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「楽しさ」を意識し… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2007.09.07
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カテゴリ: カテゴリ未分類
生命の定義の一つに“恒常性”ということが上げられます。

風邪を引いて一時的に熱が上がっても、しばらくするとまた元の状態に戻るのも恒常性の働きです。
怪我をしてもしばらくすると自然と治ってしまうのも恒常性の働きです。
この恒常性の働きは、からだだけでなく心にもあります。
だから、生命は“個”を維持できるわけです。

そして、地球にもこの恒常性の働きがあります。
だから地球の気温はある一定の範囲内で収まっているのです。
空気の成分も色々ありながらもズーッと変化していません。

だから、地球も生命体だと主張する人もいるわけです。それを“ガイア”と呼びます。

そして、その恒常性が壊れた状態を「死」と呼びます。
“ご臨終です”という言葉の意味は、その恒常性がもう働かなくなりましたということです。
“死”の前後で、物質レベルでの変化はほとんどありません。
細胞レベルでは生きています。でも、その細胞達がつながり合って生命を支える働きが止まってしまったということです。でも、このつながりを顕微鏡で見ることは出来ません。
でも、恒常性が消えてしまえば人のからだは崩れて自然に還っていくばかりです。

そして、この恒常性を支えているのが“循環”という働きです。
循環によって系が閉ざされることなく、他の系とつながりながらバランスを取り合っているのです。
その循環の働きによって、手と足はつながっています。心とからだもつながっています。

また、人間も生と死を繰り返しながら自然の循環の一部としてつながっています。
それは細胞レベルでも日々起きています。

ほぼ一年で人間のからだの全ての細胞は入れ替わってしまうのです。
http://www.kms.ac.jp/~hsc/izumi/diet/necessity/speed.htm

呼吸している空気などはもっと短い時間で人のからだの中と外を循環しています。

つまり、人間は自然から独立した存在ではなく全く自然の一部であり、人間のからだの恒常性は地球の恒常性の一部であり、人間のからだを支えている循環は地球の循環の一部であるということです。

でも、人間はその恒常性を壊そうとしています。
なぜなら、その恒常性を守っていたら理想の未来を目指せないからです。

これが文明の目指している方向です。

その世界では恒常性すら人間が科学で管理するつもりなのでしょう。
熱が上がったら熱冷ましを飲み、体力が落ちたら体力増強剤を飲みというようにです。
鉄分やミネラルが足らなければ、サプリを飲みます。
それはつまり、機械をメンテナンスする発想と同じです。
(でも、地球の恒常性はそう簡単に管理できないようですけど・・・)
そのような対応は、人のからだに備わった恒常性を次第に壊していきます。

恒常性はある範囲内での安全を保障してくれますが、それは見方によっては人間の活動に対する束縛でもあります。なぜなら、“このルールを守るなら守ってあげるよ”というのが恒常性の働きだからです。

夜はちゃんと寝なさい。
栄養のある物を取りなさい。
運動はきちんとしなさい。
楽しいことをいっぱいしなさい。
などなどです。
こういうことを守っていれば恒常性は私達の心とからだを守ってくれるのです。

でも、人間はそのルールが気に入らないのです。
自分たちで、人間の都合に合わせてルールを決めたいのです。

ですから恒常性は必要ありません。薬や医学で対症療法的に処理できるからです。
循環という発想も必要ありません。
もっといえば“生命”という発想すら必要ありません。
全てバイオテクノロジーで操作するからです。
そして、実際世の中はその方向に進んでいます。

だから、あきらかに現代人は恒常性を維持する能力が低下しています。
そしてますます薬やサプリに依存しています。
ちなみに、免疫力もその恒常性を支える働きの一つです。

この流れの先に予想される世界にも、様々な動物や植物や生き物は必要なのでしょうが、それらは全て人間の管理下におかれるようになるでしょう。宇宙船の中のようにです。

実際、これらは今現在進行形で進んでいる出来事です。
遠い未来の話しではないのです。

本来“動物を守ろう”という運動は、その動物が住んでいる環境を守ろうということのはずなのですが実際には、人間の管理と保護下に置かれるだけです。
下手をすると、遺伝子レベルでの保護で充分と考えている人もいるかもしれません。

生態系全てを守らなければその動物を守ることにはなりません。
そして、そういうことを分かって活動している人もいっぱいいます。
でも、その活動は“人間の都合・便利”とは対立するようです。ですから、活動が大きく広がることはありません。

恒常性を維持し、自然との循環の中で生きるということは、自然に束縛されると言うことでもあります。その束縛から自由になるのが文明の目指すところなのでしょうが、私にはそれは集団自殺行為に思えるのですがどうなのでしょうか。

頭の細胞が“ぼくは一人で生きる”とからだを抜け出しても、結局何にも出来ない状態で“シャーレ”の中で生きることしかできないのです。

でも、もうすぐそれが正しい選択であったのか、間違った選択なのかという判断を迫られる事態に迫られるでしょう。まだ結論は出ていません。(と信じます)

その時に、正しい判断をすることが出来るように一見悲観論と思える話しを書いているのです。
真理を知り、深く考えることで正しい選択ができるのです。
楽観論は正しい道を進もうとしている人たちの不安を取り除くことが出来るかも知れませんが、違う道を進む大多数の人を説得する力はありません。
楽観論は身内に向けて語る言葉に過ぎないのです。
でも、その大多数の人を動かす言葉を持たなければ流れを変えることは絶対に出来ません。

とは言っても、私がいくら叫んでもわずかな人にしか届きませんけどね。


子育てや教育における多様性の問題は来週書きます。

明日と明後日は、親子遊びの会でキャンプに行くので更新できないと思います。
でも、天気が大丈夫そうでよかったです。





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Last updated  2007.09.07 15:21:40
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