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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2022.04.02
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 津田梅子は1864年に、旧幕臣、東京府士族、下総佐倉藩出身の1津田仙と初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町に生まれました。

 ”津田梅子 明治の高学歴女子の生き方”(2022年1月 平凡社刊 橘木 俊詔著)を読みました。

 わずか7歳前後の少女時代に異国のアメリカに単身渡り当地で教育を受け、帰国後、女子英学塾(現津田塾大学)の創設に尽力した津田梅子の波乱に満ちた人生を紹介しています。

 父は幕臣であったため江戸幕府崩壊とともに職を失い、1869年に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移り、西洋野菜の栽培なども手がけました。

 幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしていました。

 1871年に父は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移りました。

 開拓次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、父は黒田が企画した女子留学生にうめを応募させました。

 同年、岩倉使節団に随行して梅子は渡米しましたが、同行した5人のうち、最年少の満6歳でした。

 一行は横浜を出港し、サンフランシスコを経て、同年12月にワシントンへ到着しました。

 橘木俊詔さんは1943年兵庫県生まれ、灘高等学校を経て、1967年に小樽商科大学を卒業し、1969年に大阪大学大学院経済学研究科修士課程を修了しました。

 1973年にジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程を修了 (Ph.D.)し、1998年に京都大経済学博士となりました。

 1974年1月から1976年9月まで、パリでフランス国立統計経済研究所客員研究員となりました。

 1976年10月から1977年9月まで、パリで経済協力開発機構 (OECD) エコノミストを務めました。

 1977年10月から1979年3月まで大阪大学教養部助教授、1979年京都大学経済研究所助教授、1986年同教授を務めました。

 2003年に京都大学大学院経済学研究科の経済学部教授となり、2007年に定年退任し、名誉教授となりました。

 2007年に同志社大学経済学部教授、2009年に同志社大学経済学部特別客員教授、同志社大学ライフリスク研究センター長となり、2014年に京都女子大学客員教授となりました。

 津田梅子は、渡米直後の1871年に、アメリカのジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられました。

 1972年5月に森有礼の斡旋で、留学生はワシントン市内に住まわされましたが、10月には上田悌子、吉益亮子の2名が帰国しました。

 残った3人が梅子、山川捨松、のちの大山捨松、永井しげ、のちの瓜生繁子です。

 この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに女子英学塾、現在の津田塾大学を設立する際に、二人は助力しました。

 梅子はランマン家で十数年を過ごし、英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通いました。

 キリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていませんが、1873年7月に特定の教派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けました。

 1878年にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学しました。

 ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学びました。

 また、ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行しました。

 1881年に開拓使から帰国命令が出ましたが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、1882年7月に卒業しまし、同年11月には日本へ帰国しました。

 帰国したものの、日本においては女子留学生の活躍できる職業分野にも乏しく、捨松と繁子はそれぞれ軍人へ嫁しました。

 1883年に外務卿、井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾、桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介されました。

 このころ父との確執もあったことから、梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在しました。

 歌子からは日本語を学び、桃夭女塾へ英語教師として通いました。

 1885年に伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師となりました。

 1886年に職制変更で嘱託となりました。

 1888年に留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、薦められて再度の留学を決意しました。

 父の知人、ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘、クララの仲介で、留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可されました。

 1889年7月に梅子は再び渡米し、フィラデルフィア郊外のセブン・シスターズ大学のひとつ、ブリンマー大学で生物学を専攻しました。

 3年間の課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆しました。

 使命であった教授法に関する研究は、州立のオズウィゴー師範学校で行いました。

 ベーコンがアメリカへ帰国し、研究を出版る際には手助けをしました。

 留学を一年延長すると、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行いました。

 大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められましたが、1892年8月に帰国しました。

 再び華族女学校に勤め、教師生活を続けましたが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行いました。

 1894年に明治女学院でも講師を務め、1898年5月に女子高等師範学校教授を兼任しました。

 成瀬仁蔵の女子大学創設運動や1899年の高等女学校令、私立学校令の公布などの法整備があり、女子教育への機運が高まりました。

 1900年に官職を辞し、父やアリス・ベーコン、捨松、繁子、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、7月に女子英学塾の設立願を東京府知事に提出しました。

 認可を受けると同年に、女子英学塾を東京麹町区に開校して塾長となり、華族平民の別のない一般女子の教育を始めました。

 女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となりました。

 ただし、当初はあまりの厳しさから脱落者が相次いだといいます。

 独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられました。

 梅子やベーコンらの友人ははじめ無報酬で奉仕していたものの、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など経営は厳しかったと言われています。

 1903年に専門学校令が公布され、塾の基盤が整うと申請して塾を社団法人としました。

 1905年10月に、梅子を会長として日本基督教女子青年会、日本YWCAが創立されました。

 梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと1919年1月に塾長を辞任しました。

 鎌倉の別荘で長期の闘病後、1929年に脳出血のため享年66歳で死去しました。

 女子英学塾は津田英学塾と改名するも、校舎は後に戦災で失われ、津田塾大学として正式に落成・開校したのは梅子没後19年目の1948年のことでした。

 梅子が女子の高等教育機関をつくるに際しては、本人のブリンマー大学での学びの経験か大きく役立ったことは言うまでもありません。

 そこで、梅子がアメリカでどのような学生生活を送っていたかに注目しています。

 当時のアメリカの大学では、男女共学の学校は少なく、名門ブリソマー大学も女子大学でしたので、帰国後の梅子は女子学校の創設に走りました。

 特に当時の日本は旧い社会でしたので、それを打破すべく、女子教育の発展に強い熱意でもって尽力しました。

 今の津田塾大学は、女子大学の名門校として燦然と輝いています。

 津田梅子を筆頭にして、教員、学生がいかにこの学校の発展に尽くしてきたか、その足跡に迫っっています。

 興味深いのは、女子大学の一つの売りは家政学部を持っていたことにありますが、津田塾大学はそれを持たず、教養、純粋学問に特化してきたことに特色があります。

 とはいえ現在は、津田塾大学のみならず、女子大学の意義も問われている時代となっています。

 第1は、女子高校生の共学大学志向の高まりにどう対処するのかがす。

 今や本家アメリカでも女子大学の数は減少していますし、ヨーロでハには女子大学の存在は珍しいです。

 第2は、津田、大山、永井の三名に代表されたように、女子高等教育を受ける人に、女子大学を含めた日本の大学教育のあり方を検討してみました。

 本書の中心はあくまでも津田梅子ですが、捨松と繁子との比較は明治時代の高学歴女子の生き方の代表的な三つの姿を象徴しています。

 すなわち、結婚せずに独身で職業を全うする、専業主婦となって良妻賢母を貫く、職業人と妻・母として生きる、の三つです。

 三名は恵まれた境遇にいたとはいえ、それなりの苦労を経験したのであり、その経験の差が三人の生き方に差を生じさせた一因でもありました。

 その違いをよく知るために、1章分を割いて、捨松と繁子の人生についてもかなり詳細に記述しています。

 現代の女性にとっても、特に高学歴女子にとっては、独身でキャリアを全うするか、専業主婦となって夫と子どもを支えるか、共働きをして職業人と家庭人を両立させるかの三つの大きな選択肢かあります。

 その選択に多くの女性が悩んでいますが、明治時代の三人の女性の経験を知ることによって、現代でも学ぶところかあると思われます。

 梅子はアメリカの大学で学んだことを活かすために、帰国後は職業人を目指しましたが、男性社会の壁はとても厚く、種々の困難に遭遇しました。

 そこで普通の女性のごとく結婚という道も頭をよぎりましたが、女子教育の充実こそが梅子の宿願でしたので、一人で女子英学塾の開校を決意しました。

 もとより女子高等教育機関をつくる仕事は、国の支援のある官立校ではなく私立校なので、当時としては苦難か多く、梅子も様々な壁にぶちあたりました。

 しかし、アメリカ留学時代に構築した人間関係の恩恵を得て、物心ともに支援を受けて女子英学塾を創設し発展に寄与しました。

 なお、2024年上半期を目処に執行される予定の紙幣改定に於いて、五千円紙幣に梅子の肖像が使用されることが決まりました。

第1章 戦前の女子教育と岩倉使節団/第2章 津田梅子の幼少期と渡米/第3章 アメリカの大学へ留学する/第4章 帰国後の梅子と津田英学塾/第5章 山川捨松と永井繁子/第6章 三者三様の生き方と現代への含意

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Last updated  2022.04.02 11:31:55
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