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すべて、お楽しみさ… かめおか ゆみこさん

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森の声

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2012.09.13
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カテゴリ: カテゴリ未分類
人類が言葉を得た最初は、「言葉」は単なるコミュニケーションの道具だったのだろうと思います。そして、そのレベルの「言葉」なら人間以外の動物たちも持っています。イルカが超音波を使ってコミュニケーションしているのは有名な話です。集団で行動するオオカミや象たちもまた、高度なコミュニケーション能力を持っています。

でも、そのコミュニケーションに「名前」を使うのは人間だけです。

「そこの角を右に曲がって、赤い色の看板の脇の道を入ってまっすぐに行くとコンビニがあります。」

という文章は「角」「右」「赤」「色」「看板」「脇」「道」「コンビニ」といった「名前」を、それらの関係性に従ってつなげる(構造化する)ことで成り立っています。

人間の言葉の大部分は「名前」で出来ているのです。そして、「名前」があるから情報を時と場所を越えて伝達することが出来るのです。また、難しい論理を構築できるのも「名前」があるからです。

「名前」は、全体を構成するための「パーツ」でもあるのですが、逆に色々なパーツがあるから複雑な「全体」を構成することもできるのです。それはレゴと同じです。

そして、その「名前の発明」こそが人間の「知性」の目覚めでもありました。 人間は「名前」を得ることで、「自然」から分離することが出来たのです。

犬は「ボール」や「新聞」といったような「名前」を理解することは出来ます。でも、「名前」を使うことは出来ません。「名前」を作ることはもっと出来ません。

それでも、人類が言葉を得た最初の頃は、「リンゴ」や「石」や「牛」といったような「物の名前」だけしか扱えなかっただろうと思います。それは、幼い子どもたちが最初は「物の名前」しか理解できないことからも推測できます。



でも、それはただ「名前」を直線的に並べただけの言葉です。「言語」としての構造がありません。そして、言葉が構造を持ち「言語」になるためにはお母さんなどの大人との対話が必要なのです。

テレビを見せていても、この構造は生まれません。とにかく「1対1の対話」が必要なのです。「りんご ほしい」でも言いたいことは通じます。でも「りんご が ほしい」とか「りんご も ほしい」という表現の違いは、「他者」というものが存在する状況の中でしか生まれてこないのです。

この時、子どもは対話を通して「自分」という存在に気付き始めているのだろうと思います。それと同時に、「自分」と「お母さん」が別の存在になります。それは、アダムとイブが「禁断の木の実」を食べて「神様」と分離した状態です。

そして、子どもは自分には「自分だけの名前」があることを知ります。それと同時に「他者としての世界」も生まれます。

それまでは「自分」と「世界」は分離されておらずいっしょくたでした。「自分」もなければ「他者」も「世界」もなかったのです。だから、相手に分かるように話すことが出来ないのです。

その「自分」と「お母さん」や「他者」との関係性への意識が「言葉」の中に現れ、言葉が急に複雑になるのです。

言葉の変化はそのまま意識の変化でもあるからです。

ですから 「自分の名前」を得るということは実はものすごく重大なことなのです。「人間としての意識」はそこから始まったのですから。

この変化は、2才から3才の間に起きるようです。そしてこの頃には母国語の「感覚的基礎」が固まってくるのではないかと思います。

ただし、ここに書いたようなことは私の直感ですから、科学的な根拠を示すことは出来ません。ですから、「一つの考え方」としてお読み下さい。

次に「赤い」とか「熱い」とか「美味しい」とか「美しい」というような感覚的状態にも名前をつけました。いわゆる「形容詞」です。



美味しいものを食べながら「おいしいね」といえば、その言葉が示すものを相手に教えることが出来ます。それはリンゴを手にとって、「はい、リンゴだよ」というのと大差ありません。感覚を共有しているからです。

子どもと一緒にお花を見ている時に、お母さんが「きれいだね」と言えば子どもは次第に「きれい」という言葉を理解するようになります。

逆に言えば、感覚を共有することが出来ない「形容詞」を教えることはできません。同じ「きれい」という言葉でも、「手をきれいに洗いなさい」という場合の「きれい」を理解することは出来ません。

この「きれい」は共有出来ないからです。「清潔」という意味の「きれい」が理解できるようになるのは、客観的な意識が目覚める7才を過ぎてからだと思います。

ですから、「手をきれいにしなさい」ではなく「手を洗いなさい」という表現の方が子どもには伝わります。



そんな時、「おもちゃをちゃんと片付けなさい」では通じませんが、「このおもちゃはここに入れなさい。このお人形はここに置きなさい。」なら通じます。

7才前の子どもは、「感覚の共有」によって教えることが出来ないような「主観的な言葉」は、基本的に理解できないのです。

さらに、人類は「動き」にも名前を付けました。「走る」とか「踊る」というような「動詞」です。でも、「動詞」になるとなかなか難しくなります。

「意識の対象」を共有することが難しくなるからです。

ですから、鳥が飛んでいる姿を見て「飛ぶ」という動詞を教えるのは困難です。

でも、一緒に走りながら「はしれ」と言ったり、「走るって楽しいね」と言えば、そこには「動作の共有」があるので、言葉は伝わります。

私は子どもが小さい時には、言葉によって体験を共有しながら遊びました。「小さくジャンプ」「大きくジャンプ」「ダンゴムシさん丸くなったね」「タンポポきれいだね」「お空が青いね」というように、意識的に話しかけながら子どもと遊びました。

無理に教えようとしなくても、体験と言葉がセットになっていれば子どもは自然に言葉を覚えていくのです。

「ヨモギを取ってきて草団子を作ろうね」と言って、そういう遊びをしていれば、「ヨモギ」とか「草団子」という名前を自然に覚えてしまうのです。

体験だけ与えても言葉は覚えません。言葉だけ与えても言葉が使えるようにはなりません。

そのセットが必要なのです。そして今、それが出来るのはお母さんしかいないのです。

それが一緒に遊ぶことであり、しつけの意味でもあるのです。

「しつけ」とは「言葉を伝えること」でもあるのです。






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Last updated  2012.09.13 09:51:37
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