心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2022.05.28
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類

 ”ネルソン・マンデラ ー 分断を超える現実主義者”(2121年7月 岩波書店刊 堀内 隆行著)を読みました。

 27年間の牢獄生活の後アパルトヘイト撤廃に尽力し、1994年に南アフリカ共和国の黒人初の大統領となった、マンデラの類まれな政治家としての人生を紹介しています。

 アパルトヘイト以前に、南アフリカ共和国では、すでに1911年の鉱山労働法、1913年の原住民土地法、1926年の産業調整法、1927年の背徳法などの、差別的立法が成立していました。

 アパルトヘイトという言葉が広く使われ始めたのは、国民党が居住地区条項を制度的に確立した1948年以降です。

 国民党が政権を握って以降、集団地域法、人口登録法、投票者分離代表法、バントゥー教育法、共産主義鎮圧法、テロリズム法などが相次いで制定され、アパルトヘイト体制が成立しました。

 そして、南アフリカ連邦時代から続く人種差別思考の上になりたつ、さまざまな差別立法を背景に確立されました。

 白人と、黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどのアジア系住民や、カラードとよばれる混血住民などの、非白人との諸関係を差別的に規定する人種隔離政策でした。

 かねてから数々の人種差別的立法のあった南アフリカにおいて、1948年に法制として確立され、以後強力に推進されましたが、1994年全人種による初の総選挙が行われ撤廃されました。

 堀内隆行さんは1976年京都府生まれ、1999年に京都大学文学部西洋史学専修を卒業し、2001年同大学大学院修士課程修了しました。

 2007年に同大学大学院博士課程単位取得満期退学し、2009年に同大学大学院より博士号を取得しました。

 2008年に大阪教育大学非常勤講、2010年に新潟国際情報大学非常勤講師、2007年に日本学術振興会甲南大学特別研究員を経て、2009年に新潟大学人文社会・教育科学系准教授となりました。

 2014年に金沢大学歴史言語文化学系准教授となり、2022年から同大学同系教授を務めています。

 ネルソン・ホリシャシャ・マンデラは1918年トランスカイのウムタタ近郊クヌ村生まれ、テンブ人の首長の子でした。

 トランスカイはカイ川の向こう側を意味し、南アフリカ共和国にかつて存在したバントゥースタン自治区で、現在の東ケープ州東部に位置していました。

 テンブ族は、南アフリカで二番目に人口の多いコーサ民族の一部です。

 少年時代に、首長から、部族社会の反英闘争の歴史や、部族の首長が持つべきリーダーシップや寛容の精神を聞いて育ちました。

 この時の経験が、反アパルトヘイト運動を根底から支えました。

 メソジスト派のミッションスクールを卒業した後、フォートヘア大学で学びました。

 在学中の1940年に、学生ストライキを主導したとして退学処分を受けました。

 その後、南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び、1941年に学士号を取得しました。

 その後、ウィットワーテルスランド大学で法学を学び、学士号を取得しました。

 1944年にアフリカ民族会議に入党し、その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して、反アパルトヘイト運動に取組みました。

 南アフリカは日本から遠く離れた国で、現在直行使はなく、乗り継ぎの待ち時間を除いても、行くのに最低18時間はかかります。

 ですがそのような国のことでも、多くの日本人はネルソン・マンデラの名前と顔を知っています。

 アパルトヘイトの撤廃に尽力し、大統領も務めた現代の偉人としてです。

 1948年に、牧師で政治家のダニエル・マランが率いた国民党が選挙に勝利し政権を奪取すると、新政権は急速にアパルトヘイト体制を構築していきました。

 アフリカ民族会議では、政府へのより強硬な対決姿勢を求める声が高まり、青年同盟の有力メンバーのマンデラはその先頭に立っていました。

 1949年には穏健な旧指導部を追い落とし、青年同盟からマンデラ、ウォルター・シスル、オリバー・タンボが指導部メンバーに選出されました。

 ここから、アフリカ民族会議は、請願路線からストライキやデモなどを盛んに行って政府に圧力をかける戦術に転換しました。

 マンデラは1950年にアフリカ民族会議青年同盟議長に就任し、アフリカ民族会議を構成する南アフリカ共産党にも入党し、党中央委員を務めるようになりました。

 1952年に、ヨハネスブルグにてフォートヘア大学で出会ったオリバー・タンボと共に、黒人初の弁護士事務所を開業し、同年12月、アフリカ民族会議副議長に就任しました。

 1955年にアフリカ民族会議は、他の政治団体とともに、ヨハネスブルク郊外のクリップタウンにおいて、全人種の参加する人民会議を開催して自由憲章を採択しました。

 こうした活動は南アフリカ政府ににらまれ、マンデラはじめ人民会議の主要な参加者たちは、1956年に国家転覆罪で逮捕され裁判にかけられましたが無罪となりました。

 こうした活動の中で、非暴力的手段の限界が叫ばれるようになり、アフリカ民族会議内でも武装闘争を支持する声が大きくなっていきました。

 そして、1960年にシャープビル虐殺事件が起きると、マンデラも武装闘争路線へと転換しました。

 これは、1960年3月21日に南アフリカ共和国トランスバール州ヨハネスブルグ近郊のシャープビルで発生した虐殺事件です。

 アフリカ人が白人地域に入る際に身分証明書の携行を強制した法律である、パス法に反対するアフリカ人群衆に向けて警官隊が発砲し,死者 69人,負傷者 186人を出しました。

 マンデラは、1961年11月に、ウムコントゥ・ウェ・シズウェという軍事組織を作り、最初の司令官になりました。

 しかし、それらの活動などで1962年8月に逮捕され、また、1963年7月にはアフリカ民族会議指導部が、ヨハネスブルク近郊のリヴォニアにおいて逮捕され、すでに獄中にあったマンデラもこの件で再逮捕されました。

 リヴォニア裁判と呼ばれる裁判で、マンデラは1964年に国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島に収監されました。

 1969年5月には、イギリス人傭兵の有志が集まり、ネルソンを救出する作戦が立てられたことがありましたが、南アフリカ側への情報漏れで中止されました。

 獄中にあってマンデラは解放運動の象徴的な存在とみなされるようになり、マンデラの釈放が全世界から求められるようになっていきました。

 1982年にはロベン島からポールスモア刑務所に移送され、ロベン島時代よりはやや環境が改善されました。

 1988年にはビクター・フェルスター刑務所に再移送されました。

 1989年にピーター・ウィレム・ボータ大統領がケープタウンにマンデラを招き、会見を行いました。

 1989年12月にも当時の大統領フレデリック・デクラークと会談しましたが、この時はまだ獄中から釈放されることはなく、収監は27年にも及びました。

 マンデラについてより詳しく知ろうとするとき、著者はインターネットも便利ですが、重要なメディアはやはり映画と本かもしれないと言います。

 マンデラ映画のなかでもっとも有名なのは、2009年の”インビクタスー負けざる者たち”でしょう。

 クリント・イーストウッドの監督作品で、マンデラ大統領とラグビーの南アフリカ共和国ナショナルチームとの交流を描いています。

 公開から10年後の2019年にも、ラグビーワールドカップ日本大会をきっかけに、改めて見直されたようです。

 近代スポーツ発祥の地イギリスでは、労働者階級のサッカーに対して、ラグビーは上流階級の競技種目とされました。

 両者はやがて、イギリスの植民地だった南アフリカにも輸出されましたが、ラグビーは白人の、サッカーはアフリカ人のスポーツとして分断されました。

 アパルトヘイトの時代、白人選手のみのラグビーナショナルチームは、人種差別の象徴と見なされました。

 アパルトヘイトが終わっても、ナショナルチームの性格は変わりませんでした。

 応援する白人の観衆たちはアパルトヘイト以前の国旗を振り、以前の国歌を歌いつづけました。

 これに対して、アフリカ人たちが主導する新生国家のスポーツ統轄組織は反発し、チーム名の変更などを決議しました。

 しかしマンデラの考えは違って、白人たちを赦す寛大な心を説き決議を撤回させました。

 一方で、キャプテンをアフタヌーンティーに招き、新たな役割を引き受けるよう求めました。

 新たな役割とは、アフリカ人たちを含む国民の士気を高めることでした。

 マンデラは、押し付けがましい説得ではなく、相手が納得して行動することを重視しました。

 マンデラの他者尊重の政治スタイルにかかわる、興味深い場面ですが、微妙なニュアンスについては映画を見てほしいといいます。

 その後、キャプテンは次第にマンデラの意図を理解し、実行に移していったそうです。

 選手はアフリカ人地区で子どもたちをコーチし、試合では率先して新国歌を歌うようになりました。

 そしてチームは、1995年のワールドカップ南アフリカ大会で、大方の予想に反して優勝しました。

 ナショナルチームは、新生南アフリカにおける人種間の和解の象徴となりました。

 またこの大会は、テレビを含めると世界の約10億人が観戦したため、和解は国際的にも認知されることとなりました。

 マンデラに関する本は挙げれば切りがなく、生涯にわたる伝記も少なくありませんが、マンデラの同志たちが書いたものについては、黒人を含む政敵への偏見を否定できません。

 これに対して、ジャーナリストや歴史家による伝記のいくつかは優れているものの、日本語に関しては抄訳だったり、そもそも翻訳されていなかったりするそうです。

 今われわれは、偏狭なナショナリズムが跋扈する世界に生きています。

 他方マンデラは、そのような分断を超え、誰もが想像し得なかった和解を成し遂げた人でした。

 1991年のアパルトヘイトの撤廃から30年、2013年のマンデラの死から8年が経ちました。

 マンデラの経験を振り返ることで、偏狭なナショナリズムを超えるピジョンが見えてくるかもしれません。

 著者は、天使ではないというマンデラ自身の言葉がありますので、本書はマンデラを聖人と見なしません。

 また、家族関係の悩みなど人間的側面ばかりを見ることは、マンデラの重要な側面を見落とす結果にもなります。

 その側面とは政治家としてのマンデラであり、マンデラは一貫した思想を説きつづけたわけでは決してありませんでした。

 人種差別と対決する姿勢は終生変わらなかったものの、それを実現する方法は時々に変化しました。

 こうした、現実主義者としてのマンデラを描くことが本書の課題であり、マンデラのハンディな評伝を目指すということです。

第1章 首長の家に生まれて/第2章 プラグマティストという天性/第3章 非暴力主義という武器/第4章 民族の槍/第5章 「誰もが彼に影響された」/第6章 老獪な「聖人」/終章

[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]



【中古】 ネルソン・マンデラ 分断を超える現実主義者 岩波新書1888/堀内隆行(著者) 【中古】afb


ネルソン・マンデラ大統領演説【電子書籍】[ 国際情勢研究会 ]







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.05.28 20:32:55
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: