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「楽しさ」を意識し… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2023.09.04
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カテゴリ: カテゴリ未分類
(いつも長いですが、今日は特に長いです。)

現代人は「差別」に敏感です。
そしてテレビなどでも「差別をやめよう」などとしょっちゅうメッセージを流しています。

男女差別や人種差別などが有名なところですが、人は、「頭の良しあし」や、「見かけの美醜」などでも人を差別しています。

また大人たちは、大人にとって「都合がよい子」と「悪い子」を差別しています。先生も「先生の言うことを聞く子」と「聞かない子」を差別しています。
「先生の言うことを聞かない子」は「問題児」や「発達障害児」として扱われます。戦争中、国は「国の言うことを聞かない人」を「非国民」と呼んで差別しました。

コロナ騒動下では、ワクチンを拒否する人たちは「陰謀論者」などと呼ばれました。マスクをしない人や、ワクチンを打たない人は差別されました。
でも、「そういう差別は止めよう」という声は上がりませんでした。むしろ、マスコミはその差別を積極的に肯定しました。

食べ物の好き嫌いもまた差別です。食べ物に対する差別です。洋服の好き嫌いもまた差別です。一般的にはそういうものは「差別」としては扱われませんが、差別を生み出している根幹は「好き嫌いの感情」に基づく「個人の価値観」や「社会の価値観」ですから、そこに本質的な違いはありません。ただ、食べ物や洋服は「差別反対」などと声を上げないので「差別」として認識されないだけです。



そして「好き嫌い」の感情は永遠になくなりません。脳をいじって好き嫌いの感情を消したら、もうそれは「人間」ではありません。

人間以外の生き物たちにも好き嫌いはあります。その好き嫌いに従って生きています。猫や犬にも好き嫌いはあります。動物に好かれやす人もいれば嫌われやすい人もいます。蚊にも好き嫌いがあるようです。
そんな時、動物たちに「差別はよくないんだぞ」と言っても無意味です。

その好き嫌いの基準は個人にもありますが、時代が作り出しているものもあります。
現代社会における「差別はいけない」という価値基準も時代が創り出しているものです。

ですから。そこに客観的な根拠などありません。そのため、人間の都合の良いように使われています。いまでは「人種差別は良くない」などと言われますが、奴隷制度が肯定されていた時代は、奴隷を牛や馬のように扱うのは差別ではありませんでした。

また現代社会でも、「差別はいけない」と言いながら、差別している人を平気で差別します。「人殺しはよくない」と言いながら、人を殺した人は殺してもいい制度になっています。

ネットで 「外来種は殺していい?アメザリ踏みつぶす子ども 命の尊さどう伝える」 という記事を読みました。

テレビなどでも、「在来種」は「守るべき対象」で、「外来種」は「駆除する対象」として扱われています。外来種を駆除するのは「善」なんです。この場合の「駆除」は殺すことを意味しています。つまり、外来種だったら殺してもいいのです。それが「善」なんです。

私には、これは、生き物をその出身によって差別する立派な差別だと思えるのですが、「生き物を出身によって差別するな」などと訴える人をテレビで見たことがありません。


ちなみに私たちが普通に食べているナスも、トウモロコシも、トマトも、元々は外国から来たものです。これらが差別されないのは、ただ日本人の生活に溶け込んでしまったからにすぎません。そこに人間の身勝手があります。

自分たちの利益につながらないものは否定し、利益につながるものなら積極的に肯定するのです。これが差別の根本原理です。
皮肉なことに、差別をなくそうとする意識がこの世界の多様性を否定し、人々の意識の中に差別を生み出しているのです。

差別する人がいたっていいのです。「そういう人もいるよね」で済ませてしまえばいいのです。そういう人が嫌いならば近くに寄らなければいいのです。ただそれだけのことです。
政治はそれでは困りますが、個人の生活ではそれでいいはずなんです。



目くじらを立ててそういう人を否定し、排除しようとすることでまた別の差別が生まれてしまうのです。でも、差別する側が多数派に属しているときにはそれは「差別」として否定されません。ただそれだけのことです。

幼い子ども達は肌の色が違っていても、障害を持っていても、そんなこと気にしないでみんな楽しく遊ぶことが出来ます。虫や草花とも仲良く遊んでいます。
差別反対などと言う子どもはいません。そもそもそんな言葉知りません。差別という概念も理解できません。


「差別反対」を叫ぶから「差別がない社会」が生まれるわけではないのです。

本当に大切なことは、人間の価値観が作り出した基準に従って差別を否定することではなく「自然が創り出したありのままの多様性」を肯定することなんです。

一見、「差別の否定」と「多様性の肯定」は似ているように見えますが、実際には正反対なんです。
「差別」は人間が創り出したものですが、「多様性」は自然が創り出したものだからです。


ちなみに、自然界では「男」(オス)と「女」(メス)の間に明確な境界はありません。都合に合わせてオスになったりメスになったりする生き物も、最初からオスとメスの区別がない生き物もいるのですから。

「男・女を差別してはいけない」などといいますが、そもそも男性と女性の間に本質的な違いはないのです。でも、「男・女を差別してはいけない」と価値基準を固定することで、「男性」と「女性」を概念として固定化してしまっているのです。





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Last updated  2023.09.04 10:01:27
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