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お待たせしました。今回は「いよいよ欧州勢の本格的アジア進出。「東インド会社」編です。
書いていたものが消えると言うハプニングで2週間も遅れてしまいました。
結局、同じ物は書けなかったし、アムステルダム銀行が追加され、内容もガラっと変わりました。
経済目線が増えたかもしれません。
写真は、インドネシアが無いので、ケープ植民地(Cape Colony)を加えてカバーするつもりでしたが、5万字(原稿用紙140枚以上)を越えてさすがに長すぎ。ケープ植民地(Cape Colony)は 次回(Part 2)に全部持って行く事にしました。それでも長いけど・・。
だから今回は、写真は資料程度のものばかりです。
さて、「アジアと欧州を結ぶ交易路 22」では世界の覇者となったスペイン帝国の「太陽の沈まぬ国の攻防」の話をしました。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防
そのラストでネーデルランド(オランダ)によるモルッカ諸島(Moluccas)への進出はすでに触れていましたが 今回はそのネーデルランド(オランダ)がいかにアジアに入りこんで行ったのか? の話が中心になります
。
その ネーデルランド(オランダ)のアジア進出は、ポルトガルやスペインとは異なる形態での参戦
なのです。
まずは復習から。
アジアと欧州を結ぶ交易路 24
オランダ東インド会社(東アジア)
ネーデルランド(オランダ
)のアジア参戦理由
商船 アムステルダム号
東インド会社とは何か?
ネーデルランドのアジア参戦
オランダ東インド会社(VOC)の進撃
イングランドのアジア参戦
各国の東インド会社(East India Company)
東インド会社は
勅許会社(ちょっきょがいしゃ)
与えられた特殊な権利
アムステルダム銀行の設立が支えた経済
VOCコイン
ネーデルランドの衰退、東インド会社の衰退、アムステルダム銀行の衰退
オランダ東インド会社が運んだ品
東インド会社の輸入したスパイス・ハーブ
イングランドとのスパイス・ハーブの協定
オランダ東インド会社植民都市
バタヴィア(Batavia)
VOC提督 Jan Pieterszoon Coen
バンダ虐殺(Banda massacre)
アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)
カルバン派の国と提督
日本とVOCの関係
VOCとの取引開始とリーフデ号
ポルトガルの排除
ポルトガルでは、国家が大航海時代そのものの道を開きアジア進出に臨んでいる
。
※ 当初の船は国が開発し、用意。
※ 商取引きじたいはジェノバの商人がかかわっていたと思われる。
スペインの場合は、国家が冒険者たちを見受けする形で参戦。
当初はポルトガルと話し合いの上、住分けしていたが、後にポルトガルの相続問題からスペイン国がポルトガルを併合した形で全てを掌握する時代が到来。(ほぼスペインの天下時代)
※ 船は航海者が自前で調達。後に国力が上がるとスペイン海軍の軍船が協力。
今回紹介する、
ネーデルランド(オランダ)の場合は、トップ
が交易の許可を与えただけ。
実はその頃、ネーデルランド(オランダ)は独立戦争中。(80年戦争の終結が1648年。)
アジア初到達の時点(1596年6月)で、まだ国家はなかったのです。
アジア進出は
民間が独自に会社を設立(
東インド会社
)し、船も自前。
それら費用をまかなう為に株式制度を導入しての参戦 となったのです。
もしかしたら、国家として正式参戦できなかったから株式会社と言う特殊な参戦になったのかもしれない。
※ 商船のみならず、護衛の軍船も会社組織の中に保持。
ネーデルランド(オランダ)のアジア参戦理由
独立戦争の中、なぜネーデルランド(オランダ)商人がアジアを目指したのか?
そこには、 市場におけるオランダ商人の排除? が要因にあったのでは? と考えられる。
事の始まりは やはり80戦争?
それ以前、 北海に面するアントワープ(Antwerp)にネーデルランドは大きな貿易港(マーケット)を持っていた。
しかしポルトガルは北部のハンブルク(Hamburg)に卸しの拠点を変更したらしい。
それはハプスブルグ家が懇意にするドイツ系の金融家であるフッガー家(Fugger family)やウェルザー家(Welser family)のシンジケートに流通を変更したからだと言う。
ハンブルク(Hamburg)と言う時点でハンザ(Hanse)の流通を有利に戻したとも考えられる。
そもそもアントワープの存在はハンザ衰退の要因にもなっていたし、当然、 スペイン側も戦争中の相手国の港を回避した。
という理由もあろう。
ポルトガル王も交戦中のスペイン王(ハプスブルグ家のフェリペ2世)が兼任しているのだから・・。
また 、以前はポルトガルのリスボンで胡椒など仕入れていたネーデルランド(オランダ)商人が、これもまた80年戦争の影響でイベリア半島の港街への出禁となった。
これらにより、ネーデルランド商人によるスパイス・ハーブの取引は、より困難が伴っていくのだが、この頃、ポルトガルが内密にしていた東アジアへの航海情報が外部に洩れつつあり、 ネーデルランド商人はインドネシア諸島への直接買い付けに動いたのだと思われる。
そして 1596年、ネーデルランド(オランダ)の フレデリック・デ・ハウトマン(Frederick de Houtman)
(1571年頃~1627年)
率いる探検船4 隻がついにジャワの胡椒の主要港であるジャワ島バンテンに到達成功
。
※ 産地のモルッカ諸島(マルク諸島)までは行ってない。
※ マルク諸島(Kepulauan Maluku)はインドネシア語。
この初遠征では現地でトラブルがあり 乗組員の半数が失われたが、彼らが持ち帰ったハーブ・スパイスだけでかなりの利益をあげた
。
それが、決め手となり ネーデルランド商人らのアジア直接買い付けに道が開けた のである。
もっとも、 ネーデルランドによる現インドネシアの支配はVOC時代を含めて300年以上に及ぶ
ので、 当初スパイス・ハーブの独占で利益を上げていたが時代と共に需要は変化。取り扱いの商品も変わって行く
。
加えて、彼らが築いたアジアの拠点バタヴィア(Batavia)は、 中国や日本の産物を取引する中継貿易の拠点としても発展し利益を上げる存在となって行く。
スパイス・ハーブのマーケットから省(はぶ)かれて、それでもスパイス・ハーブを求めた ネーデルランド(商人)達は(株式)会社を立ち上げ、自分たちで資金を調達(資本家集め)。
外洋航海できる船も自前で調達してアジアに乗り込んだ。
※ 1603年の初航海では艦船12隻で出陣。
結果、 彼らの行動は国に大きく貢献
。会社も国も金持ちとなり、優秀な人間も集まり、 オランダ黄金時代(Gouden Eeuw)をもたらす
のである。
※ 欧州で最も富裕な国で、貿易、学問、芸術の最先端国家となる。
今回はそんなネーデルランド(オランダ)の「株式会社 東インド会社(VOC)」の話ですが、彼らの闇が凄い。
そんな闇にもせまります。
東インド遠征隊のアムステルダム帰還 1599年7月
画家 Hendrick Cornelisz Vroom (1562/1563年~1640年)
所蔵 アムステルダム国立美術館
ヤコブ・ファン・ネック(Jacob Corneliszoon van Neck)(1564年~1638年)
の指揮による 第2次東インド遠征隊アジア遠征からの帰還(1599年)の図
である。
4隻の艦船、モーリシャス(Mauritius)、ホランディア(Hollandia)、オーファーアイセル(Overijssel)、フリースラント(Vriesland)が、スパイス・ハーブをゲットして東アジアより母国に帰還。
多数の小型船と満載の手漕ぎボートに迎えられている。まさに凱旋と言った光景。
ヤコブ・ファン・ネックはスパイス・ハーブの産地であるモルッカ諸島(Moluccas)に最初に到達したネーデルランド(オランダ)人となった。
商船 アムステルダム号
18世紀のオランダ東インド会社の商船 アムステルダム号 (レプリカ)
アムステルダム国立海洋博物館に係留されているレプリカ船。
1748年、アムステルダム号建造。
貿易品を積んでニューヨークへ処女航海?
1749年、処女航海からほどなく (ほぼ英仏海峡対岸) イングランド・イーストサセックス州にあるヘイスティングス(Hastings)沖で嵐に遭遇。崖? 岩? に激突して難破
。
※船と積荷は失われたが、乗組員のほとんどは助かったらしい。
1969年、「アムステルダム号」発見?
船体は状態も良く、海底保存されていたのでダイバーや海事史愛好家のスポットとなっていたらしい。
近くの町、イーストボーン船舶博物館で、アムステルダムの展示品や破片を見ることができる。と紹介されているので、本体のサルベージ(Salvage)はされていないみたいですね。
それらを基に復元したレプリカがアムステルダム港に係留されているこの船です
甲板は真っ赤だったと記憶しています。かなり昔に乗船。
血で汚れても解りにくい。と言う配慮だったと聞いた記憶が・・。
彫刻がちょっとチープだけど、持ち物からそれぞれギリシャ神話由来の神を守り神としているのがわかる。共にオリュンポス十二神の一柱。
右、トリアイナ(τρίαινα)と呼ばれる三叉の矛(ほこ)を持つポセイドーン(Poseidōn)神。
海洋の全てを支配する神。地震の神。トリアイナによって大波、津波、嵐を起こすとされる。
皮肉にも、船は嵐による被害で沈没してしまったが・・。
左、ケーリュケイオン(kērukeion)または、カードゥーケウス(cādūceus)(伝令使の杖)を持つヘルメース(Hermēs)神
。
神々の伝令使であり、旅人、商人などの守護神。
また、蛇がからむ杖が象徴するのは平和・医術・医学。また発明・錬金術などの神ともされる。
赤い盾に✖3つ
は聖アンデレ(andere)の十字で アムステルダムの市章
である。
フラグの中央には東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie)(VOC)のロゴ入り。
東インド会社とは何か?
そもそも東インド会社とは何か?
簡単に言えば アジア方面の交易を主軸にする会社の総称
です。
組織形態や会社形態などは異なるが、総じて欧州勢による「インドや東南アジア方面での商取引を専門とする部門」の事を指す。
また、 どこもバックに国が付いて強力に支援している
。と言う点が特徴である。
※ 商取引きのみならず、彼らによる植民地下のプランテーションなども含まれる。
要するに 「東方貿易専門の商社」が東インド会社なのである。
ただし、江戸期に日本にも来ていたオランダ東インド会社は、アジアに拠点を置いた交易や植民地活動で知られて居ると思うが、 実はアジアだけではな
い。
彼らは東方貿易の道すがら、船舶の補給基地として南アフリカにも拠点を持った。
オランダ東インド会社は ケープ植民地(Cape Colony)
として南アフリカにも植民地展開していたのである。
ポルトガルやスペインが香料諸島のある東南アジア方面に進出した時には無かった名称
である。
ネーデルランドのアジア参戦
先にすでにふれてますが、詳しく・・。
1602年、「Verenigde Oost-Indische Compagnie(VOC)」「東インド諸島連合の会社」と言う会社がネーデルランド(オランダ)で設立
された。
これはネーデルランド(オランダ)の商人らが一体となって、寄り合い、 東アジアへの商売に共同で参入する為に造った世界初の株式会社でした。
彼らは株券を買ってもらう事で資本を大きく集めた
のです。
先にも触れましたが、スパイス・ハーブを求めたネーデルランドの商人たちですが、ネーデルランド内でも当初は複数の商社が競いあい奪いあっていたらしい。
しかし、競争となれば商品の値段も跳ね上がる。そこにイングランドも参戦すれば市場は争奪戦となり、共倒れになるのは必至(ひっし)。
そんな現状を鑑(かんが)み、 1社に統合して共に戦うようアドヴァィスしたネーデルランドの政治家がいた
。 ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt)(1547年~1619年)
である。
オルデンバルネフェルトの提言でネーデルランド商社連合による「オランダ東インド会社」が1602年に
誕生する事になった。 また、これは世界初の株式会社
となり、 同時に1602年、アムステルダム証券取引所も開設された
。
※
アムステルダム証券取引所(Amsterdam Stock Exchange )(Dutch: Amsterdamse effectenbeurs)
余談であるが、
1619年、
VOCの創設者とも言える
ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt)をネーデルランド(オランダ)政府は
処刑している
。
彼はオラニエ公ウィレム1世の元で戦い、ネーデルランドを独立に導いた重要な政治家の一人でもあるのにだ。
※ オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)(オラニエ公在位:1544年~1584年)
処刑理由は前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭」の中、「フーゴー・グローティウス亡命の件」で紹介した 1618年「ドルトレヒト(Dordrecht)教会会議」の神学論争にレモンストラント派が負けたからだ。
国はカルバン主義をとった、反対派の重鎮は処刑か投獄。
意見を異にしただけの事で国際法の父と呼ばれるフーゴー・グローティウスは投獄され脱獄してフランスに亡命。しかしヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトはハーグのビネンホフで公開斬首された
。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭
カルバン派の温情もない残虐さはこの頃から見える。VOCの根深い闇は
カルバン派の思想が根底にあるからなのか・・。
ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt)に敬意を表して肖像をのせさせてもらいました。
Portrait of Johan van Oldenbarnevelt
ウィキメディアからかりました。
1616年から1641年の間の肖像画
画家 Workshop of Michiel Jansz. van Mierevelt (1566年~1641年)
所蔵 Rijksmuseum(アムステルダム国立美術館)
良識ある知識人は反カルバン主義であった。
話を東インド会社に戻して・・。
VOCの取引項目では特にスパイス・ハーブでも、 ペッパー(Pepper・コショウ・胡椒)、クローブ(Clove・チョウジ・丁子)、ナツメグ(Nutmeg)の輸入金額だけで全体の70%~75%に上っていた
らしい。
特に 希少なこれら産地限定のスパイスで欧州の市場の独占を図った
。
ただ、それを求める為に彼らがした行為はほめられたものではなかった。
オランダ東インド会社では、スパイス・ハーブ以外では、生糸とシルクの反物、綿織物、砂糖、金、銀、銅、コーヒー、茶葉が主要な輸入品となっていく。
オランダ東インド会社(VOC)の進撃
もともとインドネシア諸島はポルトガルが開拓した場所。
後追いで1596年に到達したネーデルランド(オランダ)は、次々ポルトガルの港を奪って行く。
実際、オランダ東インド会社が設立されて公式の 最初の航海が1603年12月のアムステルダム出航
である。艦船12隻。そもそもこの航海では、 モザンビーク、ゴアなどのポルトガルの拠点を攻撃し、ポルトガルを追い落とす事が目的だったと伝えられている
。
そもそも普通の商船ではなかったのです。あとでまた触れますが、東インド会社は海軍も供えた一団だったからです。
以下はネーデルランドが占拠してい行った順に示している。正式な会社設立前からすでに先陣がアジア入りはしている。
尚、最初の2つは公式に現地バンテン王国(Sultanate of Banten)から許可をもらい建設している。
1602年、香料諸島南方のバンダ(Banda)
1603年、ジャワ島のバンタム(Bantam)
1603年、マレー半島のジョホール(Johore)
1605年、香料諸島南方のアンボイナ(Amboina)
1612年、香料諸島南方のティモール(Timor)
1619年、ジャワ島のバタヴィア(Batavia)
アジアにおけるオランダ東インド会社の貿易ネットワークの中心地となった。
1635年、ボルネオ島のバンジェルマシン(Banjermasin)
1641年、マレー半島のマラッカ(MalAcca)
マラッカ征服後、マラッカのポルトガル語話者は捕虜になった。
1659年、スマトラ島のパレンバン(Palembang)
1664年、スマトラ島のパダン(Padang)
上は一度「アジアと欧州を結ぶ交易路 22」のラストで紹介しています。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防
イングランドのアジア参戦
欧州市場ではネーデルランド(オランダ)による輸入が増えて、スパイス・ハーブなどが彼らによって価格操作され始めていた。
それに脅威を感じたイングランドが香料諸島の商事に参戦。慌てて東インド会社なる物を設立したと言われている。
※ こちらは一つの会社ではなく複合組織の総称である。
が、 イングランドの場合は自国の毛織物の輸出振興と言う側面もあった
らしい。
ネーデルランドは買い付け目的が主であったが、基本、貿易は「売り込み」、「市場の開拓」。
イングランドは、当時毛織り物産業が不振であった為に、自国の毛織り物を売り込むのが最大の目的
であった。だが、それらは 東南アジアでも、インドでも全く売れなかた
と言う。(温かい国にウールは必要なかった?)
最も、 毛織り物に限らず、欧州の品はどれもほぼ売れなかった
らしく、途中から金地金を送って珍しい逸品を買いあさる方向に転換したらしい。
確か、 日本も交易で欲しいのは中国や韓国からもたらされる生糸、名陶や茶葉、香の原料などであり、欧州の品はいらなかった
。(オランダ東インド会社が日本に運んでいた品は欧州産ではなかったらしい。)
各国の東インド会社(East India Company)
1600年 イングランド
による 東インド会社 設立?
一つの会社と言える組織ではない。
ドレイクの時から続く、航海ごとに資金を募る(出資する)形態から後に株式配当のようなシステムにイングランドも移行する。
※ 1623年のアンボイナ虐殺事件を受けて、市場を東南アジア諸島からインドに移行した。
1602年 ネーデルランド
による東インド会社 正式設立。
正式名 東インド諸島連合の会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie)(VOC)(株)。
※ 資本金650万ギルダー イギリス東インド会社の10倍以上。出資は10年固定。
※ 1799年解散。
1604年 フランス
による 東インド会社 設立。
フランスの場合は、商業利権の参入だけでなく、植民地l経営の参入も大きな目的。
※ 1664年国営会社。
1612年 デンマーク
による 東インド会社 設立。
クリスチャン4世の特許条で設立。
1731年 スウェーデン
による 東インド会社 設立。
中国(清国)の広東との貿易が主。
※ イングランドの東インド会社発足は1600年とされているが、実はアジアへの参入はネーデルランド(オランダ)のが早い。
ネーデルランド(オランダ)の船団が、東南アジア(ジャワ島バンテン)に初到達したのは1596年6月。
それから アジアとの取引が開始され
1602年の統合設立までに14の会社が参入していた。
株式会社として正式に登録されたのが1602年であっただけ。
The Home Fleet Saluting the State Barge (国営船に敬礼する本国艦隊)
制作 1650年。
画家 ヤン・ファン・デ・カッペル(HJan van de Capel, H.)
所蔵 アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum Amsterdam)
2隻のヨットが、手前、国営船で漕ぎ進む役人(検閲)たちに敬礼をしている図らしい。
1602 年~ 1796 年にかけて100 万人近くの欧州人がVOCのアジア交易に従事。VOC の船は 4785 隻に及ぶ。一方、ライバルのイングランドは2690隻で上げた利益はVOCの5分の1。
VOCの効率が良かったと言うよりはVOCの商売のやり方? いや、かなりあこぎな事をした結果だろう。
ポルトガルが船と積み荷を返せと訴訟を起こしているし・・。
東インド会社は
勅許会社(ちょっきょがいしゃ)(Chartered company
)
東インド会社(East India Company)。
オランダ語から訳すと、 「Verenigde Oost-Indische Compagnie」「東インド諸島連合の会社」
。略して「VOC」。
ネーデルランド(オランダ)は同国の商人により結成され「オランダ東インド会社(株式会社)」として東アジア交易に参戦。
そのビジネスモデルは
成功を収めた。
先に紹介した
オルデンバルネフェルトはそれを指導しただけでなく、複数の株主による共同持ち株と言う事業形態をも発案した人物と言われる。 本当に功労者だったのに・・
そしてこの会社の 株券はアムステルダム証券取引所で売買されネーデルランドの国民は誰でも購入が可能
であった。
アムステルダム証券取引所も同年、1602年に設立
されている。
※ アムステルダム証券所は2000年の統合により現在はユーロネクストが運営。
与えられた特殊な権利
ところで、この株式会社は交易だけに従事していたわけではなく、 交易先を植民地化して行くのである。
その為には現住民との交戦もやむなし。すでに商館を持っているポルトガルからは奪い取る事も目的であった。
※ アンボイナ虐殺事件もその一つと言える。(この時の相手はイングランドであった。)
そんな強硬な態度でアジア参入できたのは、この会社が国からの特別許可状が与えられた 勅許会社(ちょっきょがいしゃ・Chartered company)として存在
していたからでもある。彼らには普通の商社ではありえない特権が与えられていた。
兵士の雇用権、
アジアでの要塞建設の許可権、
現地総督の任命権、
現地での条約の締結権、
囚人の投獄及び処刑の権利、
独自貨幣の鋳造許可
etc。 オランダ東インド会社は、ただの商社では無く、
政府機関で無いにもかかわらず、軍隊を付随させて 侵略的進行(戦争)を行い
自ら現地総督を任命して
要塞建設及び
植民地活動を行こなう。パワー系の企業。
VOCKの提督(ていとく)は現地有力者と条約交渉から締結(ていけつ)までも許可されたていた。
そんな特権を与えられた特殊な商社? 会社だったのである。
※ 設立から先、21年間の
アジア交易の独占権も付されていたと言う。
アムステルダム銀行の設立が支えた経済
東インド会社と言う株式会社が設立(
1602年
)され、アムステルダムに証券取引所が
開設(
1602年
)されたすぐ後、同じくアムステルダムには公立の振替銀行が設立(
1609年
)された
。
1609年、アムステルダム銀行(Amsterdamse Wisselbank)設立
。
この銀行はあらゆる種類の貨幣を預金として受け入れ、法定換金率で換算した銀行通貨グルデン(gulden)で払い戻しを行った。
※ 預金の単位グルデンは,銀行グルデンと呼ばれ,実際の鋳貨に数%のプレミアムのついた独自の銀行の通貨単位となった。
※ グルデン(gulden)(英:ギルダー・guilder)。
これは非常に活気的な事なのである。
なぜなら、 国ごとに純度も異なる貨幣を一律に扱う事は、本来難しい事
。
内外の雑多な鋳貨(悪貨もある)の流通による混乱を防ぐ意味でもセビリアやヴェネツィアのような銀行の設立が求められていた中での事。北ヨーロッパでは初。
16世紀のアントワープでは、公的には預金・振替業務が禁止されていたので 公立の振替銀行は存在せず、振替業務はカシール(cashier)と呼ばれる民間の金融業者等が担っていた
そうだ。
しかし彼らの振替えはズルいもの。
世間では、多種多様な鋳貨が流通していた事は確かだが、それを理由に為替手形の支払において現金での払い戻しを嫌い、現金払いには1%から10%のプレミアムを要求。
しかも、法定重量を満たさない悪貨を債権者に渡して不当な利益をあげていたと言う。
※ アムステルダム銀行が設立されると民間金融業者の振替業務は禁止された。アムステルダム銀行による振替えでアムステルダムの通貨は安定。
欧州各地の商人が口座を開き世界貿易の中心地となって行く。
当然、 アムステルダム銀行の存在はオランダ東インド会社(VOC)の商取引に拍車をかけたはず。
それにしても多種多様な鋳貨が市場にある事は問題だった。
例えば、金貨でも純度で価値は当然変わる。換算も面倒である。
さらに法廷基準の純度に満たない悪貨も出回っているのだからすんなり信用もできない。
こういう時に一度銀行に入れて銀行グルデンに振替えれば良いわけだ・・。
※ 南ネーデルランドの悪貨にはアムステルダム銀行も困り、自ら鋳造して対処している。
しかし、もっと簡単な方法がある。 信用のおける共通通貨で商取引すれば事はスムーズに運ぶ。
VOCコインの発行はそう言う事かな?
VOCコイン
アジアでの支払いを独自コインの発行でカバーしたのか?
植民地内での生活コインか?
資料があまり無いのです。私の持ってる貨幣の本では取り扱われていなかった。
貨幣として公式には認められていないのかな? 確かに、国が発行した貨幣ではないからね。
ネーデルランド政府は株式会社のVOCにコインを製造する許可も与えていた。
1793年 オランダ東インド会社がアジア用に発行 シルバー(銀)のVOCコイン。
'Rider' ducaton 「ライダー」デュカートン
ウィキメディアから借りました。
Silver rider(銀の騎手)
重さ32.779グラム、銀0.941
騎士の下の盾は鋳造州を示すらしい。 これはユトレヒト(Utrecht)を示している。
1659年、騎馬騎士を描いた「銀の騎手(Silver rider)」 デュカートン(ducaton)の鋳造開始
。
1726 年~ 1751 年にかけて、オランダ東インド会社の モノグラムが刻まれたデュカートンが鋳造
。
1798年までライダー デュカートンは鋳造
されていたらしい。
1799年、オランダ東インド会社(VOC) 解散。
ギリギリまで鋳造されていたようですね。最も現地は解散になるとは思ってもいなかったろうが・・。
その後の支配者はしばらくネーデルランド(オランダ)国ではなくなります。
1815年に再びネーデルランド国による直接支配でアジアの植民地は復活しますが、もはや株式会社VOCは無いのです。
1735年 オランダ東インド会社がアジアで発行 ブロンズ(銅)のVOCコイン。
ウィキメディアから借りました。
表面には VOC モノグラムと製造年が、裏面にはネーデルランド(オランダ)の紋章。
摩滅具合から相当使いこまれたブロンズコイン。安いコインは絵柄もシンプルですね。
gold(金)、silver(銀)、bronze (青銅)に加えて、pewter(主成分はスズ)の貨幣が発行されている。
※ コインは本国の地方造幣局で鋳造。
ネーデルランドの衰退、東インド会社の衰退、アムステルダム銀行の衰退
アムステルダム銀行に戻ると、 オランダ東インド会社(VOC)の隆盛は本国の経済を潤した。
ここにアムステルダム銀行の存在と役割は大きく、オランダ黄金期を迎えるのに貢献しいる。
しかし、この銀行は当初、当座貸越しを厳禁し、国や市への貸付けもほとんど見られなかったのに 、1683年から市の法令により抵当貸付ができるようになった。
(金貨0.5%、銀貨0.25%の低利)
商人は金銀を預け、(預金)証書を受け取る。
気付くと、オランダ東インド会社(VOC)への貸し付けが増加していた
らしい。
英蘭戦争以降にネーデルランドの経済は下降を始める。
第一次英蘭戦争(1652年~1654年)
第二次英蘭戦争(1665年~1667年)
第三次英蘭戦争(1672年~1674年) 1732年頃から東インド会社への貸付額の累積赤字が膨らみ経営状況は悪化していく
。
東インド会社の業績が落ちて来た?
1763年 信用危機。
1780年 第四次英蘭戦争でさらに打撃。
1795年 フランス軍の侵攻と占領で預金者が引き上げ。(大量の預金がハンブルクへ逃げた。)
1799年 オランダ東インド会社(VOC) 解散。
1815年 ウイーン議定書でVOC植民地の返還が決定。
オランダによるインドネシア植民地支配が再開されるが・・。
1819年 アムステルダム銀行 倒産。
銀行の資産がすべて東インド会社に貸し出されていたらしい。
東インド会社と共に隆盛した銀行と言えなくもないが、度重なる国の戦争が招いた経済の打撃も大きい。
オランダ黄金期を造った銀行も最後は倒産
してしまった。
オランダ東インド会社が運んだ品
東南アジア、特にモルッカ諸島含めるインドネシア地方から仕入れる(輸入)商品はコショウ、丁子(クローブ)、ナツメグ、ジンジャー、カルダモンなどのスパイスハーブが主要品。
※ この地域でしか生息しないスパイスが含まれていた。
他に 絹織物、木綿織物、砂糖、まだ少ないながらもコーヒー豆、茶葉も開始。
※ 1815年、イングランドが東インド植民地をオランダに返還し、再統治がインドネシアで始まってからはスパイスに代わり、コーヒー、茶、サトウキビ、インディゴ(藍)をジャワの農民に強制的に栽培させて本国に送っている。
逆に、 彼らがアジアに運んだのは金や銀、銅が主
。
輸出と言うよりは、それらで買い付けしていたというのが正しいだろう。
以前「大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局」の所で紹介しているが、 ネーデルランド(オランダ)は日本から純度の高い金、銀、銅を持ち帰ってVOC用のコインを鋳造していた。 と紹介。
しかし、時代と共に変化。金は日本が純度を下げた為にもうからなくなり、ラストの方はほぼ銅の輸入に変わっている。ただ 銅も幕府が輸出量に制限をかけていたのでネーデルランド(オランダ)は日本との交易で利益が出ず、交易船の縮小。もししくは廃止の案も出ていたらしい。
それでも VOCコインは、アジアでの交易用コインとなり流通貨幣として長らく使われていた
。日本との縁はきりたくなかったし、日本もそう思っていた。
リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局
リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場
リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話
東インド会社の輸入したスパイス・ハーブ
以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史」の中でスパイス・ハーブの歴史から効能についても書いてます。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
そもそも、スパイス・ハーブは 古来より、薬用として求められた
。と言う事をご理解ください。
風邪薬として、あるいはお腹に効く煎じ薬など効能から多用途に使用
され、 飲料とて摂取したり、料理として摂取し利用
された。また、その過程で化粧品や香水なども生まれた。
東洋で言う漢方薬の原料という位置づけ
です。
ペッパー(Pepper・コショウ・胡椒)
サンスクリット語の「ピッパリー(ロングペッパーの意)」に由来。
原産地はインド。
相当な古代から利用されていた事が解っている。
紀元前1000年頃にはインドでの栽培が増産されている。ペルシャやギリシャ、エジプトでの需要が増えたものと考えられる。
熱帯性故、栽培は原産国インドのみならず、紀元前1世紀頃には東南アジアの諸島にも栽培が広げられている。
ポルトガルが最初に得、スペインやネーデルランドが輸入したのはモルッカ諸島の胡椒。
効能は、抗菌・防腐効果、消化促進、血行促進。筋肉痛の緩和。抗酸化作用からエイジングケア。
辛味成分ピペリンにリラックス効果。
虫の多くが胡椒の香り成分を嫌う事から肉の長期保存に利用されたり衣類の防虫剤にも使われた。
クローブ(Clove・チョウジ・丁子)
原産地はインドネシアのモルッカ諸島。
テルナテ島(Ternate)
、ディドーレ島(Tidore)、マキアン島
(Makian)
、モティ島(
Moti
)、バチャン島
(Bacan)
の5島が主産地。
消毒、抗菌作用、鎮痛作用、歯痛や食辺り、食欲不振。
ナツメグ(Nutmeg)
種子がナツメグ。
種子を覆う仮種皮は メース(mace)
。
原産地は特インドネシアのモルッカ諸島のバンダ島原産
として希少。
消炎効果、消化促進、 体を暖める効果、整腸作用、腸内ガスの抑制、下痢防止、鎮痛作用や、不眠。
カルダモン(Cardamom)
原産地はインドおよびインドネシア。
抗炎症作用、殺菌、免疫活性。香りは消化器系への働きかけにより食欲増進、消化不良の解消、胃の痙攣を抑える。また高い鎮静効果で交感神経の興奮を鎮静。
古代エジプトでは高貴な薫香キフィ(Kyphi)の素材の1つとして使われていた。
※ キフィ(Kyphi)の材料はそれ自体が薬として存在している。
※ キフィ(Kyphi)についも以下に詳しく書いてます。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
ジンジャー(Ginger・ショウガ・生姜)
ジンジャーの原産地はインドらしい
が、古代から利用されていたので広まりすぎてはっきりはわからないらしい。
食欲増進、整腸、痛み、抗炎症、酔い止め、血流促進、血圧・血糖値・コレステロールの降下、殺菌作用や免疫力向上。
中世のヨーロッパではジンジャーの需要が高まったから? 16世紀半ばには西インド諸島はジンジャーの産地となった
。
古代エジプトのキフィ(Kyphi)の素材にジンジャーではなく、ショウガ科のガランガルルート(Galangal root)が入っている。
ガランガルルート(Galangal root)
ショウガ科の植物の地下茎でインドネシアでは医薬品や食材として昔から使われていた。
ライム果汁にガランガルを混ぜたものは強壮剤として、
キフィの効能でも血流促進作用、胃痛の軽減など消化器症状に効く薬
として紹介。
中世は 媚薬
としてしも使われたらしい。
シナモン(Cinnamon)
シナモン自体はインドネシアではなく、 これを得る為にVOCは後々セイロン島に進出する
。
(肉桂ニッケイ→ニッキ)と年配の人は呼ぶが、シナモンのが解り易い。
品種は豊富で用途は多少変わる。
発汗・解熱作用から風邪の予防や初期症状に効果。また食欲不振、胃のもたれ、胃痛改善から胃腸薬の多くで使われる。セイロンニッケイは内樹皮が香料として使用される。
シナモンはBC500年頃の旧約聖書の詩編にも記述される神殿の奉納品リストにあるスパイス・ハーブの1つである。
イングランドとのスパイス・ハーブの協定
これらスパイスハーブに関しては、1619年にネーデルランド(オランダ) 本国とイングランドの間で協定が結ばれ、輸入量の取決
めがされた。
そもそも、彼らはいずれもスパイス・ハーブが欲しくてアジア参戦している。
ネーデルランド2対イングランド1の割合
。しかし、ネーデルランド側の現場は納得しなかった。
当時、第4代VOC提督であったヤン・ピーテルスゾーン・クーン (Jan Pieterszoon Coen)(1587年~1629年)(任期;1619年~1623年)は 本国を無視して独占を図った
。イングランドの追い出しである。
1623年、アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)事件。
イングランドの商館を襲い拷問の末に全員虐殺。協定を結んでも、イングランドとVOCの間で戦闘事件は頻発。
この非道な一件でイングランドは決心? 恐れをなした? イングランドはインドネシアからの撤退を決意しインド交易に移行する
。
オランダ東インド会社植民都市 バタヴィア(Batavia)
現在のインドネシアの首都ジャカルタは、オランダ領東インドの植民地(VOC)時代「バタヴィア(Batavia)」と呼ばれていた。
Batavia in de tijd dat het nog Iacatra heette
バタヴィア(Batavia)がまだイアカトラ(Iacatra)と呼ばれていた時代
ウィキメディアから借りました。
メルテリーフ(van Mertelief)が東インド諸島と中国へたびした時の情景。
オリジナルの製作 1605年~1608年
移替え制作 1675年~1725年
当初はスパイス・ハーブの採れるモルッカ諸島(Moluccas)の
バンダ(Banda)
に交易の港を持っていたオランダ東インド会社(VOC)。
1年後にジャワ島西のバンタム(Bantam)に港が許された
。
1614年から1618年にかけて、モルッカ諸島でクローブの独占権を、バンダ諸島でナツメグの独占権を獲得
していたオランダ東インド会社(VOC)であるが、他国とのトラブルも生じていた。
VOCは
モルッカ諸島(Moluccas) からジャワ島
バンタム(Bantam)に拠点を移動していた矢先、ジャワ島のイアカトラ(Iacatra)(現在のジャカルタ)がイングランドに占拠された。
※ そこは、バンタム(Bantam)のほぼすぐ隣の港である。
そもそも、VOCの勢力拡大を見て、バンテン王国のジャヤウィカルタ王子(Prince Jayawikarta)が独断でイングランドと組んだ事に始まる占拠であった。
※ これはバンテン王国(Sultanate of Banten)の総意ではなかった事が後々わかる。
ここに イングランドvs VOCによる戦いが勃発
する。
イングランドの艦隊は強く、VOCの降伏寸前にバンテン王国王?の助けが入った?
VOC提督もモルッカから戻り参戦。
※ オランダ東インド会社(VOC)の提督がこの年から変わっていた。指揮したのは 第4代オランダ東インド会社提督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン
(Jan Pieterszoon Coen)(1587年~1629年)。
1619年、戦闘の末、住人を追い出し、イングランドからイアカトラ(ジャカルタ)を奪還しVOCは勝利
する。
※ ジャヤウィカルタ王子の一件があり、バンテン王国との関係は和解。
焼土となった イアカトラ(ジャカルタ)に新しいオランダの街と砦を建設し、ここをオランダ領東インドの首都とする。と、VOC提督は宣言。
1621年、町はイアカトラ(Iacatra)から
バタヴィア
(Batavia)と改名された。
バタヴィア(Batavia)の名はローマ帝国時代に入植したオランダ系ゲルマン民族(Batavi Germanic tribe)から由来しているそうだ。
VOC時代含めてネーデルランド支配下の植民地時代(約300年)を通じてバタヴィアと呼ばれ
た。
現地の人は嫌だったのだろう。第二次大戦下、日本の占領時(1942年~1945年)に「ジャカルタ(Jakarta)」に変更され、オランダの支配が完全に終わると、 スカルノ政権は公式に「ジャカルタ」を都市の名前に採択した
。
欧州勢が東アジア進出した一帯の地図。グーグルから借りました。
周辺国が解るように広範囲に入れてあります。
現在のジャカルタが、ネーデルランド(オランダ)統治時代のバタヴィア(Batavia)。
1642年 ポルトガル制作の古地図です。
Portolano of Southeast Asia(東南アジアの航海案内書) 一部
バタヴィア(Batavia)はジャワ島の北岸、保護された湾に位置し、沼地と運河が交差する丘陵地帯。
もともと中継ぎ貿易(中国、韓国)で、古来より栄えていた街らしい。
一年中高温多湿でネーデルランド(オランダ)人は、マラリア、コレラ、デング熱などの熱帯病に倒れることが多かったと言う。
View of the Tijgersgracht on Batavia 1682
バタヴィアのティガース運河の眺め 1682
ウィキメディアから借りました。
画家 インドネシア国立図書館のヨハネス・ラハ(Johannes Rach)によるスケッチ
素材は銅販画。
発行者 Weduwe van Jacob van Meurs
所蔵 KB National Library of the Netherlands(KB オランダ国立図書館)
17世紀半ば、ティガース運河(Tijgersgracht)沿いには、市内の最も著名な一族の家屋や建物が並ぶ。
バタヴィア15の市街地運河の中で最も魅力的と評価されたと言う。しかし、 1619年の戦闘で街を追われたジャワ人は新たなバタヴィア(Batavia)の街の住人にはなれなかったし、砦の中に入る事も許されなかった。
バタヴィア(Batavia)の街はネーデルランド人の為に建設され、要塞化されたのである。
VOC提督 Jan Pieterszoon Coen
ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)(1587年~1629年)
第4代提督
1619年~1623年
※ アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)で罷免(ひめん)され一度は失脚。
第6代提督
1627年~1629年
Portrait of Jan Pieterszoon Coen(ヤン・ピーテルスゾーン・クーンの肖像)
ウィキメディアから借りました。
制作年 1634年~1610年
画家 Jacques Waben(1590年~1634年)
所蔵 Westfries Museum
VOCの成長に大きく貢献し、確かに本国に富をもたらした人物ではある。
でも、やり方は非常に暴力的で強引で、残忍。それは許せる範囲を越える。
かつてはネーデルランドの国民的英雄として称えられていたが、実状が解ってきた現在は歴史家から非難されているのも当然だ。
VOCの提督として、敢えて個人を載せたのは、初期ネーデルランド(オランダ)非道はこの男が全ての原因だったのか? と思ったからもある。
バンダ虐殺(Banda massacre)、そして
アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)と
彼の罪は重い。
バンダ虐殺(Banda massacre)
1621年、マラッカ海域でしか採れないナツメグ、メース、クローブの貿易独占権を確保する為だけに 、VOCによるバンダ諸島の征服を指揮し土地を得る為、抵抗する原住民を皆殺しにするべく軍を指揮。
現地を壊滅させ征服
。生き残った原住民は奴隷としてバタヴィアに送りネーデルランド(オランダ)農家の奴隷とした。
2800人のバンダ人を殺害。1700人のバンダ人が奴隷となった。
他説では15000人の住民がいたが、生き残ったのは1000人ほど。とも伝えられている。
いずれにせよ、彼が大量虐殺を指揮したのは間違いなく、その部下らの行いも酷かった。
ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは戦闘のさなか、
「絶望するな、敵を許すな、神は我々と共にある
(Despair not, spare your enemies not, for God is with us)」
と、部下を鼓舞(こぶ)したと言われる。
※ こんな事して「神が我々と共にいる。」と言ってのける彼の宗教は何なんだ?
アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)
1623年、 モルッカ諸島アンボイナ島にあるイギリス東インド会社商館で、職員全員がVOCの軍隊により拷問の上に虐殺
された。ほぼでっち上げの因縁であった。
(イングランド人9名、日本人傭兵10名、ポルトガル人1名)
彼が、 VOCの第6代提督(1627年~1629年)に返り咲いた時、イギリス軍はバタヴィア(Batavia)を放棄し、バンタム(Bantam)に本部を移した。と言われる。
彼は株主に多くの配当を出す為に頑張った? のかもしれないが、とても称えられたものではない。
※ 彼はアンボイナ虐殺で罷免されたが、バンダ人の大量虐殺では罷免されていない。
こんな非人道的な事があるのか? と驚愕する暴挙をしていたヤン・ピーテルスゾーン・クーン。
それ故、彼がVOCに利益をもたらしたのは確かであるし、また、その VOCの盛況がオランダ黄金期の一翼を担っていたのも確か
なのである。
前回記しているが、1625年、 デルフト出身の法学者フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)(1583年~1645年)
は「戦争と平和の法(De jure belli ac pacis)」を執筆。
「 国家間、戦争にもルールが必要である。」と亡命先のフランスで著した。
時期的にアンボイナ虐殺の件があったから? と思われる。
彼は国で、長らく自国の行為の正当性を証明する仕事をしていたのに・・である。
カルバン派の国と提督
ネーデルランド(オランダ)の進出の仕方が非常に残虐で他の欧州のカトリック国とは一線を画す。
だから、前回プロテスタントについて調べてみたのだ。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭
同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントはかなり異なる。
特に人の行いに関して、カルバン派の解釈は特殊すぎる。
カトリック教会が異端としたのも解る。
ネーデルランド(オランダ)は国を揚げてカルバン派であるからなのか? と思っていたが、実はこの1人の男に集約されるのか?
※「国を揚げてカルバン派」については、「アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭」の中、「フーゴー・グローティウス亡命の件」の所で書いています。
ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは厳格なカルバン派の家に育っている。
全てのカルバン派がこれを肯定するかは解らないが、信仰の怖い所である。
正しいと信じれば信仰も凶器になる。
ヤン・ピーテルスゾーン・クーンの行いは、今は ジェノサイド(genocide)(大量虐殺
)と、捉えられている。
1627年 ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが提督(ていとく)として返り咲くと彼の在任期間中(1628年と1629年)、マタラ(Mataram)のスルタン・アグン(Sultan Agung)は
バタヴィア
をに2度包囲し戦闘を仕掛けている
。
そんな中1629年にVOC提督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)は突然亡くなった。コレラ説はあるが・・。その後、彼の遺骸は墓から掘り起こされ消えた?
スルタン・アグンの墓の下に置かれたと言う伝説が残った。
日本とVOCの関係
彼らは敵国(ポルトガルやスペイン)から奪う行為を「良し(正義)」と考えてポルトガル船を日本近海でも襲っていたらしいが、日本はそんな私掠船(しりゃくせん・Privateer)行為は認めなかったと言う。
そんなネーデルランドと言う国に用心したのか?
江戸幕府は深入りせず? VOCを単に貿易船としてのみ扱ったのかもしれない。
1642年 ポルトガル制作の古地図です。日本までカバーしてます。
Portolano of Southeast Asia(東南アジアの航海案内書 海図の本「Eary Sea Charts」
から
制作 Antonio Sanches (アントニオ・サンチェス) Lisbon(リスボン) 1642年
この地図よりほぼ100年前の1549年にすでに日本はポルトガルとの交易を始めていた
のです。
1549年8月 イエズス会創設(Societas Iesu)者の1人フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)(1506年~1552年)が部下と共に日本に上陸。鹿児島市祇園之洲町に到着(上陸許可)。
1551年4月 大内義隆に再謁見 宣教の許可を得えた事が始まりです。
布教ありきから始まるポルトガルとの交易
。
きっかけは、ポルトガル王の命で、インドに布教に来ていたザビエルが、たまたまマラッカで日本人と出会った(1547年12月)事だそうです。
このポルトガルとの関係はキリスト教問題を除けば良好な物でした。
100年後に九州でカトリック信者が増加した事が問題になったのです。中でも、特に問題になったのが仏像などの破壊行為だそうです。
キリスト教の聖像(キリスト像やマリア像)を大事にする事は何の問題も無かったけれど、彼らからすると異端となる仏像の破壊を始めたと言う
のです。
確かにそんな事態なら、幕府も静観するわけにはいかない。
さらに 長崎がイエズス会領となり要塞化されていると言うのを聞いて慌てた?
最初にバデレン追放令(1587年7月)をを出したのは豊臣秀吉です
。
日本がネーデルランド(オランダ)に乗り換えたのは、江戸の時代になってからですが、彼らの吹き込みもありカトリックに対する強い警戒心が植え付けられて行った部分もあったのかもしれない。
プロテスタントはカトリックであるけれど、彼らは聖人も聖像も禁止。そこが受け入れられた?
しかし、母国ではカトリックの教会を襲撃して回り、聖像や調度品を破壊しまくっていたのはむしろプロテスタント信者。
本当にカトリックの信者が仏像を破壊してまわったのかは疑問が残る。
この地図の製作は1642年で
すから、それは1637年(島原の乱)後に ネーデルランド(オランダ)の東インド会社(VOC)が出島に入った頃の時代に重なります。
※ 上の古地図の本は昔アムステルダム国立海洋博物館で購入してきた限定発行の本です。非常に大きく重く、飛行機の超過料金を考えると今は持ち帰えれない代物です。
VOCとの取引開始とリーフデ号
1600年4月 ネーデルランド(オランダ)の商船、リーフデ号(De Liefde)が、豊後国(現大分県)に漂着。
※ 乗組員110人程、漂着時の生存者24名。最終的な生存者は14名? 生存の乗組員は全員、日本に帰化した。
※ この時点でオランダ東インド会社(VOC)はまだ存在していない。
1602年 オランダ東インド会社(VOC)誕生。
1603年 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府誕生。
1605年 江戸幕府の船がジャワまで出向き、リーフデ号の事などオランダの提督に書簡を送る。
※ 家康は交易を望んだが、この時点でVOC側はポルトガルとの戦闘や中国との交渉で船をすぐに日本に送る余裕がなかったらしい。 正式の国交は4年後1609年
となる。
1609年7月 2隻の艦で平戸入港。
1609年8月 家康に面会。本国オラニエ公の手紙を携え、正式に国交が結ばれた。
1609年9月 平戸に商館設置。しかし、すぐに船は来なかった。
1612年8月 最初のVOC船が平戸に到着。
ネーデルランド(オランダ)との240年に及ぶ交易が始まった。
リーフデ号の乗組員でデルフト名家出身の ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteyn )(1556年? ~1623年)
が 幕府の代表としてバタヴィア(Batavia)のオランダ東インド会社と交易を始める事になる。
※ ヤン・ヨーステンは日本で妻を娶り八重洲に屋敷をもらった。
また、 同じリーフデ号の乗り組み員でイングランド出身の ウィリアム・アダムス(William Adams)
(1564年~1620年)日本名は三浦 按針
。
彼も 徳川家康の外交顧問および通訳として仕え、日本の造船史に業績も残している。
※ 1607年、ウィァム・アダムスは120tのガレオン船(Galleon)サン・ブエナ・ベントゥーラ(San Buena Ventura)を日本で建造。この船は太平洋を横断しアカプルコまで航海している。
ポルトガルの排除
ところで、 キリスト教徒の日本人が九州一帯に増えて行く。幕府はそれを不安視していた
。
また、東アジアにはすでに日本人がいた。戦国の世が終わり、日本のサムライらが職を求めて東アジアに傭兵として出稼ぎに行っていたのだ。
キリスト教徒の布教問題は、彼らの帰国にも影響した。
※ 海外でキリスト教徒になった日本人が国内で布教するのでは? と恐れたからだ。宣教するポルトガル人を管理する為に囲い込みの取引所の建設が始まる。
1634年~1636年 長崎に人工島の出島が建設
。(扇型で面積は3969坪(約1.5 ヘクタール)
1636年~1639年 出島内のみでポルトガルと交易。
1637年12月~1638年4月 島原の乱勃発
※ キリシタンの反乱と位置づけされ、カトリックのポルトガルは排除される事になった。
※ 江戸幕府のバックにはVOCがいて、そそのかされた部分はある。ポルトガルは日本から出禁になった。
1641年~1859年 オランダ東インド会社、平戸から出島に昇格し、ポルトガルの後釜として交易開始
。
※ 武装と宗教活動が規制され、幕府の監視下に置かれおよそ220年の両国間の交易が始まる。
1810年~1813年 3年間、出島にオランダ船が1隻も入港しなかった事もある。
※ ネーデルランド本国がフランスに併合され、バタヴィアがイングランドの占領下にあった時代である。
1815年 ウィーン議定書
※ 議定書ににより東インドがネーデルランドに返還され、 再びネーデルランドによる東アジア支配が始まる。出島にネーデルランド(オランダ)船が戻ってきた。
※ 日本はVOCが解散していた事を知らされていのか? その間支配者も共和制政府→フランス、→イングランドと変わっていた事も知っていたのか?
1853年 ペリー来航。日本の開国を迫る。
※ マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)(1794年~1858年)アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官。
1854年 日米和親条約が締結。
1856年 日蘭和親条約が締結。
※ 江戸幕府とネーデルランド(オランダ)が新たに締結した和親条約。
※ 通商のみでなく、再度、国交が結ばれた
。
※ 出島から長崎市街への彼らの出入りが可能となった。
日本もVOCと長く交易していたが、よく彼らの支配下に落ちなかったものだと感心する。
幕府が案外しっかりしていたのかな?
下はフランシスコ・ザビエルのアジア航路のコースを示したものです。
ウィキメディアから借りました。
解り易く、 南アフリカ
、 オランダ
、 ポルトガル
に色を付けさせてもらいました。
ネーデルランド(オランダ)が東アジアのモルッカ諸島までたどり付けたのは、ポルトガルの秘匿していた情報から
なので、時代は古いですが、 ザビエルの航路図を利用させてもらいました。
上の航路図で示されているのは、 定期航路図です。
ポルトガルは当初、北海ルートなどを探ったようですが、結局ダメでポルトガルの航海路を利用することになったそうです。
だからザビエルのコースとほぼ同じはずです。
さて長くなりましたからこの辺で終わります。
バタヴィアの事や船舶補給地の南アフリカは次回です。
東インド会社 つづく
Back number
アジアと欧州を結ぶ交易路 24
オランダ東インド会社
リンク チューリップ狂騒曲
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防
リンク 大航海時代の静物画
リンク 焼物史 土器から青磁まで
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)
リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
リンク
海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
リンク
聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)
リンク
アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク
ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)
リンク
クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン