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さとしわかるか 僕の相方から借りた本。福島智さんの母玲子さんが「指点字」を見つけるまでのドキュメント。人は誰かのために生きるということが本当に可能なのだと思い知らされた。相方は智さんが高等部時代に独り暮らしをしたいと手紙を出す部分に多くを読み取ったそうだけど、僕には少年の頃の闘病のあたりが強く印象に残った。次の文章は、右目を摘出し、さらに左目の手術を前にしたときの智少年の言葉を母が書きとめたものだ。 「お母ちゃん なんで 注射せんならんの どれくらい 痛いの なあ どれくらい痛いか 僕の手つねってみて ほんとに それくらいだけか --心配せんでもよろしい 赤ちゃんでもするんよ 赤ちゃんは泣いた? --赤ちゃんは 小さいから そら泣いたよ 僕は泣いてもよいか? --泣いてもいいよ お母ちゃん したことあるんか --あるよ 小さいとき 一杯したよ 泣いたの? --お母ちゃんは 女の子やし弱虫やから泣いたよ 僕も 泣きなさい」(52-53ページ)この言葉を聞いて勇気を出したのか、智さんは「処置室の看護婦さんに向かって自分から突進していった」そうだ。僕はこういう美しい詩のような文章にとても弱い。さらっと、なんの衒いもなく出てくる言葉。「泣いてもいいよ」と言ってあげる母親の心の中は、自分が泣きたいような気持ちで一杯だったかもしれない。智さんが「僕は弱虫じゃない」という態度をしめしたことに、母親はどんなに救われたことか。このとき母親の存在は子どものためにあり、子供の存在は母親のためにもある。この「も」というところの非対称性が、ケアの本質のひとつをなしている気がする。智さんが「どん底」の最後に踏みとどまることができたのは、他者のために「も」ある自己存在をベースにしているのではないか。
2009.12.13
カプランは生命倫理学においてナチスの犯罪がまともに扱われていないことに不審感を示す。その原因の一つは、ホロコーストは文句なく非倫理的であり、それ以上に言うべきことはないという扱いがなされるからである。またもう一つは、従来、「心理学的な説明」がなされてきたからである。つまり、それらの犯罪に関与した者たちの行動は、「狂気」あるいは強要によるものだとされるのだ。たしかにそうした「研究」を行なったものたちの中には、精神面での障がいをもつものがいたことは確かである。しかし高名な医師や科学者も多数のである。しかも彼らは――戦中と戦後の裁判の場においても――様々な道徳的正当性を主張している。ニュルンベルク裁判で持ち出されたそれらの主張が吟味されてゆくが、カプランが最も「最も重要」だと考えるのは、次の主張である。起きた事柄にたいして被告の多くが主張した道徳性正当化の5つめは、彼らは国家の防衛のためになすべきこ とを行ったというものであった。全ての行動は「総力戦」に臨んで第三帝国を護るためになされたのであった。「当時ドイツは戦争中であった。国家から戦うことを求められたため、数百万 の兵士が生命を放棄しなければならなかった。国家は国家の必要に応じて民間人を徴用した。国家は健康に有害な化 学工場における労働な命じた。・・・同様に、国家は医療関係者に対して、危険な疾病と戦う新たな武器を用いる実験 を命じたのである」(91)裁判にかけられた科学者のうち最も著名な人物であるゲルハルト・ローゼは、「発疹チフスのワクチンを作るため、収容者に対して死を招く可能性のある実験を行うことについて、最初は彼自身反対の立場を取っていた。しかし彼は、東部戦線で毎日何千人もの人間が発疹チフスで死んでゆくのに、百人や二百人の命を危険に晒すことを敢えてしない理由はないと思うようになった。何万人もの命が救える予防ワクチンが手に入るかもしれない。この利益に比べれば、百人の死が何であろうか」(同)これらの議論を著者が「最も重要」だと考えるのは、今日の生命倫理学においても、功利主義的見地からの正当化が多く用いられるためである。たとえば「乏しい社会的資源を社会内のある集団――高齢者など――に費やすことなく、他の集団――子供など――の取り分を増やすべきである」と論じる人々がある。こうした議論状況の中には、「ホロコーストとナチズムを顧みない生命倫理学」の姿勢があるという。
2009.09.03
一般にニュルンベルク綱領が出された1947年を以て「インフォームド・コンセント元年」と位置づけられる。「インフォームド・コンセント」は、それ以前にどのような歴史をもつのだろうか。John Gregoryらは、医師と患者の温情主義的関係や「無危害原則」、18世紀文献に見られるカントの「啓蒙」概念への言及などを引き合いに出して、そこに患者の権利などを読み込もうとする。しかし、19世紀までの文献のどれをとっても、「患者の権利」やその同意に言及したものではなく、ただ「医師の義務」を基にする議論であるという理由で、著者は退ける。「以上を要約すれば、人体実験の第一段階は、実験の方法論を発展させ、実験による治療をもたらしたが、患者の権利という概念を生み出すには至らなかった」(60)これに変化が生じたのは、1890年、ロベルト・コッホが開発した結核治療薬(ツベルクリン)の刑務所内での使用に関して、プロイセン王国内務大臣が発した覚書であるとされる。「結核に感染した在監者へのコッホ教授の薬剤の使用は、刑務所の医師がその治療に通じている場合に限り、そして刑務所に隔離された診療所があるか場合に限り、霊・教育・医学担当大臣により推奨されるものである。さらに、患者を必要に応じて定期的に観察することを可能とするため、医師は刑務所施設内に居住するものとする。またコッホ博士の物質は新たなかつ適切な症例に限定して使用し、患者の意思に反して使用しないことを要する」(62)患者の同意に関する議論のきっかけとなったのは、1898年に発表された皮膚科医アルベルト・ナイサーによる梅毒血清実験である。「彼は別の疾病のために入院していた8人の若い女性に、梅毒患者から採取した無細胞の血清を、免疫投与の目的で注射した。その後の4年の観察期間内に、8人のうち4人――全員が売春婦と記載されている――に梅毒が発症した」(63)。ナイサーは300マルクの罰金を科され、1900年12月29日には文化大臣の命令として、書面による同意が必要である旨が述べられている。ナイサーを批判したアルベルト・モルの著作『医師の倫理』(1902)には、同意のない人体実験が医師の義務に反することが述べられている。 しかしモルとは反対の論調もあった。Karl Ernst von Baer(「バエル」と訳されているが、発音辞典によれば「ベーア」または「ベール」のほうが正しいだろう)は、「もしこれらの進士たち〔ナイサーの批判者たちを指す〕が思い通りに事を運ぶとすれば、医学はヒポクラテスの時代まで後退することを余儀なくされ」る、という。この論争はほどなく終息したが、折に触れて議論され、政治問題化された。1931年2月28日、帝国保健会議は「新治療法および人体実験に関する指針」を発表した。そこには「そうした実験をインフォームド・コンセントなしに行なうことは、いかなる状況においても許されない」と述べられている。しかし「ドイツにおいてこの指針が効力をもつことはなかった。実際、それらは第3帝国という文脈において犯された医療上の犯罪を防ぐことはできなかったのである」(70)
2009.09.01
ナチ政権下での残酷な人体実験を行なった事で有名なヨーゼフ・メンゲレやジグムント・ラッシャーではなく、自らはそうした犯罪行為を行なわなかったフォン・ヴァイツゼッカーを扱う理由を、著者ゲルノート・ベーメは次のように述べている。著名な科学者であり、今日においても好意的に受け取られている人物を意識的に選んだ……(中略)……我々は、かれがこれらの著作において、人道に対する罪の正当化に利用可能な思想様式を開発したことを見出すであろう。(22-23)フォン・ヴァイツゼッカーは、「年金神経症」という概念を作り出した。要するに、困窮や障がいを理由として社会に対して生活保護(年金)を請求する人々を、「神経症」の枠にはめる概念を開発したというのである。人生の失敗や困窮が、「身体的な病気に転換され、次いでそれが社会保障制度への法的要求を行なう患者なるものを生み出すのである」(24)。医師は社会保障制度の秩序を擁護すべきだと彼は言う。「しかし彼によれば、こうした秩序がまさに年金神経症の温床なのだという。それゆえこの治療は社会的治療とならなければならず、医師は政治化された医師とならなければならない」(25)。「したがって法律的神経症は、個人の疾病ではなく社会、制度、国家そしておそらくは国民(nation)の疾病であった。原因はある特定の政治的メンタリティーにあった。すなわち、労働者階級に社会民主主義の観念を教える教育である。」(26)ここからさらに、「実存」や「超越」という概念から〔医学実験のための〕「犠牲」の正当化などへと話が進んでいく。日本では今日は衆議院総選挙だった。長らく自民党を支持してきた日本医師会の姿勢にも、上記と同じ思想的な「根」があるように思えてならない。
2009.08.30
死ということについて、これがはじめてというのではないが、真剣に考え始めたのもこの時期のことだった。死の不安こそ我々の意識が成り立っための条件である。それがあればこそ、我々は時間ということの、また自己ということの意味を把提することができる。一先は人生において我々が立てるすべての計画の一要因だ。それはいわば我々の存在という織り物の中に織り込まれている糸だ。死によってこそ生は、そして生のもつあらゆる価値は、顕現する。死は単なる生の否定なのではなく、むしろ生を創り、また創り直す。死がなければ生という観念そのものが意味をもたないだろう。全き生、純粋なる作在なるものは、結局、死あるいは純粋なる不在というものと同じことでしかない。これこそが、老ヘーゲルのいったことば――世界の仕事は生成、つまり”~になること”だ――の意味するところだろう。我々人類は、観察やことばによる伝聞を通じて得た自分自身の死についての知識という点で、他の動物から区別されうる。恐らく人間特有の言語――そのイメージの豊かさ、誇張や幻想をつくり出すすばらしい能力――こそが死というものを我々の思身の中にあんなにも生き中きと保つものなのだ。また恐らくはやはり言語のおかげで、死は様々な象徴に包み込まれて我々の意識下に潜み、いつでも夢や掴みどころのない不安などとして自身を表わすことができる。思えば我々人間とい うのは不気味な生き物である。自らの知性を駆使して、ある不吉な前兆から恐怖を呼びよせたりする。自分がつくり出した不安にからめとられて動きがとれなくなっても不思議ではない。そうならないのは、ひとつには、人間の心に与えられた自己抑制力という偉大な能力のおかげであり、もうひとつには、死という避けられぬ現実を否定したり、他のものとすりかえたり、偽装したりする文化的な諸道具のおかげなのである。私はといえば、死を手なづけるこれら文化の諸方策を研究する身とはなった が、それらを信仰する者とはならなかった。私は死というものが、どこか異次元における存在などではなくて、ただの無である、ということをすんなり受け入れた。若い頃にはそれでも死の概念は抽象的なものだったが、五十三歳となって破壊的な病いを抱え込んだ今、それは目前の現実となった。(ロバート・F・マーフィ『ボディ・サイレント』、p. 83-84.)人類学者マーフィは脊髄の腫瘍によって「対麻痺」となり、さらには生命をおびやかされている。その体験を「エスノグラファー」として記述する試みを行なったのがこの著作である。 「死というものが、どこか異次元における存在などではなくて、ただの無である」。それを「すんなり受け入れた」と書いているが、よく読んでみれば、それは「若い頃」のことである。「五十三歳となって破壊的な病いを抱え込んだ今、それは目前の現実となった」という文章は、「すんなり受け入れた」ときの心境とは異なる切迫感のようなものが込められている。〈死という終わりがあるからこそ、生に意味を見出すことができる〉この対極には、〈死はあらゆる生の意義を無に帰せしめる〉という命題を立てることができる。マーフィはおそらく後者の命題の意義を全く理解しない、あるいは理解したくないと思いながら生きてきた人々の一人だろう。というのも、彼にとっての死は、どこまでも生きているものの中に存在するものだからだ。「死は様々な象徴に包み込まれて我々の意識下に潜み、いつでも夢や掴みどころのない不安などとして自身を表わすことができる」。ところが、少なくともヘーゲルが述べた存在と無の同一性は、これとは違うものだと私には思われる。「純粋な存在」とは、他のあらゆる属性を捨象した存在であり、単に在るということそのものだからである(ヘーゲル『大論理学』存在論冒頭を参照)。単に在るということが嘔吐をもようさせる。これは、「ただの無である」ということがまた吐き気をさそうことと同様である。マーフィがニヒリズムを回避するために用いている諸道具は、「死という避けられぬ現実を否定したり、他のものとすりかえたり、偽装したりする文化的な諸道具」に対して、どれほど異なったものなのだろう?
2009.04.25
「人間が行為をして何かを意欲するところにだけ、歴史が存在する」「運命は恣意の自由とは異なって、意志を強要する自然必然的な必然存在(このようにあって別にはないあり方)を指示する」【コメント】ニーチェは若い頃に『歴史と運命』と『意志の自由と運命』という文章を書いたそうだ。どちらにも「運命」という言葉が入っていて、それが「歴史」と「意志の自由」という言葉と結び付けられている。それはなぜか?一方で歴史は、運命的または必然的な出来事の連鎖として捉えられうる。ところが他方では、人間の行為と意欲を欠いた出来事の連鎖は、「歴史」という名に値しないともいえる。なぜなら、「歴史」とはとりわけ人間の物語であって、自然がどれだけ月日と変化を重ねたとしても「歴史」とは呼ばれないからだ。必然存在とは、必ず起こると決まっている出来事の存在のことだ。しかし運命とは何かが違う。必然存在が「意志を強要する」ところに、「運命」が生じる。たとえば、春になれば桜の花が開くのが「必然」だとしても、それを「運命」だとは言わない。「運命」とは、桜の花の下で出会った二人が恋に落ちること。その恋が、ふたりの入学と桜の開花という必然性によって生じていて、それ以外の結果になる可能性がなかったとしてもそうなのだ。すると「運命」とは、必然性が「自由な意志」を経由することによって生まれた物語だ。自由と必然という相反するものが互いに入れ替わって、自由なのか、必然なのかという背反を止揚する。
2009.04.06
共同通信:イラク人死者、10万人超 科学的調査で推計http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041029-00000100-kyodo-int朝日新聞:イラク、民間人の死者「10万人以上」 米学者ら発表http://www.asahi.com/international/update/1030/001.htmlCNN.CO.JP: イラク民間人の死者は約10万人に、米研究者らが試算http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200410290014.htmlロイター:武装勢力は米同盟国を標的、イラク人犠牲者10万人超http://www.reuters.co.jp/newsArticle.jhtml?type=worldNews&storyID=6652946§ion=news(なぜ「武装勢力は米同盟国を標的」が先にくるのか?(怒!))日経新聞:イラク戦争以来、死者は推計10万人・英医学誌http://www.nikkei.co.jp/news/main/20041029AT2M2900X29102004.html(見出しが間違っている。たんなる「死者」ではなく、「イラク戦争による死者」だ)イラク戦争に賛成した人々や荷担した人々は、この10万人の死に対してどうやって責任を取るのか。香田君はまるで、そうした人々が犯した罪を背負い込まされているようだ。
2004.10.30
今回のイラク日本人人質事件について、正直なところ、なんと言っていいものか分からなかった。しかし、神浦氏が次のように言うのを聞いて、心を動かされた。神浦元彰(軍事アナリスト)の「J-RCOM」よりhttp://www.kamiura.com/new.html> 不思議なことに、今回は香田さんに自己責任を求める声が起き> てこない。> > 香田さんには政治性がなく、家族も政府に救出を強く要求しな> いから起きないのだろうか。> > それとも最悪の場合を想定し、そのような被害者をむち打つこ> とをためらっているのだろうか。> > それは香田さんを日本人が突き放したことにならないのか。> > 「バッシング」から「突き放し」に変化したと考えるべきなの> か。> > そのような無感情な雰囲気は、世論を操作したい者にとって格> 好の社会状況なのである。> > とにかく何か発言し、行動しなければいけない。> > それは反対でも賛成でもいい。・・・これを読んで、とにかく何か言わなければと思うしだいである。もし彼が殺されたとしたら、彼に責任がなかったとはいえないだろう。しかし、そうで〈ある〉ことと、そう言い立てて〈責める〉ことは違う。「死んで当然」などと言って、彼の命について自由に判断するのは、彼の命を自由に処分しようとする卑劣な犯人と同じ思考だ。「迷惑をかけた」というのは、彼もひとりの日本人として社会に迷惑をかけるべきではないという意味だろう。それは仲間意識だといえるのかもしれない。しかし、日本人だからというだけの理由で大きな同情をよせる人々もいる。「迷惑をかけた」から「死んで当然」と言うのと、「どうにか助けたい」と願うのでは、どちらが望ましい仲間意識なのか。また、「愛国心」といわれるものは、「迷惑をかけた」者を切り捨てて日本という国を愛するのか、あるいは、ひとりひとりの日本人を愛して、どうにかして救おうとする心情なのか。
2004.10.29
この衝撃的な写真(笑)を紹介してくれたのは、愛媛県愛南町の町会議員さんです。> 今日、仕事の配達中に見て、大ショックをうけたのですが、ついに、愛媛県僻地の> わが町の百数十メートル間くらいの国道工事にバカでかい『テロ警戒中』の看板が2> 個所も立っていたのです。http://www1.odn.ne.jp/~cjh82640/teroru1.htmこの町会議員さんも言うには、ここは愛媛県の「ド田舎」だそうです。だれがこんなものを立てるように指示したのかと中央官庁に問い合わせてみると、たらいまわしにされたあげく、やっと「国土交通省大臣官房技術調査課」だということが分かったそうです。そこが出した「工事現場における管理体制強化の再点検及び徹底について」という文書には、「目立つ場所に『テロ警戒中』等と表記した看板を設置する等により、注意喚起を図ること」と指示されていて、請け負った業者の方は、それに従って看板を出しているようです。どーみてもテロの標的にされそうにない場所で、ちょっとした税金の無駄使いをしてみたのかもしれません。
2004.10.02
文学における「革命」とは、自己決定と自己変革のプロセスであり、「政治」に頼って内面の苦悩から目をそらすことではない。
2004.09.29
映画よりも(下記「参考」に挙げた)田中宇の論評を先に読まされていたので、かなり先入観が入ってしまった。でも、じっさい映画を見てみれば、電子メールと映画は別物だってことがよくわかった。映像の威力が脳天を直撃した。ふだん電子メールを眺めているのとは全く違う。しかしそれ以前に、田中宇とマイケル・ムーアを同列に扱うのがおかしい。もし田中宇が映画を作ったとしたら、たぶん教育番組みたいになるんじゃないかな。ジャーナリストと言えるのはやはりマイケル・ムーアで、現地映像や突撃取材、ブッシュの語り口から死んだ兵士の母親のむせび泣きまでを取り上げて現実に迫ろうとしている。「華氏911」では、アメリカ社会の空気を体感できる。アメリカ人が毎日見ているニュース映像や普通の人々の話が多くて、たとえば、911のあとテロの恐怖におびえる人々の感じがよく伝わってくる。それに比べて田中宇の論評は、パソコンにかじりついて見る(カッコつきの)「現実」の域を出ていない。ジャーナリストとして代弁すべき人々の〈声〉が聞こえてこない。ニュース解説員、田中宇の声が聞こえるばかりだ。マイケル・ムーアの場合には、自分の声で語っていながら他の人々の声を代弁しているのに対して、田中宇のメールマガジンには、そもそも声がない。以前はちゃんと現場取材をした良い記事もあったのに、最近はどうしたのかな。イスラエルを視野に入れているという点に関しては、たしかに田中宇のほうが一枚上手だ。イラク戦争は、イスラエルと「ネオコン」の関わりを抜きにして分析すべきではないのかもしれない。しかしアメリカ人の生活感覚からすれば、ブッシュ関連オイル企業をめぐって実際の利権と思惑がうごめいたというムーアの説明のほうが、はるかに的を得ているのだろう。それに対して、田中宇の分析のように、ユダヤ=キリスト教の終末思想を常に思い浮かべているネオコン支持者が、いったいどれだけ居るのか疑問である。「謀略をやっているのはムーアの方ではないか」とまで言っているのは、常に何かの陰謀説を編み出している猜疑心が露骨に表れているようにしか読めない。ところが、ひとつ「華氏911」のなかで疑問に感じるのは、映画のなかで生き生きと語る人間はアメリカ人ばかりだということだ。アラビア人の声は、かなり訛りのある英語でしゃべる部分だけが、かろうじて生の話として聞こえる。アラビア語の部分は字幕で読むだけだ。それを別にすれば、映画として見られるように短く切り詰めながらも、効果的に戦争の現実がちりばめられている。焼け焦げた赤ん坊や、手をぐしゃりとやられた子どもの傷。これを見ないで兵器の「効果」など語るべきではないだろう。血まみれの米兵。焼け焦げた死体が鞭打たれ吊るされる場面。夜中の家宅捜索におびえる女性や子ども。爆撃で親・夫・子どもを殺されたおばさんが怒り叫ぶ声。これを思い浮かべないで、どうして戦争が語れるんだろうか?そう言う自分も、イラクの現状をこの目で見たわけではないから、こんなことを言うのは傲慢かもしれない。しかし、マスコミで報道されるイリュージョンを一歩踏み越えて現状への想像力をもてば、近くに居る人々と世界の現実について語り合えると信じたい。となりのオッチャンみたいなマイケル・ムーアは、それを示したかったのだろう。○参考田中宇、「華氏911とイスラエル」http://tanakanews.com/e0716moore.htm田中宇、「キリストの再臨とアメリカの政治」(上の記事の続き)http://tanakanews.com/e0721secondcoming.htmマイケル・ムーア、日本語公式サイトhttp://www.michaelmoorejapan.com
2004.09.13
すごい情報量です。━━━━━━━━━━━ まるごと 転送 も歓 迎 ━━━━━━━━━━━ "WORLD PEACE NOW" ニュース Vol.39 2004/9/9 最新情報・解除->> http://www.worldpeacenow.jp/━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━こんにちは。「非戦」・「非暴力」・「イラク占領認めない」・「日本の協力認めない」"WORLD PEACE NOW"メルマガチームです。いよいよあさって!9.11情報をお送りさせていただきます。出演者ほぼ固まりました!盛り盛りだくさんです!!以下、★4ご参照!さて、チェチェン情勢、目を離せません。□チェチェン総合情報 http://chechennews.org/・Yahoo http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/chechen/考えよう。つながりを想像してみよう。本日はこんなのもあります。米軍ヘリ墜落抗議 宜野湾市長・伊波洋一さんの話を聞く集い http://give-peace-a-chance.jp/118/040908.html9LOVE沖縄 (クラブ オキナワ) ~9としての琉球(9)弧~http://give-peace-a-chance.jp/118/040909.html考えよう。つながりをImagine。一人一人、あらためて何ができるか、考えてみよう。日本に住む私たちに何ができるのか。プロ野球でさえも、どんどん動きが出てきている。変えられるという動きが。今世界で起こっているよくないことのほとんどは人災といっても過言ではありません。でも人間のしていることは、人間が変えられます。人類はもっともっとイケるはずです。こんなところでぼやぼやしている暇は実はもうないのですから。もっともっと愉しく、安らいで、あることは可能です。心を開き、考え、交流し、人類の力を総結集・創発して、共に未来を創っていきましょう。可能性は待っている。FREE Human BE-INg & Make WORLDs PEACE NOW「私たちは無力なんかじゃない。 私たちは誰もひとりなんかじゃない。」http://give-peace-a-chance.jp/118/もっとGOODな世界、GOODな日本を創るのは、わたしたち自身。"WORLD PEACE"を創るのは私達ひとりひとりです。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━目次1★要ウオッチ2★カレンダー&映画3★最新ニュース4★★BE-IN & WORLD PEACE NOW スペシャル★★━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━1■■■■ 要ウオッチ! ■■■■お勧めサイト教えてください。JANJAN トピックスhttp://www.janjan.jp/special/list.php■【米大統領選】 http://www.asahi.com/special/usaelection/selection/・ブッシュの 4 年間を問う国際投票http://www.choice21.org/■ジュゴンの沖縄米軍基地 http://give-peace-a-chance.jp/118/henoko.html辺野古沖ボーリング調査の即時中止を求める「緊急共同申し入れ」への署名http://give-peace-a-chance.jp/118/henoko.html■法務省・入国管理局 難民排斥http://give-peace-a-chance.jp/118/nanmin.html■チェチェン総合情報 ・Yahoohttp://chechennews.org/http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/chechen/━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━2■■■■ カレンダー&映画 ■■■■●映画フォッグ・オブ・ウォー 9.11公開http://www.sonypictures.jp/movies/fogofwar/華氏911 公開中http://www.herald.co.jp/official/kashi911/index.shtmlアマンドラ 希望の歌 公開中 トイトイ!http://www.amandla.info/■チェチェン総合情報 http://chechennews.org/・Yahoohttp://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/chechen/●9/9 米軍ヘリ墜落抗議 宜野湾市長・伊波洋一さんの話を聞く集い http://give-peace-a-chance.jp/118/040908.html●9/9 9LOVE沖縄 (クラブ オキナワ) ~9としての琉球(9)弧~http://give-peace-a-chance.jp/118/040909.html●9/11BE-IN + WORLD PEACE NOW SPECIAL @明治公園+ピースパレードhttp://00911.jp/●http://give-peace-a-chance.jp/118/040911.html ・No More War! No More 911 at 藤沢・Be-in 四万十川 メモリアルキャンドルナイト ・Be-in9.11Hamamatsu ・大阪YWCA国際部主催パレスチナYWCAオリーブの木キャンペーン推進 オリーブの木・平和コンサート~フォルクローレの調べとともに~ @大阪・京都円山 みんなで創る 9.11 非戦・平和ライブ ・9.11→? どんな地球にしたい?@札幌・NO MORE WAR ! 9.11集会 こうち【緊急ロシア情勢】常岡浩介のメディアリテラシーhttp://www.geocities.jp/artmix_info/index.html●9/12NGOまつり in 上野http://www.oxfam.jp/NGO-festa/「日本の中のクルド人難民問題を考えるイベント」 http://give-peace-a-chance.jp/118/040912-2.html【END OCCUPATION! 9.26世界共同行動を成功させよう! イラク市民レジスタンス&アメリカ反戦スーパーパワー報告会】http://give-peace-a-chance.jp/118/040912.html●9/14-1/18 持続可能型環境経営セミナー@京都http://www.kankyoshimin.org/jp/hotnews/csrsem.html●9/17 2004年 オッケドンムしよう!9.17ピョンヤン宣言から2年日本-在日コリアン-韓国 917人が共に作る 第2回ピース人文字@東京・明治公園 @ソウル2003年9月17日、700人の人が文字通り『オッケドンム』しました!"9月17日を平和の日に"-今年も9月17日平和のメッセージを送ります。http://give-peace-a-chance.jp/pnkj/project/917_2004/index.html●9/23Dear World 2004 世界は今 http://dearworld.hp.infoseek.co.jp/「“スロービジネス”という快楽~非電化・アウトドア・フェアトレード~」http://www.sloth.gr.jp/aboutus/event/event_now.html●-9/30 (そもそもスターバックスはどうよというのはあるにしても)スターバックスさん、おいしいコーヒーを使い捨て容器に入れないで!@~9/30http://www.foejapan.org/lifestyle/gomi/stb_press.html●10/2 Wings of tomorrow-音楽で平和を感じよう!-http://wot.easter.ne.jp/●10月2-3日(土・日)日比谷★国際協力フェスティバル http://icf.visitors.jp/場所:日比谷公園時間:10時~17時参加費無料今年は、シュワルマの販売も予定!!●10/24 ピースフェスタ・弘前http://give-peace-a-chance.jp/118/041024.html●11/2【米大統領選】投開票 http://www.asahi.com/special/usaelection/selection/●11/21-23第3回・全国教育系ワークショップフォーラムhttp://www.skunkworks.jp/akagi/●12月エコプロダクツ2004@12/9-11http://www.eco-pro.com//━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━3■■■■ 最新ニュース ■■■■9.7Up:ブッシュ大統領の優位拡大=対テロ、指導力で圧倒-米世論調査http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040907-00000504-jij-int9.7Up:中国、三峡ダムに洪水警報http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040907-00000385-reu-int9.7Up:バグダッドでサドル師派と米軍が交戦、40人以上死亡 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040907-00000212-yom-int9.7Up:LETTERE CONTRO LA GUERRA 『反戦の手紙』 http://www.ryosukal.com/tt/lcg/index.htm9.5Up:「日本の中のクルド人難民問題を考えるイベント」 @9/12http://give-peace-a-chance.jp/118/040912-2.html9.3ReUp:過去の克服と東北アジアの平和をめざして 日朝国交正常化を求める一万人署名 9/17提出 http://www.geocities.jp/koreanyouth/sign/9.3Up:警察裏金から巨大ダムまで:オンブズマン全国大会開催されるhttp://www.janjan.jp/living/0409/0408318551/1.php9.2Up「反ブッシュ」逮捕者1700人、人権団体抗議 NYhttp://www.asahi.com/international/update/0902/009.html9.2Up小泉首相 巡視船で北方領土を視察http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040902-00000018-maip-pol9.2Up:「君が代」不起立の都立校元教師9人の口頭弁論始まる http://www.asahi.com/national/update/0902/024.html9.2Up:法務省・入国管理局による難民排斥http://give-peace-a-chance.jp/118/nanmin.html
2004.09.10
以下、「PUBLICITY」(パブリシティー) 経由で平山洋『福沢諭吉の真実』(文春新書)の内容をログっておく。こりゃおもしろい。日本は、思想が曲げられる力学の渦巻く場所だ。「PUBLICITY」(パブリシティー) 編集人:竹山 徹朗 http://www.emaga.com/info/7777.html***まず第1点は、現在なおも対立したままとなっている2つの福沢評価、すなわち福沢を市民的自由主義者とする見方と、侵略的絶対主義者とする見方のうち、後者は石河幹明による『福沢諭吉伝』と昭和版「時事論集」が完結した1934年以降に新たに付け加えられた評価であったということである。それ以前の福沢評価にも毀誉褒貶があったが、それらはあくまで市民的自由主義者という共通の地盤のうえに立つものであった。ところが侵略的思想家というレッテルは、本を糺せば石河ただ一人によって貼られ、大々的に宣伝された福沢像に過ぎなかったのである。第二次世界大戦終了までの10数年間、その福沢像は時局に適合的とされて大いにもてはやされたが、それら多くの付和雷同的主張の起源は、川辺真蔵に見られるように、結局は石河の著作にたどり着いてしまうのであった。ついで第2点は、その石河が造り上げた時局的思想家としての福沢の姿が、彼の虚構であったということである。石河は自分で執筆した論説を大量に『福沢全集』の「時事論集」に採録し、それらをもとに福沢の『時事新報』経営と対アジア観の変遷を追った『福沢諭吉伝』第3巻を著したのであった。とはいえそこで描かれているのは福沢というよりも石河本人ともいうべき人物なのである。しかも、石河は福沢を愛するあまり無意識のうちに彼我無分別の状態に陥ってしまったのではなく、はっきりと意図的に、朝鮮を手がかりとして中国分割を企む福沢(むしろ石河自身)の姿を創造したのである。そのことは、福沢存命中から坐右にあった時事論説のスクラップブックを改竄し、自らの立論に都合のよい自筆14編などを盛り込んだ「抄写」を作って、それを大正版「時事論集」としていることからも明らかであろう。第3点は、第2次世界大戦後間もなくして始まり今なお尾を引いている対立、すなわち二つの福沢評価のうちいずれが適正であるかを巡っての論争において、そもそも両陣営が間違った場所を戦場としていることを示したことである。福沢は市民的自由主義者であるとする、慶應義塾の出身者と丸山真男率いる東京大学法学部出身者たちを主力とする研究者たちは、石河の仕事を尊重しつつ、福沢には侵略的側面もあったかもしれないが、それを思想の核と見なすべきではなく、彼の真の目的は個人の自由と経済の発展にあった、という形で福沢を弁護し、一方東京大学文学部とその他の大学の文学部・教育学部出身者を主な構成メンバーとする研究者たちは、石河の主張を積極的に受け入れて、侵略的絶対主義者としての福沢を批判していたのであった。
2004.09.03
平和運動は、芸術活動でもあります。以下のページから転載http://www.00911.jp/■スケジュール予定“LOVE” STAGE ~ライヴ ミュージック&スピーチ ステージ多彩なゲスト出演予定12時 ミュージック・スタート ~ワイルド・ライヴ 14時~WORLD PEACE NOW ピース・スピーチ15時 ワールド・ピース・パレード 出発! 車上ライブ&DJも15時50分~ミュージック・ライブ、ベリーダンス等17時~ワールド・ピース・パレード 9.11 オカエリ!ライヴ17時50分 ミュージック・ステージ BEAT-IN(スペシャル・ゲスト登場予定)20時~ピースキャンドル~祈りと想いの時間 ピースボート・ニューヨーク中継予定“PEACE” STAGE ~トークとアコースティックミュージック の ステージ政治と社会と環境の“今”を語り合おうコーディネーター:小林イチロウ、シキタ純、谷崎テトラゲスト:交渉中“FREE” STAGE ~アート、パフォーマンスのアピール・ステージ多彩なアーティスト達が、平和と愛をテーマにライヴ・アート・パフォーミング“EARTH”AREA ~NGO、NPOグループ アピールエリア今地球で起こっていること、平和・環境アクションの最新情報をここでゲット!“SPIRIT” CENTER ~土と天をつなぐ聖なる場広島の残り火“こころ”が灯る祈りのエリア。"WORLD PEACE PARADE 9.11" ~終わらせようイラク占領! 撤退させよう自衛隊~当日のコース:明治公園~明治通り~表参道~246~明治公園(予定)サウンド&ペインティング・カーも登場。鳴り物、ビデオカメラ、歓迎。プラカード、メッセージボードなどのアピールグッズ をお持ち寄りください。ピーススピーチ 14:00~パレード出発 15:00~公園に戻ると豪華ライヴが待ってます。"PEACE CANDLE" ~ピースキャンドル。来場者の皆さんが広島の残り火“こころ”で巨大なピースマークをつくり、 9.11 や、その後の戦争、紛争で亡くなった方々を想い、 皆さん一人一人の争いの無い未来ビジョンを結ぶための静かな時間です。夜の公園にくっきりと浮かぶ完成したピースマークの映像も見られます。 (ピースボートによるNY中継等も予定)"PEACE it Forward"(缶バッジで 1人が3人に GIVE PEACE の連鎖) その他全日を通して、明治公園全体が、アート、パフォーマンス、ティピ、 ポエトリーリーディング、NGO/NPO ブース、自然エネルギー等展示、 オーガニックフード、フリースピーチ、輪になってなんでも話せる場、 大道芸、ライヴペインティング、ライヴ書道、まだ見ぬ何か などでにぎわいます。そしてあなたの参加を待っています。
2004.08.31
今年の終戦記念日には、ぼくらは何を想うのだろう?「非戦を選ぶ演劇人の会」は、追想すべき何を知っているのかと問いかけます。「戦争を知らない子供達の子供達である僕らは、一体何を知っているんだろう? 日清戦争で清国に勝った。日露戦争ではロシアにも勝った。そして……太平洋戦争では、広島と長崎に原子爆弾が落ちた。連合艦隊が真珠湾を奇襲攻撃した。東京大空襲、特攻隊、一億玉砕、天皇陛下万歳、耐え難きを耐え、忍び難きを忍びの玉音放送……それから、日本には平和憲法が出来て、戦争と軍隊のない国になった……それじゃあ、自衛隊って何だろう? 小泉首相が靖国神社に行くと、どうして中国や韓国の人達は怒るのだろう? そう、僕たちは何を知っているのだろう?」2004年2月22日「NO WORDS, NO PEACE!! 言葉なくして平和なし!!」の台本、第一部より*** 「非戦を選ぶ演劇人の会」のページより転載 *** イラク、パレスチナ、世界各地の紛争や難民、そこで苦しむ子供たちの状況―─急速に国家統制の進む日本国内の表現規制や教育の問題―─そして、そうした状況だからこそ、世界中で巻き起こっている市民同士の繋がりや平和への取り組み──現在、過去、そして未来へ、人々の生の言葉を通して、平和への可能性を探ります日時:2004年8月15日(日) PM6:00開場 6:30開演場所:紀伊國屋サザンシアター料金:1,000円(自由席・整理番号付)前売開始:7月15日 チケットぴあ: 0570-02-9999/0570-02-9988(演劇専用・オペレーター対応) 0570-02-9966 (Pコード 355-657) ぴあリンクはこちらから*ぴあの窓口以外でも、Pコード入力でファミリーマート、セブンイレブン、サンクスで直接購入できます。*前売、当日とも1,000円です。問い合わせ:電話03-5638-4587(二兎社)総合演出:西川信廣構成:関根信一、永井愛、渡辺えり子出演予定者(五十音順):明樹由佳、麻丘めぐみ、新井純、有馬稲子、市原悦子、宇梶剛士、大石静、大沢健、大森博史、岡田浩暉、加藤土代子、川辺久造、草笛光子、高橋長英、竹下景子、筒井康隆、テツandトモ、富田靖子、永島敏行、根岸季衣、深沢敦、風吹ジュン、松下砂稚子、毬谷友子、三田和代、森山良子、山崎ハコ、吉田日出子、渡辺えり子、ザ・ニュースペーパー(松下アキラ、福本ヒデ)、宇宙堂劇団員 他*出演者は変更になる可能性がありますのでご了承下さい。新たな出演者は、決まり次第、随時お知らせ致します。また、九条の会の方に講演を交渉中です。音楽:後藤浩明、上田亮舞台監督:道場禎一チラシデザイン:JOYS 印刷:大竹美術協力:こまつ座、ポスターハリス・カンパニー主催:非戦を選ぶ演劇人の会
2004.08.14
暴力の支配する911は、もう要りません。━━FREE COPY ━━━━ 転送 歓 迎 ━━━━FREE SPREAD━━9.11.2004 Peace Gathering @ Meiji Park 12:00-20:30 Ver.8/8━━━━━━━━━━━━━━━━━━http://www.00911.jp/ Be-in & WORLD PEACE NOW スペシャル 愛 と 平 和 と 自 由 の チ カ ラ 、あつ ま れ ! NO MORE WAR ! NO MORE 9.11 !━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(このお知らせは予定を含んでおり、内容は予告なく変更する 場合があります。あらかじめご了承ください。) もう戦争も、9,11事件もいらない 奪いあう世界から、わかちあう世界へ 差別する世界から、認めあう世界へ 愛と平和と自由のチカラ、あつまれ!! FREE Human BE-ing & Make WORLDs PEACE NOW.■9月11日(土)@明治公園 12:00-20:30 雨天決行 参加無料(カンパ歓迎)(JR総武線(各駅停車) 千駄ヶ谷駅下車 徒歩5分 または 都営地下鉄大江戸線 国立競技場駅下車(A2) 徒歩5分 )http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=139%2F43%2F00.988&pnf=1&size=500%2C500&nl=35%2F40%2F22.955) ■スケジュール予定◆グローバル・ステージ 12時 スタート ~ワイルド・ライヴ 15時~ピース・スピーチ ピース・パレード(明治公園~明治通り~表参道~246~明治公園) サウンド&ペインティング・カーも登場予定 17時半~ピース・ライヴ(出演予定:未定) ニューヨーク中継予定 19時半~ピースキャンドル(巨大なピースマークをつくります)◆トーク・ステージ 終日 大トークバトル&DJ&ライヴ◆PEACE it Forward (缶バッジで 1人が2人に GIVE PEACE の連鎖)◆全日を通して、明治公園全体が、アート、パフォーマンス、ティピ、 ポエトリーリーディング、NGO/NPO ブース、自然エネルギー等展示、 オーガニックフード、フリースピーチ、輪になってなんでも話せる場、 大道芸、ライブペインティング、ライブ書道、まだ見ぬ何か などでにぎわいます。 (出展者大募集 以下ご参照) ■ ■ ■ メッセージ ■ ■ ■2001年9月11日、 北米で四機のジェット旅客機を使ったテロによって多くの人が亡くなるという事件が起こりました。この日から「報復」の名のもとに新たな戦争が開始されることになりました。「”あの民族なら” ”あの宗教なら” 誰が犠牲になってもかまわない」9月11日は、そんな論理の暴力の応酬が始まった日、そして”やられたらやりかえす”という「絶望の思考」が世界を支配した日。だけど世界には、9月11日にNYで亡くなった人と同じくらいおおぜいの人たちが 毎日、紛争や貧困による飢えや虐待などのためにいのちを奪われて、 自由に安心して生きる権利を踏みにじられ続けています。そしてこの「報復のための戦争」によって、さらに 金融・経済と軍事・管理がグローバルに 一体とされつつある世界の仕組みに 誰もが投げ込まれています。対テロ戦争、勝ち組負け組み経済、メディアの貧困、環境破壊・・・・・状況は悪くなるばかりに見えます。しかし、わたしたちは気づき始めています。意識しているかいないかは別としても。もっと別な未来の可能性があるはずだと。競争ではなく共創する経済、この地球ですべてのいのちと共生していく生き方は可能なのだということ、そして、それを実現するのはわたしたち自身なのだということを。あれから3年。あらためてこの日、にんげんのチカラ、愛と平和と自由のチカラを大結集し、東京・明治公園から「もうひとつの世界」を祈り、話し合い、発信しませんか。NGO・NPOの、企業の、学校の、コミュニティーのチカラ、母の、父の、祖父母の、先祖の、こどものチカラ、アートの、技術の、コトバの、スポーツの、文化のチカラ、想像の、直感の、祈りの、交流の、スピリットのチカラ、政治の、宗教の、法の、伝統の、祝祭のチカラ。そしてあるがままを受け入れるチカラ。野生のチカラ。違いを超えた新たな出会いが、新たな可能性を生み出します。 奪いあう世界から、わかちあう世界へ 差別する世界から、認めあう世界へ わたしたちは9月11日に示したい 「そんな世界は可能だ」、と。 ANOTHER WORLD IS POSSIBLE! 未来をつくるのは、わたしたち一人ひとりです。 愛 と 平 和 と 自 由 の チ カ ラ、 あつ ま れ !! FREE Human BE-ing & Make WORLDs PEACE NOW。■参加・来場にあたって、「3つのルール」と「2つのお願い」。以下以外は、特にルールはありません。自由にあなたでいてくださればうれしいです。違和感や、居心地の悪さを表現してみることからでもいい。とにかく集まってみること。行ってみる事。 まずは、楽な気持ちでのぞきに来てみてください。1・このアクションは非暴力に行います。2・参加/来場者の間での誹謗中傷はご遠慮ください。3・当日は実行委員会の指示に従ってください。ご協力をお願いします。+主役はあなたです。2つのお願い・当日まで、お知り合い2人以上に、このイベントのことを伝えて くださるとうれしいです。つながりのチカラを使いましょう。・当日は、何でもよいので何かひとつ、愛と平和と自由のチカラ、 人間のチカラを表現してください。 もちろん、いらっしゃるだけでも大丈夫。 あなたがいることはすごいことだから。 初めて出会った人と話してみるでもなんでも。■カンパ+賛同のお願い個人賛同一口 千円、団体賛同一口 3千円 にてお願いしております。口座:共通 準備中■ボランティア大募集当日および、準備のボランティアが必要です。info911@give-peace-a-chance.jpまでぜひ、メールをください!■主催:Be-in & WORLD PEACE NOW スペシャル実行委員会Be-in: http://www.be-in.jp/WORLD PEACE NOW : http://www.worldpeacenow.jp/Be-inは、60年代終わりに Human Being のチカラを集めてアメリカで始まったムーブメントで、アート、音楽、政治、なんでもありの祝祭です。その後、ウッドストックやサマー・オブ・ラブが生まれていきました。2001.9.11 から1年後、たくさんの異なる個人が中心となって日本でも再びこの波が始まりました。WORLD PEACE NOWはイラク反戦をきっかけに市民運動やNGOが特定の政党・宗教・市民団体の枠を超越してつながった非暴力ネットワークです。2003.1.18 から、のべ16万人以上が参加して作ってきました。今年は両者がタッグを組んで、共催という形になります。あなたのチカラも加えてください。集まったチカラは共振し、ウネリとなって、星を、未来をふるわせることでしょう。■関連イベント9.17(金)日本-在日コリアン-韓国 917人が共に作る 第2回ピース人文字 オッケドンムイベント @東京・明治公園 @ソウルhttp://give-peace-a-chance.jp/pnkj/■同日イベント・四万十 Be-in @9.11 ほかにも、9.11同日に行うイベントがあれば教えてください。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■お問い合わせ info911@give-peace-a-chance.jpBe-in:下地 03-3388-4789、World Peace Now:市民連絡会 03(3221)4668 詳細&最新情報:http://www.00911.jp/暫定URL>http://give-peace-a-chance.jp/911/ ━━━━━━━━━━━ 転送歓迎ここまで ━━━━━━━━━━
2004.08.11
バクダットにいる布施裕仁さんのレポートが転送されてきました。バクダッドの人々の様子が書かれていて、とても興味深いです。その1その2その3その4その5布施さんは8月1日に起きた教会爆破事件を目撃したそうです。「昨日は、バグダッドの4ヶ所のキリスト教の教会で、車による同時多発自爆テロがありました。最初の爆発が起こった時、そこから50メートルくらいのレストランで食事をしていて、爆風と衝撃波で一瞬お尻が浮いたような気がします。現場に近づいて写真をとっていると、すぐにそこからまた50メートルも離れていない別の教会に爆弾を積んだ車がつっこんで爆発しました。そのときは現場はほぼ市民、警察、米兵が入り混じってのパニック状況で、頭から血を流して逃げてくる人がいたり、僕も目の前でイラク軍に威嚇射撃されたりで、本当に死ぬかと思いました」。「爆発地点から一番近くに住むアリ=ナムダ-ル=ムハンマドさん(50)に、壁が半壊し、まだ焦げた匂いが残る部屋のなかで話をきいた。アリさんは「奇妙なことがたくさんある」という」。(布施さんの報告から引用)「奇妙なこと」というのは、次のようなことです。どうやら教会に犯行予告電話がかかってきて、それで300人の信者の方は帰宅し、犠牲になったのはそのあと通りかかった人だった。しかし牧師は予告電話のことを認めようとしないというのです。いったい、誰が何のために口止めしているのか。「明らかにアメリカが今回のテロ事件を政治的に利用したのが見え見えだ。このテロ事件は僕自身すぐ近くにいたこともあって、その後も色々と取材してまわっているのだが、信仰する宗派に関係なく誰に聞いても「『ムスリムによる異教徒=クリスチャンへの攻撃』と思わせて、宗教間の不信や対立を煽り、イラクを混乱させようとするもの。イラクではこれまで長い間、スンニ派もシーア派もクリスチャンも仲良く共に生きてきた。これはイラク人による犯行ではない」という答えが返ってくる。なかには「やったのは占領軍」という声も少なくない」。米軍のしわざという説は疑わしいですが、少なくともそれを疑う声があるというのは事実なのでしょう。さきの牧師さんの情報にしても、米軍が関わっているというのは大いに考えられることです。混乱に乗じて行われるこうした工作が、いったい何をもたらすことになるのかは全く不透明です。そんな中で救いになるのは、布施さんが伝えているイラクの人々の声です。国際社会の使命は、この激烈な混乱の中でも理性を保っているこうした人々を、対立から救い出すことなのではないでしょうか。その方策は、対立の片棒をかつぐ米国に協力することでは決してないはずです。「日本ではよく「アメリカ軍がいなくなったら、多様な民族と宗派を抱えるイラクは内戦状態になる」と思っている人が少なからずいるが、イラクでこの事についてたずねると、宗派や民族、所属組織にかかわらずほぼ全ての人が、「それは占領しているアメリカをプッシュする考え。イラクでは古代より、色んな宗派が共存してきたし、結婚によりどの家族、親戚のなかにも色んな宗派の人がいる。私たちは同じイラク人なのです」といった答えが返ってくる。「宗教間の対立」--いやもしかしたらその「イメージ」といったほうがいいのかもしれない。それを望んでいるのは誰か?イラクの人々ではけっしてない」
2004.08.08
JanJanの記事です。イラク特集イラク戦争のつけ――横行するDU汚染の金属「・・・物流がイラクでは盛んになっているそうですが、なんと、廃金属の輸出が盛んになっているそうなのです。その中には劣化ウラン弾で破壊された戦車などが含まれます。それがヨルダン経由で輸出されているというのです・・・」陸上自衛隊は、サマワで何をしたのか「3カ月間の派遣期間内の62日間給水して、イラク国民には約4340トン(我が家の水道代で計算すると、約35万円になる。政府試算では651万円)、一日あたり平均70トンになる・・・」
2004.07.31
高遠さんの話を証拠づけるように、またファルージャでの犠牲のニュースが飛び込んできました。イラク攻撃に関する世界情勢のニュースhttp://www.freeml.com/message/organizer-news@freeml.com/0000582-------------------------------------------------------☆★Heavy casualties in US air strike on Falluja 米軍のファルージャ空爆で、深刻な犠牲アルジャジーラ 7月30日 金曜 1:10 Makka Time, 22:10 GMT-------------------------------------------------------http://english.aljazeera.net/NR/exeres/3D8A5963-A01C-4288-B8E8-F04353403EE7.htm-------------------------------------------------------※ このニュース紹介は、freeMLを使ったメール形式で配信されています。下記URLから、誰でも無料購読の申込みができます。http://www.freeml.com/ctrl/html/MLInfoForm/organizer-news-------------------------------------------------------
2004.07.30
先週の木曜日(2004年7月22日)、中野ZEROホールで「イラク市民と語る――私たちにできること」と題して行われた講演会を聞いてきました。今年四月にイラクで人質となった今井さん、高遠さん、そして、救出のためにビラ配りなどによって力を尽くしたイラク人のスレイマンさん、ジャーナリストの田保寿一さんの話が講演しました。以下では、おもに高遠さんの話について書きたいと思います。高遠さんは、ほんとうはとても元気な人なんだと言葉の端々には感じるのですが、心の傷はいまだに癒えない様子です。涙があふれて嗚咽しながらイラクの凄惨な場面を話したり、イラクの人々が彼女に示した憤怒を、どう表現すればよいのか困ってしまうこともありました。たしかにまだ整理がつかない報告でしたが、それぞれの場面がありありと思い浮かびました。会場一杯に押しかけた1000人の聴衆は、かたずを飲んで話に聞き入りました。(以下、メモと記憶にもとづいて言葉どおりなるべく正確に書きますが、実際の話とは違いますし、本人の意図とも違う部分があるかもしれません。文責は筆者にあります)***わたしは、ジャーナリストではないので、状況を正確に伝えたりはできません。みんなの喜怒哀楽を受け止める事しかできないんです・・・去年、私はファルージャの近くのラマディという町からきた青年に会いました。彼は、『あれだけ人々が殺されているのに、なぜそこには取材が来ないのか?』と訴えました。それで、彼とラマディまで行くことにしました。病院に行って、薬品庫を覗いてみてびっくり。必要な薬がほとんどありません。ドクターやナースは疎開して帰っていない。骨折の添え木にはダンボールがあててあります。しろうと目にもマズい治療だとわかりました。私はちょうど援助物資を渡した後だったので手持ちがなかったのですが、ほかの援助団体をまわってなんとか調達しました。米軍の検問っていうのは、ホントに乱暴なんです。クルマには「日本からの援助です」と横断幕に書いてあります。そのクルマをとめて、米兵は顔の前に銃口をつきつけるんです。道路のうえに腹ばいにさせられました。ホントに、ホントに怖かったです。怖いから顔も上げられません。歩いている米兵の足だけが見えました。検問所にはクルマの列ができます。渋滞してて、イラク人に"go back!"と言いながら、マシンガンでクルマを叩くんです。クルマの人は英語の分からないから、呆然としてます。わたしがアラビア語で「ちょっとさがって」と言って下がってもらいました。イラク人から聞いたんですが、けが人が出て病院に運ぼうとしても米軍は通してくれません。そのとき米兵は「家へ帰って死ね」と言ったそうです。その人はわたしに、唇を震わせながら、「復讐を誓う」といいました。わたしは、いままであまり日本の皆さんには伝えられなかったんですが、イラクで受け止めてきた怒りをちゃんと日本の皆さんに伝えるべきだったと思っています。あるとき、米軍の若い兵士が持ってきたポルノ雑誌が現地の住民に渡ったそうです。それが火種になったんです。ファルージャではものすごいデモが起きました。ファルージャはイラクでもモスクが多い町です。「これが自由なのか? これが解放なのか?」と、住民はいきどおりました。今年の3月31日には、ファルージャでアメリカ人が殺された事件がにありましたが、じつはそれ以前にも米軍は道路を封鎖して攻撃を繰り返していました。そうなると、現地には薬も入らないんです。〔そのころ、高遠さんはイラク入りして、武装グループにつかまった――筆者〕日本に帰ってきてからも、しばらくイラクからのメールを見られませんでした。ほんとうに自分はイラクに居たのか、ほんとにわたしはイラクの人たちと話をしていたのかもわからなくなりました。5月にメールを見て、イラクで接してきた人たちがたくさん亡くなったのを知りました。なんだか、月面に居るような気がしました。わたしは、人質としてつかまっていたときには、じつは、疎開させられていたんだと思いました。わたしだけが安全なところに居た・・・いまだに空爆は終わっていません。7月14日に友人から電話があって、なんだか歯切れの悪い話し方をしていました。早く言えば、仲間が怪我をして苦しんでいるということでした。たしかに、外国から反米武装勢力が入ってきて、とくに若い人たちをオルグしているようです。戦闘に参加しているのは、とても若い人たちです。電話の友達も言っていました。「かれらが米軍を襲うのは、わかるだろう?ナオコは何度イラクに来てるんだ!」でも、わたしは言いました。「米軍も同じことを言ってる」。友人は、答えられませんでした。わたしは、傷ついた子どもたちを見てきてさえ、米軍が悪いとは言えませんでした。なぜなら、わたしが憤れば、イラクの人々がもっと怒るのは当然だからです。だから、わたしは彼らに向かって、「憎むな、アメリカの悪口を言うな、ひどい事をされても無視しなさい」と言ってきました(涙)自爆テロをする人だって、そんなに簡単に覚悟を決められるものではありません。そんな覚悟をきめるには、家族や友人や恋人を殺されたり、拷問を受けたりという理由があるんです。わたしは、かれらに命乞いをしました。「どうかわたしたちを殺さないで下さい」。(最後に、高遠さんはイラクからのメールを、涙でつまりつまりに読み上げました)
2004.07.28
以下の文章から抜粋したウェブログです。北田暁大「『反市民』を支える草の根ロマン主義――イラク人質・拉致家族、二つのバッシングを結ぶもの」、「論座」2004年8月号、朝日新聞社、152-159ページ「2ちゃんねる化」する社会北田は、「今回の事件の被害者たちがバッシングを受けたのは、『彼らのリスク認識が甘かった』からではない」とする。「むしろ、かれらの政治的な立ち位置が『反政府的』『市民派的』なものであった(市民的キャラクター)からこそ、かれらは叩かれたのである。『自己責任』云々といった『理屈』はかれらのキャラ叩きを正当化するために持ち出されたレトリックに過ぎない」。なるほど、この種の言説をひきいた「2ちゃんねる」においてても、被害者三人の「キャラ」をもてあそんで楽しむのが主で、「自己責任」などの理屈は建前のように見える。北田によれば、「もともと2ちゃんねるの一部には「朝日」「岩波」のような「市民派」メディアの語り口(スタイル)を毛嫌いし、反市民主義的な含意をもった書き込みを連ねていくという傾向があった」。これが市民活動をおこなってきた高遠氏や今井氏に適用されたのは「当然のなりゆきだった」とされる。ただ、今回の場合が特殊なのは、「こうした『嗤い』の方法論が、ネット空間の外部に染み出していった」ということだ。高遠氏らに対する非難・中傷は、まずネットの世界で吹き荒れたように私にも思われる。官僚や政治家はそれを取り上げて「自己責任」という言葉をあてはめ、メディアによって爆発的に増幅された。「まさしく『2ちゃんねる化』する社会だ」。反市民主義の論理と心理こうした状況のなかで急速に広まったのが「プロ市民」なる2ちゃんねる用語である。これについて、北田はつぎのページを参照している。「ネット発 声を挙げよう!」http://hp1.cyberstation.ne.jp/negi/DEMO/topic/t044.htmそれによると、「プロ市民」の特徴は:「市民や国民の代表のような言い方をする」「何か事件が起きると、何はともあれ抗議をする。何かに抗議し、それを止めさせる事が活動の中心である」「革新系に使う事がほとんど。しかし保守系への用例も無くはない」・・・この「プロ市民」という言葉が現れてきた背景について、北田は次のように述べる。「重要なことは、2ちゃんねるに限らず、90年代以降の《保守回帰》の流れのなかで、『反・プロ市民』という位置どりがきわめて重要な契機となっている(そしてそれが結果的に官僚・政府に対する古典的な批判の作法を無効化している)ということだ。たとえば、個人情報保護法をめぐって『大同団結』したマスコミ、あるいは独立法人化に異議を申し立てる大学人に対し世論が見せた冷淡さを思い出してみればいい」。大学人などが発する「さびついた正論」は、世論を動かすどころか反発さえまねく事態となっている。こうした「90年代以降の『反市民主義』」は、「単なる右傾化傾向とは異なる」。それを覆っているのは、小林よしのりに代表される「ロマン主義的な精神」だという。「この小林の立ち位置は、特定のイデオロギーを批判するというよりは『市民主義』的な行動様式を問題としている点で形式主義的であり、また『イデオロギーにとらわれないこと』を掛け金としている点において否定神学的なもの――消極的な形でみずからの立場を正当化する思考様式――といえる」。「旧来の思想の枠組みが流動化するなかで、『思想を語る人』を否定する、という形でかろうじて自らのポジションを確保しようとする欲望、自らの位置をメタ化しつつ世界・社会のほうをネタ化する形式主義がせり出してくる。好敵手なきところに仮想敵を作り、仮想的のキャラを物語的に消費する態度――それが現代に回帰した『ロマン主義』のあり方とはいえないだろうか」。このネオ・ロマン主義にどう向かい合うべきか。2ちゃんねるを「便所の落書き」と一蹴するのもひとつの手である。しかし、こうした「大ジャーナリズム」的な方法論は、「かえってロマン主義を延命させる手助けをすることになってしまうかもしれない」。あるいは、宮台真司が「あえて」亜細亜主義を召還したように、ロマン主義を転用する戦略もある。これについて北田は、「かなり危うくはあるが、ありうる選択肢の一つではあると思う」と評している。いっぽう北田が提出するのは、「ロマンなき世界を生き抜いてゆく技術を涵養すること」である。「ちょうどハンナ・アレントが、全体主義・ファシズムの法外な悪をめぐって、悪に魅せられることも、その法外さを強調することも拒絶し、『悪の凡庸さ』を語ったように、私たちは、『反思想的思想』としてのロマン主義の魅力としたたかさを十分に認識したうえで、その凡庸さを徹底的に分節していかなくてはならない」。ところで、上記には割愛したが、北田は戦前の日本の「ロマン主義」をひきあいにだしている。しかし、買いかぶりすぎを承知で言えば、現在の日本は百年前のヨーロッパを髣髴とさせると言えなくもない。「プチ・世紀末」とでも言うべきニヒリズムの凡庸さ。そもそも凡庸なロマン主義とかニヒリズムなんてものは、形容矛盾ではないのか。
2004.07.21
転送大歓迎!! 転送大歓迎!! 転送大歓迎!! 転送大歓迎!!----------------------------------------------------------------------▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼ 「イラクから帰国された5人をサポートする会」主催シンポジウム いま問い直す「自己責任論」△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△ ○日時: 2004年7月24日(土) 14:30開場 15:00開始(~18:00) ○会場: 東京大学本郷キャンパス 経済学研究科棟一番教室 【キャンパス内案内図】 http://www.e.u-tokyo.ac.jp/fservice/address/map.j.htm ○交通: 丸の内線、大江戸線「東大前」駅下車 徒歩5分 南北線「東大前」駅下車 徒歩5分 千代田線「根津」駅または「湯島」駅下車 徒歩10分 【詳しい交通案内】 http://www.u-tokyo.ac.jp/jpn/campus/map/map01.html ○参加費:500円 ※東京大学の関係者でない方もご自由に参加できます。======================================================================2004年4月のイラク日本人人質事件では、政府や大手マスメディアによって拘束された方々やその家族に対し「自己責任」を追及する論陣が張られました。しかし一方で、そのような「自己責任論」は、拘束された方々のジャーナリストやボランティアとしての活動意義やイラクが混乱に陥った様々な背景から目をそらし問題を矮小化するものではないかとの声も挙がっています。日本人人質事件から3ヶ月が経過し、事件が過去のことにされつつある今こそ、私たち一人一人が自分の頭で「自己責任」について考え、それぞれの「自己責任論」を持つ必要があるのではないでしょうか。今回のシンポジウムでは、政府主導の「自己責任論」と人質バッシングによって覆い隠されてしまった、「自己責任とは何か」という根本的な問いを真正面から論じます。作られた「自己責任論」を、学者として、言論人として鋭く問い直す3人の講演者のご講演、および講演者を含めた会場全体でのディスカッションを通して、「自己責任論」の背景になにがあったのかを探ります。======================================================================プログラム14:30 開場・受付開始15:00 開会 主催者挨拶・・・・・・・・・・・・醍醐実行委員長 講演 「自己責任論の徹底分析(仮)」 大阪市立大学大学院法学研究科助教授 瀧川 裕英氏 講演 「自己責任とメディアの責任――読売新聞の報道責任を問う」 ジャーナリスト・「人権と報道・連絡会」世話人 山口 正紀氏 講演 「演題:未定」 作 家 高橋源一郎氏 休息(質問カード回収) いま問い直す『自己責任論』全体討論 司会総括 主催者挨拶18:00 閉会 ======================================================================――――講師紹介――――◎瀧川裕英(たきかわ・ひろひで)氏 (大阪市立大学大学院法学研究科助教授・法哲学) 1970年 愛知県名古屋市に生まれる 1993年 東京大学法学部卒業、東京大学大学院法学政治学研究科助手 1996年 同、専任講師 1998年 大阪市立大学法学部助教授 2001年 大阪市立大学大学院法学研究科助教授 2003年 ハーバード大学客員研究員 ☆主著に、『責任の意味と制度―負担から応答へ―』(勁草書房、2003年) がある。 ★講演タイトル「自己責任論の徹底分析(仮)」瀧川氏は「責任」という言葉の意味そのものについて、また「責任」が社会制度の中で果たしてきた役割について長年研究されてこられました。様々な要素を含んでいるはずの人質事件が「自己責任」の一言で片付けられそうになった今回の事態は、「責任」の専門家である瀧川氏の目にどう映ったのでしょうか。「負担の分配・帰属としての責任」「他者の呼びかけに応答する責任」など、「責任」が持つ多様な顔を解きほぐした上で、「人質事件における『責任』とは何なのか」を論じていただきます。◎山口正紀(やまぐち・まさのり)氏 (ジャーナリスト、「人権と報道・連絡会」世話人) 1949年 大阪府堺市に生まれる 1973年 大阪市立大学卒業 1973年 読売新聞入社。宇都宮支局、東京本社地方部、生活情報部、 データベース部などに勤務。 1990~97年『法学セミナ-』に、97年から『週刊金曜日』に 「人権とメディア」をテ-マに連載記事を執筆。 2003年末 読売新聞退社。 ☆主著として『ニュースの虚構 メディアの真実』(現代人文社、1999年)、 共・編著書に『匿名報道―メディア責任制度の確立を』(学陽書房、1995年) などがある。今年8月、現代人文社から『メディアが市民の敵になる―― さようなら読売新聞』を刊行の予定。 ★講演タイトル「自己責任とメディアの責任――読売新聞の報道責任を問う」報道による人権侵害を市民の目線でチェックし、報道被害者の救済にはメディア自身が責任を負うシステムを「メディア責任制度」といいます。山口氏は市民運動「人権と報道・連絡会」世話人としてメディア責任制度の確立を提唱し、報道被害者支援などの活動に取り組んでこられました。読売新聞記者時代に「週刊金曜日」で国内メディアの報道姿勢を批判する記事を書き続けたため不当配転された経験や、イラクから帰国した今井紀明氏との対話を通して考えた、メディアの責任と構造的問題点についてお話しいただく予定です。◎高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)氏 (作家) 1951年 広島県尾道市に生まれる 1982年 『さようなら、ギャングたち』(講談社文芸文庫) で群像新人長編小説賞優秀作を受賞。 1988年 『優雅で感傷的な日本野球』(河出書房新社)で第1回三島由紀夫 賞を受賞。 2002年 『日本文学盛衰史』(講談社文庫)で第13回伊藤整文学賞を受賞。 2004年 朝日新聞4月19日付夕刊に「どこかの国の人質問題」を発表。 ☆この他、『一億三千万人のための小説教室』(岩波新書)、『ジョン・レノン 対火星人』(講談社文芸文庫)、『官能小説家』(朝日新聞社)等、著書多数。 ★講演タイトル「未定」「ある国に人助けに行ったら誘拐されてしまい、やっと自国に帰れたと思ったらバッシングされて困っている」というどこかの国の「匿名希望」さんの人生相談に対し、高橋氏が「実は、私の国でも…」と答える「どこかの国の人質問題(朝日新聞4月19日夕刊)」。読まれた方も多いのではないでしょうか。日本人の深層心理や日本社会論、文化論の視点から鋭く掘り下げての「自己責任論」検証をお願いしています。□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□ 主催:イラクから帰国された5人をサポートする会 (代表世話人:醍醐聰 東京大学経済学部教授) ホームページ: http://www.ac-net.org/honor/ 問い合わせ先: e-mail: admin-symp@honor.ac-net.org tel:03-5841-7971 fax:03-3813-1565 (tel、faxは東京大学職員組合)◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆ ~「イラクから帰国された5人をサポートする会」とは?~イラクで拘束された5人の方々が無事解放され帰国されたにもかかわらず、政府やマスコミの一部では、これらの方々とその家族の方々の「自己責任」が声高に叫ばれています。さらに一部では、5人の方々の過去の経歴なるものを持ち出して、いわれのない非難・中傷さえ、なされています。この状況を憂いた複数の大学の教官が中心となり、日本人の人道精神をイラクの人々へ届けた5人の方々とその家族の皆様に敬意を表し、激励するべく「イラクから帰国された5人をサポートする会(代表世話人:醍醐聰 東大経済学部教授)」が結成されました。「サポートする会」は、5人の方々への不条理な非難・中傷を一刻も早くなくすよう、政府、マスコミ、そして国民の皆様に向けて緊急のアピール「イラクで人質になった方々の活動に敬意を表し、これらの方々への非難・中傷を直ちに止めるよう訴えます」(http://www.ac-net.org/honor/)を出しました。このアピールには、インターネット署名(記名式・本人確認有り)で6001筆の賛同署名(集計は4/26~5/31)、および人質となった方々の経済的負担を軽減するための約512万円の募金(集計は4/30~5/31)が寄せられています。□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□
2004.07.13
ワールド・ピース・ナウによる声明ですhttp://give-peace-a-chance.jp/118/pub/040707seimei.html【転載・転送歓迎】\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_ 7.4 渋谷ピースパレード弾圧事件(7.4渋谷事件)についての声明 ピースパレードに参加した3人の仲間の逮捕に抗議します\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_\_ 7.4渋谷事件に対し、全国の多くの皆様からあたたかい熱のこもった激励や、ご心配をいただきました。ありがとうございます。 以下の声明を発表するとともに、全国のみなさまから団体賛同を緊急に募集することにいたしましたので、下記フォームでお寄せいただけれは幸いです。 《声明文》 呼びかけ:WORLD PEACE NOW実行委員会 2004年7月7日 7月4日、WORLD PEACE NOW実行委員会は、「VOTE forPEACE 平和のための投票で自衛隊撤退の実現を 多国籍軍参加は違憲・違法だ 7・4渋谷」を行いました。会場の東京・渋谷の宮下公園には、梅雨の最中にもかかわらず真夏の日差しが照りつける中を1200人の市民が集まりました。 この日の行動は、イラクに派兵された自衛隊が米軍主導下の多国籍軍に横滑り的に参加することに反対するとともに、7月11日の参院選投票日には、人びとの平和への意思を投票で示そう、と呼びかけるものでした。 しかし、非暴力のピースパレードに対して、この日の警視庁機動隊と渋谷警察署の対応は、敵愾心をまるだしにした、異常なものでした。午後3時20分頃から始まったピースパレードに対して、警備の警察官は繰り返しピッタリと張りついて、「早く進め」などと介入し、盾を使って参加者を威圧するなどの挑発を繰り返しました。 パレードが渋谷区役所前にさしかかる頃、警察官の執拗な介入に抗議した最後尾近くの2人が逮捕されました。渋谷を一周したパレードが解散地点の宮下公園に到着した時点でも、参加者に機動隊が襲いかかり、1人が暴行を受けて逮捕されました。 この日のパレードは、いつものように非暴力のパレードでした。市民たちは、自分たちの意思を自由に表現する当然の権利を行使していただけでした。ところが3人の参加者が暴行され、逮捕されたのです。 7月6日には、逮捕された3人の自宅や、WORLD PEACE NOW実行委員会の連絡先である「許すな!憲法改悪・市民連絡会」の事務所が家宅捜索を受けました。 私たちは、平和を求める市民の非暴力の行動を押しつぶす、こうした暴行・逮捕・家宅捜索に強く抗議します。自衛隊の海外派兵と戦争をする国家づくり、憲法改悪の動きがどんどん進む中で、市民の基本的人権が否定され、平和を主張する市民が「危険人物」扱いされています。この2月には、立川で自衛隊官舎のポストに「家族の皆さん。ともに考えましょう」とイラク派兵に反対するビラを入れた市民が令状逮捕・起訴され、75日間も拘留されました。 私たちは今回の暴行・逮捕に強く抗議し、逮捕された仲間の即時釈放を求めます。私たちは今後とも、私たちの市民としての当然な権利を臆することなく行使し、戦争に反対し、平和を作りだすための行動を大きく発展させていきます。全国の皆さん、平和のためにともにがんばりましょう。WORLD PEACE NOW実行委員会/青い空の会/アジア太平洋平和フォーラム(APPF)/アジェンダ・プロジェクト/足の裏で憲法第9条を考える会/ATTAC Japan/アメリカのイラク攻撃を許さない実行委員会/アリラン慰霊モニュメントをつくる会/「怒りをうたえ」上映実行委員会/イラク派兵違憲訴訟(静岡)浜松地区原告有志/ACA/エスニックコンサート実行委員会/大分県『国鉄闘争に連帯する会』/大阪教育合同労働組合/沖縄から米軍基地をなくす全国交流集会実行委員会/沖縄などから米軍基地をなくす草の根運動/沖縄を考える市民の会/「輝け!九条」新護憲市民の会/かながわ平和憲法を守る会/関西共同行動/北九州かわら版/北富士県是を守る会/樹花舎/協同センター・労働情報/協同・未来/グローバルピースキャンペーン/憲法9条-世界へ未来へ 連絡会/憲法を生かす会/憲法を活かす市民の会・やまぐち/憲法を考える集い/公共哲学ネットワーク/国連・憲法問題研究会/子どもと教科書全国ネット21/子どもたちの環境を考える親の会/子どもたちに憲法9条をつたえる親の会/在日韓国民主統一連合/在日朝鮮人作家を読む会(愛知県)/自衛隊の海外派兵と戦争協力に反対する実行委員会(反安保実8)/自衛隊をイラクに行かせないキャンペーン・千葉/しないさせない戦争協力・関西ネットワーク/市民ネットワーク・のだ/市民ピースネットワーク山梨/写真の会「パトローネ」/自由大好き!市民の会/ジュゴン保護キャンペーンセンター/出版労連 文京区労協 三一書房労働組合/人権アクション浜松/杉並憲法集会連絡会/STOP!改憲・市民ネットワーク/ストップ!有事法制松戸市民ネットワーク/広島瀬戸内新聞/全国一般労働組合全国協議会/住民族とともに人権・共生・未来を考える会/戦争協力を拒否し、有事立法に反対する全国Fax通信/「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)/戦争と治安管理に反対するPINCH!/戦争反対、有事をつくるな! 市民緊急行動/戦争への道を許さない女たちの会札幌/全日本鉄道労働組合総連合会/立川自衛隊監視テント村/ソウル・フラワー・ユニオン/第9条の会なごや/第九条の会ヒロシマ/逮捕・家宅捜索令状110番/たんぽぽ舎/地球的課題の実験村・杉並の会/地球平和公共ネットワーク/電気通信産業労働組合首都圏支部/特定非営利活動法人仙台夜まわりグループ/特定非営利活動法人 ひとミュージアム上野誠版画館/特別区教職員組合/長野ピースサイクル実行委員会/日刊民衆連帯全国ネットワーク/日本キリスト教団勝田台教会社会委員会/日本基督教団西中国教区宣教委員会社会部/日本キリスト教団労働組合/日本消費者連盟/命どう宝ネットワーク/NO!WACSの会浜松/派兵チェック編集委員会/秀嶋法律事務所/P.F.I.杉並公会堂を考える会/ピースアクション浜松/ピース・さが/ピース・チェーン・リアクション/ピースリンク広島・呉・岩国/「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン/ヒューマンシールド神戸/備後・靖国問題を考える念仏者の会/ふぇみん婦人民主クラブ/撫順の奇蹟を受け継ぐ会九州支部/不戦へのネットワーク/プライバシー・アクション/米兵・自衛官人権ホットライン/平和がええねん!!(神戸)/平和資料館・草の家/平和憲法を学び行動する目黒の会/平和憲法を守り、日米安保と軍事基地をなくす会・東京/平和と人権のための市民行動静岡/平和と民主主義をめざす全国交歓会(全交)/平和を考える市民の会・三次/平和を実現するキリスト者ネット/平和をつくる大和市民の会/水と森と平和の声/民族差別を考える会・むくげ/明治大学駿台文学会/山梨平和を語る会/有事法制反対ピースアクション/有事立法はイケン(違憲)!広島県市民連絡会/郵政労働者ユニオン近畿地方本部/郵政労働者ユニオン郡山支部/郵政労働者ユニオン八千代分会/許すな!憲法改悪・市民連絡会/労学舎/(110団体、7月9日正午現在) 連絡先:WORLD PEACE NOW実行委員会 東京都千代田区三崎町2-21-6-302 TEL03-3221-4668 FAX03-3221-2558 メール kenpou@vc-net.ne.jp------------------------------------◎「声明」に賛同します。団体名:─────────────────────────────住所:〒─────────────────────────────電話・FAX:─────────────────────────────メールアドレス:─────────────────────────────----------------------------------付記・この「7.4 渋谷ピースパレード弾圧事件(7.4渋谷事件)」への賛同署名を7月12日(月)までにお寄せ下さい。今回は団体・グループに限定させていただきます。連絡先を明記の上、メール、FAXなどで連絡ください。この呼びかけを転送・転載・FAXなど可能な方法で賛同募集にご協力ください。13日に記者発表の予定です。なお、接見した弁護士さんの報告では、暴行を受けた方を含め3人は元気ですが、昨日、10日間の拘留がつきました。うち1人は裁判所は勾留請求を却下したのですが、検事側が準抗告して、結局、裁判所は拘留を認めました。私たちは目下、即時釈放、起訴阻止で闘いますが、長期化する様相になりつつあります。
2004.07.09
千葉大教授の小林正弥さんらが呼びかける「参院選における『平和への結集』の訴え」を転載します。地球平和公共ネットワークHPよりhttp://global-peace-public-network.hp.infoseek.co.jp/たしかに、イラク派兵はまだ国民の審判を受けていないと言うべきでしょう。徹底して平和という観点からこの選挙を考えると、このような帰結になるのもうなずけます。(以下、転載歓迎)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー〈参院選における平和アクション〉 私達は、参院選について以下のように呼びかけます。ごく簡単には「基本的アクション」を、より詳しくは「参院選における『平和への結集』の訴え」をご覧下さい。 ■A.基本的アクション1.非常に大事な選挙なので、投票へ行くように、友人、同僚、知り合い、親戚 その他できるだけ広い人に勧めよう。2.平和憲法を守り、戦争への道を歩まない政党や候補者を選んで投票するよう に勧めよう。■B.参院選における「平和への結集」の訴え 今回の参院選挙は、日本の平和主義の運命にとって極めて重要な意味を持っています。 昨年の総選挙では小泉政権は自衛隊イラク派兵を内心では決めておきながら選挙の争点から隠しました。ですから、イラク派兵についてはまだ本格的には国民の審判を受けていません。 その直後から政権は案の定イラク派兵を試み、遂に強行しました。そして、2外交官や2ジャーナリストが殺害され、誘拐事件も起こりました。イラク情勢は、私達の批判通りに泥沼化しており、アメリカのイラク人捕虜虐殺事件などにより、イラク侵略・占領の不当性が改めて明らかになっています。 そこで、今回の参院選挙では、イラク派兵という決定的違憲行為について政権の責任を正面から問い、国民の不信任によって撤兵を実現すべきです。与党が勝利してしまうと、イラク派兵を国民が認めたという総括がなされてしまいます。 しかも、小泉政権は選挙直前に、イラクへの主権委譲に伴って自衛隊を多国籍軍に参加させることを決定しました。自衛隊が国際的な「軍隊」の一員に公式になるのですから、言う迄もなく、これは、「決定的違憲行為」をさらに決定的なものにしたことになります。これが既成事実となると、今後、日本は多国籍軍の一員となって、次々と世界中の戦地に自衛隊を派兵することが可能になってしまいます。これを、選挙によって信任されたとして、正統化させてはなりません。 そして、2005年・2006年には2大政党は改憲案を公表する予定ですから、今回の参院選で選出された議員が改憲の発議をする可能性も高く、これによって平和憲法に終止符が打たれる可能性すら存在します。現に中曽根元首相は、改憲の立場から、今回の参院選について「当選すると(任期の)6年の間に憲法改正が行われる可能性が非常に出てきている。候補者には大きな使命感と責任感を持ってほしい。国民にもそういう気持ちで投票してもらわなければならない歴史的段階に来た」と発言しています(資料1)。http://www.asahi.com/politics/update/0623/008.html そこで、平和主義を守って再確立するためには、一人でも多くの人が、平和を真に希求する候補者や政党に投票することが必要です。けれども、不幸なことに、全国の多くの選挙区で平和志向の候補が分立しており、平和を希求する票が拡散して、議席に結びつかない危険が少なくありません。 私達は、「平和への結集」を訴え、そのために全国的に平和統一候補が実現することを願っています。それが実現されていない現状は極めて遺憾ですが、その中でも最善の努力を行うべきでしょう。そこで、平和志向の票が最大限有効に生かされるように、私達は政党・政治家と有権者に、次のように選挙における「平和への結集」を訴えます。 ●B-2.「平和への結集」投票の指針:平和を希求する有権者に 以上のような訴えにも拘らず、沖縄以外で平和統一候補を実現するのは困難な情勢です。選挙区で平和希求候補者が分立している場合、それによって平和を希求する投票が散ってしまうと、結果的には全ての平和希求候補者が落選してしまう危険性が生じます。 選挙制度の変化のために、従来のように政党の支持・不支持だけで投票すると、死票となってしまう危険性が増えています。そこで、現在の選挙制度においては、各党・各候補者の政策に加えて、選挙区の状況を勘案して、投票することが重要になってきています。そこで、「熟議民主主義(deliberative)」の最も重要な一環として、「これらについての情報を得た上で、さらに市民の間で十分な議論を行い、各自で投票を考える」という「熟議投票(deliberative vote)」が望ましいと思います。 そこで、私達は「平和への結集」の観点から、平和を希求する投票が最大限有効になるように投票することを訴えます。以下では、そのための指針を提示したいと思います。比例代表区と選挙区について、制度の特性を知って、投票をそれぞれについて考えることを勧めます。 2-1.まず、比例代表区においては、マニフェストやアンケートなどのテータから、各党ないしその候補者について、過去の実績と訴えている政策を相互に比較し、地球的平和の実現のために本当に努力してくれそうな政党ないしその候補者に投票する。 比例区では少数派でも得票率に応じて当選するので、死票の危険性はあまり考えずに自分が期待する平和希求政党・政治家に投票してよい。 非拘束名簿式が2000年に導入されており、比例区では政党に投票することも政治家個人に投票することも可能である。そして、政党名と候補者名の得票を合計した総得票数によって各政党の議席数が決まり、各政党の中では候補者本人の得票数が多い順に当選者が決まる。 だから政治家個人に投票すると、その政党の中で当該の政治家の当選可能性が高まるので、特に期待する平和希求政治家個人に対して投票することを勧めたい。政党全体で平和希求の政策を一貫して取っている場合はともかく、政党全体の姿勢が必ずしも信頼できない場合は、特に平和希求政治家本人に投票すべきであろう。 具体的には、例えば、イラク自衛隊派兵や撤兵への賛否が第1の基準になる。自民党・公明党の与党は派兵を強行し、多国籍軍への参加まで決定した。野党の民主・社・共・みどりの会議などは反対。 従って、自民党は勿論、公明党も現在では「平和志向政党」とは全くみなせない。この党はもはや「平和の党」という看板を下ろすべきであり、従来の平和志向の公明党支持者には、正に平和を実現するために、この党への投票を止めて他の平和希求政党に投票することを強く要望する。 民主党は、イラク派兵には基本的に反対し現在も多国籍軍への参加に反対して撤兵を要求している。ただし、従来「イラク人の政府と国連の要請があれば、PKOとしての自衛隊派遣には賛成」としており、この見解との整合性を小泉首相などに攻撃されている。誘拐事件の際などには、即時撤兵を求めなかったし、党内にはイラク派兵を違憲と考えない政治家も多い。 従って民主党は純粋な「平和希求政党」とはみなさない人が多く、「準平和志向政党」と考えるべきであろう。あるいはそうとすらみなさない人もいるだろう。 軍事化への態度一般を考えても、ほぼ同じ。当然、与党は推進、社・共は反対、民主党はこの中間で、有事立法には賛成して成立させた。 改憲問題を考えても、ほぼ同じ。自民・民主は2005・2006年に改憲案を提起することを言明している。勿論、内容は異なるものの、小泉首相は2大政党間で合意する期待を言明している。公明党は加憲と言っているが、与党になってから自民党への追随を繰り返しており、改憲についても同様の道を辿る危険性も少なくはない。 社・共は勿論、明確な護憲。みどりの会議は明確に護憲とは言っておらず国連の警察活動への参加(のための改憲)の余地を残していると思われるが、平和的国際貢献を強調しているので、平和希求政党に分類できよう(資料2参照)。http://www.midorinokaigi.org/senkyo/sangiin/manifesto/index.htmlhttp://www.midorinokaigi.org/senkyo/sangiin/manifesto/maebun.html 2ー2.次に、選挙区においては、実績・マニフェスト・アンケートなどを吟味して、所属する政党だけではなく、その候補者本人の過去の政策支持や政策の志向を見て、合わせて判断するべきであろう。このためには、候補者アンケートは非常に参考になる。 平和希求の観点からは、「(準平和志向の)民主党候補に投票するか、それ以外の明確な平和希求候補に投票するか」という点が特に問題になろう。 民主党以外の平和希求候補が当選する可能性が高い場合は、迷う余地は少ないと思われる。 けれども、多くの場合、民主党候補の方が当選可能性が高く、それ以外の平和希求候補に投票すると死票になって逆に与党を利す可能性が高いと思われる。この場合、「与党の敗北を願って民主党に戦術的に投票するか、それとも死票覚悟で民主党以外の平和希求候補に投票するか」が問題になる。 この場合、民主党全体の過去の実績やマニフェストに賛成できなくとも、その議員本人が平和志向であれば、その人に戦術的に投票することには考慮の余地がある。民主党当選者が増加することにより政府が打撃を受け、政権交代やイラク撤兵に結びつく可能性もあるからである。また、民主党内で平和希求政治家が相対的に多くなれば、党の政策が、現在よりも平和志向になることも考えられる。さらに、将来の政界再編時に、例えば「平和連合」形成にあたって、平和希求の民主党政治家が合流する可能性も考えられる。 逆に、その議員本人が戦争志向・タカ派志向が強ければ、その人(以下、非平和候補)への投票は止めることを勧めたい。いくら民主党の議席が増えても、その政策がタカ派色を強めて平和の実現に寄与しないのならば、地球的平和の観点からは無意味だからである。民主党の中には、テロ事件を引き起こした「刀剣友の会」の最高顧問である西村真悟議員のように、超タカ派の議員すらいることを念頭に置くべきである。 その選挙区に、当選可能と思われる議員の中に平和希求政治家がおらず、また民主党議員が明確な平和希求政治家でも非平和候補でもない場合は、 「政権交代を優先して民主党に入れるか、あるいは、死票を覚悟して、激励のために社・共などの中小政党や無所属の平和希求候補に投票する」という選択となろう。ここは、有権者本人の志向によって判断する他はないと思われる。 いずれにしても、棄権や白票ではなく、必ず平和のために選挙権を行使する ことを訴えたい。 「平和への結集」運動有志 小林正弥(千葉大学、地球平和公共ネットワーク) きくちゆみ(グローバル・ピース・キャンペーン) 内山田康(筑波大学)
2004.07.04
転載歓迎情報です。□□□□□ □■ □□□□□ □■ □□□□□ □■ □イラク情勢ニュース 2004年6月29日 火曜日[飛耳長目録] ☆イラク人の80%、米軍の市内巡回中止を求める ガーディアン 6月29日 英字報道から訳 ・イラクで人質の米兵殺害 「処刑シーン」放映 ・沖縄タイムス社説 イラク主権移譲 国民の喜びと遠い式典---------------------------------------------------------☆★80% of Iraqis want US to stop patrolling cities イラク人の80%、米軍の市内巡回中止を求める---------------------------------------------------------ガーディアン 6月29日 by Jonathan Steele バグダッド滞在中http://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,1249678,00.html イラクの最も有名な世論調査機関の最新調査によると、イラク人の80%以上がアメリカ軍その他外国軍隊の市内巡回を中止するよう求め、基地内に引き揚げて存在が人目につかないようにすることを望んでいる。 41%は外国軍が完全にイラクから撤退すると安全だと思うと答え、安全と思えなくなると答えたのは32%だけだった。 先週火曜日に終了したバグダッドほか6都市での面接調査において、イラク調査センター及び戦略研究所は、来年1月に政府が選出され次第、アメリカとイギリスにイラク撤退を求める圧力が高まっているようだと明らかにした。 これはワシントン(米国政府)とロンドン(英国政府)が最近の国連安保理から獲得した米軍駐留の終結期限より、ほぼ1年早いものだ。安保理は駐留期限を2005年12月までとした。 今回の調査は、今秋にも開始される選挙運動を見越して、外国軍隊の即時撤退要求を約束した政党・政治勢力がひじょうに有利なスタートを切ったことを明らかにした。 調査に応じた者の43%は、外国軍隊の撤退を要求する政党に投票するだろうと答えた。 イラクの軍隊と警察が適切な訓練を受けて暴力の脅しに対応できる準備が整うまで、外国軍隊に駐留を求める政党を支持するかという質問に、わずか16%だけが「YES はい」と答えた。 治安の崩壊は国民の最大関心であるけれども、調査に応じた者の大部分が、問題はイラク人の部隊によって最も適切に処理されるだろうとし、外国軍の駐留はさらに多くの武力抗争を引き寄せると答えた。 また、ほぼ70%は、もし外国軍隊が来年1月に政府が選挙されたあともイラクにとどまるなら、イラク人警官と政府高官に対する攻撃は増えるだろうと回答した。 イラク調査センターは世論調査を毎月おこなっており、今では廃止された占領軍暫定当局(CPA)に承認されていた。 最新の世論調査結果は、CPAの高官に、彼らがイラクから引き揚げる前日の日曜日に渡された。 いかなる外国の軍隊もイラクにいない方が安全だと思うと41%が答えたという調査結果は、4月の調査と似ているが、先月の調査での55%よりは減少した。その変化は最近の自動車爆弾と暗殺事件へのショックによるかもしれない。---------------------------------------------------------●イラクで人質の米兵殺害 「処刑シーン」放映 共同通信 6月29日---------------------------------------------------------http://news.kyodo.co.jp/kyodonews/2004/iraq4/ 【カイロ29日共同=儀間朝浩】カタールの衛星テレビ、アルジャジーラは二十九日、イラクで四月に武装勢力に拉致されていた米軍のキース・モーピン陸軍上等兵(20)が殺害されたと伝えた。 ロイター通信によると、同テレビが放映したビデオには武装勢力の一人が米兵に向かって銃弾を発射する「処刑シーン」が写っていた。殺害の理由は米国のイラク政策と、イラクやサウジアラビアで仲間が殺されたことへの報復としている。---------------------------------------------------------●沖縄タイムス社説 <2004年6月29日> イラク主権移譲 国民の喜びと遠い式典---------------------------------------------------------http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20040629.html#no_1 占領を終え、主権を回復する。その日は本来、国民の喜びの輪のなかで祝うものだろう。 予定を二日繰り上げ、非公開、わずか六人の関係者のみでイラクの主権移譲の「式典」は行われた。 武装勢力の妨害を避け抜き打ちに行われた移譲劇に、イラク再建への困難な道のりを思わざるを得ない。 ・・・ ブレマー行政官は式典後、直ちにバグダッドを離れたことは、ブッシュ米政権の占領政策の破たんを印象付ける。 発端はなんだったのか。繰り返し問うことが、イラクの今後を考える上でも大切となる。 米国は国際世論の反対の中、ユニラテラリズム(単独行動主義)に基づき、自衛権を盾に先制攻撃した。根本は「ブッシュの戦争」であったことだ。 理由としたフセイン政権と国際テロ組織アルカイダの関係は証明されず、大量破壊兵器も見つかっていない。 ・・・ 国民に主権回復への疑問を生み、かいらい政権という批判さえあって、反米の動きを沈静化する機会を失った。--------------------------------------------------------※ このニュース紹介は、freeMLを使ったメール形式で配信されています。下記URLから、誰でも無料購読の申込みができます。http://www.freeml.com/ctrl/html/MLInfoForm/organizer-news--------------------------------------------------------
2004.07.01
ははは。強調文字は少し減ったみたい。でも、罵詈雑言はなかなか直んないね。期待してないけど。それに、記事の中で特に読ませたい部分だけ赤にしてるのも情報操作だよ。掲示板を閉鎖したら「民主的じゃない」とか言ってるけど、楽天広場の「戦争反対」のテーマをクリックすれば双方の意見が見られるんだから、きわめて民主的だと思うけど。反民主的なのは、「反日分子」という誹謗中傷をしたり、名前を騙ってメールを無断転載したりすることだよ。記事全文の引用は明白な著作権侵害。常習者には、そのうちどかーっと記事使用料が請求されるかもね。朝日新聞によると、「通常は、引用先が創作性をもった著作物であることが必要であり、「朝日新聞に次のような記事があった。」として、あとはすべて記事を丸写しにしたものなどは、引用には当たりません。・・・引用した人が表現したい内容がしっかりとあって、その中に、補強材料として原典を引用してきている、という質的な問題の主従関係と、分量としても引用部分の方が地の文より少ないという関係が必要です」。ちなみに、まえに転載した神浦さんの記事は転載許可申請中です。以下、転載歓迎情報です。http://www.freeml.com/ctrl/html/MLInfoForm/organizer-news□□□□□ □■ □□□□□ □■ □□□□□ □■イラク情勢ニュース 2004年6月28日 月曜日[飛耳長目録] ☆国民不在の「主権移譲」、懐疑心深まる アルジャジーラ 6月28日 英字版から訳--------------------------------------------------------☆★Iraqis sceptical as 'power' is transferred 「主権」移譲にイラク国民は懐疑的 By Shaheen Chughtai (バグダッド滞在中)--------------------------------------------------------アルジャジーラ 6月28日 13:46 Makka Time, 10:46 GMThttp://english.aljazeera.net/NR/exeres/B4AEEF06-843A-4C38-BAF8-7570747B34A0.htm まだ占領の続くイラクに会議と期待が入り混じっているなかで、アメリカ占領当局は暫定イラク政府に公式に主権を移譲した。 月曜日(28日)、バグダッド中心部の厳重に要塞化されたグリーン・ゾーン(安全地帯)でとりおこなわれた式典で、米国の占領責任者ポール・ブレマーが暫定首相アラウィに法的文書を渡した。 その式典は、数時間後にメディアや人づてにニュースを知らされた普通の国民には隠されていた。 「これは歴史的な日だ」--アラウィは式典に臨んで言った。「われわれは治安状態を統制することができると感じている」。 主権移譲のニュースは、トルコのイスタンブールでNATO首脳会議に出ているジバリ外相によって、数時間早く伝えられた。 バグダッド在住のアナリストは、アルジャジーラ・ネットに、これまでずっと30日に予定されていた動きが、治安状況の悪化を理由に早められたと語った。 一連の占領反対の攻撃は、この一週間にわたって、ざっと100人以上の死者と、それを倍する数の負傷者を出してきた。 いわゆる主権移譲は、イラク統治の責任を日々イラク暫定政府に移していく。だが暫定政府のメンバーは、主にワシントンから承認された元イラク人亡命者のグループである。 アメリカ高官がイラク人閣僚に責任処理の方法を勧告し、アメリカ軍司令官が全体的なイラクの治安管理を維持することになるだろう。 ◆「ニセモノ」の主権 イラク人アナリストと政治家は、アルジャジーラ・ネットに、いわゆる主権移譲はよくても不完全なものだと語った。他の人々はそれを米国の利益に合わせたニセモノだと言った。 「文書の譲渡はあったかもしれないが、国家主権の移譲はなされてない」--反対派のグループイラク民主会議(IDC)の長であるジャウダト・アル・オバイドは指摘した。 「外国の軍隊がイラクにいるかぎり、政府はほんとうには独立できない。良い一歩、正しい一歩であっても、それは十分ではない」。 バグダッドのイラク人政治学者ハニ・アシュル教授は、国内に15万人以上の米軍が存在するということは、「イラクに本当の独立がない」という意味であり、暫定政府が厳しい信用問題に直面していることを意味している、ということに同意した。 「普通のイラク人のあいだには、政府への心からの信頼はほとんどない。彼らの見解では、政府とアメリカ占領当局とのあいだには違いがない」。 バグダッド大学メディア学部で政治分析をおこなっているリカア・マキ博士は、主権移譲の式典が本当の変化への号砲になるかというと、多くのイラク人がそれに懐疑的だと指摘した。 「もし国民がそれでも街頭でアメリカ兵を目にするなら、彼らは何かが本当に変わったとは受けとめないだろう」。 しかし彼は、制限された主権移譲であっても、政府がブレマー体制との区別をつけることを期待しているイラク人にとっては、良いニュースなのだろうと認めた。 「イラクは今まさしく悲惨な状態のなかにある。仕事はほとんどなく、農業も工業も官僚政治もない。政府と国民のあいだの新しい関係、新しい政策を持つ政府を国民は希望している」。 ◆一般大衆の懐疑心 バグダッドの街頭に出ると、2、3の者が未来への希望を表明するものの、懐疑心は広範囲に広がっていた。 バグダッド大学の24歳の学生アブダラー・アフマド・サアドは、20分前に友人が情報を伝えてきたあとで、そのニュースを熟考しているところだった。 「私たちは何が起こるか確かめるつもりで、人々が最善のものを期待しても、私は楽天的になれない。アメリカ軍がここ(イラク)にいるかぎり、本当の独立はないだろう」。 土木技師のアンマル・アル・ジャナビは、主権移譲は「文書のうえだけでのこと」だと指摘した。「政府は本当には独立してない。軍隊だけのことでなく、これらの人々(政府メンバー)は選挙されておらず、彼らの目的と独立にはわれわれは疑念を抱いている」。 彼はまたニュースが最初にトルコでのNATO会議に伝えられたことを論評し、イラク国民はみずからの運命を決めることへの傍観者になったと批判した。 「そのような宣言はイラク現地でおこなわれるべきだった。われわれはメディアを通してものごとを知らされており、進行中のことに国民が意見を述べるという感覚を国民が持ってない。家族も友人も同じように感じている。われわれは事態を変えたいと思うが、こんなやり方を望まない」。
2004.06.30
サマワ市民の85%が自衛隊駐留賛成ま、ニュースの読み方の違いは仕方ないことですが、これは「自衛隊人気が非常に高い」と言うよりは、日本の援助を失いたくないという意味でしょうね。自衛隊さんも本国からの圧力にさらされて、がんばっていることでしょう。「しかし、実際に活動を見たことがあるかどうかを問うと・・・「全然見ていない」が47%、「ほとんど見ていない」も21%あった。 あまり活動を目にしていないのに好感度が高い理由として、イラクでは一般に、日本の高い工業技術力や平和主義が良いイメージを持たれていることが影響しているとも考えられる」。いまは技術力や平和主義が信頼を得ているけれど、この先ずるずると占領を続けて、「占領終結への期待」をこめて暫定政府を支持している9割の人々に、日本首脳が米国の侵略的意図に追従していることが分かったら、こりゃ、タダじゃすまないでしょうね。しかし、アンケート結果が伝わってくるのに、自衛隊が実際に何をしているかが伝わってこないのはなぜでしょう?ちょっと誰かさんのまねをしてみました。ほんとは、こんなふうに強調文字を多用して自分の主張を読者に植え付けようとする書き方は大嫌いなのです。もうやりません。鏡に映った姿をみて気づいてほしいという意図ですが、まあ、あまり期待していません。
2004.06.29
某S氏さん、まず、メールを平気で無断転載する横暴さに抗議します。> 米英が認めた「command」は「イラクにおける自衛隊のcommand、指揮権」でしょ。> 国連決議の「command」つまり「多国籍軍のcommand、指揮権」とは何の関係もありません。「イラクにおける自衛隊のcommand、指揮権」と「多国籍軍のcommand、指揮権」とは何の関係もない、と。それなら、自衛隊は多国籍軍には入らないわけですか?しかも、この区別の根拠をなんとキミット准将にもとめている?! "command"の解釈も従うのなら、その「指示」には当然従うことでしょうね。かれは「指揮権」をないがしろにして、「指示」を与えることを明言しているのだから、「実態は『米軍の指揮下』に極めて近い姿となるのは間違いない」と毎日新聞が言っていたことが裏付けられたわけです。こんなふうに実質的に自衛隊を売り渡してしまうような形で多国籍軍に参加させるんですか? 無事に帰ってきてほしいと言うコメントになんの応答もないのを見ても、自衛隊員さんたちの命などまるで顧みていないように見えます。「指揮権」を曖昧に解釈しても「誰も困りません」?困るのは明らかに自衛隊員さんたちでしょう。なにしろ英米が与えたのは口約束だけで、文書化したのは日本の外務省。そのうえ、誰がその口約束を与えたのかも公表できないという。> CPAの解散に伴い、多国籍軍に参加せずに、暫定政府と個別に地位協定> を結ぶ選択肢もあった。しかし、政府は個別方式について「6月末(の主> 権移譲)までに間に合わない」(細田博之官房長官)、「現実問題として> 不可能」(川口順子外相)と否定的な見解を示してきた。6月23日毎日新聞http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040624-00000027-mai-pol自衛隊が国連決議に従って多国籍軍に参加すれば、その指揮権は多国籍軍司令部=米軍にあることになる。指揮権を日本にとどめておきたければ、多国籍軍には参加しない以外はない。しかし、政府はそれをやらなかった。外務省が出してきた「文書」が相手の名前も提示できないのは、ここのところに矛盾があるからです。「あのとき約束したでしょう」と詰め寄りたくとも、相手先の名前もわかりません。
2004.06.25
ちょっと時間に余裕ができたので、少し丁寧にコメントします。> ああ、偏向に満ちた日本報道で良識ある人々が眉をひそめる「南ドイツ新聞」ですか。あはははは。SZがFAZと並ぶ全国紙だってことも、たぶんご存知ないでしょうね。全国紙の性質にしても、偏向報道があたりまえの日本などとは、ぜーんぜんちがうのですよ(笑)。政治的傾向をもつ新聞もあるにはありますが、それはまた別の話です。> 米英が認めた「command」は「イラクにおける自衛隊のcommand、指揮権」でしょ。> 国連決議の「command」とは何の関係もありません。これ、本気で言ってるんですかね。こんなハズカシイ見解を示した人間がほかにもいたら、ぜひ示してほしいものです。まあ、「秘密交渉」じゃないっていう揚げ足を取りたいような気持ちも分からないではないですが、外務省が出してきたのはどう見ても正式な外交文書なんかじゃないですよね。「文書は外務省がまとめたもので、どういう交渉があったのか、また、その合意が英米政府の誰とのものであるのかも記されていない」というのは、新聞記事そのものです。サインのある正式な合意でも破られることのある外交の世界で、ただの口約束をよくここまで信用できるものだと感心します。そんなので行かされる自衛隊のみなさんも、かわいそうです。・・・と書いてきて、ふと思ったのですが、某S氏さんたちは、もしかしたら現役の自衛隊員さんたちではないですか?「貴方にかかれば何でも反自衛隊的に解釈されるんですね」なんていうコメントを見て、この人は親自衛隊のひとびとなんだ、いや、自衛隊員ならばこういうコメントを書くだろうと思いました。それならば、番匠さんに批判的なコメントに必死になって反駁するのも、古紙幣をもらった仲間を守ろうとするのも、よく分かります。でも、プレゼントをもらったりすれば、当然に疑われるものなのです。気をつけてくださいね。自衛隊員の方々は政治的意見を表明することも厳しく統制されていて、インターネットでこうして匿名で意見を発表できる機会を得て、さぞやお喜びのことでしょう。しかし、平和を口にするページを次々に荒らしてまわるなんてのは、いかがなものでしょう。僕がこんなこと言っても止むとは思っていませんが、もうちょっと人間的に対話しないと、納得できるものも納得できなくなっちゃいますよ。あと、僕は、あなたがたの名前や身分を暴こうとはぜんぜん思っていないので、ご安心下さい。それとは関係なく思うのは、イラクに派遣された自衛隊の人々は、なんとか無事に帰ってきてほしいということです。じつは今日、韓国人の友達に会ったのですが、彼は黒い喪章をつけて現れました。殺されたのは軍関係者ではなく商売をしていた人のようですが、どちらにせよ自国の人があれほど残酷に殺されるのは、こんなにも哀しみを残すものなのかと思い知りました。命の重みはイラク人だって日本人だって韓国人だって変わりはないと頭では分かっても、やはり、日本語を話してじかに理解することができ、隣のお兄ちゃんや叔父さんにに似ている人が殺されるのは、たまらないものです。僕は外国暮らしのせいもあって、まだ外国人にも共感できるほうだと思うのですが、やはり日本人には特別の思い入れがあります。今度は情に訴えて自衛隊の活動を妨害しようとするのかと言う意地悪な人もいるかもしれませんね。たしかに僕は、自衛隊は憲法原則からしても米国の非道さの点からしてもイラクにいるべきではなく、また、援助の有効性からすれば、国土建設省の技官やNGOが行ったほうが良いと思っています。武器を持っているものが殺されると思うからです。これに関してはまた長い議論になりそうですが、それはおいおいやることにして、とにかく、サマワで自衛隊ができる範囲のことは大いにやってほしいが、日本に対する遺恨を残すようなことだけはしてほしくないと思っています。殺しても殺されても、残るのは憎悪です。また、もし「施しを与えているのに、なぜ抵抗するのか」という意識でいる人がいるとすれば、それはイラク人への侮辱だと考えるべきでしょう。その点では、番匠さんが「ともに働いている」と言ったのには共感できるところがありました。ところが、自国を荒らしまわった米国とその協力者へのイラク人の憎悪を見ようとしないのは一面的だと思ったし、生活のためにしかたなく米国の協力者に雇われているイラク人にとっては、たとえば今回の臨時大統領の発言などは耐え難いものなのではないかとも思いました。4月の「自衛隊の派遣は有益だと思わない」と答えた人が51%という数字は、自衛隊の活動に対する不満というよりも、米国への憎悪が大きいのではないでしょうか。まあ、そのほかにも単に金を搾り取ろうとする強欲があるだろうことは否定しませんが。とにかく、イラクの自衛隊員の方々の無事を祈ります。できたら米国の占領統治には協力しないかたちで、水色のヘルメットの平和維持軍になってもらいたい。そうすれば危険も少しは減るでしょうから。それから、これからは相手の気持ちを考えない発言はどんどん削除します。なんどでもね。発言を削除されたって、生命身体に危害が及ぶわけじゃないですから。あんまり執拗だと掲示板を閉鎖しなきゃなりませんが、できたらそこまでしたくありません。
2004.06.24
4月末のファルージャでの700人といわれる虐殺、アブグレイブでの虐待・・・イラクであれだけの残虐非道の限りを尽くした米軍に「協力」する自衛隊。国内の議論だけを追っていると、その戦争自体の非道さを忘れそうになります。ファルージャでの虐殺はいまなお続いています。一発目のミサイルが民家を破壊したあと、それを助けに行った多くの人々が二発目のミサイルの犠牲になったそうです。ファルージャ: 米軍が民家爆撃、40人超す死傷者アルジャジーラ 6月19日イラク情勢ニュース 2004年6月20日より 病院関係者及び目撃者によると、ファルージャの民家に対する米軍の空襲で、22人が殺害され、20人が負傷した。アメリカ占領軍も土曜日の空襲を認めた・・・(略) ◆憤慨 ファルージャの警察署長サッバル・アッ・ジャナビは破壊の跡を調査していて、「午前9時30分、米軍機がこの住宅街に2発のミサイルを発射した」と語った。「数十人の死傷者が出た。この写真がよく物語っている」・・・(略) 「最初のミサイルのあとわれわれが犠牲者の救出にかけつけていたので、犠牲者数がそれほど多くなった」とウィッサム・アリ・ハマドは話した。「2発目のミサイルが救出にあたっていた住民を殺害したんだ」。自衛隊が派遣されているサマワの状況も、緊迫の度を増して来ています。共同通信によれば、サマワの中心部で21日爆発がおき、その後には銃声が聞こえたとのこと。市内には多数の警察車両が出動し、上空にはヘリコプターが旋回し、警戒態勢が取られているそうです。記事では、最近の情勢が次のようにまとめられています。「サマワでは2月中旬、市中心部に迫撃弾2発が撃ち込まれたのを皮切りに、陸自や駐留オランダ軍の宿営地付近への砲撃が散発的に続き、5月中旬にはイスラム教シーア派の対米強硬指導者サドル師の民兵組織がオランダ軍やイラク治安当局と交戦。 同月31日には、中心部で小型乗り合いバスが爆発、炎上するなど、治安が急速に悪化している。」(6月21日 共同通信)自衛隊の多国籍軍参加については、「統一した指揮権(unified command)」のごまかしについてすでに触れました。政府は野党にせっつかれて米英政府「高官」との合意を示す文書を出してきましたが、自衛隊の指揮権の所在が日本にあることを担保するには、ほど遠い内容のようです。多国籍軍参加:米英了解文書 野党が一斉に批判──2004年6月22日毎日新聞政府は「了解の内容はそれぞれの政府内で正式な検討を経たもの」だとしていますが、「文書は外務省がまとめたもの」で、どういう交渉があったのか、また、その合意が英米政府の誰とのものであるのかも記されていないそうです。
2004.06.22
今日の日記はコピペだけです。軍事アナリスト神浦元彰さんのページより。こういうふうに客観的に各誌を分析しなきゃね。もっと新しい情報もあります。ぜひどうぞ。http://www.kamiura.com/new.html***[概要]小泉首相がイラクの自衛隊を多国籍軍に参加させると表明したことで、イラク派遣部隊の指揮権をめぐる問題が表面化した。その結果、今日の朝刊には各紙様々な報道が行われている。一番、最もらしいのは読売である。新設される多国籍軍には司令部が2つあり、治安部隊である「多国籍部隊司令部(MNC)」と、復興支援を行う「多国籍軍司令部(MNF)」だという。その二つが統合されたのが多国籍軍司令部だが、自衛隊に命令を出すのはMNFだけと解説した。MNFは自衛隊に戦闘への従事を命令する権限は持っていないという。 しかし産経は指揮権が不明確で、さらなる調整で統一した政府案をまとめる方向という。内閣法制局は我が国独自で業務の中止や終了ができるなら多国籍軍に関与できると、憲法との整合性を認めることを報じている。しかし多国籍軍司令部が自衛隊に命令することはできず、日本独自で自衛隊の独立した指揮権を模索しているという。もし多国籍軍司令部に人道的な復興支援だけを限定した部門ができるなら、その指揮権に入ることは構わないという防衛庁首脳の見解を報じている。 毎日はイラク特措法で行っている業務を自衛隊が引き継ぐので、空自の輸送業務はそのまま引き継ぐという。また指揮権は集団的自衛権との一体化を避けるため、非戦闘地域での活動や武力行使と一体化しないという見解を盛り込むという。 朝日は自衛隊の指揮権は日本にあるが、それがどのように担保たせるか十分に説明されていないという。[コメント]とにかくこれらの記事を読むと、政府は多国籍軍には2つの司令部があり、日本はイラクでの戦闘(治安)を担当しないで、人道的な復興支援が担当の司令部下で活動するというように持って行きたいらしい。しかし朝日のいうように、それでイラクの戦闘から自衛隊が切り離されたという確証(担保)はないと指摘するのもわかる。さらに毎日は、現在でも米兵や米軍の物資を輸送する空自は、復興支援というよりも後方支援活動になり、より自衛隊の多国籍軍参加問題が深まる可能性があると指摘している。 政府は18日にも、これを政令にして閣議決定することを決めている。しかしこれで普通の国民は理解できるだろうか。仮に私に説明してくれと言われても、このように詐欺のような説明はとてもできない。だから政府も十分に説明できないと思う。あまりにも今まで解釈変更で逃げてきたので、これ以上変更すれば崖崩れを起こすほどに危険な状態になっている。 もし政府の御用評論家がしたり顔でこれを説明すれば、堂々と正論で反論して致命傷を与えることも可能である。これでは内閣法制局も何のための役所かとなってしまう。憲法や法律の抜け道を考えたり、解釈変更で法律をなし崩しすることが法制局の仕事かと疑われる。 このような姑息なことしか日本はできないのか。一つだけ言えることは「日本の常識、世界の非常識」である。 また自衛隊員に向かって言えば、蛙を熱湯に入れると飛び出すが、冷水に蛙を入れて水を熱すると、蛙は跳び出ないでそのまま熱湯で死ぬという。この言葉の意味を考えて欲しい。
2004.06.21
ややこしい話なので、重要な事柄だけを整理してみたいと思います。日本政府は、多国籍軍に参加する自衛隊が「日本独自の指揮権」を行使する旨が米・英政府に認められている、だから多国籍軍に参加してもいいんだと言っています。しかしこれは、日本の外務省職員(公使)が米・英政府の高官に「口頭で確認」したにすぎず、その証拠も示せない種類のもののようです。このあやふやさに「自衛隊の制服組も『指揮権の区別が本当にできるのか』(幹部)と懸念を示している」と伝えられています。<多国籍軍参加>「指揮権区別できるのか」自衛隊幹部も懸念(毎日新聞)ややこしいのが"unified command"という言葉です。これはイラクでの多国籍軍は「統一した指揮権」すなわち「米軍の指揮」という一つの命令系統に服するという意味だとされます(国連安保理決議1546と米国防総省の文書による)。つまり、多国籍軍に参加した自衛隊は、米軍の命令に従うことになります。<多国籍軍参加>「指揮権」不透明なまま、閣議決定(毎日新聞)しかし日本政府はこれを「統合された司令部」と「解釈」したそうです。「統合される」というと、多くの国の意見が反映されて一つの意見へと統合されるというイメージで捉えられるので、「日本独自の指揮権」を行使することもできそうです。しかし命令系統としては「日本独自の指揮権」を行使することは、あくまで安保理決議に反していることになります。このごまかしに対して、メディアや野党が猛反発しているわけです。ただし、ほんとうのややこしさは、「米政府としては日本に限らず各国が自国内に説明のつくよう玉虫色の解釈を一定程度、黙認していると見受けられる」点です。米大統領報道官が記者会見で、「個々の国の軍隊は、自国の指揮系統のもとに入る」と述べた上で、「多国籍軍全体は米司令部によって監督される」とも言っているからです。これに対して米国防総省は、あくまで多国籍軍は米軍の指揮下に入るとの認識です。しかしどちらにしても「米軍の指揮」あるいは「米軍の監督」が多国籍軍全体に及ぶとされている点は同じで、記事でも「実態は『米軍の指揮下』に極めて近い姿となるのは間違いない」とされています。
2004.06.20
前回の記事に対して、多くの反論が寄せられました。すでに論点が錯綜して議論が困難になっています。そのなかで「反日分子」という言葉が使われたことを私は誹謗中傷と判断し、警告のあとも繰り返されたので発言を削除しました。それでも繰り返し同様の書き込みがなされるので、なぜ私が「反日分子」という言葉を誹謗中傷と判断するのかを説明する必要が生じました。議論の混乱を避けるために、以下でこの点に絞って説明します。私が削除の根拠としてあげたのは、1)典拠が示されていないこと2)某S氏さんが渡辺氏を「反日分子」と呼ぶことの意図が示されていないこと3)私がこのページで「反日分子」という言葉を使うこと自体を許容しないことこの三つ。それに対して、1)の典拠だけしか示されていません。それも、自分で検索しろという指示のようです。私が「反日分子」という言葉を削除した理由は、まず、第二次世界大戦中、日本政府の政策に異議を申し立てた人々が「非国民」と呼ばれ、圧殺されたことへの反省からです。「反日分子」もそれと同義だと考えます。そうではないという人は、2)その言葉を使う意図を明らかにすべきです。それを明らかにしない発言は誹謗中傷であると考えます。3)また私がこのページで「反日分子」という言葉の使用を許さない理由は、その言葉の使用が民主主義の原則に反するからです。民主主義とは、異なる思想や意見の存在を許し、討議によって社会を運営するという理念です。これは、単一のイデオロギーによって国家を支配するという全体主義や独裁制とは逆の立場です。もともと「反日的分子」という言葉を吐いたのは柏村議員のようですが、その意図は、イラクで人質になった人々が自衛隊のイラク派兵に反対しているということでした。ここで「反日」とは、「政府の政策に反対している」という意味で使われています。「日本政府」が「日本」にすりかえられ、日本人であるなら自衛隊のイラク派兵に反対すべきではないという意味づけが与えられています。これは民主主義の原則に反することです。げんに野党だけでなく与党内からも批判を受け*、議事録からは削除されています**。*福田康夫官房長官は・・・「不適切な発言だ。正当化できるような発言ではない」と述べた。http://blog.goo.ne.jp/taro-ka/e/fe0c926d00d36d5c960279958c9fd587**議事録から2カ所を削除 自民・柏村氏の反日的分子発言http://www2.asahi.com/special/jieitai/houjin/TKY200405310265.htmlこうした不当な発言に対し渡辺修孝氏は「反日でなにが悪い」とコメントしました。この発言の意図は必ずしも明らかではありませんが、かりに「自分が反日分子と呼ばれることを受け入れる」という意味であっても、「反日分子」という言葉を使うこと自体が民主主義に反しており、社会的に許容されるべきでないことには変わりありません。以上
2004.06.17
自衛隊員の話と違って、これならまあ納得できるっていう気もする。「陸上自衛隊が復興支援活動を行うイラク南部のムサンナ県民の約半数が、自衛隊の活動に満足していないことが(2004年4月〕21日、地元紙「アルサマワ」の世論調査でわかった。・・・「自衛隊の派遣は有益か」という質問に対し、「思わない」と答えた人が51%に上り、「思う」の43%、「どちらとも言えない」の6%を上回った。また、「自衛隊の駐留に賛成か、反対か」という質問では、「賛成」が49%、「反対」が47%、「特に考えはない」が4%で、賛成と反対がほぼ同数だった」。http://2.csx.jp/~journal/diary/2004/51.html (ブログ「ちょっと懐疑派」から。この記事と引用、正確だといいけど。でも、「ちょっと懐疑派」っていうタイトルからは、なんとなく信用できる)まえにふれた渡辺修孝さんの記事を考え合わせると、「自衛隊の派遣が有益とは思わない」51%の意味は、金はおそらく「地元有力者」に流れて、雇用にはわずかしか流れていないということだろう。「賛成」と「反対」がせめぎあうこの数字の意味は、当面の生活のために仕方なく「賛成」しているということのように思う。米国への支援が前面に出れば人々の態度はガラッと変わるだろう。今回の場合、この地元アンケートの「数字」に比べると、方々の「話」のほうが何ともうさん臭い。自衛隊員の話にせよ、イラク暫定政府大統領の「多国籍軍への自衛隊参加歓迎」にせよ、「自衛隊の活躍」を誉められてのぼせ上がっている人々は、過半数が「役に立っていない」と答えているこの数字を見るべきだ。また一方で、反戦団体のレポートにも、イデオロギーのにおいがするものがないとは言わない。ただ、渡辺修孝さんや安田さんなどの現地レポートは、「自衛隊派兵反対」を言うからといって、思想的に偏っているとも思われない。たとえば渡辺さんのレポートは、文章としてははっきり言って下手だけれど、それだけに思想的な粉飾はすくない。http://www.jca.apc.org/gi-heisi/page019.html
2004.06.13
6月10日西日本新聞の記事「イラク復興支援群長・番匠一等陸佐に聞く」には、いかに自衛隊がイラクで努力し、その活動が現地の人々に理解されていたかが、《自衛官の立場から》述べられている。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040610-00000016-nnp-kyu> 「自衛隊員と現地の人が一緒に汗をかくことが多かった。使う側と使われる> 側でなく、同じ立場の友人としての支援を貫いた。人道支援に徹する自衛隊> ならではの姿勢だ。サマワ到着直後に比べ、笑顔で手を振ってもらうことが> 増えた。私たちの活動が少しずつ理解されたからだろう。イラク人と同じ目> 線で、誠を尽くすことが重要だ」> > ──迫撃砲着弾などサマワの治安も悪化し、自衛隊が宿営地に引きこもって> 十分に活動していないとの声もある。> > 「明らかな誤解だ。引きこもってはいないし、復興支援業務を休んだことは> 一日もない。毎日八十―百トンを給水し、学校や道路修復の調整で担当者は> 飛び回っている。自衛官には日ごろの訓練や心構えがあり、自ら安全をつく> るという意識で活動している」基本的には、現地を見ていない人よりも現地を見た人の言葉を信用すべきだろうと思う。この記事も、そういう意味では現場の様子を《自衛隊員の目から》見たものである。しかし、この記事はいかにもうさんくさい。だいいち、自衛隊員の話だけで、サマワのイラク人の話が聞かれていない。どうして一方の話しか聞かないのだろう? 武装して軍服を着た自衛隊員に、住民が「笑顔で手を振る」ものなんだろうか? 4月8日には宿営地近くに迫撃砲が打ち込まれた。5月11日にはオランダ兵が手榴弾を投げつけられて死亡。16日にはサマワにあるサドル師の事務所にオランダ軍が突入して制圧。そのあと激しい銃撃戦。19日には対戦車地雷が仕掛けられているのが発見され、イラク保安隊によって処理されている。軍事評論家の神浦氏は、「これは警告の意味が強いと思う」と指摘し、「サマワの危険度を示すカラーはオレンジからレッドに変わった」と言っている。http://www.kamiura.com/new.htmlこれらを考え合わせると、武装した自衛隊が現地で信頼を得られているなどという話は、いかにも疑わしい。また、給水や学校修復についても、実際にどれだけの成果をあげているのかはほとんど分からない。まして派遣費用377億円に見合うことをやっているのか、という疑問には答えにもならない。渡辺修孝さんによれば、日の丸をつけた給水車は、自衛隊が浄化した水を供給しているのかとおもいきや、なんと既存の施設から水を補給して運んでいるだけだったという。http://www.jca.apc.org/gi-heisi/page018.html#label6また渡辺さんは、市街地で装甲車と緑の迷彩服の自衛官を見かけたという。> それにしても、どう考えても自衛隊がサマワ市内の商店街に装甲車で乗り入> れて、銃を持った兵士たちがその店の入り口に立っているというのは奇妙な> 感じを受けます。「とうとう、自衛隊もここまで来てしまったか!」とさえ> 思えます> > 後で判ったことなのですが、自衛隊の幹部たちは頻繁に街の著名な有力者を> 訪問しては、いろいろな地域問題の交渉をしていたようです。しかし、その> 際に街の有力者の門前や玄関先には、必ず重機関銃を据えた装甲車が2台と> 警戒の兵士が銃を控えて立っている様子をしばしば見かけることになりまし> た。「どうも慌しく動き回っているな」と思っていいたら、やはりその通り、> 彼らには何とか早急に解決しておかなければならない問題があったのです。http://www.jca.apc.org/gi-heisi/page019.htmlいったい、地域の有力者と何の話し合いをしていたのでしょう?渡辺さんによれば、自衛隊宿営地は6人の地主のものであるが、日本政府・自衛隊は、そのうちひとりとの交渉がまとまっただけで、契約が成立したと公表してしまった。それをなんとかするために、自衛隊幹部は地元有力者のあいだを駆けずり回っていたというのです。そりゃ忙しいでしょうね。
2004.06.11
2004年05月10日(月) 朝日新聞「スーダン西部で10万人難民化、「組織的な民族浄化」も」スーダン西部で続く政府軍と反政府勢力との内戦で、政府軍の支援を受けたアラブ人民兵によるアフリカ系黒人住民の組織的な殺害やレイプが続発している。国連人権調査団が安保理に7日提出した報告書によると、焼き打ちなどで約130万人の住民が家を失い、約11万人の難民がチャド東部に流入している。・・・2004年5月14日 アムネスティスーダン:調査委員会は、効果的でなければならない。 また証人を保護し、報告を公表せよ chance-actionメーリングリストに転送されたアムネスティからのアクションメッセージ[chance-action:6794] 【緊急アクション】スーダンでも蛮行が・・・スーダン政府は、ジャンジャウィドとして知られるアラブ系の民兵の暴力行為を野放しにしました。ジャンジャウィドは、村への攻撃、住民の殺害、強かん、拉致を行ない、家屋を破壊し、水源や家畜などのその他の財産を略奪し始めました・・・現地の様子スライド(英語解説付き)
2004.06.03
面白いページがあった。萩原能久「学生の質問に萩原が答えようやないか」政治哲学の講義を聞いているT君が、講師の萩原さんに質問している。T君は、あるところで「アイヒマン裁判」について議論し、「上官の支持に従い、組織の決定に従っただけ」と主張したアイヒマンは有罪なのか無罪なのかということが争点となったそうである。T君は、「もちろん組織の決定とはいえおびただしい死者をだしたホロコーストに比較的重要な役割を果たしたアイヒマンは裁かれるべきだ」と主張。これに対し或る参加者は、「ナチスは国民の支持を受けて合法的に成立したのであり、ホロコーストに関しての罪は政策決定過程を経ているのであるから合法であり、もし罪を問うならば個人ではなく国家に帰着されるものである」と反論したそうだ。さらにその参加者は、ヒトラーが生きていたとしても罪は無い。またもしドイツが戦争に勝っていればアイヒマンに罪は生じないと言い放ったという。これにT君は「直感的な違和感」をおぼえたそうだが、うまく反論できなかったので萩原さんに意見を求めている。萩原さんの回答は、「論理的・道徳的観点」からみて、アイヒマンは罪を免れないというもの。> さて、「Xの意志は私がAをすることである」という事実命題があるとしま> す。このXに「上官」を挿入しようと、「神」を挿入しようと、そこから> 「私はAをなすべきである」という規範命題は導出できません。それが可能> になるためには、例えば「Xかなすべきであると決めた事はすべてなされな> ければならない」といった別の規範命題が前提として受け入れられている場> 合のみです。そしてそれを受け入れるか否かは、その命令を受けている当の> 本人の決断にかかっています。これは、カントの言葉でいえば、「意志の自律」である。もしかれが自由で自律的な存在であるなら、たとえ上官の命令であろうと、その命令を自分の意志で受け入れることによってしか行為することはできない。萩原さんはうまいこといっている。> 「殺人に使われた銃が悪いのではなく、それを殺人に使った人が悪い」とい> う論理はありうるかもしれませんが、人間は銃ではありません。自由な意志> を持った存在です。自身を銃にした責任は自分にあります。そしてまた、い> かなる状況下であれ、その銃が何の為のものであり、何に使われるのか知ら> なかったという抗弁が成り立つほど、人間が無知でありうるとも私には思え> ません。しかし、兵士は命令によって拘束されているから、自由ではないと言えるかもしれない。萩原さんも言うように、「「法的」には「自分は上官の命令で強制されてやったのであり、他の選択肢はなかった」と抗弁できる可能性がある」からである。しかしこれは「法的(外面的)」な話であって、「道徳的(内面的)」な観点からは、自由な存在が全くの他者の道具となるということは、論理的にありえないのである。もし人間が「自由な存在」であるとするなら、上官の命令に従って全く何も考えず人を殺す道具となり果てた兵士は、論理的に言って人間ではないことになる。ただ、萩原さんの回答では、道徳的責任と法的責任が混同されているようでもある。カントの区別からすれば、道徳的責任を法的に問うことはできないからだ。しかし法的に言っても、兵士が自分の自由をすべて上官に譲り渡してしまうことはできないし、上官が兵士を完全に自分の道具として扱うこともできない。なぜなら、「人間たるものは自分みずからの主ではありえても、自分自身の所有者(自分を任意に処分しうる者)ではありえず、まして他人の所有者ではありえない」からである。(カント『人倫の形而上学』中央公論社『世界の名著』399ページ以下)つまり、兵士が上官の命令に服するといっても、人間である限りはおのずと限界がある。みずからの人間性までを放棄してしまうことはできないからだ。しかし、イラクやパレスチナの戦場では、《げんに人間性が放棄されてしまっている》。人間性を放棄してしまった兵士が人間に戻ることができるのは、法廷で罪を認め、裁かれることを通じてだけである。
2004.06.01
この記事は次の文章を読んでの感想です。高田健 「困難を乗り越える闘いに内在するか、それとも外部から嘲笑するか」http://www4.vc-net.ne.jp/~kenpou/seimei/takada.html僕はドイツにいて辺見庸氏の文章を読めない環境にあるので、この文章からのみ辺見氏の言葉を知るに過ぎない。最初に自分の立場を明らかにしておくべきだろう。僕はChance!とWorld Peace Nowの一参加者である。理性的に言えば田中氏が「正しい」し、立場を同じくする。しかし僕はまず辺見庸に軍配を上げる。高田氏は辺見の文章を理解していない。高田氏が引用するところによると、辺見は次のように言う。「メディア知や国家意思(国家知)を徹して疑う。怒りの内発を抑えない。一人ひとりが内面に自分だけのそれぞれに質の異なったミニマムの戦線を築く。そこから街頭にうってでるか。いやいや、街頭にうってでるだけが能ではなかろう。どこにも行かず内攻し、内攻の果てに自分の日常にクラックを走らせるだけでもいい。この壮大な反動に見合う抵抗のありようを思い描かなくてはならない。ときに激しい怒りを身体で表現する」かれは「怒り」をまず「内発」させる男である。自分自身に対して怒る。自分のあり方を疑う。これが彼の出発点である。「内攻の果てに自分の日常にクラックを走らせるだけでもよい」と言う。これは、戦争に反対するために自分を捧げることのできない人間でも、日常の中に小さなひびを走らせることはできるというメーッセージであろう。その結果として、辺見自身もデモに参加したわけだ。辺見は、日常の生活を飛び越える羽をうしなった籠の鳥、時代の囚人である。辺見のこの内攻性と奴隷根性が分かれば、次の文章も理解できるはずだ。「なんの意味もない言い方だけれども、戦後と一緒に生きてきた。私もこの国も、本気では一度も自省せず、真剣には一回だって自己変革せず、なにかばかげたことを何度も何度も繰り返してきたような気がする。このばかげたことの<果てのない繰り返し感>が、体内の疲労感や徒労感にそっくりそのまま重なる」。辺見は、自らどっぷりとこの社会の無気力に漬かっていることを告白している。だから、社会に対する怒りは、そのまま自分自身へと跳ね返ってくる。辺見庸は、この怒りをバネにして突然にバングラデシュへと飛び、スラムで売られている残飯に齧りつくような、ばかげたことをする男である。(『もの食う人々』)思うに、辺見庸がピースウォークのような形態の平和運動に苛立つのは当然である。「(私も昨年来、有事法制反対のデモなるものに何度か参加したが)示威行進のはずなのに、怒りの表現も抗議のそれもさほどではなく、なぜだか奇妙な陽気さを衒う、半端な祭りか仮装行列のようなおもむきのものが少なくなかった。児戯、滑稽、あほらしさ、恥ずかしさ、むなしさ……。いっそ隊列から抜けだしてしまいたい衝動に何度もかられた」。内面に渦巻く憤怒を表したいがためにデモに参加したはずであるのに、周りの若者はにこやかに手を振っているではないか。もっと怒れ! 髪を逆立てて怒れ! 怒りを全身の毛穴からほとばしり出せ! 彼がそう言うのは、よく分かる。しかし、僕が辺見の肩を持つのもここまでだ。頭の芯がカーッと熱くなるような怒りを感じるのは、辺見だけではないからだ。イラク人を虐待したアメリカ兵がにやりと笑う顔を見て、怒りに我を忘れたのはイラク人だけでもないだろう。アメリカ兵に肉親を殺されたことを、まだ忘れ得ぬ記憶の中にとどめているベトナムの人々はどうか。基地の兵士に強姦された沖縄の女性とその家族は何を思うだろうか。また、怒りの声をあげない平和運動に参加した少なくない人々が、こうした怒りを必死に胸の中へとしまいこんで街へと出たであろうことを、辺見は分かっていない。じっさい僕自身が、辺見が「犬の糞」呼ばわりするところの者である。僕は、そこだけでは本当の意味をもつピースサインをつくって、にこやかに渋谷の街を歩いた。だから、辺見庸に対してだけは正直な怒りを投げ返してやろうとおもう。辺見庸、おまえこそが「糞」だ。なぜ文章の中や講演会の壇上だけでしか怒らない? ぽくぽくと歩く人々のなかで「犬の糞」だと思ったなら、なぜその場で声を限りにして「俺は怒っている」と叫ばないのか? そんな勇気もなく人々の列に繋がれ腐っている奴こそが「糞」である。周りの人間にへつらって犬のように白い腹を見せているのは、辺見庸、おまえ自身だ。周りの警官に掴みかかって戦争が終わるものならば、俺だってそうしていたかもしれない。しかし、三白眼の警官を相手にしていても埒があかないから、おのれの中で怒りがつのるのだ。雑誌の中に愚にもつかない「怒り」を垂れ流しているぐらいなら、もとジャーナリストらしく、平和運動の弾圧に暗躍している公安の暴力を暴露してみたらどうか。だいたい、われわれには怒りを表す資格がない。イラクやパレスチナで肉親を殺された人々の写真を見ただろう。そこで怒る人の写真からあふれ出る感情に比べて、おまえの文章はなんと貧相なことか。あるいは、イラクで人質になった安田純平が伝えた「やつらに復讐する」という言葉に比べて、おまえの文章はいったい何を伝えるというのか?ただ、いずれ隊列の中で出会っても、「バカヤロウ」ぐらいは言うかもしれないが、殴ったりはしないから安心せよ。僕は非暴力平和主義者だから。辺見庸が煽っているのは内面的な怒りであって、警官隊との衝突を煽るようなものではないと信じている。また僕は、いくら辺見庸に「糞」呼ばわりされようが、機会さえあればこれからも確信を持ってピースサインでパレードに参加する。激しい怒りを内面に秘めていることを、できたら分かってもらいたい。
2004.05.24
パレスチナ:ブルドーザーの悪夢が再来です。> パレスチナ難民千人以上が家失う イスラエル侵攻で > > イスラエル軍が3昼夜にわたって侵攻作戦を行ったパレスチナ自治区ガザ> 南端のラファ難民キャンプで、88棟の住宅が破壊され、1064人のパレ> スチナ難民が家を失ったことが、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNR> WA)の集計でわかった。住民からイスラエルの最高裁に住宅破壊の差し止> め請求が出されたが、最高裁は16日、「正当な作戦上の理由」を認め、請> 求を棄却した。 http://www.asahi.com/special/MiddleEast/TKY200405160188.html2004年5月16日 朝日新聞↓この写真で見ると、ブルドーザーと言うよりはシャベルがついた装甲車と言ったほうがいいようです。http://rafahtoday.org/about/snaps.htmこれについて、南ドイツ新聞は、「ガザ地区での家屋破壊にたいし裁判所の許可」という見出しで報道。国連のアナン事務総長は、「この家屋破壊を国際法違反だと判断した」。http://www.sueddeutsche.de/ausland/artikel/907/31876/いっぽう、15日夜、テルアビブでは平和団体「ピース・ナウ」や左派野党による大規模な反戦集会。ガザ撤退と和平のためのパレスチナとの対話再開を訴えています。> ガザ撤退の集会に10万人超 イスラエル・テルアビブ http://www.asahi.com/special/MiddleEast/TKY200405160105.html 2004年5月16日 朝日新聞この記事では「労働党のペレス党首が「多数派の声を、1%の国民が邪魔している。この1%が我々を再び戦争の時代に引き戻すことは許さない」と語った」とありますが、「シオンとの架け橋:イスラエル・ニュース」には、「国民の80%が賛成する案を、1%の入植者に阻止させてはいけない等と訴えた」と、より具体的に書かれています。http://www.zion-jpn.or.jp
2004.05.18
http://www.morizumi-pj.com/フォト・ジャーナリスト、森住卓さんの写真集『私たちはいまイラクにいます』が第51回産経児童出版文化賞受賞に選ばれました。しかし森住さんは、産経新聞のイラク侵略関連の報道に抗議して受賞を拒否。以下は、森住さんの辞退通知です「第51回産経児童出版文化賞の受賞を辞退させていただきます。 「私たちはいまイラクにいます」に登場するイラクの子どもたちの写真は、悲惨な戦争のなかでも、それを乗り越えてたくましく生きていました。彼等は無法なアメリカの侵略戦争を身をもって告発していました。空爆された跡に立つ少女や劣化ウラン弾の影響と思われる白血病の少年がじっと見つめる瞳はこの戦争を止められなかった大人たちの責任を静かに追及しているようでした。 この戦争を産経新聞社はどのように伝えたのでしょうか?日本政府のこの戦争に加担する姿勢を一度でも批判したのでしょうか? この賞を受けてしまったなら、イラクの子どもたちに2度と顔向出来なくなってしまいます。 2004年5月10日 森住 卓 」次のページには、「白血病の少女」の写真が載っています。http://www2.cc22.ne.jp/~yfukuma/iraq.htm劣化ウランが彼女を白血病にした。劣化ウランを撒き散らしたアメリカを、日本政府が支援した。日本政府を、日本国民が支持した。日本国民とは誰のことか?われわれのことです。
2004.05.12
「自己責任」の歴史的背景についてのメモ──平成4(1992)年通商白書 2004年4月のイラク日本人人質事件において、なぜ「自己責任」という言説があれほどの説得力を持ったのか。日本で「自己責任」という言葉は、いつから、どんな意味で使われたのか?もともと「自己の責任において」という言い方は、他者の干渉を排除して行動する自由を指していたように思われる。しかしバブル崩壊の90年代以降、何らかのかたちで「自己責任」の意義が変化したというのがここでの仮説である。その過程の中で「自己責任」は、すでに累積した負債の支払いを示す言葉となり、ひいては自由な行動を縛るかせ枷を意味するようになったのではないか。インターネット上の情報を眺める中で真っ先に私の目に付いたのは、通産省(現:経済産業省)の平成4(1992)年通商白書である。その結語には次のように書かれている。「今後の我が国の社会や経済のフレームワークを考えるにあたっては,・・・個人の選択の自由の拡大と自己責任の原則の確立がその方向性を評価するうえでの重要な指針となってきている」。この白書冒頭によれば、1992年、「世界経済は、83年以来長期にわたる好景気を享受してきたが,91年には主要国における景気の鈍化・停滞,旧共産圏地域の経済的混乱,湾岸危機の後遺症による中東地域経済の落ち込みなどを反映して,82年の世界的景気後退以来の低成長となった」。80年代の好景気の終わりと、90年代の世界的不景気の始まりである。「自己責任」という言葉は、おそらくこの時期に「原則」として採用され、時代を代表するスローガンになった。「個人や企業の自己決定とその裏腹となる自己責任といった基本的な価値は明示的に認識自覚されるべき社会の理念であり,その社会のシステムへの投影は,結果としての経済的パフォーマンスを超えた次元で明示的になされていく必要がある」。第一章第三節の4 このように「自己責任」は「自己決定の裏面」として、「基本的な価値」とみなされた。この「理念」は、いっぽうで、それ以降も続く金融機関の破綻を公的資金で補填する場合などに企業の責任を問う規範として用いられ、他方で、投資や保険に関する個人の自己責任を強調する意味で多く用いられた。その意味では、「投資家教育」とも言われるように、人々は「自己責任」にむけて教育される必要があるとされた。ここで通産省が予言したように、「明示的に認識自覚されるべき社会の理念」へと仕立て上げられるに至った。この意味での「自己責任」とは、具体的には、企業ないし個人が借りた金を返すことであるとか、投資においてリスクを負うべきことすぎないであろう。しかしこの白書は、「自己決定」および「自己責任」が、より基本的な現代的価値を背景としていることを次のように主張している。「また,我が国における価値観の多様化は,企業を中心とした利益共同体,運命共同体としての求心力を弱める方向に作用していると考えられ,将来の利益や生活に対して現在の利益や生活を犠牲にする傾向が弱まり,現時点における趣味や生活の充実に対する選好を強めている。こうした社会意識の変化は,我が国の所得水準の上昇に伴う精神的欲求の拡大と国際的な交流の増大に伴う文化的刺激によってもたらされた面もあり,今後一層進展する可能性がある。・・・労働時間を短縮し,趣味や生活の充実のために充てる時間を増大させていく傾向を強めるとともに、従業員が企業活動に対して行った貢献に対する対価を年功処遇による傾斜や企業の福利厚生システム等を通じて支払われるのではなく,現時点において受取り,自己処分,自己決定することを要求する傾向が強まることが予想される。最近しばしば指摘される「企業は豊かになったが,個人は豊かではなく,ゆとりに欠けている。」といった不満は,現存の分配構造に対するあからさまな不満を意味するものであることに注意する必要がある」。第一章第三節の3 このときの人々の関心は、日常生活や精神的生活の「ゆとり」を求めることに向けられていたという。「価値観の多様化」という概念も、時代を代表するスローガンであろう。それに伴って雇用形態も多様化し、その後たとえば転職や派遣労働が一般化するようになった。しかし、それによって「労働時間の短縮」や会社への従属から解放されたと思う人はいないだろう。人々は、「多様な価値観」に基づく「自己決定」と、「ゆとり」をともなう人それぞれの生活を求めた。しかしその後「自己決定」は、転職がいくぶん自由となったり、投資商品の幅が広がったりしたことに反映されたに過ぎないように見える。むしろその「裏面」としての「自己責任」が強調され、自由に決定したツケを支払う責任が追及される。この1992年の『通商白書』に見られるのは、ライフスタイルの選択といった人格的意味での「自己決定」が、投資商品の選択といった経済的意味での「自己決定」と債務返済という意味での「自己責任」へとすりかえられたということであろう。逆に、そうした経済的意味での「自己責任」が「社会の理念」にまで祭り上げられ、およそ「自己責任」と言えば何に対しても説得力を持つという事態に至ったのではないだろうか。たとえば、健康保険も「自己責任の時代」だとされる(1)。年金改革の原理も「自己責任原則」(2)。はては「司法制度改革」も「自己責任原則に貫かれた」社会を目指すとされる(3)。それら「自己責任」を原理とすることの妥当性は個別の場合ではかられるべきであろうが、およそ「自己責任」を持ち出せば内容にかかわらず通用する風潮があるとすれば、無反省も甚だしいと言わざるを得ない。(1)ニッセイ基礎研究所 http://www.nli-research.co.jp/stp/nnet/nn020719.html(2) 日本銀行 http://www.boj.or.jp/service/out006.htm(3) 首相官邸、司法制度改革推進本部http://www.kantei.go.jp/jp/singi/sihou/
2004.05.09
一般的に言われる「自己責任」という言葉は、次の二つの意味で用いられ、たいていの場合それらが混同されているように思われる。1)法的責任(拘束性)2)道徳的責任(責務)この区別は、I.カントが『人倫の形而上学』において、人倫(Sitte)を法論と徳論をわけて論じたことを基礎としている。翻訳(中央公論社、世界の名著版──以下数字はこのページ数を示す)では、法論では「拘束性」と訳される同じ言葉(Verbindlichkeit)が、徳論では「責務」と訳し分けられている。この概念は、ある行為が義務として強制されていることを意味するが、法論と徳論では、その強制のされ方が違うからである。カントによると、一方で「合法性」は「単なる外的行為とその合法則性」だけに関わるものであり、他方で「道徳性」は「行為の規定根拠」にまで関わるものである(337)。つまり、ある行為の合法性を問うときには、具体的にどんな行為をしたという外面的な結果だけが問題となるのに対し、行為の道徳性は、その行為を行うことが内心でどのように決定されたかということに関係している。合法性は、行為を外から強制し拘束するものであり、違法な行為が処罰されるのもこのためである。殺人を犯せば警察によって「拘束」されるし、借金を返済しなければ財産が強制的に差し押さえられる。他方、「道徳性」は、どのような理由から、どんな目的で行為するかという内面的動機に関わるものである。たとえば、どんな卑劣な動機から行為しても、その行為が法律に反しなければ拘束したり強制したりすることはできない。むしろ、こうした内面的意味で自分を強制できるのは、自分自身だけである。こうした道徳的意味での内面的強制を、法的意味での外面的強制と区別するために、「拘束性」ではなく「責務」と訳される。今回のイラク人質事件では、外務省勧告を無視してイラクに入国したということの「自己責任」が問われた。これをどう考えるべきであろうか。その「法的責任」を問うことはできない。なぜなら外務省勧告は、その勧告に反した者に不利益を課す規定を持たなかったからである。また、帰りの航空運賃等を請求されたことに関しては、もし政府のチャーター機での帰国が本人たちの依頼に基づくものであったなら、単なるサーヴィスの提供行為として、それに対する支払いの法的義務が発生する。これは、外務省勧告を無視してイラクに入国したこととは、論理の上で何のかかわりももたない。しかも、もし本人たちの依頼に基づかないで日本への移送を行ったとすれば、それは単なる航空券の押し売りである。かれらは「道徳的責任」を問われたのだとしよう。もし「道徳性」をカントの意味で捉えるとすれば、そもそも他人がそれを問うということが成り立たない。それを問うことが出来るのは自分自身だけだからである(cf. 534)。これは、いわゆる「世論」が、法廷における裁判官のようにかれらを裁き責任を帰している現実とは全く相容れない(cf. 351)。この事については、あとで考察しよう。カントの「道徳性」概念からこの事件を考える意義は、人間の「自由」と「自律」の根本的可能性に関わるものである。人間がもし自由でありうるとすれば、義務に合致した目的を立て、その目的にむけて行為することを自らに強制することができる。その強制が、のべたようにカントの言う意味での「責務」である。その目的が義務(なされるべきこと)と一致しているかどうかを自ら判断して目的を定めることができる、このことが人間性の根拠である (cf. 546)。カントの言う「自由」は、きわめて徹底的である。自らの意志を決定する根拠が、なんらかの感情であったり、他の目的のための手段であったりする場合には、その意志はそれらのものに依存しており自由であると言うことはできない。ましてや外的な状況に依存していたり、他人に指図されたりする場合には、それらに従属していることになろう。あくまで自分がすべきと思うことをする場合にだけ、自由であると言うことができる。今回イラクへ赴いた人たちは、他人の意見によってではなく、自分がイラクへ行くべきと考えたことを実行したという点で、自らを自由だとみなすことが可能である。それに対して、それを義務と考えるのにもかかわらず状況や他人の意見によって思いとどまっていたとしたら、自分を自由だとみなすことは不可能である。また、いまもし彼らが自分の義務とその行いが一致していたかどうかと考えるとすれば、少なくともそれはカントが言う意味での道徳的な反省であると言える。世論は、かれらは行くべきではなかったと言う。危険であり、政府が退避勧告を出しており、家族も引きとめたのだから。むしろそれは義務に反することであると。しかしこの判断は一面的である。なぜなら、窮状に陥ったイラクの人々を援助し、または少なくとも状況を世界に伝えることが人間的義務だとも言えるからである。こうした義務の衝突の中で、なにが義務であるかを定めることはきわめて困難である。この困難さを無視して軽はずみな判断を下した人々は、これら両方の義務を視野に入れて、十分な根拠をもって判断したのかを反省すべきである。この判断は、それぞれの個人が、自らの行為に対してだけ下すべきだと私は考える。その判断を他人に押し付けることは、他者の自律への侵犯である。
2004.05.08
野口健さま、野口さんの「自己責任と危機管理」のページは書きかえられて、前のページは消去されてしまった、と、ある方からお知らせいただきました。野口さんの主張には共感できる部分も多くあり、それもいっしょくたに消されてしまったのが残念です。野口さん自身が心無いバッシングをうけたであろうことも、とても気の毒ですが、ここは粘り強く取り組んでほしいと願っています。書き直されたページでは、冒頭で次のように言われています。> 「自己責任と自己負担」の部分ですが、自己負担というものは、あくまでも自> 発的行為によって行われるものだと考えています。義務でも強要されるもので> もありません。私の書き方があまりにも一方的でしたのでその部分を改めさせ> て頂きました。 http://www.noguchi-ken.com/message/b_num/2004/4_0427_a.htmlもし自己負担が正当なことなのであれば、それは強制されるべき義務なので、「自己負担は自発的行為によって行われる」という主張にも疑問があります。しかし、もっと納得いかないのは、前の主張のどこが不適当で、どんな意見を受けて考え直したのかが言われていないところです。まえの主張をひっこめるのは自由ですが、それを消去して言わなかったことにするのは納得いきません。野口さんの前の主張には、次のようにも言われていました。> 5人はもう間もなく帰国する。己の招いた行動でこれだけの騒ぎとなり、国民> の税金もふんだんに使われたのだから、彼らはご自身の言葉で国民に対するお> 詫びと何が起こったのかを話さなければならない。今回、野口さんは税金を使ってはいないかもしれませんが、自分の発した主張が世論にも大きな影響を与えたのですから(ヤフーにもリンクされて、多くの人が見ました)、特に文章で発表した主張を撤回する場合には、なぜそう変更したのか、説明責任を果たして欲しいと思います。また、イラク行きを計画されているとのこと、ぜひ実際に見てきて、その状態を教えてください。応援しています。
2004.05.06
野口健さんのページを見た。じっさいに現場に出かけていく冒険家なだけに、とても説得力のある文章だ。けれど、どうも納得いかないのは、イラク行きを計画しているとはいえ、実際には行っていないからだろう。> 2月の時点で陸路でのバクダット入りは「危険すぎる」との連絡を頂いている。> イラク入りするならば、空路の確保とその時期、地域の状況収集、ボディガー> ドなどの手配といった安全対策、そして取材体制を整えるなど、慎重に事を進> めなければならない。こうして悠長に準備を整えている間に、ファルージャではすでに700人死んだ。約700人という数字だけ伝わっているけれど、ひとりひとりの死をもたらしている具体的な状況については、野口さんも私たちもほとんど知らない。無謀さを承知で出かけていくのでなければ、この状況をナマで伝えることはできない。事態が沈静化してから見に行っても、そこには死体がころがっているだけ。止めるべき状況を、止めるべきときに伝えることができなかった。後悔だけが残る。安田純平記者が東京新聞に載せた記事を引用してみよう。> 食後に移動した草原の星空の下で、新たに訪ねてきたイラク人男性が英語で> 言った。「米軍の攻撃で千人を超える死傷者が出ていることを知っているか。> われわれの生活を脅かすならば、戦う」 > ファルージャ一帯では米軍への激しい武力抵抗が行われている。闘争を支> えているのは豊かな農村で、独自の秩序を持つ部族社会に生き、強い信仰心を> 持った、こうした農民たちなのだろう。いつしか私は、取材者の目で彼らを見> つめるようになっていた。安田氏は、日本で?テロリスト」と呼ばれている人々は、ほんらいは普通の農民だった人だと言う。米軍と戦っている人々の素顔は、こうやって現地を見てきた人じゃないと分からない。野口健さんは言う。> 「自衛隊派遣問題」とこのテロリストが行った「人質事件」はまったくの別問> 題であり、そこをごちゃまぜにしちゃいけない。自衛隊派遣は賛否両論あるが、> その是非は他の機会で論ずるべき。実際に見てきた安田氏のほうを信用するとすれば、野口さんが「テロリスト」と決めつけるのは、ほんらいは普通の農民である。アメリカはそういう人々とその家族に対して攻撃しているのである。自衛隊を派遣することで米国を支援するのは、ファルージャの虐殺に荷担することとはまったく別の事柄なんだろうか?野口さんは「他の機会で論ずるべき」と言うが、「他の機会」とは、いったいいつのことか? その機会を待っているあいだに、イラクの人々は殺される。政府が誘拐犯の要求をのむべきではなかったとしても、解放された今、それとは別の問題として自衛隊派遣の是非を論じるべきではないか。今回の人質事件は、すくなくともそのきっかけとなった。危険をおかして貴重な報告を送る現地の記者たちの言葉から目をそらさないで、こんどこそ真剣にイラクへの援助について考えるべきだろう。
2004.05.02
「自己責任論」について、何か書きたい、書かなきゃならないと思いつつも、いまだ書けないでいます。いったい問題の本質がどこにあるのか分からないからです。そのなかで、次の記事が参考になりました。すぐに消されてしまうので、読みたい方はお早めに。http://ryumurakami.jmm.co.jpJMM [Japan Mail Media] No.268 Saturday Edition■ 『from 911/USAレポート』 第143回 「情念の政治利用と憲政」■ 冷泉彰彦 :作家(米国ニュージャージー州在住)冷泉氏は、生き生きとした描写と鋭い観察眼で米国の状況を報告しています。> 「情念の政治利用と憲政」> > アメリカを支配している感情は、今週も戦時の殺気です。現時点では、ファルージャ> の「開城」が模索されていますが、サドル師の立てこもるナジャフの包囲は緊張が続> いています。そんな中、イラクでの米兵の犠牲のニュースは続いています。その生と> 死の殺気はますますボルテージが上がっています。米国では、イラクで死んだ女性兵士の「崇高な遺志」を継ごうとして軍に志願する双子の話や、何億という契約を蹴って軍に志願したNFLの元スター選手がアフガンで戦死して「英雄」扱いされる記事、また、ファルージャで殺された米国の「傭兵」は、じつは心臓病の奥さんの治療費を稼ごうとしてイラクへ赴いていたというニュースが流されている、と冷泉氏は報告しています。また、ケリー候補のネガティヴ・キャンペーンに必死なブッシュ陣営は、ケリー候補がかつて「反戦帰還兵」として軍の勲章を投げ捨てたという「過去」を宣伝しています。「ケリーは弱腰、ケリーは安全保障の足を引っ張ってきた」と連呼するCMが流されています。感情の衝突が激化し、両陣営をめぐる「分裂」は、更に深まっているとされます。そうした米国の状況と日本の状況の類似点を、冷泉氏は「情念の政治利用」という点に見ています。特に興味深かったのは、情念を通じて政治に利用されている人々の典型的な姿です。> これに対して、日本の小泉政権の政権運営を見ていますと、ブッシュ政権とはまた違っ> た形ではありますが、似たような情念の政治利用という面が見え隠れします。小泉政> 権の心情的な支持層は都市の賃金労働者のようです。年齢もそれほど高くない、30> 代から40代というところでしょうか。年金問題では「自分は損な世代だ」と感じ、> その他の政策に関しても「既得権者への憎悪」から、郵政民営化や道路公団改革に興> 味を持つ層です。> > もっと言えば、家庭を持ちたくても持てなかったり、仕事の上でもリストラの恐怖や> 労働環境の悪化に直面する層でもあります。この層は、恐らく投票率は低いでしょう。> 既成の政治家は自分の利害を代表してないという思いがことのほか強い層だと思いま> す。とにかく、時代の変革のまっただ中にいる層です。過去の遺産はもう回ってこな> い、変化に期待するしかない、だが、変化の痛みが一番強烈にやってくる世代でもあ> る、そんなことから、既得権益への怒りと、変革への期待と不安に揺れる層です。> > この層の描く社会観は、「人間の社会は、複雑な利害関係の中で、人々の顔色を伺い> 自尊心をすり減らし、辛うじて生き延びる場所」だというようなイメージではないか> と思います。北野武さんがずいぶん昔に「日本人であることはそれだけで牢獄の中に> いるようなものだ」という過激な発言をしていましたが、そう感じる人々が多いと言> うことなのでしょう。その牢獄の外の世界に勝手に行きながら、まるで牢獄の息苦し> さとは無縁のような無邪気に「NGO」などをやっている人は「さすがに自己責任で> やってくれ」という愚痴が出る、それも人の心の流れとしてはあり得るのだと思いま> す。あえてコメントはしませんが、「日本人であることはそれだけで牢獄の中にいるようなものだ」という言葉が、あまりにもよく今の状況を言い当てています。
2004.05.01
二年前に書いた論文を読み返した。http://www.f4.dion.ne.jp/~so.o/Famile_u_Natur_Eroerterung.htm論文「ヘーゲルにおける家族と自然の論理」の解説本人だからそう思うのかもしれないけど、読むと、ものすごい気合いを込めて書いてあるのがわかる。なにせ、「ある女に捧げる」っていう献辞までついている。このころは、恋に夢中だったけれど、普段の生活といえば、朝から晩まで研究室にこもってヘーゲルを読んでいた。「愛」とは何かについて、ヘーゲルの言葉を通して、文字どおり必死になって考えていた。内容はいまでも間違ってはいないと思う。ヘーゲルは、生物と非生物の間の関係を、まず図と地のように考えた。それは、「離接する」という言葉からわかる。世の中の全ては、まず、生物であるか生物でないかどちらかだからだ。しかし、生物と世界の関係は、そんな形式論理で捉えられるようなものじゃない。たとえば、息をしたり物を食べたりすることによって、吸われた空気は生物の一部になり、吐かれた空気は世界の一部になる。そうすると、空気そのものとしては、生物でもあり、非生物でもあることになる。その過程の中で、生物と非生物の図と地は、まるで断続的なフラッシュが焚かれたように入れ替わる。つまり、新陳代謝のことを言っているわけだけどね。ただし、新陳代謝と違うのは、ヘーゲルは、われわれがふだん無反省に前提してしまっている生命体という概念そのものを説明しようとしているところだ。ふだん僕らは、僕という生きものとはこの身体だと考える。空気や水や食べ物は、体に入って、出てゆくものだと考える。僕の体の大部分は水分でできている。同様に、僕という生命体は、水とタンパク質と脂肪などでできている。しかし、だからといって、僕という生命体は水とタンパク質と脂肪だとはいえない。僕がいま水を飲んだら、水は僕の一部になるけれど、おしっこすれば、僕の一部ではなくなってしまうからだ。そうだとすれば、生命体というのは水やタンパク質そのものではなくて、それが生物になったり非生物になったりするあり方とプロセスの中に存在することになる。この仕組みを生物学として明らかにしようとする人もいるし、それを「システム」と呼んで法則性を探求する人たちもいる。ヘーゲルが注目したのは、生物と環境との密接な係わり合いと循環だ。生命体という概念に、環境なしには生きられないということが含まれているとすれば、環境も生命体の一部として把握しなければ生命体という概念を把握したことにはならない。そうだとすれば、環境も生命体の概念の一部としてみなさなければならない。生命体と環境をいっしょに捉えれば、すくなくとも生物と関わりあっているかぎりの自然は生命体の一部として考えなければならない。生物の係わり合いを全てたどっていくとすれば、けっきょくは地球をひとつの生命体とみなさざるを得ない。・・・うーむ。これなら人に納得してもらえる説明になっただろうか。(ダメ?)。とにかく、論文中には説明が足りない。なんとか説明しようと呻吟している過去の自分が、かわいそうになる。ほかにも、ヘーゲルが自然から精神への跳躍を「死」を通じて考えたという点も、正しいと思う。ただし、これにも説明が足りない。人間の類と個の関係についても、人間個体が、類概念としての人間性を受け持ちながらそれに「相応しない」ために没落する(死ぬ)というのは、ヘーゲルが言っていることだ。ただ、もうちょっと上手い言い方をしている個所が見つかりそうな気がする。あとは、「愛」について。「愛」というのは、他者の中に自己を見ることだ、とか、一体性に向けて人格性の放棄することだというのは、ヘーゲル解釈としては妥当だし(実際そう言っている)、そんなことを鼻で笑いたい人にとっても、げんにだれかと恋人関係や家族を構成している場合には、いたるところでそんなことをしているのを僕は観察することができる。給料袋を受け取るときや、スーパーで家族分の食べ物を買って金を払うときにも、家族ひとつの人格としてふるまっている。炊飯器の中の米粒の一つ一つまで自分のものか相手のものかを決めることなんてできない。もちろん、へそくりをつくることもできるけどね。ヘーゲルだって、個人をすべて家族の中に溶かし込めると考えているわけじゃない。その証拠に、家族は市民社会へと「解体」する。つまり、人間の生きる場所は家族の中だけじゃないってこと。たとえば、思いやりを込めて話を聞くときにだって、自分の自己は多かれ少なかれ相手の中に入り込んでしまっている。ただ、自分の趣味を相手に押し付ける場合なんかは、相手の中に見ているのは〈自分の趣味〉であって、〈自己〉ではない。愛とは、人間性の直観であって、ほかのあれこれはあくまで余計なものだ。しかし、これを書いたときの僕は、愛というよりは恋に没入してしまっていて、それらを混同してしまっている。われを忘れるような情熱は、愛のモメントではあっても、その全てではない。いいかえれば、愛にはもっといろんなかたちがある。解説で「そんな奇跡みたいなことが起こるのか・・・わかりません」と書いているのも、それが分からないからだ。肩ひじ張って凝り固まってしまっている。こりゃあ相手も疲れるわナ。ひとつ自己弁護しておけば、ロマンティック・ラブの哲学的説明としてはとても的を得ている。現代にも、ほとんど誰もがそれに憧れる。「素顔で泣いて笑う君にエナジイを燃やすだけなのです」と、椎名林檎も歌ってる(^o^)哲学がこれを扱わないとすれば、若者にそっぽ向かれるのも当然だろう。学会の審査コメントで、「これは家族論じゃなくて性愛論だ」と書いてあったのをよく覚えている。そういう人は、性愛を排除した家族論がありうると思ってるんだろうか?4月29日
2004.04.29
吉本ばなな『キッチン』を読んで、恋はどうしてこう悲しくなくてはならないのだろうか、と思った。日本語を勉強するドイツ人の友達へのプレゼントとして買ったのだけれど、どうせ古本だから一度読んでから渡そうと思って、読んでみた。文章も読みにくいし、内容も、肝心なとことはほとんど分からないと言っていい。女心というのは、ほんとに、わからない。どうして恋は、こう悲しくなくてはならないのか、と思った。書いてあるのは悲しいところばかり。最後ははっきりと希望のある終わりかただけれど、楽しい場面といえば、「あのときは楽しかった」の一語でおしまいだ。あとは延々と〈かなしさ〉が心を捕らえて離さない。あと、グズグズしたり、あたふたする描写がリアルだ。出口なく悩んでいるときには、僕もまさにこういうふうにグズグズする。思いもかけない事が起こったときには、僕もこういうふうにあたふたする。けれど、正直言って、読んでいてあまり気持ちのいいものではない。自分を重ね合わせて共感してみても、あまり救いにならない。ゲイや女装の少年がでてくるところで、ひとつ気づいたことがある。なぜ彼女や彼がでてくるのかと問うとすれば、それは、心が優しいからだ。ばななさんは、それが言いたくてゲイと女装の少年を登場させたのだ。僕はまだこういう種類の優しさには触れたことがない。いつか触れてみたい。
2004.04.24
「山路を登りながら、こう考えた。 知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。 住みにくさが嵩じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、画が出来る」。(夏目漱石『草枕』)ほー、すげえな。山路を登りながら韻文でものを考えるやつがいる。このあとだんだん考えが進んでいって、仕舞いにゃ漢文で考えてやがる。「丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛はおのずから心眼に映る」とかなんとか。しっかし、当たってる気がするね。まことに、知に働くと角が立つよ。おれもこないだ、情に棹差して流されちまった。いつも意地を通そうとするから、窮屈で仕方ない。ほんとに人の世は住みにくいねえ。でも、この絵描きのにーちゃん、行き詰まってるよ。世の中を心に映すとか何とか言って、ちっとも自分の目で見てないじゃんか。考え事に夢中になって、石につまずいてやがる。画家が見ることを忘れちゃあお終いだ。やけっぱちになって、画なんて描けなくったって良いんだと開き直ってるように聞こえる。まあ、そこまで開きなおれりゃ上等なもんだ。まるで、本気になって画仙の境地を追い求めているみたいだ。俺もこういうのやってみたいね。むかし絵を描いてたことがあるんだが、このにーちゃんみたいに現実の超越を考えてみたことはなかった。いや、「超越」じゃないんだろうな。「解脱」だ。世の中からポロッと抜け出す。するとそこには、まるで別の世界が広がっていて、その世界には「汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後、全てを忘却してぐっすりと眠り込むような功徳」があるという。まるで眠りに落ちるように、スッと入り込んでしまう。ところが、いつ、どんなふうに入り込んだんだか、覚めているときに考えてもぜんぜん分からない。それじゃ、おやすみなさい。
2004.03.21
男女の役割分担についてちょっとしらべてみた。なんと、まだ「男は仕事,女は家庭」という考え方に「同感する方」と答えた人が25%もいるという。女性についてみれば、5割以上が「同感しない」と答えているものの、21%の人は「同感する方」と答えている。(依然として根強く残る固定的役割分担意識) 「男は仕事,女は家庭」という考え方について,同感する方か否かについては,「同感しない方」と答えた者の割合は,昭和62年(26.9%)と平成12年(48.3%)を比べると増加しているが,7年(48.0%)と12年(48.3%)においては変化があまり見られず,性別による固定的な役割分担意識は,長期的には解消される方向にあるものの,依然として未だ根強く残っている状況にある(第10図)。・・・第10図 「男は仕事,女は家庭」という考え方について http://www8.cao.go.jp/whitepaper/danjyo/plan2000/h13/zu/zu10.html厚生労働省のページよりhttp://www8.cao.go.jp/whitepaper/danjyo/plan2000/h13/1-3.htmlこれが、いわゆる「専業主婦志向」というものだろう。ところが、「我が国でも,出産・育児期にある女性の就労意欲は高い」ので、女性は必ずしも家庭の中に居ることで満足しているわけではない。子どもができていったん家庭に入っても、就職したいと考えている人は多い。http://www8.cao.go.jp/whitepaper/danjyo/plan2000/h13/zu/zu06.htmlまた、子どものそばに居てあげたいと思うのも人情だ。「子どもができたら職業をやめ,大きくなったら再び職業をもつ方がよい」と答えた人37.6%で、「子どもができてもずっと職業を続ける方がよい」と答えた人の割合(33.1%)を上回っている。女性についてみると、20歳代から40歳代にかけて、「ずっと職業を続ける方がよい」と答える人が増えていく。報告書によれば、「これは,育児により仕事をやめた,あるいは育児の壁と奮闘しながら実際に仕事を継続している30歳代から40歳代の女性が,再就職の難しさを反映して就業継続のメリットを実感することによるものと考えられる」。仕事を続けながら育児を継続できるものなら、もっと多くの女性がそうしていることだろう。問題は、フルタイムの仕事がそれを許さないぐらいキツいということと、育児休暇がとれない(とりにくい)、保育施設がととのっていないことにあるのだろう。そうすると、「男は仕事,女は家庭」というのは、それが《望ましい》と考えているのではなくて、それしか《仕方がない》と考えていることを示すに過ぎない。また、「男は仕事,女は家庭」というのは、むしろ男たちがしているような「仕事」への嫌悪感じゃないんだろうか。男どものような「社畜」に成り下がりたくはない。まだ「女は家庭」のほうが《まし》だということだろう。
2004.03.11
ネル・ノディングズ、『ケアリング』第一章第3項、「ケアとは何か?」から「何かあるいは誰かのことを気遣う(ケアする)とき私はどんなあり方をしているだろう、と、考えたり自分を見つめたりすれば、私には、私の関心が私自身の現実から他者の現実へといやおうなく移転している、ということが分かる」(下記のドイツ語訳から和訳してます。以下数字はそのページ数。)他者が現実にいったい何を感じ欲しているのかというのは、私からはほんとに分かりにくいものです。しかしノディングズは、ひとが本当に他人のことをケアする(思い遣る、気遣う)ときには、この困難なことをやってのけているのだと言っています。しかし思い遣りというのは、往々にして「押し付け」になりがちです。これは他者の感じ方や欲求を誤解するからです。そのことに気をつけるために、ノディングズは、他者のリアリティは私にとって「ひとつの可能性」として現れるという言い方をします。そしてケアとは、「他者のリアリティを私にとっての可能性として把握すること」です。たとえば、算数好きの先生が算数嫌いの生徒にたいして、それを好きになるように仕向けるとします。先生は、“どうしたらこの子が算数を好きになってくれるのかしら?”と考えます。でもこの先生は、生徒がどうして算数が嫌いになったのかを理解しようとしません。その代わりに、“算数はほんとは面白いものなのに”という自分にとっての現実を、生徒へと「投影(projizieren)」して、「いったん算数を好きになりさえすれば、何もかもうまくいく」と説得します。これではまるで、自分には算数を嫌いになる可能性なんか全然なかったかのようです。反対に、生徒のことをケアするというのは、その子の話を聞いてあげて、なぜ数学が嫌いになったのかを思いやることなのでしょう。そのときには、その子のような体験をし、その子のように感じれば自分も算数が嫌いになったかもしれないと思うかもしれません。生徒の体験や感じ方という「他者のリアリティ」は、「私にとっての可能性」として把握されています。(153)ところで、ノディングスは暗にカントの「格率」の考え方を退けます。私たちの行為は、規則に──少なくとも完全には──依存しているのではない。何が公正で何が安直なのか先にきめておくことに依存しているのではなく、状況のめぐり合わせに依存する」(S. 150)。そのかわりに、「倫理的現実(ethische Realitaet)」ないし「倫理性(Ethizitaet)」という概念を持ち出します。自己の「倫理的現実」は、他者の可能性に触れるときにさらけ出されるとされます(151)。他者が痛みを身に受け、なにかを必要としているかもしれないという「可能性」を感知したときには、その痛みを除いたり必要を満たすために行為しなければならない。そうした義務を自分に課すかどうか、実際に行為してあげられるかどうかは、自分にとってその他者との関係が実際にどんな関係であるかにかかっている。ノディングズはそのことを言いたいのだろうと思います。「倫理」という言葉は、具体的関係性を重視するという意味ではヘーゲル的に解釈されているとも言えます(ヘーゲル『法哲学』「倫理」の章を参照)。「ケアリングに関する彼女の解釈が悪の目的を追求することの爆発(Houston,1990)や共犯(Card,1990)を犯すかもしれないという懸念を生じさせた」*のは、そのためだろうと思います。これは、「ヘーゲルには個体倫理がない」というシュヴァイツァーの批判にも似たものに思えます(シュヴァイツァー、『生命への畏敬』)。*http://friedrich.human.is.tohoku.ac.jp/~yanai/2002.No.6.html 「倫理的現実」は、自己の本質のようなものではなく、他者と或る現実的な関係の中にあることを自分が見出すことだとされます。これも極めてヘーゲル的な考え方です。しかしノディングズはここにカントの「実践理性」の考え方を接合します。ケアは、「あたかも自分自身の倫理性が保たれているかのように、自分自身の倫理性への関心から行為するということにかかっている」。自分自身が道徳的に良い人間なのか悪い人間なのかは他者との関わりの中でしか分からないし、人との関わりの以前にそもそも自己の本質の善悪なんてものはないのです。けれどひとは「あたかも」自分にはそうした〈善さ〉が備わっているかのように考えて、自分の〈善さ〉への関心から行為します。思いやりが「耐え抜かれる」ことができるかは、そのことにかかっているとノディングズは言います。ケアと思いやりには、忍耐が必要なんですね。感想をお寄せください:s_booker_o@hotmail.comNoddings, Nel, Caring. A Feminine Approach to Ethics and Moral Education, Berkeley 1984.(ネル・ノディングス、『ケアリング:倫理と道徳の教育──女性の観点から』、立川義康ほか訳、晃洋書房、1997年)-, "Warum sollten wir uns um unser Sorgen sorgen?", in: Jenseits der Geschlechtermoral. Beitrage zur feministischen Ethik, hg. von Herta Nagl-Docekal und Herlinde Pauer-Studer, Frankfurt am Main 1993, S. 135-172.(同書の部分訳です)
2004.01.29
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