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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.10.25
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 伊能忠敬は、江戸時代に全国を歩いて測量を行って正確無比な日本地図を作りました。
 長久保赤水は、あらゆる手段を講じて資料や情報を集めて、伊能忠敬より半世紀早く精巧な日本地図を完成させました。
 ”長久保赤水と伊能忠敬の二度咲き人生 日本地図づくりに賭けた二人の男”(2025年6月 共栄書房刊 岡村 青著)を読みました。
 伊能忠敬は、緻密な測量で正確無比な日本地図を作りました。
 長久保赤水は、実測でないものの半世紀程前に精巧な日本地図を完成させました。
 日本地図づくりに賭けた二人の男の二度咲き人生を紹介しています。
 赤水は1717年に赤浜の農家に生まれ、幼くして父母を失い継母の手で育てられました。
 14歳のころ、鈴木松江について学問や詩の手ほどきを受けました。
 その後、水戸の名越南渓に学び学問研究に励み、貧困者や病人などを救うために活躍しました。
 52歳のとき、水戸藩から学問の功績によって郷士格に列せられました。
 後に、水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川に勤めました。
 1779年に、『改正日本輿地路程全図』を刊行しました。
 地図の正確さ、詳細さ、便利さが喜ばれ、近代的な日本地図の先駆けとなりました。
 その後、大日本史編纂の地理誌の執筆にあたり、75歳まで完成に努力し、1801年に85歳で生涯を終えました。
 忠敬は1745年に現在の千葉県九十九里町で名主農家に生まれ、横芝光町で青年時代を過ごしました。
 17歳で佐原村の伊能家に婿入りしましたが、この頃は家運が傾き始めていたといわれます。
 忠敬は薪や炭などの新しい事業を始め、米の売買も関西方面にまで手を伸ばしました。
 家業は再び盛んになり、佐原で家業のほか、村のため名主や村方後見として活躍しました。
 その後、49歳で家督を譲り隠居して勘解由と名乗り、50歳で江戸に出ました。
 55歳の1800年から71歳まで、10回にわたって測量を行いました。
 地図の作成作業は当初、1817年暮れ終了予定でしたが、この計画は大幅に遅れてしまいました。
 しかし秋頃から喘息がひどくなり、病床につくようになりました。
 1818年に急に体が衰えて、74歳で生涯を終えました。
 死後完成した地図は、極めて精度が高く、明治以降において国内の基本図の一翼を担いました。
 岡村 青さんは1949年茨城県生まれ、諸雑誌のフリー記者を経てノンフィクションライターとなりました。
 『満州帝国崩壊8・15』『世界史の中の満州国』『マッカーサーの日本占領計画』(潮書房光人新社)ほか、多数の著書があります。
 長久保赤水は江戸時代中期の地理学者、儒学者です。
 常陸国多賀郡赤浜村、現、茨城県高萩市生まれで、俗名は源五兵衛といいました。
 号の赤水と字の玄珠は、荘子の天地篇から取られています。
 農民出身ですが、遠祖の長久保親政は長久保城主となり長久保氏を称しました。
 1731年14歳の頃から近郷の医師で漢学者の鈴木玄淳の塾に通いました。
 17歳には江戸に遊学し、服部南郭に学びました。
 25歳の頃、鈴木玄淳らとともに名越南渓に師事し、朱子学・漢詩・天文地理などの研鑽を積みました。
 地図製作に必要な天文学については、水戸藩の天文家であった小池友賢に指導を受けました。
 1768年に『改製日本分里図』が完成しました。
 1775年に『新刻日本輿地路程全図』が完成しました。
 1779年に『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)が完成しました。
 1780年に大坂で出版され、赤水生存中に2版、没後3版、修正を重ね発行されました。
 茨城県は価値の高い学術資料として、2017年に長久保赤水関係資料693点を有形文化財に定めました。
 2020年に長久保の地図や資料群107点は学術的価値が認められ、国の重要文化財に指定されました。
 伊能忠敬は、江戸時代の商人、天文学者、地理学者、測量家です。
 上総国山辺郡小関村、現、千葉県山武郡九十九里町小関の名主の小関五郎左衛門家で生まれました。
 幼名は三治郎、通称は三郎右衛門、勘解由、字は子斉、号は東河といいました。
 父親は酒造家の次男で、小関家に婿入りしました。
 三治郎の他に、男1人女1人の子がおり、三治郎は末子でした。
 1751年6才の時に母が亡くなり、家は叔父が継ぐことになりました。
 婿養子だった父は兄と姉を連れて実家の神保家に戻りましたが、三治郎は祖父母の下に残りました。
 当時の小関村は鰯漁が盛んで、三治郎は漁具がある納屋の番人をしていたと伝えられています。
 10歳のとき、三治郎は神保家の下に引き取られました。
 神保家は、父の兄が継いでいました。
 父は当初そこで居候のような生活をしていましたが、やがて分家として独立しました。
 三治郎は、常陸の寺で半年間そろばんを習い、優れた才能を見せました。
 17歳くらいのとき、南中村の名主紹介で土浦の医者に医学を教わった記録があるといいます。
 佐原村の酒造家の伊能家は跡取りの婿が亡くなり、後継のミチが再び跡取りを探す必要がありました。
 伊能家・神保家両方の親戚の平山家の仲介で、三治郎を伊能家の跡取りすることになりました。
 三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りしました。
 その際、大学頭の林鳳谷から忠敬という名をもらいました。
 1762年12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継ぎました。
 このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いました。
 忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、後に三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬と名乗りました。
 当時の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄えていました。
 舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交いました。
 村民の中でも特に経済力があり大きな発言権を持っていたのが、永沢家と伊能家でした。
 伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていました。
 しかし、当主不在の時代が長く続いたため、事業規模を縮小していました。
 永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていました。
 伊能家としては、家の再興のため新当主の忠敬に期待するところが多かったのです。
 1763年に長女のイネ(稲)が生まれましたが、ミチと前夫の間に生まれた男子は亡くなりました。
 1766年には、長男の景敬が生まれました。
 忠敬は伊能家の当主という立場から、村民からの推薦で名主後見に就きました。
 1769年に佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、忠敬の力量が試される事件となりました。
 佐原村は不作続きで農民も商人も困窮したため、倹約を心がけ豪華な山車飾り慎むことに決めました。
 にもかかわらず、永沢家よりの山車が引き回されるという事態が発生しました。
 伊能家は永沢家と義絶すると宣言したところ、各町は山車を出すことをようやく取り止めました。
 しかし、佐原で両家の義絶は村にとって良くないため、仲介により両家は和解しました。
 この年、忠敬とミチとの間に次女・シノが生まれました。
 幕府では田沼意次が台頭し、利根川流域などに公認河岸問屋を設け運上金を徴収することとしました。
 佐原村も河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告されました。
 商人や船主は公認に乗り気でなく運上は免除願いたいと申し出ましたが、認められませんでした。
 その後、紆余曲折ありましたが、伊能茂左衛門と忠敬の2人が河岸問屋を引き受けることになりました。
 運上金の金額も、一時は二貫文に上がりましたが、2年後には一貫五百文に戻りました。
 この河岸の一件が片づくと、忠敬は比較的安定した生活を送りました。
 1774年に、これまで天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となりました。
 当初は永沢家が重用されましたが、そのうちに忠敬の待遇も上がりました。
 1781年に名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となりました。
 名主としての忠敬は、1783年の天明の大飢饉に遭遇しました。
 忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど貧民救済に取り組みました。
 村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続け、佐原村からは一人の餓死者も出なかったといいます。
 この年、忠敬は津田氏から名字帯刀を許されるようになりました。
 1784年に名主の役を免ぜられ、新たに村方後見の役を命じられました。
 村方後見は、名主を監視する権限を持っていました。
 1787年に江戸で天明の打ちこわしが起きましたが、佐原村は役人の力を借りずに打ちこわしを防げました。
 佐原が危機を脱してから、忠敬は保有の残りの米を江戸で売り払い多額の利益を得られました。
 妻・ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えました。
 1786年に次男・秀蔵、1788年に三男・順次、1789年に三女・コトが生まれました。
 妻は1790年に26歳で死去し、忠敬は仙台藩医の娘・ノブを新たな妻として迎え入れました。
 この頃、地頭所には断られましたが、忠敬の隠居への思いはなお強かったです。
 1793年に3か月にわたって上方への旅に出かけ、方位角、天体観測など測量を行っていました。
 1794年に忠敬は再び隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れました。
 忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由と改め江戸で暦学の勉強をする準備をしました。
 1795年に、妻・ノブは難産が原因で亡くなりました。
 忠敬は天体観測のための器具を購入し、自宅に天文台を作り観測を行いました。
 観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量とも幕府の天文台に劣りませんでした。
 忠敬は、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食などを毎日観測しました。
 星の観測も、悪天候の日を除いて毎日行いました。
 1800年の2月頃に、幕府は、測量は認めるが荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めました。
 しかし、船で移動したのでは道中に子午線の長さを測るための測量ができません。
 そこで陸路を希望しましたが、測量器具などの荷物の数は減らされました。
 4月14日に、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下されました。
 忠敬は出発直前に、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に申請書を出しました。
 忠敬一行は1800年4月19日に、自宅から蝦夷地へ向けて出発しました。
 忠敬は当時55歳で、内弟子3人と下男2人を連れての測量となりました。
 寛政12年(1800年)、56歳から、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量しました。
 そして、1818年5月17日に73歳で死去しました。
 その後は弟子たちが遺志を受け継ぎ、『大日本沿海輿地全図』を完成させました。
 二人とも地理学者で地図の作成者、そして農民出身と共通点は多いです。
 ただし、二人のあいだには28年の年齢差、時代差がありました。
 著者があげる二人の汪目点は、大きく4つの理由があるといいます。
 一つ目は、二人にとって50代が人生において大きな転機、ターニングポイントになったということ。
 二つ目は、二人が生きた江戸時代中期の平均寿命は、男女とも大体51歳であったということ。
 三つ目は、二人とも農民出身であったということ。
 そして四つ目は、二人とも引退後に人生を謳歌したということです。
 名を成し功をとげた者の常として、地位に固執し守りに入るのが相場です。
 しかし二人はまったく逆で、人生に対してまっつぐ、いつも前傾姿勢でした。
 政治権力や損得勘定におもねず、打算や思惑などとは無縁でした。
 独自の着想で、ほとんど独力でおのれのやるべき事業を全うしました。
 死ぬまで現役を押し通し、ずっと青春しながら人生を二倍、それ以上大いに楽しみました。
 リタイア後といえども、余生などではなく、現役、いやそれ以上のものです。
 人生二度咲きの秘訣は、リタイア後にあります。
 二人が試したリタイア後の人生から、私たちは教訓として学び取ることができます。
第一章 夢は末広がりに/第二章 身分制度の呪縛をこじ開けた二人/第三章 助走から跳躍へ/第四章 人生を二倍楽しんだ二人の男/第五章 二人の天命/第六章 晩年に引きも切らない大仕事/第七章 生き方まっつぐ

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Last updated  2025.10.25 08:28:31
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