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「楽しさ」を意識し… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2008.02.07
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カテゴリ: カテゴリ未分類
今日は「コミュニケーション」と「表現」の関係について考えてみます。


そして、人間だけがそのコミュニケーションで伝わった情報を溜めることが出来るようになりました。他の動物たちでは一過的に通り過ぎてしまうだけの情報を記憶して溜めてそれを使うことが出来るようになったのです。そこで知恵が生まれ、思考が生まれ、文明が生まれ、学問が生まれました。

そのため込んだ情報を“知識”というのですが、知識はコミュニケーションの結果に生まれるものです。そもそも我々は言葉すらコミュニケーションによって学んでいるのです。ですから、他の人とのコミュニケーションがない状態で育てられた子どもは言葉を話すこともできなければ、もちろん知識も得ることは出来ません。

つまり、他の人とのコミュニケーションを絶たれた状態で育てられてしまえば、たとえ遺伝子的には人間であっても、人間らしく育つことは不可能だということです。それだけ人間にとってコミュニケーションは本質的な働きなわけです。

だから、いくら知識をいっぱいため込んでいてもコミュニケーション能力が身に付いていない子どもは人間として生きていくことが困難になってしまいます。コミュニケーション能力が充分でないと、他の人とつながることも、他の人から学ぶことも困難になってしまうからです。
そのため、学校の成績は良くても、社会に出て一人で生きていかなければならない状況において突然身動きが取れなくなってしまうのです。目も耳も塞がれた状態でジャングルに出ていくのと同じ状態なのです。

今、そのように目も耳も塞がれた状態でジャングルを歩かされている子どもたちがいっぱいいます。そういう子どもは一度つまずくとそこにうずくまってしまって、二度と動こうとはしなくなります。自分の周りの状況が理解できないので、怖くて動けないのです。

このようにコミュニケーションというものは非常に重要なものです。


表現の起源を探っていくとそれは求愛の表現にたどり着くのではないかと思います。(私は生物の専門家ではないので素人の知識としてはということです。)
鳥などは求愛の時に様々な表現をします。他にも求愛の時に独自の表現をする生き物はいっぱいいます。人間もその仲間です。

また、怒って相手を威嚇する時にも様々な表現を使います。自分を大きく見せようと膨らんだり、口を大きく開けたり、大きな声を出したりします。
でも、そのような生き物でも日常的にそのような表現を使っているわけではありません。必ずしも生活には必要がないからです。

じゃあ、人間を含めて生き物たちはどのような状況の時に“表現”という方法を使っているのかというと“個”と“個”が出会った時なんです。

オスの求愛の時の表現は自分こそが相手にふさわしい個であるということをアピールするための方法です。そして、メスはその表現を見てより優秀で自分に合った遺伝子を持った個体を選びます。

戦いの時の表現も個と個がどちらが強いのかをお互いにアピールするための儀式です。
実際に戦ってしまえばそんな儀式は必要ないのでしょうが、でも、そんなことをしていたら生命がいくつあっても足りません。実際に戦ったら、どちらが勝つにしろお互いに傷つきます。そうしたら、側で傷つくことを待っている捕食者の餌食になってしまうのです。
つまり、実際に戦ったらよっぽどの力の差がない限り勝っても負けても死んでしまうのです。

高度な知能を持った生き物たちはこのように表現という能力を身につけることでより効率的に優秀な遺伝子を残す方法を獲得したのです。挨拶という表現もその一つなのでしょう。挨拶をすることで戦いを回避できるのですから。
だからこそ挨拶が出来ない個体は危険因子として排除されてしまうのです。



また、進化の過程でその集団を構成している個に個性が生まれてきた時、そのコミュニケーションの方法にも個体差が生まれてきました。そうなると余計に表現という方法でそのコミュニケーションを補う必要が生まれてくるわけです。

例えば、同じ“バカ”という言葉でも、人によって、また場面によってその意味は異なってきます。私達がその意味をはっきりと知ることが出来るのは、その言葉を使う時の表情、しぐさ、声、雰囲気などの“表現”によってです。つまり、個体が個性化してしまった群れでは目に見える形での表現という手段を使わないと正常なコミュニケーションが成り立たないのです。

つまり、個ということが大切にされている社会ほど表現の重要性が高くなるということです。ということは逆に言うと、個が大切にされていない社会では個人的な表現はあまり大切にされていないということです。だから表現を育てるための教育など必要がないわけです。

ですから、その表現が存在していない文字だけのメールなどではすぐにいざこざが起きてしまいます。
絵文字などがその表現の代わりに使われていますが、でも、実際の人間の表現はそんなに単純なものではありません。ですから、絵文字では伝えることが出来ない想いがいっぱい取り残されてしまうのです。それに文字や絵文字は嘘がつけるので信用ができません。

それに対して、面と向かった一対一の関係の中で交わされる表現ではなかなか嘘をつくことができません。よっぽど訓練をした人でなければ、無意識の働きがその表現を決めてしまうからです。

ありのままの自分の姿を相手に見られることを非常に嫌うのです。

濃いお化粧も、独特の若者言葉も、奇抜なファッションも、奇抜な行動も、メールだけのやりとりもみな自分を隠すための手段なのです。嘘をつくための方法なのです。さらにいえば、成績も、学歴も自分を隠すための嘘です。

昔の日本のように“役割”でつながっていた社会ではみんな役割の中に隠れていることが出来ました。でも、その役割社会が解体してしまった今では若者達は役割の中に生きることもできず、さりとて個人として自分を表現して生きることもできず(個人として生きる教育を受けていませんからね)、中途半端な状態の中でみんな必死になって小さな穴に頭をつっこんで自分を隠そうとしているのです。

それは宿(ヤド)から引っ張り出されたヤドカリのようです。
まったく滑稽な姿です。
それが今の日本の若者達の姿なのです。

でも、結婚して子どもが生まれると、子どもは嘘を見破ります。子どもに嘘は通じないからです。
そして、自分と向き合わなければならなくなります。
そして、苦しみが始まります。
自分を表現する手段を持っていない人は自分と向き合う方法を知らないからです。
そして、子どもの表現を読みとる能力もないので、子どもとのコミニケーションもできません。

子どもが言っていることは子どもが本当に言いたいことと限りません。子どもがやっていることは子どもが本当にやりたいこととは限りません。それは子どもの表現をよく見ていないと分からないことなんです。
でも、その表現を読み解く能力がないのです。

そして、自分の想いを子どもに伝えるための表現方法も知りません。
その結果、無力感に囚われ、自分を非難、否定することで自分を納得させようとします。

でも、ここにも嘘があります。自分で自分を非難、否定することで自分の本音を隠そうとする嘘です。


<また明日に続きます>





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Last updated  2008.02.07 14:09:45
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