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「楽しさ」を意識し… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2007.12.28
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カテゴリ: カテゴリ未分類
今日はちょっと面倒くさい話しです。
読むと眠くなるかも知れません。

“本当の自分”というテーマで少し書いてみましたが、これは古来からズーッと考え続けられてきたテーマですよね。

ということは、答えも一つではないのでしょう。
答えが一つに決まってしまっているのなら、もうこれ以上考える必要はないのですからね。

実際、西洋と東洋とでも“自分”というものに対する考え方は違うように感じます。
また、昔の人と今の人とでも違うでしょう。
さらにはその人がどのような立場の人なのかでもその答えは違うでしょう。
宗教家が考える“自分”と、科学者や哲学者が考える“自分”とも違うでしょう。


“この世界の全てのことを疑うことは可能だ、でも、その疑っている自分のことだけは疑うことが出来ない”というようなことなのでしょうか。

つまり、自分で自分を否定することだけは不可能だと言うことです。否定しても、否定する自分が残ってしまうからです。

このように確かに“自分”というものは存在しているようです。
でも、じゃあその自分とは一体どのような存在なのかというとそう話しは簡単ではありません。
なぜなら、自分を自分と認識しているのは“意識”という働きなのですが、その意識は常に部分しか認識することができないからです。

また、意識が消えてしまっている状態では自分というものを認識することが出来ません。では、そんな時には“自分”は消えてしまっているのでしょうか。意識が消えてしまっている時には、“我思う”ということすら出来ないのですから。

また、意識で捉えた“自分”は“本当の自分”でしょうか。
意識は常に部分しか捉えることができません。例えば夜中に懐中電灯一つで象を見るようなものですい。足を見ることは出来る、鼻を見ることも出来る、耳を見ることも出来るのですが、決して象の全体をいっぺんに見ることが出来ないのです。ですから私達はその部分をイメージの中で統合して全体を推測するだけなのです。
その働きを“観”と言います。

でも、そうやって全体のイメージを得たとしてもその全体が動いて働いているところをイメージすることはできません。全体が動いて働いているところをそのまま観察することはできないからです。

また、“わたし”という意識は、より大きな“自分”の一部に過ぎません。

目は決して自分の顔も目も見ることが出来ないのです。

目が見ることが出来るのは手足や体だけです。
もしかしたら、意識が“自分”というものを見ようとしても、そこで見ることが出来るのは“自分の手足”だけなのかも知れません。

また、その自分には心だけではなく、“からだ”も含まれます。
心とからだが統一された状態の時に統一された状態の“自分”が生まれるのです。


そして、からだは自然とそして宇宙とつながっています。
すると、“自分はどこまでが自分なのだろうか”という問題も出てくるわけです。

さらに、もう一つやっかいな問題があります。
観察したデータが事実であるかどうか不明だと言うことです。
量子力学という科学ではこの世界の実相は決してそのままの状態で観測することができないという事実を教えてくれます。この世界の実相は観測の仕方によって変化してしまうということです。
それは、どのような目的で観測しようとしているのかということで観測結果が違ってしまうということです。

ですから、もし心というものがそのようなものなら、どのような意識で心をのぞき込もうとしているのかという違いがそのまま観測データの違いに現れてしまうということです。

ですから、異なった文化の人が心の中をのぞき込めば異なった心の様相が見えてきます。
だから話しがややこしくなるのです。

確かに自分を形成している一部としての肉体は客観的に観測可能です。でも、その肉体は心の状態が変化すると、それと連動して変化してしまいます。
ですから、自分というものも常に変動しているのです。

でも、そんなにも多様な“自分”ですが、はっきりとしていることもあります。
それは、“自分”という意識だけが“自分の全て”ではないということ。
自分で分かる自分と自分では分からない自分があるということ。
意識でコントロールできる自分と意識ではコントロールできない自分があるということ。
成長や学びで変化する自分と変化しない自分があるということ。
意識の持ち方を変えるだけで変化する自分と変化しない自分があるということ。
“わたし”という個に属する自分と、社会に属する自分と、人間という種に属する自分と、また生物という存在に属する自分と、物質に属する自分があるということ。

“自分”というのは、人間にとって永遠に分かり切ることのない未知の世界なのでしょうね。

今日はなんだか面倒くさい話しになって申し訳ありません。





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Last updated  2007.12.28 18:24:14
コメント(10) | コメントを書く


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永遠に解らない世界  
科学寅  さん
永遠に解らないと解っちゃったんですよね。

きっと、死んであの世にいけば、宇宙の根本と一体になって、「解る」んでしょうか。

でも、解らないから動きがある?
解らないから、好奇心が湧き、楽しさもある? (2007.12.28 18:39:58)

Re:永遠に解らない世界(12/28)  
森の声 さん
科学寅さん
>永遠に解らないと解っちゃったんですよね。

>きっと、死んであの世にいけば、宇宙の根本と一体になって、「解る」んでしょうか。

>でも、解らないから動きがある?
>解らないから、好奇心が湧き、楽しさもある?
-----
決して“部分”は“全体”のことを丸ごと知ることは出来ません。

その“全体”の働きを支えているのが神様なんでしょうね。
(2007.12.28 18:46:54)

自分ということ  
何度か考えて、はまってしまったりしました
(特に思春期?笑)
でもやっぱりわからないのもですね。

未だにわからないけど、わからないから、
わくわくしてるような気がします。

自分も人も、わからない・・・わからないから
確認したくて、知りたくて・・・それが生きてるってことなのかなあ?
な~んて、日記を読んで
わたしもまじめに考えてみました。 (2007.12.28 23:53:01)

Re:自分ということ(12/28)  
森の声  さん
ちょろぴ1998さん
>何度か考えて、はまってしまったりしました
>(特に思春期?笑)
>でもやっぱりわからないのもですね。

>未だにわからないけど、わからないから、
>わくわくしてるような気がします。

そうなんです。分からないから楽しめばいいのです。
(2007.12.29 07:39:23)

Re:「自分という不思議」(12/28)  
ぐりぐり さん
本当に不思議です。
掴むことができないはがゆいものだと感じます。
小学生時代、「私って何?」って思って
私がみているこの世界はもしかしたら、私の夢で
本当は私はひとりなのかもしれない。。。って思い何故かもがき悩んだことがあります。
でも、それを調べるすべもなく子供ですから
分からないので忘れることにしましたが・・・

そんなのだから、成人した頃は周りの情報の
「自分」が自分と思いこんでいたみたいです。

でも、ある日「周りからみた自分は、その人の色めがねでみた自分であって、本当の自分じゃないな」って気がつき少し自由になりました。

自分を見つけるために、色んなことをして
掴もうともしてみました。
それは「経験」という大切なものとして
自分の一部になりましたが。

自分って粘土をこねてるみたいなもので
「今」という、その度に好きなように変えているみたいです。
「私は何者か?」ということより

「わたしは、なにになりたいか?
 わたしは、どうしたいか?」と創造してゆくのが
今、進む方向みたいです。
素のわたし=自分の意のままに
が色んな経験をして更にあたらしくなってゆく。
もとの塊はあるのだろうだけど、そこに色んなものを吸収していって常に違う「自分」になってゆくのが
「自分」なのかな?って今のわたしは感じてます。 (2007.12.29 09:05:51)

Re[1]:自分ということ(12/28)  
お菓子 さん
 わからないから、楽しむんですね。分らようになることを目指して、無理なことしようとしてました。
 逆に、「わかってる」「もうわかった」と思うことは怖いことなんですね。

(2007.12.29 09:09:59)

Re[1]:「自分という不思議」(12/28)  
森の声  さん
ぐりぐりさん
>でも、ある日「周りからみた自分は、その人の色めがねでみた自分であって、本当の自分じゃないな」って気がつき少し自由になりました。

これは自分でも同じですよ。
みんな色眼鏡で自分を見ているのです。
だって本質的に見えるはずのないものを見ようとしているのですから、どこかで思い込みで処理しないことには見えるはずがないのです。

そして、その思い込みが自分を縛ってしまいます。
“わたしは○○だから”ってね。 (2007.12.29 09:12:46)

Re[2]:「自分という不思議」(12/28)  
ぐりぐり さん
森の声さん

>これは自分でも同じですよ。
>みんな色眼鏡で自分を見ているのです。
>だって本質的に見えるはずのないものを見ようとしているのですから、どこかで思い込みで処理しないことには見えるはずがないのです。
>そして、その思い込みが自分を縛ってしまいます。
>“わたしは○○だから”ってね。

本当にそうですよね。
ときに思いは自分を縛ってしまいますよね。
自分が自由と感じないのはそれが原因のひとつなのだと思ってます。
いや?ほとんどといっていいのかな?
思い込みも縛る方向でなく
解ける方に向けて違うものに変化できれば
きっともっと楽しくなるのでしょうね。


(2007.12.29 15:08:30)

Re[3]:「自分という不思議」(12/28)  
森の声  さん
ぐりぐりさん
>本当にそうですよね。
>ときに思いは自分を縛ってしまいますよね。
>自分が自由と感じないのはそれが原因のひとつなのだと思ってます。
>いや?ほとんどといっていいのかな?
>思い込みも縛る方向でなく
>解ける方に向けて違うものに変化できれば
>きっともっと楽しくなるのでしょうね。
-----
“縛る”という現象も味方によっては正反対の意味を持つことが出来ますよね。

同じ現象でも、“○○に縛られている”と感じている人もいれば、“○○に支えられている”というようにです。

重力も、重力に縛られていると思っている人もいれば、重力に支えられていると思っている人もいます。

そして、支えられていると思っている人は自由に動けます。
これは武術でも同じです。(ぐりぐりさんにはご興味がないかも知れませんが・・・) (2007.12.30 06:48:04)

Re[2]:自分ということ(12/28)  
森の声  さん
お菓子さん
> わからないから、楽しむんですね。分らようになることを目指して、無理なことしようとしてました。
> 逆に、「わかってる」「もうわかった」と思うことは怖いことなんですね。
-----
分からないから楽しんでいると、知らないうちにどんどんと先に進むことが出来ます。
でも、分からないことに不安を感じて簡単に結論を出してしまうと、そこで止まってしまいます。
(2007.12.30 06:50:00)

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