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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.06.21
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 里見義堯は、1507年に安房里見家第4代目当主・里見実堯の嫡男として誕生しました。
 ”里美義堯”(2022年8月 吉川弘文館刊 滝川 恒昭著)を読みました。
 庶家に生まれながら一族の内乱に勝利して家督を継ぎ、安房・上総を基盤に里見氏の最盛期を築いた、里美義堯の生涯を紹介しています。
 生年について具体的に記した資料はなく、1512年という説もあります。
 ここでは、妙本寺住職の日我の日記や妙本寺源家系図などに基づいています。
 義堯は、正室でない女性から生まれた庶子でした。
 当時の里見家は、当主になる予定だった義豊がまだ幼かったため、実堯が後見人として実権を握っていました。
 しかし、義豊が成長したあとも実堯が実権を握り続け、一族のなかで不満が溜まり内紛が起こりました。
 実堯は1533年に、義豊に襲われた事件である稲村の変に絡んで自害しました。
 その報を受けて、義堯は正木時茂や北条氏綱の支援を受けて挙兵しました。
 1534年に、義豊と義堯の従兄弟同士の間で犬掛の戦いと言われる里見氏の内紛が起こったのです。
 正木時茂は、稲村の変で父と兄が戦死したため家督を相続しました。
 そして義堯に寄騎として属し、義豊討伐に従いました。
 北条氏綱は後北条氏第2代当主で、伊勢宗瑞の跡を継いで領国を拡大させました。
 義堯は犬掛の戦いにて勝利し、義豊を自害に追い込みました。
 同時に里見本家を吸収し、安房里見家第5代目当主に就任し、里見家の基盤を作りあげていきました。
 滝川恒昭さんは1956年千葉県生まれ、1999年に國學院大學大学院博士課程前期を修了しました。
 千葉県公立高等学校教員として、県立船橋高教諭を経て千葉経済大学非常勤講師となりました。
 現在、敬愛大学特任教授として、日本経済史と日本史の講義とゼミナールを担当しています。
 また、千葉市史編集委員、木更津市史専門部会部会長、一宮町史編さん委員などを務めています。
 家督を継承した後も、義堯はなかなか安心できる状況にはなりませんでした。
 後継者候補は、庶長子の信隆とその弟の信応の2人でした。
 そのどちらを推すかで、義堯と氏綱が対立しました。
 氏綱は信隆を支援しましたが、義堯は信隆の弟の信応を支援しました。
 これにより、里見家と北条家は敵対関係となりました。
 一方、小弓公方足利義明は氏綱と敵対関係にはありませんでしたが、信清の死後地域への影響力を増大させました。
 義明は領土を拡大する氏綱に対抗して、北条軍が駿河攻めで疲弊している隙を突きました。
 北条と連携する信隆を追放して、信応を当主に据える策を打ちました。
 そして1537年に、義堯は義明と結んで信隆を降伏へ追いやることに成功しました。
 しかし、信隆を支持していた氏綱の勢いはすさまじく、1538年に第一次国府台合戦に発展しました。
 この合戦では、義堯は義明方に参戦しました。
 しかし義明が劣勢に陥ると、足利軍を救援せず本国の安房に帰還してしまいました。
 この結果、義明は戦死して小弓公方は滅亡しました。
 合戦は氏綱の勝利に終わりましたが、義堯は義明の下総国や、真里谷家の上総国へ進出して勢力を強めました。
 やがて真里谷氏の勢力を駆逐しようとして、1544年に真里谷朝信を倒して大多喜城を奪取しました。
 1551年に、北条方に属する真里谷信政を攻撃しました。
 1552年に椎津城を落として信政を自刃させ、真里谷氏の勢力を衰退させました。
 房総半島に勢力を拡大し、上総の久留里城を里見家の本拠地と定めました。
 安房・上総の二力国を基盤に子の義弘とともに、戦国大名里見氏の最盛期を築きました。
 そして、上杉謙信、佐竹義重等と結び、後北条氏と関東の覇権をめぐって争い続けました。
 1553年に氏康が武田晴信と今川義元と三国同盟を結び、1555年には上総西部のほとんどを北条家に奪われました。
 1556年に北条軍が水軍を率いて攻め入ると、里見水軍を率いて三浦三崎にて対陣しました。
 戦いの最中に、北条水軍が暴風雨によって沈没や沖に流され、戦況は里見軍の勝利に終わりました。
 1560年に再び北条軍が攻め入りましたが、久留里城に籠城して抗戦しました。
 まもなくやって来た上杉軍の援軍を得て勝利し、上総西部のほとんどを取り戻しました。
 1564年に第二次国府台合戦が勃発し、緒戦は勝利したものの、翌日に北条軍の奇襲を受けて敗走しました。
 若くして里見氏の武の中心として活躍した正木信茂は、この戦で戦死しました。
 安西実は、敗走するなか馬を失った主君の義弘に馬を差し出し、身代りとなって討死しました。
 敗れた義堯は義弘と共に安房へ退却し、上総の大半を失ったことで里見家は一時的に衰退しました。
 しかし2年後に、失地を回復できるまでに勢力は再び盛り返しました。
 氏康は里見氏の息の根を止めようと、佐貫城の北の三船山に砦を築かせ佐貫城を伺いました。
 1567年に北条氏政が大軍を率いて三船山に着陣し、義弘と対峙しました。
 義堯は久留里城へ籠城して攻撃を防ぎ、北条軍が撤退するまで耐え凌ぎました。
 三船山での勝利により、里見家は上総の支配に関して優位に展開し下総まで進出しました。
 義堯は北条氏康より8歳、武田信玄より14歳、上杉謙信より23歳年長です。
 全国的知名度は高い方とはいえず、地元でも実名や居城を知っている人はあまりいません。
 一方で、里見氏の存在自体はよく知られています。
 江戸時代後期のベストセラー、曲亭馬琴の南総里見八犬伝の影響によるものです。
 いま一般にイメージされる里見氏像は、八犬伝をベースにしたまったくの虚構の姿のものになっていました。
 このギャップの解消の努力が、大野太平氏や川名登氏などによって行われました。
 架空の物語によって刷り込まれた虚像を拭い去り、史実に基づいた歴史像を描こうとしました。
 本書も大野・川名氏の路線を継承するなかで、義堯の生涯と人物像を、史料に即して描こうとしています。
 ただし、当主や一族家臣の受発給文書などの史料の総数が少なく、ほとんどが没個性の公的文書です。
 里見氏は近世初頭に滅亡したことで家伝文書がないことに加え、活躍地域や勢力も限られた大名でした。
 しかも義堯は、もともと里見家の家督を継ぐはずのない家系の子として生まれました。
 特にその前半生については、確実な史料どころか逸話すら何一つ残っていません。
 初代とされる義実から義豊まで、関係史料もほとんどといってよいほど残っていません。
 一方で、北条氏・武田氏・上杉氏といった戦国大名や、関東足利氏については研究も深化しています。
 わずかではありますが、義堯や里見氏の動向が垣間見られるものも出てきました。
 また、里見氏を含めた房総の戦国時代に関する史料の掘り起こしと整理も進んでいます。
 信頼できる史料から裏づけられた、義堯やその時代を描く環境もようやく整ってきました。
 とはいえ、初代義実の実在・出自を含めた成立の謎については、本書でも解明できていません。
 義堯の伝記を叙述することは、そのまま里見氏の戦国大名への発展過程をなぞることにもなります。
 本書では、その重要な課題に取り組んでみたいといいます。
はしがき/第一 義堯の誕生と房総里見氏/第二 天文の内乱と義堯の登場/第三 政権確立と復興/第四 小弓公方の滅亡と北条氏/第五 江戸湾周辺に生きる人々/第六 上杉謙信の越山と反転攻勢/第七 第二次国府台合戦/第八 混沌とする関東の争乱/第九 策謀渦巻く関東情勢/第十 義堯の死とその影響/第十一 その後の里見氏/あとがき/里見家略系図/略年譜





里見義堯(314) (人物叢書) [ 滝川 恒昭 ]

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【中古】 里見義尭 条の野望を打ち砕いた房総の勇将 PHP文庫/小川由秋(著者)





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Last updated  2025.06.21 10:04:37
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