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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.07.19
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 中田 薫は山梨県甲府市生まれの日本の法制史家で、日本法制史を専門としました。
 ”中田 薫”(2023年8月 吉川弘文館刊 北 康宏著)を読みました。
 自然法観念のうえにドイツ歴史法学と自由法論を応用し、日本の歴史を個人の権利意識から私法史として捉え直した、中田 薫の生涯を紹介しています。
 中田 薫は第二高等学校をへて、1900年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業しました。
 その後、同大学院に入学し、1902年から東京帝国大学法科大学助教授となりました。
 1908年から1911年まで、文部省外国留学生としてヨーロッパに留学しました。
 1910年に法学博士の学位を授与され、1911年に教授となりました。
 1925年に帝国学士院会員となり、1937年に大学を退官しました。
 日本の中世法が、ドイツ中世の制度と類似することを明らかにしました。
 後年の村や入会の研究でも、ドイツとの比較を通じてその法的性質を解明しました。
 1946年に文化勲章を受賞し、1951年に文化功労者となりました。
 1946年に貴族院勅選議員に任じられ、無所属倶楽部に属し1947年の貴族院廃止まで在任しました。
 北 康宏さんは1968年大阪府生まれ、1992年に同志社大学文学部文化学科を卒業しました。
 1994年に同大学院文学研究科博士課程前期を終了し、1997年に博士課程を後期退学しました。
 1999年に博士文化史学(同志社大学)となり、2001年に日本学術振興会特別研究員となりました。
 同志社大学、京都造形芸術大学、その他の非常勤講師を経て、2005年に同志社大学文学部専任講師となりました。
 2009年に同志社大学文学部准教授となり、現在、同大学文学部教授を務めています。
 中田 薫は、1877年に山梨県甲府市紅梅町で生まれました。
 父親は国家官僚の中田直慈、母親はワカといい、四男二女の兄弟の長男でした。
 中田家は羽後国、現、秋田県亀田藩の士族であり、直慈はその長男でした。
 若くして郷土を離れ、薫の生まれた頃には権中属として山梨に赴任していました。
 東北戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わりましたが、同盟を脱退して新政府側に与しました。
 しかし、新政府軍の先鋒として酷使され、庄内軍に敗れた際に見捨てられました。
 その後再び庄内軍と組んで戦いましたが、新政府軍に敗れ降伏しました。
 反新政府軍となり、2000石減封されて維新をむかえました。
 直慈は幼くして学を好み、鳥海弘毅・久野謙次郎とともに藩校長善館の三羽烏と称されました。
 長じて藩校教授、学監となりましたが、戊辰戦争では斥候として活躍した文武両道の人物でした。
 1870年に三人は貢士に抜擢されて、大学南校で洋学を学び、国典は平田鉄胤に教えを受けました。
 その後も東京に残って、1874年に大蔵省に入省し、山梨県少属として官僚の道を歩みました。
 1880年に大蔵省租税局四等属となって、一家は一時東京に移りました。
 1884年に鹿児島県収税長に任ぜられ、鹿児島に移りました。
 薫はこの時7歳で、すでに東京の尋常小学校に通い始めていました。
 直慈はのちに、内大臣秘書官兼宮内書記官、大正天皇の東宮主事を務めました。
 薫は、鹿児島師範学校付属小学校に転校しました。
 1890年7月に鹿児島師範学校付属小学校を卒業し、鹿児島高等中学造士館予科補充科に入学しました。
 そして1893年に、直慈が岐阜県収税長への転任を命じられました。
 家族は岐阜に転居しましたが、薫は第三高等中学校予科に転学し、叔父を保証人として寄宿舎に入りました。
 1894年に第三高等中学校が改組され、本科は解散し他校へ転配されました。
 鹿児島を除く6校を高等学校と称し、本科二年から大学予科三年へと改正されました。
 第三高等学校には大学予科が置かれず、帝国大学進学資格を得られない専修コースに改組されました。
 本科生は、一高114名、二高78名、四高31名、五高55名、山口高13名、鹿児島高造士館1名となりました。
 転配の選定基準に関する資料は確認できませんが、成績席次で選抜されたようだといいます。
 薫は、第一高等学校は落選し、第二希望の第二高等学校転学となりました。
 1894年に、仙台の第二高等学校予科第一部第一年に転学しました。
 1896年9月に予科第一部第三年に進学し、級長は粟野健次郎教授でした。
 翌年3月、予科生たちの吉村寅太郎校長への不満が爆発して、校長排斥運動が起こりました。
 校長は温厚な人物でしたが普段から小言を重ねていたため、豪快な旧制高校生には不満だったといいます。
 しかし、このとき薫は所信を異にし、全校学友と快を分かって参加しませんでした。
 薫は、時代の潮流に左右されない自主自立の毅然とした人物でした。
 ボイコットは2週間以上続きましたが、最終的に校長の依願免官と予科生の2週間の停学処分で落着しました。
 後任の校長には澤柳政太郎が着任し、その尽力で揃って無事卒業することができました。
 1897年9月に、薫は東京帝国大学法科大学政治学科に入学しました。
 総長は潰尾新、法科人学長は梅謙次郎が就任していました。
 2人は穂積陳重とともに、民法制定の中心的役割を担った人物です。
 薫はしばらく青山の自宅から通っていましたが、桜木神社境内に隣接する晃陽館に下宿しました。
 講義はゴシック風煉瓦造2階建て本館と、その後の別建て教室2室や大講堂木造建物で行われました。
 在学中に最も感銘を受けた講義は、第1学年から第3学年まで講じられた梅謙次郎の民法講義だったといいます。
 梅はフランス法が基礎にあり、ドイツにおける民法編纂を横目で見つめつつ民法の起草を進めていました。
 明治民法は1896年に第一編総則・第二編物権・第三編債権が、1898年に第四編親族・第五編相続が公布されました。
 薫は、出来たての前編と起草中の後編について、起草者から直々に学ぶことができました。
 薫は梅のことを恩師として、深く敬愛しました。
 当事者の梅の魅力的講義から多くを学び、独自の研究視角を獲得していったといいます。
 権力関係を軸として描かれてきた公法的歴史の背後に、隠れた私法的水脈を発見したのです。
 そして、薫の法制史研究に影響を与えたのが、宮崎道三郎の比較法制史講義と法制史講義でした。
 歴史に関心を持っていた薫はその学問に魅せられ、そこから具体的な研究方法を学びました。
 宮崎は穂積陳重に次ぐ長老ですが、研究に専念し清貧を貫きました。
 薫の学問基盤は、宮崎から学んだゲルマン法研究者の歴史法学に求めるのが一般的です。
 しかし、後世の法社会学者やマルクス主義者と比較すると、薫の受容は異質です。
 梅から学んだ、柔軟で現実的な視角や自然法に基づく意識や観念を基礎に置いています。
 そして、多様性を把握する視角が本源的な思考基盤をなしています。
 薫は政治学科に進んで父親と同じ官僚の道に進む予定でしたが、学問に魅せられ法制史研究を志しました。
 1900年に、修学年限3年で大学を卒業しました。
 薫は法制史研究への志を固め、宮崎のもとで法制史研究を志しました。
 1900年9月に大学院に進学し、鎌倉時代の法制を課題として宮崎研究室に所属しました。
 薫は日本における法制史学の創始者で、東京帝国大学法学部教授として堅実な学問的人生を歩みました。
 ドイツ歴史法学と自由法論を用い、従来の公法史的な日本歴史の奥の私法史の水脈を捉えました。
 昭和期には文学部にも出講し、人文科学系の日本史学の発展に決定的な影響を与えました。
 また、歴代総長のブレインとして、大学の自治と学問の自由を守るために戦った大学人でした。
 本書では、薫の学問を理解する基礎作業として、その人生の忠実な復元を目指したといいます。
はじめに/第一 転勤族官僚の子の日本各地での文化体験/第二 東京帝国大学法科大学における学問形成と恋愛/第三 大学院・助教授時代の研究と戸水事件の体験/第四 欧州留学/第五 法学部「若手グループ」の活躍と大学の自治/第六 中田の教育理念と学問の自由/第七 大学行政での活躍と講義準備・学生指導の日々/第八 関東大震災後の大学復興と研究の進展/第九 法学部長としてー左翼運動と学生処分/第十 軍国主義の抬頭と大学自治の危機/第十一 中田の退官と戦時下の大学/第十二 戦中・戦後の生活と静かな晩年/おわりに/中田家関係系図/略年譜





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Last updated  2025.07.19 09:47:19
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