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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2022.10.01
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 レバノンは地中海盆地とアラビア内陸部の交差点に位置することから、豊かな歴史を持ち、宗教的・民族的な多様性を持つ文化的アイデンティティを形成してきました。

 ”レバノンからきた能楽師の妻”(2019年12月 岩波書店刊 梅若マドレーヌ著/竹内要江訳)を読みました。

 伝統演劇の能を承継する家庭の中で、日本とレバノンのふたつの文化が混じり合う様子を描いています。

 紀元前64年には、同地域はローマ帝国の支配下に入り、最終的にはキリスト教のその主要な中心地の一つとなりました。

 レバノン山脈では、マロン派の修道院の伝統が生まれ、アラブのイスラム教徒がこの地域を征服しても、マロン人は自分たちの宗教とアイデンティティを維持しました。

 しかし、新しい宗教グループであるドゥルーズ派がレバノン山にも定着し、何世紀にもわたって宗教的な分裂が続いています。

 レバノンは16世紀にオスマン帝国に征服され、その後400年間支配下に置かれました。

 第一次世界大戦後のオスマン帝国の崩壊後、現在のレバノンを構成する5つの州はフランスの委任統治下に置かれました。

 フランスは、マロン人とドゥルーズ人が多かったレバノン山総督府の国境を拡大し、より多くのイスラム教徒を含むようにしました。

 1943年に独立したレバノンでは、主要な宗派に特定の政治的権限が割り当てられた独自の宗派主義的な政府形態が確立されました。

 レバノンは当初、政治的にも経済的にも安定していましたが、様々な政治的・宗派的派閥による血なまぐさいレバノン内戦(1975年~1990年)によって崩壊しました。

 この戦争は部分的に、シリア(1975年~2005年)とイスラエル(1985年~2000年)による軍事占領につながりました。

 1970年代にレバノン内戦がはじまり、その後レバノン国内の政情不安が続き、家族は世界中に散り散りになったといいます。

 梅若マドレーヌさんは1958年レバノン・ベイルート生まれ、父親はベイルート生まれ、母親はレバノン南部生まれでした。

 二人は父方の祖父の家で出会い、互いの家の社会的経済的な違いから、自分達の結婚は認められないと思い駆け落ちしました。

 当時、祖父の営んでいた貿易業は不振に陥り、父親の経済状況は厳しかったといいます。

 最終的に二人は結ばれ、父親はイエスズ会が創立したサン・ジョゼフ大学理工学部の主任司書として働きました。

 収入はつつましかったですが、4人の子供が私立学校で学べるようにやりくりしました。

 1974年にマドレーヌの高校生活がベイルート郊外でスタートしましたが、レバノン内戦が始まって突然閉鎖されました。

 その後、ベイルートが荒廃したため、両親は郊外にある寄宿学校ル・コレージュ・マリスト・シャンヴィル校に入れました。

 しかし、戦火はいっこうにおとろえず、レバノンを脱出せざるをえなくなりました。

 1943年生まれの姉、石黒マリーローズが1972年に来日し、日本人実業家の石黒道兼と結婚して、兵庫県芦屋市に新居を構えていました。

 そこで、マドレーヌは18歳のとき芦屋にやって来ました。

 道兼は東京銀行のレバノン・ベイルート出張所に勤務していたため、マリーローズと出会ったのです。

 日本に定住するレバノン人はほとんどいませんが、姉を頼ってやってきたのだといいます。

 マリーローズはベイルート生まれ、聖ヨセフ大学を卒業し、パリ・カトリック大学で学び、外交官の語学教師やクウェート王室付きの教師などを歴任しました。

 1983年にレバノン文化教育センターを設立して館長となり、日本で唯一のカトリック教区立大学だった英知大学助教授、教授を務めました。

 1989年に神戸市の国際文化交流賞を受賞し、言語学と異文化理解などについて教えました。
 海外にたびたび渡航し、アメリカでは多くの青少年の刑務所や鑑別所を慰問しました。

 現在は、評論家・エッセイストとしても活躍中で、ソフトバンクグループが運営する株式会社立の通信制大学、サイバー大学客員教授を務めています。

 竹内要江さんは翻訳家で、南山大学外国語学部英米学科を卒業し、東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化修士課程を修了しています。

 マドレーヌは芦屋に暮らすようになってすぐ、神戸の六甲にあるインターナショナルスクール、カナディアンアカデミーに通い始めました。

 夫となった梅若猶彦は、この学校で出会ったクラスメイトでした。

 猶彦の母親は先進的な女性で、能の伝統を海外に紹介するため、まず英語を身に着ける必要があると考えたといいます。

 しかし、マドレーヌは大学入学資格試験に備えるため、レバノンに帰国しなければなりませんでした。

 帰国すると、イエスズ会系のコレージュ・デ・フレール・モン・ラ・サール校の夏季集中コースに入りました。

 1977年に兄のジョルジュの結婚式に出席した父親と姉のマリーローズが、マドレーヌにふさわしい大学を探すために奔走しました。

 レバノンが内戦中という事情を考慮した英国レディング大学で、入学を許可されました。

 大学ではコンピュータ・サイエンスを学び、優等の成績で理学士の学位を取得しました。

 そして大学院進学のため、アメリカのカリフォルニア州に移り、南カルフォルニア大学に入学しました。

 しかし、ロサンゼルスが好きになれなかったため、ここは数か月で学業を中断してレバノンに戻りました。

 戻ってコンピュータ関連の仕事が見つかりましたが、働き始めた日に新たな戦闘が始まり、会社は閉鎖されてしまいました。

 当時はシリア軍がPLOと親パレスチナのイスラム教系民兵組織に加担し、イスラエルと一触即発の危険な状態で、南部の国境付近でイスラエル軍との衝突が頻繁に起こっていました。

 レバノン内戦の終結に伴い、イスラエルは一部を占領していた南レバノンから2000年に撤退しました。

 シリア軍はレバノン国内に29年間も駐留していましたが、国連安全保障理事会が2005年に撤退を命じました。

 日本とは深いつながりがあり、日本に行けば姉のそばで暮らせるとことから、今度は日本に舞い戻りました。

 猶彦は3歳で初舞台を踏んで以来、能楽師シテ方として活動を続けています。

 能楽師には、シテ方、ワキ方、狂言方、囃子方という職掌があり、各方はそれぞれに流儀があります。

 また、特にワキ方・狂言方・囃子方を総称して三役ともいいます。

 1977年にカナディアンアカデミーを卒業して東京に拠点を移し、伯父の梅若万三郎(二世)のもとで能楽師としての修業を続けました。

 猶彦とは日本を離れていた1977年から1981年のあいだ文通を続け、再会を楽しみにしていました。

 猶彦は上智大学比較文化学科を卒業し、1995年にロンドン大学ローヤルホロウェイ校博士号を取得しました。

 2000年から静岡文化芸術大学文化政策学部芸術文化学科助教授、教授を務めています。

 数多くの創作能、創作劇・舞踊において演出・振り付等を担当し、脚本も手掛け、新たな身体表現の創作を進めています。

 活動の範囲は、国内にとどまらすアメリカ・フランス・ブラジルでの能楽公演団の団長を務めるなど、多くの海外公演に参加し、日本の古典である能の普及に尽力しています。

 マドレーヌはコンピュータ・サイエンスの分野で修士号を取得するため、大阪大学大学院工学研究科に入りました。

 猶彦に電話するとすぐに会おうと言われ、それからほどなくまた会うようになったそうです。

 ある日マドレーヌが阪神聞で自動車を運転していると、猶彦からプロポーズがありました。

 それまで結婚を意識したことなどなく、修士課程の2年目を終えなければならなりませんでした。

 何よりもまだ、猶彦と家族のことをしっかり理解できているわけではありませんでしたが、大学が猶彦の母親の住まいから近かったのでよく母親の家に遊びに行っていました。

 どこが気に入られたのかわかりませんが、母親が猶彦にマドレーヌと結婚するようけしかけていたようだといいます。

 その後、異母兄の梅若盛義、正義や、伯父の梅若万三郎、息子の万紀夫、万佐晴にも会い、由緒ある家系に生まれた能楽師は一族の伝統に誇りを持っていると感じたそうです。

 猶彦にプロポーズされたとき、こんなにかけ離れた文化に溶け込むのは無理だと思ったそうですが、能の世界のことはそんなに心配しなくていいと言われたといいます。

 人は恋に落ちると、行く手にどれだけ多くの困難や障害が待構えていても、何とかなると思うもので、猶彦の魅力と、たがいに魅かれ合う気持ちに勝てなかったといいます。

 二人は1982年に結婚し、2か月後に妊娠しました。

 当時、大阪大学を中退し、東京大学大学院情報科学研究科で研究生として研究を続けていました。

 娘が生まれ、3年後に息子が生まれ、家族は喜びに包まれました。

 著者は日本という安住の地を見つけられ、日本文化にも貢献できることになり幸運であったといいます。

 本書でお伝えするのは、自分というひとりの人間のこれまでの歩みです。

 それは、異国で暮らす外国人として、創造性と忍耐力をもって自分の道を切り拓くことがいかに大切かを学んだ道のりでした。

 さらに、夫が属する、日本文化に重要な位置を占める古典芸能、能の閉鎖的な世界に自分の居場所を見つけるまでを綴っています。

 能楽師であり学者でもある夫の梅宮猶彦は、著書で能を役者の立場から分析し、一族が継承してきた伝統を紹介しました。

 本書は、能の美学との個人的な出会いを軸に、人生の素晴らしさや大変さを描きたいといいます。

 また、日本や世界各地で新作も含んだ能の舞台公演のプロデュースにかかわり、能の普及につとめています。

プロローグーこの世界の片隅で/第1章 レバノンとの別れ/第2章 能との出会い/第3章 梅若家の子育て/第4章 能と世界をつなぐ/エピローグーレバノンと日本で母と共に暮らす

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Last updated  2022.10.01 07:44:40
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