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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2022.01.22
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 本能寺は京都市中京区下本能寺前町にある法華宗本門流の大本山の寺院。で、本能寺の変の舞台として知られています。

 ”真相解明「本能寺の変」 光秀は「そこに」いなかったという事実”(2021年7月 青春出版社刊 菅野 俊輔著)を読みました。

 明智光秀が京都の本能寺に滞在中の信長を不意に襲い自害に追い込んだと言われる本能寺の変について、明智側の古文書が石川県内で見つかり、これまでの定説をくつがえす可能性があるといいます。

 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てました。

 信長の嫡男で織田家当主の織田信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦しましたが、まもなく火を放って自刃しました。

 これにより信長、信忠を失った織田政権は瓦解しました。

 6月13日(西暦7月2日)の山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉が、豊臣政権を構築していく契機となりました。

 光秀が主君で天下人の信長を討った本能寺の変は、光秀の謀反の真相が明らかでなかったため、これまで日本史上最大の謎とされてきました。

 しかし、本能寺の変について、その真相を語る新たな史料が令和3年(2021年)1月に発見されたといいます。

 金沢市立玉川図書館近世史料館に、加賀藩前田家の史料が収蔵されていて、膨大な史料のなかに加賀藩士が古老の聞き書きをまとめた、『乙夜之書物』三冊本がありました。

 新発見史料は、日本の歴史上、最大の謎といえる、本能寺の変の真相を語っているそうです。

 菅野俊輔さんは1946年東京生まれ、早稲田大学政治経済学部を卒業、現在、歴史家・江戸文化研究家として、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍しています。

 早稲田大学エクステンションセンター、朝日カルチャーセンター、毎日文化センター、読売・日本テレビ文化センター、小津文化教室で古文書解読講座の講師を務めています。

 本能寺は、当初は本応寺という寺号で、応永22年(1415年)に、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されました。

 寺地は北を五条坊門小路、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地でした。

 応永25年(1418年)に本応寺はいったん破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移りました。

 永享元年(1429年)に帰洛して、大檀那・小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建しました。

 永享5年(1433年)に檀那・如意王丸から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を本能寺と改めました。

 その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けました。

 応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し題目の巷と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めました。

 天文5年(1536年)の天文法華の乱で、延暦寺・僧兵により堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難しました。

 天文年間の戦国時代に帰洛し、日承上人が入寺して本能寺8世となりました。

 天文14年(1545年)に平安京の東・西洞院大路、西・ 油小路、北・六角小路、南・四条坊門小路にわたる一町約120メートル四方に寺地を得て、伽藍が造営され、子院も30余院を擁しました。

 その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立しました。

 織田信長は上洛中の宿所として妙覚寺を使用することが多く、本能寺を宿所とすることは3回と稀でした。

 しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)は息子の織田信忠が妙覚寺に逗留しており、信長は本能寺を宿所としていました。

 その本能寺を明智光秀の率いる軍勢が包囲し、襲われるという本能寺の変が起き、その際の兵火で堂宇が焼失しました。

 『信長公記』では同寺で信長が切腹したとしていますが、遺体は発見されず、その最期は明らかではありません。

 しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養しています。

 7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じています。

 天正19年(1591年)に、豊臣秀吉の命で現在の寺域の中京区下本能寺前町へと移転させられました。

 伽藍の落成は天正20年(1592年)で、現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地でした。

 元和元年(1615年)に、江戸幕府から朱印地40石を与えられ、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば、末寺92を数える大寺院になっていました。

 織田信長は天文3年(1534年)に織田信秀の嫡男として、尾張国・勝幡城で生まれ、幼名は吉法師と言いました。

 天文15年(1546年)に元服し織田三郎信長を名乗り、後見役を織田家の忠臣・平手政秀が務めました。

 天文16年1547年)に吉良大浜にて駿河勢の今川義元方と対陣し、初陣を果たしました。

 天文18年(1549年)に尾張と敵対していた美濃国の領主・斎藤道三と織田信長の父・織田信秀が和睦し、濃姫を妻として迎え、斎藤道三の娘婿となりました。

 天文21年(1552年)に父親の死去により家督を相続し、天文23年に清洲城に移転しました。

 永禄3年(1560年)に駿河の今川義元を桶狭間の戦いで討ち、永禄6年に居城を小牧山城に移転しました。

 永禄11年(1568年)に室町幕府15代将軍・足利義昭を擁して上洛し、将軍職就任を助け天下を取ることを目指しました。

 永禄11年(1570年)に越前国・朝倉家の征伐を開始しましたが、途中、織田信長の妹・お市の方が輿入れした、近江国・浅井長政が朝倉方に付きました。

 元亀2年(1571年)に浅井・朝倉軍を匿った比叡山延暦寺を攻撃し、元亀4年に足利義昭を畿内から追放し、室町幕府は滅亡しました。

 天正2年(1574年)に伊勢長島で起こった長島一向一揆を鎮圧し、拠点に立てこもる一揆勢の助命嘆願を拒み虐殺しました。

 天正3年(1575年)に長篠の戦いで武田勝頼軍を、織田・徳川連合軍にて討ち、大量の鉄砲が戦果を挙げ、のちの戦術や戦法に多大な影響を与えました。

 天正4年(1576年)に琵琶湖東岸の安土山に安土城の築城を開始し、楽市・楽座令などの自由経済政策で城下町の繁栄を図りました。

 この年、第三次信長包囲網によって、京都を追放された足利将軍、本願寺僧兵、越後国の上杉軍、中国勢の毛利軍、さらに家臣の丹波国・波多野秀治や、但馬国・山名祐豊らが、相次いで反旗を翻しました。

 天正8年(1580年)に北条氏政による従属の申し入れを受け入れ、東国まで支配を拡大し、106代天皇・正親町天皇の勅命のもと、石山本願寺と和睦しました。

 天正9年(1581年)に京都内裏東において、織田軍を総動員した京都御馬揃えを催しました。

 明智光秀は享禄元年(1528年)に斎藤道三の家臣で、土岐氏の分家である明智光綱の長男として美濃多羅城に生まれ、その後、明智城へ移りました。

 天文2年(1533年)に斎藤道三が、稲葉山城から美濃の守護・土岐頼芸を追放して城主となり、実質的に美濃を支配下に治めました。

 天文4年(1535年)に父 明智光綱が死去し、明智光秀が家督を相続し、叔父で明智城主の明智光安の後見を受けました。

 天文13年(1544年)に稲葉山城の斎藤道三を織田信秀が攻め入りましたが、道三の計略で織田軍は大敗を喫しました。

 弘治2年(1556年)に道三と長男・義龍が長良川の戦いで争い、道三は討ち死にしました。

 このとき、義龍に明智城も攻め落とされ、明智家は離散し、明智光秀は浪人となって、諸国遍歴に出ました。

 永禄5年(1562年)に朝倉家に仕え、加賀一向一揆では、鉄砲隊を50人預かりました。

 永禄6年(1563年)に明智光秀と煕子に娘・明智玉、のちのガラシャが誕生しました。

 永禄8年(1565年)に、三好三人衆と呼ばれた三好長逸、三好政康、岩成友通と松永久秀が二条御所を襲撃し、第13代将軍、足利義輝を暗殺し、光秀は朝倉家を去りました。

 永禄11年(1568年)に足利義昭の足軽衆になり、足利義昭と共に織田信長がいる美濃へと移りました。

 織田信長が足利義昭を立てて上洛し、義昭は第15代将軍に任じられました。

 元亀元年(1570年)に足利義昭と織田信長が対立を深め、「金ヶ崎の戦い」で、浅井長政が織田信長を裏切り、織田軍は撤退しました。

 このとき、豊臣秀吉、池田勝正と共に明智光秀がしんがりを務めました。

 「姉川の戦い」で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突し、織田・徳川連合軍が勝利しました。

 元亀2年(1571年)天正元年に織田信長の命で、明智光秀らが比叡山焼き討ちを実行しました。

 数々の功績が認められ、織田信長より近江国滋賀郡5万石を与えられ、坂本城の築城を開始しました。

 元亀3年(1572年)に「小谷城の戦い」で織田信長に従い、琵琶湖上から水軍を率いて攻撃し、近江の浅井長政を攻めました。

 天正元年(1573年)に光秀は「槇島城の戦い」で織田信長側で出陣し、足利義昭は降伏して京を追放され、室町幕府が滅亡しました。

 この年、坂本城が完成して連歌会を催し、「一乗谷の合戦」で、織田信長が朝倉義景を破り朝倉家を滅ぼしました。

 天正2年(1574年)に、武田勝頼が東美濃を攻めた「明智城の戦い」に出陣しました。

 天正3年(1575年)に織田軍は「長篠の戦い」で、鉄砲戦術により武田軍を大破し、勝利を収めました。

 その勢いのまま、越前一向一揆を討伐し、信長はさらに勢力を広げ、丹波攻略に力を入れました。

 天正4年(1576年)に織田信長の命を受けて、1570年から続く浄土真宗本願寺勢力の本山・石山本願寺を攻めました。

 この時期に亀山城の築城にも着手しましたが、妻・煕子が病にて死去しました。

 天正5年(1577年)に松永久秀の居城「信貴山城の戦い」に参戦し、の戦いで久秀は自害しました。

 天正6年(1578年)に光秀の娘・玉が細川忠興に輿入れしました。

 天正7年(1579年)に織田信長が丹後国を配下にし、明智光秀に一国29万石が与えられました。

 天正8年(1580年)に光秀が横山城を大改修して、福知山城に改名しました。

 天正10年(1582年)に織田信長の命により、安土城において徳川家康への接待役を務めました。

 そして、軍を京に転進させ、本能寺にて織田信長を自害させました。

 この点についてこれまで諸説がありましたが、江戸時代の17世紀後半に成立した『乙夜之書物』に収録された、「斎藤利宗遺談」の発見により新たな事実が分かったといいます。

 斎藤利宗は明智光秀の重臣、斎藤利三の三男・利宗で、当時16歳の利宗は父・利三に従い、本能寺襲撃に加わりました。

 その利宗によれば、本能寺を襲撃したのは利三率いる先発隊2000余騎で、光秀は本能寺から約8キロ南の鳥羽に控えていたといいます。

 光秀の謀反は突然に思い立ったもので、光秀と重臣の密儀であることが分かったそうです。

 この発見により、秀吉・家康・朝廷(天皇・公家)・宣教師の関与説、あるいは黒幕説は成り立たないことになりました。

 謀反の理由についても、斎藤利宗遺談を語った加賀藩士の井上重盛(清左衛門)が、後年に『乙夜之書物』の編著者で加賀藩士の関屋政春に語った、次のような話が、政春の10年後の編著『政春古兵談』に収録されていることがわかりました。

 光秀は、稲葉一鉄が旧家臣の斎藤利三の取り戻しを信長に訴えた件で、信長から「稲葉家に返せ」との命令を受けましたが、承諾しなかったため、3月に信長の甲斐出陣にお供したとき、信濃諏訪において、信長や小姓たちから執拗な打擲を受けました。

 また、3月中旬に、安土城を訪れた徳川家康一行の饗応役を信長から命じられましたが、その仕様が思し召しにかなっていないとして、できあがってきた膳椀などの器物を堀に捨ててしまうという、衆目のなかで大変な恥辱を与えられました。

 この2つの出来事は、利三ら光秀重臣の知るところとなり、重臣たちは光秀が謀反を思い立つに違いないと確信し、いまかいまかと光秀の決心を待っていました。

 光秀が決心したのは、信長父子が京都にいることを知った5月29日のことと推測され、中国出陣の当日となる、翌6月1日の亀山城での軍議の席で告白したといいます。

 光秀の謀反は、このような理由・経緯による突発的なものであり、目的は信長と信忠父子を討ち取ることの一点でした。

 当然、死を覚悟した謀反であり、信長父子を討ったあとのことは、光秀の意識にはなかったといえます。

 それゆえ、その後の手配りも万全を欠くものであり、とくに長岡(細川)藤孝と筒井順慶を味方に付けることができませんでした。

 また、短時日のうちに中国大返しで畿内に戻ってきた羽柴秀吉との合戦の日を予想より早く迎えてしまいました。

 生涯、城攻めばかりで、会戦の経験のなかった光秀にとって、13日の山崎の戦いは勝利の見通しについて自信が持てない戦いだったかもしれません。

 光秀の三日天下とされる、6月2日~13日の11日間は、家臣の努力はあったものの、信長重臣としての光秀の才能はまったく発揮されていませんでした。

 信長あっての才能だったのであり、13日の山崎の戦いの敗戦後に、不慮の死が待っていたのも、必然ともいえる事態の推移です。

 そして何よりも、光秀の謀反により天下人信長と後継者信忠の父子二人が同時に死去するという突発事態が現出したことは、山崎の戦いで勝利した秀吉にとって、一躍、歴史の表舞台に主役として登場する契機となりました。

 天下人秀吉の誕生は、ライバル光秀の「謀反」のおかげということができるといいます。

第1章 信長と光秀の“蜜月”-近年発見の史料で見えてきた特殊な関係(信長と光秀が出会うまで/信長と義昭の“連立政権”/天正年間の”蜜月”時代/武田攻め中国出陣/第2章 謀反の真相ー新発見『乙夜之書物』が明らかにした定説を覆す事実(本能寺襲撃/そして、山崎の戦いへ)/第3章 斎藤利宗と『乙夜之書物』-光秀軍の残党が徳川家旗本になって遺談を残すまで(遺談の主・斎藤利宗のその後/斎藤利宗遺談と進士作左衛門遺談/『乙夜之書物』の編著者・関屋政春)/第4章 “三日天下”の真実ー古文書解読でわかった「本能寺の変」のその後(その後の「本能寺の変」/光秀の“三日天下”/光秀、窮余の”秘策”)/終章 本能寺の変で“勝利”したのは誰か

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Last updated  2022.01.22 07:51:02
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