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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2023.12.22
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 藤原彰子は998年に生まれた才色兼備の誉れ高い女性で、第66代一条天皇の皇后中宮になりました。
 父は藤原道長、母は左大臣・源雅信の娘の源倫子で、藤原氏の土御門邸にて誕生しました。
 ”藤原彰子”(2019年6月 吉川弘文館刊 服藤 早苗著)を読みました。
 藤原道長の長女として生まれ一条天皇の中宮となり2人の天皇の生母として政務を後見した藤原彰子の生涯を紹介している。
 誕生の日は不明ですが、道長と倫子の結婚は前年の12月16日ですので、9月から12月の誕生と推定されます。
 990年12月に3歳で袴着が行われました。
 995年に彰子8歳の時、父・道長が内覧の宣旨を受けました。
 999年2月9日に裳着を終えた後、同11日に一条天皇から従三位に叙せられました。
 同年11月1日に一条天皇の後宮に入り、同月7日に女御宣下をうけました。
 この時、一条天皇にはすでに藤原道隆の長女の中宮・藤原定子、女御・藤原義子、藤原元子、藤原尊子が入内していました。
 1000年に藤原彰子が新たに皇后となり、先に中宮を号していた藤沢定子は皇后宮を号しました。
 朝廷史上はじめて一帝二后になりました。
 藤原定子は第二皇女・媄子内親王の出産が難産となり崩御しました。
 服藤早苗さんは1947年愛媛県生まれ、1971年横浜国立大学教育学部を卒業し、小学校教諭となりました。
 1977年東京教育大学文学部を卒業し、1980年お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程を修了しました。
 1986年に東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得退学しました。
 1991年に第6回女性史青山なを賞を受賞しました。
 1992年に家成立史の研究で東京都立大学文学博士となりました。
 2001年に新設された埼玉学園大学教授に就任し、2009年に埼玉学園大学人間学部学部長となり、2015年に定年退職し名誉教授となりました。
 専門は、日本史、家族史、女性史、ジェンダー論です。
 藤原定子と藤原彰子はいとこであり、ともに一条天皇の妻でしたが、定子は皇后、彰子は中宮という肩書きでした。
 定子は一条天皇との間に二人の皇子を産みましたがどちらも天皇にはなれませんでした。
 彰子は一条天皇との間に三人の皇子を産み、うち二人は天皇になりました。
 藤原定子が生んだ一条天皇の第一皇子・敦康親王の養母を、13歳の藤原彰子が担うことになりました。
 母の源倫子も育児に協力したとされます。
 1006年頃からは、藤原彰子の家庭教師は『源氏物語』作者の紫式部でした。
 王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁もいました。
 また、紫式部の娘で歌人の越後弁、ほかに歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸界を形成しました。
 藤原彰子は008年に30時間の難産で土御門殿にて一条天皇の第二皇子・敦成親王、後の一条天皇を出産しました。
 1009年に今度は安産で第三皇子・敦良親王、後の朱雀天皇を生みました。
 これにより、父・藤原道長の権力が強まることとなりました。
 1010年に妹・藤原妍子が冷泉天皇の第二皇子・居貞親王に入内しました。
 1011年に病になった一条天皇は居貞親王に譲位し崩御しました。
 居貞親王は三条天皇となりましたが、24歳の藤原彰子は三条天皇の即位に反発したとされます。
 ただ三条天皇の皇太子は、中宮・藤原彰子が産んだ敦成親王、後の一条天皇に決まっていました。
 1012年頃、紫式部が退任した模様ですが、藤原彰子は皇太后となりました。
 1016年に敦成親王が即位し、後一条天皇となり、道長は念願の摂政に就任しました。
 1017年に道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引きました。
 道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えました。
 しかしこの後摂関家一族の姫は、入内すれども男児には恵まれないという不運が続きました。
 1017年に三条天皇が崩御し、中宮彰子の子・敦成親王が後一条天皇となり、幼帝のため父・藤原道長が摂政となり権勢を振るいました。
 1018年に、藤原彰子は太皇太后になりました。
 1026年に藤原彰子は出家し、院号の宣下があり上東門院となりました。
 1030年に、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院といいます。
 1036年4月17日に後一条天皇、1045年正月18日に後朱雀天皇が崩御し10年の間に2人の子を失いました。
 その後は孫の後冷泉天皇が即位しました。
 1052年に重篤な病に陥りましたが、その後体調は回復しました。
 そして、1074年10月3日に法成寺阿弥陀堂内にて、87歳で崩御しました。
 東山鳥辺野の北辺にある大谷口にて荼毘に付され、遺骨は宇治木幡の地にある藤原北家累代の墓所のうち、宇治陵に埋葬されました。
 藤原彰子には日記などはなく、唯一30余首の和歌がのこされているだけです。
 しかし、父の日記や貴族男性の日記などが遺っており、彰子の行動を追うことができます。
 本書では、天皇の母として政務を後見し、天皇家の家長として、また摂関家の尊長としての発言力があったことを明らかにしたといいます。
第1 誕生から入内まで/第2 立后と敦康親王養育/第3 二人の親王の誕生/第4 皇太后として/第5 幼帝を支えてー国母の自覚/第6 後一条天皇の見守り/第7 天皇家と摂関家を支えて/第8 後朱雀天皇の後見/第9 大女院として/第10 彰子の人間像

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Last updated  2023.12.22 08:00:51
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