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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2024.09.28
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 室鳩巣は1658年に室玄樸の子として、武蔵国谷中村、現在の東京都台東区谷中で生まれました。
 室玄樸は1616年生まれの備中岡山の人で、剛直な性格で世間と合わず、摂津、江戸で町医者として過ごしました。
 ”武士の道徳学 徳川吉宗と室鳩巣『駿台雑話』”(2024年6月 KADOKAWA刊 川平 敏文著)を読みました。
 新井白石の推挙で幕府儒学者として召し抱えられ徳川吉宗の享保の改革の相談役となった、朱子学者・室鳩巣の人生を紹介しています。
 室鳩巣は諱は直清、号は鳩巣・滄浪、字は師礼、通称は新助、信助、駿台先生と言いました。
 1672年に金沢藩に仕え、藩主前田綱紀の命で京都の木下順庵の門下となりました。
 1686年に加賀に赴任し廃屋を買って住居としてから、鳩巣の号を用いるようになりました。
 以後、加賀・京都・江戸を往来して勉学を続けました。
 この間、山崎闇斎門下の羽黒養潜と往来して学問を深め、朱子学者としての定見をもったのは40歳近くになってからといいます。
 1711年に新井白石の推挙で江戸幕府の儒学者となり、幕府より駿河台に屋敷を与えられました。
 徳川家宣、家継、吉宗の3代に仕え、ここで献策と書物の選進を行いました。
 吉宗期にはブレーンとして享保の改革を補佐し、湯島聖堂において朱子学の講義を行いました。
 また、幕臣への学問奨励のため吉宗の命を受けて、八重洲河岸に開設された高倉屋敷でも講義を行いました。
 白石失脚後も吉宗の信任を得て1722年に侍講となり、しばしば諮問を受けて幕政にも関与しました。
 1725年には西丸奥儒者となり、77歳で没するまでその地位にありました。
 著作には、『五常名義』『五倫名義』『駿台雑話』『赤穂義人録』『兼山麗澤秘策』『六諭衍義大意』などがあります。
 川平敏文さんは1969年福岡県生まれ、1999年に九州大学大学院博士後期課程を修了し、博士(文学・九州大学)となりました。
 専攻は、日本近世文学・思想史で、1998年に柿衞賞を、2000年に日本古典文学会賞を受賞しました。
 熊本県立大学文学部助教授となり、2007年准教授、2010年九州大学大学院人文科学研究院准教授、2021年教授となりました。
 2015年にやまなし文学賞、2016年に角川源義賞を受賞しました。
 室鳩巣という名前は、日本史に興味があれば享保の改革で、古典文学に興味があれば近世の随筆で覚えているかもしれません。
 鳩巣は18世紀初頭に江戸幕府に仕えた儒者で、当時の政治・思想・文学・教育などを考えるうえで重要な人物です。
 もともと江戸の生まれですが、若いころに加賀藩主・前田綱紀に見出され藩の儒者として仕えていました。
 おそらく本人は北陸の一儒者として一生を終えるものと、思っていたのではないでしょうか。
 ところが幕府の政治に深く参与していた新井白石の推薦をうけ、幕府の儒者として召し抱えられたのです。
 その後、将車が徳川吉宗になり白石は失脚し、政治の表舞台から姿を消します。
 このとき、吉宗から大きな信頼を寄せられたのが鳩巣でした。
 吉宗の享保の改革は財政・組織・農政・文教など多方面にわたりますが、鳩巣は文教方面の相談役として活躍しました。
 陽明学や仁斎学、徂徠学の流行時に、鳩巣は朱子学を墨守して普及に努めました。
 朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系です。
 朱子の思想は宇宙論から人間論まで幅広く、しかもどのように真理を認識するかという方法論まで含んでいました。
 宋において官学とされ、科挙を受験する士大夫の修身・斉家・治國・平天下という理念が強調されるようになりました。
 日本などに伝来するうちに、幅広い思想体系と言うより、統治哲学ともいうべき側面のみが発達していく傾向がありました。
 日本においては、江戸幕府の封建的身分制社会のイデオロギーとなっていきました。
 陽明学は、中国で明の時代に王陽明が宋の陸象山の説を継承して唱えた学説です。
 人は生来備えている良知を養って、知識と実践とを一体化すべきだとします。
 日本では江戸時代に、中江藤樹・熊沢蕃山らが支持しました。
 朱子学は権威や秩序を重んじますが、陽明学は心のままに自分の責任で行動することを説いています。
 当時の朱子学は、支配階級に都合よく解釈され、本来の理想とは、かけ離れた姿になっていました。
 すっかり形骸化した朱子学を憂い、真っ向から否定したのが陽明学です。
 仁斎学は、江戸前期の儒学者伊藤仁斎が築いた思想体系です。
 総体的に、仁斎学は朱子学の克服を目ざして形成されました。
 朱子をはじめとする先行の注解を排除して、直接、論語、孟子を熟読することを求めます。
 こうして聖人の思考様式、文脈を知り、それを通じて儒教の意味、正統思想を理解せよと主張します。
 徂徠学は、江戸時代に興った荻生徂徠に始まる儒教古学の一派です。
 古い辞句や文章を直接読むことによって、後世の註釈にとらわれず孔子の教えを直接研究しようとします。
 鳩巣は朱子学や仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する古文辞学を標榜しました。
 鳩巣の『駿台雑話』は、鳩巣による江戸時代半ばの随筆であり儒学書でもあります。
 朱子学的な観点で、学術や道徳などを奨励した教訓的なものです。
 鳩巣による著作物の中でも特に著名なものであり、江戸時代の随筆の中でも代表的なものです。
 1732年に成立し、全5巻、仁・義・礼・智・信の五常を5巻に配しています。
 鳩巣の生涯の最晩年に、幕儒を引退する間際に書かれた和文随筆です。
 鳩巣の政治・思想・文学などについての考えが、門人や客人と談話する形式に寄せて書かれました。
 書かれている鳩巣の考えは、18世紀末に老中・松平定信によって推進された寛政異学の禁の骨子をなしています。
 寛政異学の禁は、朱子学を幕府の正学とし、幕府の学問所の昌平黌で朱子学以外を教えることを禁じた命令です。
 また、なかに掲載されている往古の武士たちの忠義の逸話や、和漢の詩歌を評判した文章は、明治から昭和戦前の国語教科書において頻出教材となりました。
 鳩巣は政治史的には新井白石、思想・文学的には荻生徂徠、教育史的には貝原益軒などの同時代儒者たちの影に隠れてしまっているように見えます。
 その理由のひとつは、鳩巣がいわば燻し銀のように、目立つことを潔よしとしなかったからです。
 鳩巣が信奉していたのは朱子学ですが、朱子学で最も重要とされたのが中庸の精神です。
 中庸とは、しっかりした理念のもとに、どこが本当の真ん中であるかを判断しその状態を不断に維持し続けることです。
 近世中期から近代前期にいたるまで、日本人の道徳観の涵養や文学観の形成に少なからず貢献していました。
 戦後、価値観は大きく変わりましたが、それでも現代のわれわれの道徳観や文学観につながる部分もあろうといいます。
 本書では室鳩巣という人物とその著述について、さまざまな角度から光を当てています。
 序章では、幕儒になる以前の加賀藩儒時代、鳩巣がどのような思いで過ごしていたかを概観しています。
 第一章では、江戸に招聘された鳩巣が幕儒としてどのような仕事をこなしていたのかを考えています。
 第二章では、徳川吉宗が鳩巣に編述を命じた『六諭術義大意』が、どのようなやり取りを経て完成したのかを追いかけます。
 第三章は、鳩巣の主著ともいえる『駿台雑話』が、どのような社会背景のもとで書かれたかを押さえています。
 第四章では、『雑話』における思想的問題を取り上げるています。
 第五章は、『雑話』における武家説話を取り上げています。
 第六章では、『雑話』における文学論を取り上げています。
 終章では、『雑話』を中心とした鳩巣の著述が、後世にどのように広がったかを見ています。
 室鳩巣は晩年に、心をよりどころにして近世的な自我意識や、君臣、君民間の契約を論じました。
 これは、単に封建的なイデオローグとしてかたづけられない可能性を示したといいます。
序章 鳩巣、江戸へー不遇意識のゆくえ/第1章 幕儒としての日々/第2章 庶民教化の時代/第3章 『駿台雑話』の成立/第4章 異学との闘い/第5章 武士を生きる/第6章 文学とは何か/終章 後代への影響ー『駿台雑話』の受容史

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Last updated  2024.09.28 08:33:06
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