アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
大航海の前章 発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos) ベレンの塔(Tower of Belém) ジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jerónimos) バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の石棺 インド航路発見のの探検隊 イベリア半島のレコンキスタ(Reconquista) 海洋王国ポルトガルの誕生 長子制度と3つの騎士団 ポルトガルの海外進出、セウタ(Ceuta)征服 モンテハチョの要塞(The Fortress of Mount Hacho) セウタの王室城壁(The Royal Walls of Ceuta) セウタ十字軍? サンフェリペ壕(Moat of San Felipe)
大西洋上の船舶寄港地と植民地
先端に立つのがエンリケ航海王子(Prince Henry the Navigator)(1394年~1460年)。 手には大航海の為に制作されたカラベル船(Caravel)の模型を持っている。 ※ カラベル船はポルトガルとスペインの探検家らに愛用された船。 次がアルフォンソ5世(Afonso V)(1432年~1481年) その次がヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年) 騎士がいて、その次にブラジル発見者、その次がマゼランらしい。
モニュメント西側
探検家、芸術家、科学者、地図制作者、宣教師などモニュメントは西側と東側合わせて30人。 左から兄ペドロ(Pedro de Portugal)(1392年~1449年) エンリケの母でジョアン1世の妃フィリパ(Philippa of Lancaste)(1359年~1415年) 右の巻物を持っているのがルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)(1524年頃~1580年)。作家で航海に同行して「ウズ・ルジアダス(Os Lusiadas)」を執筆。それはポルトガルの大航海における栄光の記録を叙事詩で壮大に描いた作品らしい。
ポルトガルの大航海時代の最盛期の王マヌエル1世(Manuel I)(1469年~1521年)によって着工(1502年)された。 こちらは エンリケ航海王子の偉業を称えての建立らしいが、こちらも建築資金もまたバスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が道を開いたインド航路によりもたらされた富が活用されている。
発見のモニュメントの所から撮影した写真。全景を入れるのは遠くないと無理。 中央から左が修道院の回廊で、現在は国立考古学博物館になっている。塔は教会の尖塔で、そこから右が修道院付属? のサンタマリア・デ・ベレン教会(Igreja de Santa Maria de Belém)である。
下の写真はウィキメディァからかりました。手前が教会。
ジェロニモス修道院に隣接するサンタマリア・デ・ベレン教会(Igreja de Santa Maria de Belém)
13世紀半ばにはグラナダを残すのみとなっていたが、難攻不落のグラナダは最終的に1492年にやっと陥落。 その グラナダを陥落させたのはカスティーリャ王国(Reino de Castilla)(1035年~1715年)で、女王イサベル1世(Isabel I de Castilla)(1451年~1504年)(在位:1474年~1504年)の時
。戦場に出たのはアラゴン王の夫である。
セウタの王室城壁(The Royal Walls of Ceuta)
セウタの見所はモンテハチョ要塞ではなく、市内に残る王室城壁(royal walls)とサンフェリペ壕(Moat of San Felipe)である。 海上からの攻撃から都市を守るための防衛設備である。 半島を横断するように掘り(サンフェリペ壕)があり城塞が控えている。
エンリケ(Henrique)(1394年~1460年)王子は1420年、キリスト騎士団長(Military Order of Christ)のマスターに任命された事から、その人材と財産がセウタの為に使用できるようになった。
ローマ教皇もまた1456年にはポルトガルに所在する4つの騎士団に1/3の人材をセウタに派遣するよう指示し、支援している。 何しろセウタ死守は正式な十字軍の任務に認定されているからね。