼ばれていました。

 後に高松宮妃殿下となった11歳上の姉の喜久子の部屋は一のお方と呼ばれ、西側の庭に面した洋間と十二畳の和室があり、その隣には母の部屋がありました。

 父・慶久が早くに亡くなり女所帯でしたから、9つ違いの長男の慶光は普段屋敷には住まず、御修行所という町のしもた屋で、書生やお付きの者と暮らしていました。

 日曜日だけ屋敷に戻って来ては、自分たちと遊んでくれました。

 年子の姉の喜佐子と自分は、毎日の服までおそろいで何をするのも一緒で、まるで双子のように育てられ、お二方様と呼ぱれていました。

 自分たちはとんでもないお転婆娘で、まるで男の子の兄弟みたいに石垣を駆け上ったり下りたり、鬼ごっこをして庭中を走り回って遊んだといいます。

 久美子さんは1941年に旧福井藩の当主で侯爵松平康昌氏の長男である康愛氏と結婚しました。

 康昌氏は1893年生まれ、昭和期の日本の華族、官僚で、旧福井藩主家第19代当主でした。

 従二位勲一等侯爵で、明治大学政治経済学部教授や相模女子大学学長を務めました。

 夫康愛氏は海軍将校として、結婚から3か月後には軍隊生活で、当初は、月に1~2回は自宅に戻ってきていました。

 1942年に男児を出産しましたが、男児は2日後に亡くなったそうです。

 当時の食糧・医療事情の不安定さが分かります。

 その後、1944年に長女を無事出産しましたが、戦局が悪化し東京都八王子市に疎開しました。

 幼子を抱えて農作業に薪割り水汲みをこなし、出征した夫の帰りを待つ日々でした。

 しかし、終戦の翌年届いたのは、夫戦死の報告でした。

 夫と死別した当時、久美子さんはまだ20代前半で。当時の慣習で本人の意志と関わらず再婚話が出てきました。

 結局、夫の友人で復員した医師の井手次郎さんと1947年に再婚しました。

 一方、前の婚家である松平家が、血筋を絶やさないために、長女を引き取ったといいます。

 久美子さんも徳川家の人間で、家の重みは十分理解していましたので、涙を呑んで自分だけが離籍したそうです。

 2年ほどして次郎さんは横浜市の下町で開業し。忙しいときは久美子さんも手伝ったといいます。

 喧嘩のケガ人が駆け込んでくるような現場でしたが、持ち前の順応性ですぐに慣れました。

 とはいえ、酔っ払いがいたり娼館があったりと良い環境ではなく、長男の淳さんも生まれたので、2年たらずでその医院は閉めました。

 その後は喜久子妃殿下のはからいで、高松宮邸内の官舎に移り、その中に医院を開設し、夫は生涯現役を貫きました。

 その医院の閉院後は、千葉県で団地住まいをして、デイサービスに通いつつ、静かな余生を暮らしました。

 2004年に次郎さんが死去し、2018年に96歳で本書を出版して作家デビューしました。

 そして、発刊から1か月後、 ホッとしたように静かな眠りにつきました。

 本書の最後に、著者の息子の井出純さんが謝辞を述べています。

 母が執筆を思い立ってから10数年、書き進めては休み、しばらく休んでは再開し、文藝春秋社から東京キララ社様に制作のバトンを引き継いで頂き、ようやく完成までたどり着いたといいます。

はじめに/第一章 第六天の暮らし/慶喜終焉の地、小日向第六天町/第六天の子供たち/「表」と「奥」の五十人/第六天のお正月/御授爵記念日/おとと様とおたた様/第二章 学校生活/おひい様の学校/「金剛石 水は器」/やりにくい歴史の授業/修辞会、体操会、遠足/御當日/葉山と軽井沢の夏休み/有栖川御流/絵と写真/第三章 結婚と戦争/結婚/新婚生活と戦争の足音/太平洋戦争の開戦/長男・長女の誕生と出征/疎開と空襲/終戦/戦死の知らせ/不思議な巡り合わせと娘との別れ/『精強261空〝虎〟部隊サイパンに死すとも』/第四章 戦後を生きる/再婚・目白での大家族暮らし/横浜の下町で開業/高松宮邸/世が世なら/高輪での暮らし/井手八景/殿下・妃殿下との思い出/第六天再訪/謝辞

[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]



徳川おてんば姫 [単行本] 井手 久美子9784903883298【中古】






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.07.17 08:20:00
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: