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「楽しさ」を意識し… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2007.09.17
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カテゴリ: カテゴリ未分類
昨日は、欧米では“表現”が個人に属し、日本では社会に属するのではないかと言うことを書きました。

表現が社会に属する民族の場合は、他の民族との違いははっきりとさせますが、その社会の中における個人の違いを強調することはないでしょう。それは、民族のアイデンティーを壊し、民族のつながりを崩壊に導く恐れがあるからです。

それ故に、表現が社会に属している社会では、芸術というジャンルは生まれません。個よりも社会の方が大切だからです。ですから、日本にも芸術はありましたがそれは社会に属するものであったため、文明開化と共に簡単に捨てられてしまうものでした。社会の状態と芸術を分離できないのです。

その結果、今の日本には、個人に属する表現もなく、社会に属する表現もありません。
だから人と人がつながることができないのです。
そのため、人々は個人として生きることもできず、共同体の一員として生きることもできない状態になってしまっています。

それで政府は日本の文化(社会に属する表現)を学校で教えようとしているのでしょうが、文化は生活に属するものなので学校では教えることが出来ません。教えたとしても、それはただの知識であって文化ではありません。

剣道を必修にしても、それは日本文化ではありません。


本来の剣術はヨーロッパの芸術と似ていて非常に個人的なものだったのです。
教える先生が違えばやり方も違っていたのです。
だって、剣術で戦うのは個人対個人ですから。

ちなみにルールによってつながっているスポーツは社会に属する表現の一つです。ヨーロッパにおいては個に属する芸術と、社会に属するスポーツは車の両輪なんです。

でも、子どもは先ず遊びから入ります。それは遊びの中にはこの両方がちょうど良く含まれているからです。
芸術家がやるような芸術は子どもには早すぎるのです。
また同時に、スポーツ家がやるようなスポーツも早すぎます。

そこで、昨日グーテンタークさんがシュタイナー学校の様子に書いて下さったような状態になるのです。

子どもには芸術教育は必要ありません。スポーツ教育も必要ありません。
絵を描いたり、粘土で作ったり、木を削ったり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりしてみんなと遊べばいいのです。
つまり、心とからだ丸ごとを使って芸術的に遊ぶのです。



思春期が近付いてきた時、この中から芸術とかスポーツが分離していけばいいのです。

(ちなみに、今の日本の子どもの遊びは全く芸術的ではありません。餌が欲しくてボタンを押し続けるモルモットと同じ反射に過ぎません。)

そして、ホントに多くの人が勘違いしているのですが、実はこの“芸術的である”ということの方が、“芸術”そのものよりもずーっと大切なのです。

そのことを理解していない人が多いので、日本では芸術的ではない芸術作品が氾濫してしまっているのです。

芸術的に話す、芸術的に料理を作る、芸術的に歩く、芸術的に対話をする、芸術的に生きる・・・。


美術館に飾る芸術はそのような生活の中から生まれた結晶なんです。





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Last updated  2007.09.17 20:59:01
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