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AURA/「AURA」(1979)Produce:Gary Shimabukuro<曲目>1.I'll Remember You2.Let Go,It's Over3.Magic Lover4.Yesterday's Love5.No Beginning,No End6.Short And Sweet7.Winds Of Love8.Let Me Say Dis About Dat9.Can't Waste No Time10.The Feeling's Right11.Stop最近、音楽関係のブログを書いていなかったので、久し振りに書いてみたいと思いました。ここで取り上げたのは、ハワイの「AURA(オーラ)」というメンドーサ一家のハウスバンド?と言っても過言では無いバンドのアルバム。これが発表されたのは1979年、当時大学生だった自分は全く知りませんでしたが、AOR系アーティストのリイシューに関心のある管理人としては、AURAの存在は知っていましたので再発されたと知って直ちにDユニオンで購入しました。Dユニオン以外で扱っている店舗は稀の様なので、Dユニオンに行ける方は早いうちに購入しないと、店頭から姿を消す日が直ぐに訪れそうです。ハワイアンの大所帯のグループといえば1978年のレムリアがよく知られていますが、こちらも11人の大所帯。しかも、うち8人はメンドーサ一家の子供たちなんです。この作品は、病に臥した父の生きている間にと、メンドーサ・ファミリーの活動の集大成をレコードに刻んでおきたいという家族の結束心から作られたものらしいのです。サウンド的にはEW&Fの影響を感じさせるものがあったり、この辺は「Lemuria」にも見られる傾向。インスト曲に交じって女性ヴォーカルがフィーチャーされていたり、7では男性ヴォーカルのファルセットが魅力なメロウ系サウンドありと、まさにヴァラエティに富んだ選曲になっています。Lemuria,Seawind,Kalapanaが紡ぎ出すサウンドにも似ていて、でも、大所帯バンドらしい個性が感じられます。ジャンル的には「ハワイアンAOR」に分類されて販売されています。、1982年に発表されたTender LeafはAURAのサウンドに近いものを感じるが、米国本土での流行をハワイ流に取りこんで消化(昇華?)させた、そんな感じのするアルバムです。最後に、家族愛に支えられて制作されたアルバムとして聴いてください。ブログランキング参加中です。ぜひ、1票を投じて下さい。(又は、見出しをクリックして下さい)
2010.08.01
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打線が終盤に爆発も連勝ならず!チ ー ム 123456789計埼玉西武0000105017北海道日本ハム02014110X9【投手-捕手】(西)涌井、谷中、小野寺、藤田-細川、上本(ハ)武田勝、ウルフ、宮西、建山、武田久-大野、鶴岡【責任投手】勝:武田勝8勝6敗負:涌井11勝6敗【本塁打】大野1号(ハ)、中田3号(ハ)、小谷野9、10号(ハ)【戦評】連敗を6でストップした勢い?で帯広遠征2連戦に臨んでいるライオンズ、今日はネット観戦の予定は無かったのですが、前日の飲み過ぎの影響で外出を控える羽目になりネット観戦となりました。先発は連勝を願ってエース涌井と西武戦を苦手にしている左腕武田勝でした。立ち上がりに不安がある涌井、2回、2安打と大野の1号ソロ本塁打で2点を失う。特に大野への投球は高目に浮いてしまった球で、この時期に1号を浴びるとは予想外だった。立ち直る気配もなく、4回には小谷野に3ランを浴び4失点、5回にも1失点、6回には中田にまでソロ本塁打を打たれ6回途中で奪三振0、8失点KOとなった。エースの想像外の乱調に前半は得意のはずの武田勝から決定打を奪えなかったが、7回に2番手ウルフと宮西を攻め5安打2四球犠牲飛球などで5点を奪い6-8と2点差に迫った。しか~~し、直後の7回裏に登板した小野寺が初球を親友小谷野にソロ本塁打をいきなり打たれ、反撃ムードはしぼみ帯広まで駆け付けたファンを「白け」させた。この男は、一体ブルペンで何をしているのか?ここは勝負を懸けるなら長田を投入してもらいたかった。最終回、武田久から栗山のタイムリーで2点差に迫り中島の打席に奇跡を託したが併殺打に倒れファンを失望させ試合は終わった。それにしてもこの球場、立地条件なのか外野への打球が失速せずに伸びる。涌井はフライを打たれそれが長打を呼び、武田勝は低目を丁寧に突いてゴロを打たせたことで長打を防いだ。涌井の奪三振0と言うのは記憶に無いが、それだけ球にキレを欠いていたということだ。打線の7回の反撃は見事だったが、願わくば1順目から先発を援護してもらいたかった。今回は2連戦なので明日は必ず勝たんとね。<ナベQ監督のインタビュー>最後まで何とか追いつこうとする気持ちで粘りは見せたんだけどね。今日の涌井は最初から乗り切っていなかった。色々な球種を持っているんだけど、ピッチングの幅を活かせなかった。同じタイミングのボールを打たれていた。6回まで投げさせたのは、70球ぐらいだったので、球数を投げさせて次の登板に備えるため。7回裏の(小野寺の)失投はいただけない。2点差まで追い上げての1点は痛かった。バッテリーの姿勢が出たね。あの場面は、全球勝負の気持ちでいかなくてはいけないところを、自信の無いスライダーを置きにいった。 ブログランキング参加中です。ぜひ、1票を投じて下さい。(又は、見出しをクリックして下さい)
2010.07.31
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桑田が引退を発表!さらば桑田真澄-。メジャー再昇格を目指しピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んでキャンプに参加していた桑田真澄投手が、TBS系の「筑紫哲也NEWS23」内で電撃引退を発表した。巨人を2006年オフに退団後、2007年にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結び、オープン戦中に球審と衝突して開幕はマイナーで迎えたが、その後一度はメジャーに昇格。8月には戦力外通告を受けたが、今季もメジャー再昇格を目指し、パイレーツとマイナー契約を交わしていた。桑田は「(引退には)いろんな理由があるが、そういう流れ。野球の神様が“お疲れ”といっている」と淡々とした表情で話した。昨年、桑田はパイレーツの春季キャンプに招待選手として参加。一時は開幕メジャー入りの可能性大だった。ブルージェイズとのオープン戦(2007年3月26日)で球審と激突。右足首のじん帯断裂というアクシデントに見舞われながら、一時はメジャーに昇格した。結局、19試合に登板し0勝1敗、防御率9・43と奮わず戦力外通告を受けた。当時、桑田は「メジャーリーガーになれた喜びでいっぱい」と話し、現役引退を示唆していたが、今年になりパイレーツと再びマイナー契約を結び悲願である「メジャー1勝」を目指してきた。今キャンプ、オープン戦は好調で、3月16日のレッドソックス戦では真紀夫人ら家族の前に米国“初勝利”を挙げたが、若手を優先するチーム事情から戦力外通告を受けた。桑田は「メジャーに残れなかったら引退しようかなと思っていた」と、番組内で引退に踏み切った理由を説明した。桑田はTBS系の朝の情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」にもアメリカから生出演していた。朝の忙しい時間帯だったが、私が見ていた時は何だか清々しい表情にも見えた。そこで桑田は報道されているように、球団GMからメジャー昇格の見込みが無くなったことを告げられたと語っていた。この時期までマイナー降格を告げられず残っていたのは立派だが、メジャーには実力の壁と「契約の壁」が存在する。主力選手にはメジャー契約でメジャーでのプレイが保証されており、桑田のようにマイナー契約でキャンプに招待選手として参加した選手が開幕メジャーを勝ち取れるのは1~2人程度と厳しいのが現実だ。桑田は39歳という年齢と、選手層の薄いチーム事情から若手選手を育成する必要もある。それでも昨年はトレーシー監督(元大洋)やコルボーン投手コーチ(元オリックス投手コーチ)といった、日本球界に縁の有る首脳が現場にいたことで救われていたが、今季はその二人は成績不振で退団して後ろ盾もなくなっていた。「筑紫哲也NEWS23」でのコメントは以下の通り--引退を決意した理由は 「メジャーへ残れなかったということで、ここで引退しようかなと」--マイナーでのプレーは考えないのか 「マイナーっていうのは若い選手がメジャーを目指して、夢を追って戦う場所」--今の心境は 「メジャーで投げるチャンスはないといわれた。(ハンティントン)GMから。若い選手にチャンスを与えたいと。野球の神様からのお告げ」--悔いはないか 「長くやればいいっていうもんじゃない。気持ちが燃え尽きた。何一つ悔いはないという気持ちになれた」--40歳までプレーしたかった 「目標をクリアできたら偉いってもんじゃないし、できないからダメではない。200勝も40歳までやるというのも、クリアできないものも何個もある」--奥さんにはどう伝えた 「自分でも納得したんでボールを置くよと。『それでいいの?』とはいわれた」--メジャーでの思い出は 「やっぱりヤンキースタジアムでデビュー戦を飾れたこと。あとは18番をもらえたということはうれしかった」--もう投げない 「もう十分やらせてもらった。これからは野球界の後輩を1人でも多く育てられたらいい」◆PL学園時代の監督、中村順司氏(現名商大監督)「現役を辞めるとの連絡はありませんでしたが、彼には高校1年の時から3年間にわたり、いい思い出をたくさん作ってもらった。これからも野球界のために、力になってほしい」人気blogランキングへ←映画の話題がザクザク
2008.03.27
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