メートル・ド・テル徒然草

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エルネスト1969

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Aug 7, 2005
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 現代におけるフランス料理の小難しく感じられる「マナー」と呼ばれる行為で、貴族社会が不穏な空気を持っていた時代の慣習からその由来を探ることが出来るものが実は多くあります。

 ナイフ・フォークが床に落ちたら自らが拾ってはいけません。テーブルクロスの下でよからぬことが企てられるかも知れないからです。乾杯でグラスとグラスを合わせるのは、ちゃぷんと中のワインがお互いに混ざりあって、毒が含まれていないことを確認するためです。同様のことが現代に残るワインのホストテイスティングに表れます。食器什器の類いに銀が多く使用されているのは豪華さだけを競うのが目的ではありませんでした。当時銀は毒物に反応して変色すると言われていたからです。

 では優雅に見える「フランス料理」の歴史において、実際に毒殺などの厄介な事はたびたびあったのでしょうか?
 ルネッサンスと後世になって呼ばれる時代のことです。ルネッサンスとは再び生まれるの意、いろいろな解釈もあるのですが、暗黒の時代といわれる中世が終りを告げ、古代ギリシア・ローマの文化的な姿にヨーロッパが帰ろうとした時代の事といわれています。

 いつの時代も変化が起きる時には多くの儀性が付いてまわります。西暦1500年を前後とするルネッサンス期、文化の興隆とともに、芸術的とも称される「暗殺術」が発達しました。食物の中に毒薬を含ませ、徐々に死に追いやるのです。

 毒薬は政治的に微妙な問題の解決策として用いられました。解剖や検死などの医術がさほど発達している時代の話ではありませんので、密かに、また長期に渡って毒を盛っていくという手法が主です。代表的な薬が「ヒ素」であり、他にヘムロック(毒ニンジン)ヘレボルス(クリスマスローズ)などがありました。

 最も策謀が盛んだったと記述されているのが、イタリア、ヴェネチア共和国です。後世までその名を残すヴェネチアのボルジア家はローマ法王に一族のアレッサンドロ6世を輩出します。その息子チェザーレ・ボルジアとともにそれ以前の中世の時代に権威を失った各地の教皇領を回復していきます。

 ボルジア家の策は巧妙でした。各地の諸侯や富豪を教皇の権力をもって司教や枢機卿に任命します。そして、アレッサンドロ6世は度々自宅で祝宴に招いた上、饗宴の食事に密かに毒を盛っていったのです。
 司教や枢機卿が亡くなるとその土地、財産は教会に帰属して教皇のものとなる、という規約が存在していたからです。こうしてボルジア家はローマ・カトリック教皇領を復活させていきました。


 この時フォークを含むイタリアの洗練されたテーブルマナー、また、フランスでは生まれていなかったシャーベットを製造する技術などがフランスへもたらされたことは有名です。また、現代に続くフランス料理の系譜の始まりとも言われていますが、ともに食卓へもたらされたのは洗練されたテーブルマナーだけでなく、毒による暗殺術もあったことは想像に難くありません。

カトリーヌ・ド・メディシス。実は現代において非常に身近なものにメディチ家の名は残っています。
それが「メディスン(薬)」です。







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Last updated  Aug 8, 2005 02:31:40 AM
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背番号のないエースG @ チョコレート 「風の子サッちゃん」 ~ Tiny Poem ~…
坂東太郎G @ 「辛味調味料」そして考察(01/16) 「石垣の塩」に、上記の内容について記載…
エルネスト1969@ Re[1]:ホスピタリティは「人」ありき(10/04) はな。さんへ コメントありがとうございま…

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