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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2022.06.11
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 平安時代初期の817年前後から821年頃にかけて行われた、法相宗の僧侶、徳一と日本天台宗の祖、最澄との間で行われた仏教宗論です。

 ”最澄と徳一 仏教史上最大の対決”(2021年10月 岩波書店刊 師 茂樹著)を読みました。

 平安時代初期に天台宗の最澄と法相宗の徳一が交わした、三乗説と一乗説のどちらが方便の教えでどちらが真実の教えなのかと、いう真理を求める論争を解きほぐして描こうとしています。

 三一権実諍論の三一とは、三乗と一乗の教えのことであり、権実の諍論とは、どちらが「権」(方便の教え)で、どちらが「実」(真実の教え)であるかを争ったことを言います。

 天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称しました。

 それに対し法相宗では、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説きます。

 徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性、縁覚定性、菩薩定性、不定性、無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとしました。

 定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張しました。

 論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではありません。

 これは問答か謗法か、平安時代初期、天台宗の最澄と法相宗の徳一が交わした批判の応酬は、仏教史上まれにみる規模におよびます。

 相容れない立場の二人が、5年間にわたる濃密な対話を続けたのはなぜだったのでしょうか。

 師 茂樹さんは1972年大阪府大阪市に生まれ、その後、福島県耶麻郡猪苗代町で育ちました。

 福島県立安積高等学校を卒業後、早稲田大学第一文学部に進学し、大久保良峻に師事しました。

 1995年に卒業後、東洋大学大学院文学研究科に進み田村晃祐に師事し、2001年に同博士後期課程の単位取得し、2013年に博士(文化交渉学、関西大学)となりました。

 2001年に早稲田大学メディアセンター非常勤講師、2002年に花園大学文学部専任講師となり、2008年に同准教授、2015年に教授に昇任しました。

 その他、大谷大学、京都大学、国際仏教学大学院大学で非常勤講師を務めました。

 奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗、律宗などの南都六宗です。

 本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていましたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派でした。

 天台宗は最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となりました。

 この時代の日本における仏教は、鎮護国家の思想の下で国家の管理下で統制されていました。

 仏僧と国家権力が容易に結びつき、奈良時代には玄昉や道鏡など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れました。

 桓武天皇が平城京から長岡京、平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされます。

 新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目、支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあったといいます。

 日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられました。

 653年に道昭が入唐留学して玄奘三蔵に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めました。

 徳一は一説には藤原仲麻呂か恵美押勝の子ともいわれますが、真偽のほどは不明のようです。

 はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下りました。

 東国で布教に努め、筑波山中禅寺、会津慧日寺などを創建したといいます。

 徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多いそうですが、確実な史料は最澄と空海の著作に残された記録です。

 論争をしていた頃に書かれた最澄の著作には、陸奥の仏性抄、奥州会津県の溢和上、奥州の義鏡、奥州の北轅者などの記述があり、この頃は陸奥国にいたことがわかるといいます。

 天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗を開祖とする大乗仏教の宗派です。

 『法華経』を根本経典とし、五時八教の教相判釈を説きます。

 五時はすべての経典を釈尊が一生の間に順に説いたものと考え、その順序に5段階をたてたもの、八教は化儀四教と化法四教の総称です。

 化儀四教は説法の仕方によって四種をたてたもの、化法四教は教説の内容によって四種をたてたものです。

 最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けましたが、比叡山に籠もり12年間山林修行を行いました。

 さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始めました。

 親交のあった和気氏を通じて、桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出ました。

 これを受けて、桓武天皇は最澄本人が短期留学の僧として渡唐するように命じました。

 最澄は805年に入唐を果たし、天台山にのぼり、台州龍興寺において天台宗第七祖の道邃より天台教学を学び、円教の菩薩戒を受けて806年に帰国しました。

 帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請しました。

 天皇没後に年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の遮那業と止観業各1名計2名を加えることを要請しました。

 これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立し、日本における天台宗のはじまりとなりました。

 最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想を立てました。

 これによって、律宗の鑑真がもたらした具足戒の戒壇院を独占する、南都仏教の既得権益との対立を深めていました。

 論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされ、この書における一乗批判、法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まりました。

 ただし、そもそも徳一が論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠とその教団であったとする説があります。

 徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも、道忠教団であったと見られますが、異論もあるといいます。

 釈迦の弟子とその後継者によって受け継がれてきた主流派の教義は小乗と呼ばれ、声聞乗=教えを聞く者たちの道として、ブッダを目指す修行者である菩薩の道=菩薩乗と区別しました。

 二つの道と二つのゴールがあると考えるのが、二乗説です。

 後に、師から教えを聞くことなく独力で解脱する独覚を開いた人、あるいは縁覚とよばれるゴールを指す独覚乗あるいは縁覚乗が加わって、大乗グループによる分類である三乗説が定着します。

 菩薩乗は大乗、声聞乗と独覚乗は小乗です。

 『法華経』では、釈迦が、声聞乗、独覚乗で修行をしている僧に対して、汝らの目指すべきゴールは阿羅漢ではなく、ブッダになることだと述べました。

 一般の修行者が目指すものは、あらゆるものへの執着を断ち切り、輪廻から解脱することであって、それを達成した人は阿羅漢とよばれました。

 主流派の人々にとって、人々に教えを語り、導くことができるブッダ=目覚めた者は世界にたった一人、釈迦仏だけです。

 それに対して大乗グループの人々は、釈迦以外にも複数のブッダがいると主張し、また一般の仏教修行者もブッダになり、釈迦と同様に人々を教導する存在になれるのだと主張しました。

 『法華経』では、汝らはいずれブッダになれる、汝らに小乗の教えを説いたのは、大乗に導くための方便でした。

 三つの道というのは方便であり、本当は一つの道しかないといいます。

 これに対して、瑜伽行派とか唯識派などと称される大乗仏教の一学派は、『法華経』などに説かれる一乗説こそが方便であると解釈しました。

 声聞乗をとるか、菩薩乗をとるかで迷っている修行者を、菩薩乗に誘導するための方便として生きとし生けるものはブッダになれるのだから、菩薩として修行しようと説きました。

 実際には素質によってゴールが異なる三乗説のほうが、ブッダが本当に説きたかった真理である、という三乗真実説を主張しました。

 唐の仏教が日本に入ってくると、日本においてもこの相容れない二つの立場が激突することになりました。

 その代表的な存在が、最澄と徳一であり、玄奘の弟子たちが形成した唯識派の法相宗が、遣唐使などによって日本に輸入され、理解が進展していくと、日本国内でも三乗真実説に対する批判が起こりました。

 天台宗の一乗真実説を目にした法相宗の徳一は、三乗真実説に基づいてそれに疑問を投げかけたのです。

 そして『法華経』の一乗説こそが真実であると信じていた天台宗の最澄が、一乗真実の立場から徳一に反論し、それに対して徳一が反論して論難が往復しました。

 論争の最中に最澄が提示した論争史の叙述は、まさに三一権実論争という枠組みを生み出したものであり、近現代の仏教学者が仏教史を把握する際のパースペクティブを規定してしまうほどの強い影響力を待ちました。

 三一権実論争とは、最澄が提示した仏教史観によって規定された、最澄と徳一の論争の見方なのです。

 私たちは最澄の作り出した見取り図のなかにいますが、本書ではその見取り図の形成過程に対しても、光を当てようとしているといいます。

はじめに/第1章 奈良仏教界の個性ー徳一と最澄/第2章 論争の起源と結末ー二人はどう出会ったか/第3章 釈迦の不在をいかに克服するかー教相判釈という哲学/第4章 真理の在り処をめぐる角逐/第5章 歴史を書くということ/終章 論争の光芒ー仏教にとって論争とは/参考文献一覧/あとがき





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Last updated  2022.06.11 07:37:37
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